秋の夕方
透き通るそれは、橙色と銀杏の匂いを連れて、頬を撫でながら通り過ぎていった。
手を広げ、眼を閉じる。少し冷たい空気を鼻からいっぱいに吸うと、その香りは、まだ自分が少年の頃の、しかし、今は幻想のように思えるような、夕陽に沈む街の景色の記憶を引っ張り出した。
今眼を開けて、振り返れば、それと同じ景色が広がっているだろうか。同じ街だ。季節も。時間帯も。気温も、まぁ大体同じだろう。違うのは、身長くらいのものだ。
しかし今、背後に広がるそれが記憶の幻想とは違うことは、既に分かりきっていた。自分には幼い頃の記憶を美化し、それを現実にはあり得ないものとして認識する節があった。何故かは分からない。ただ、届かないはずの何かを追っていたいのだろうか。もし自分が幻想と同じものを現実に見たとき、その時本当に、自分は喜べるのだろうか。
「何してんの」
凛とした声が、地上七メートルを望む星架の背中に突き刺さった。振り返ると、訝しむような、怒っているような切長の眼が、どちらにしろ厳しい視線をこちらに向けている。
顔も名前も知らない女子生徒だった。同じクラスだったろうか……そんな意味のない思考が一瞬だけ過ぎる。彼女の表情を見るに、星架のしようとしていることを理解しているのは明確だった。それ故に、星架の愚かな行動を諭すような言葉をかけてきたのだろう。
それを理解した上で、星架は彼女に、薄い笑顔を向けた。
「やっぱり、この高さじゃ無理かな」
「………」
彼女は眼を細め、足を静かに運ぶ。縁に立つ星架の隣に立って、遠いコンクリートの地面を見下ろす。
「……さぁ。頭から行ったら、いけるんじゃない」
興味のなさそうな声でそう言いながら、しかし、星架の手首を強く掴む。星架は掴まれた右手と、彼女の横顔を往復する。そして、わざとらしい笑顔を見せる。
「嘘、嘘。冗談だって」
軽い調子で言いながら、彼女の手首を持って離す。軽やかに縁から降り、橙色に染まる屋上のコンクリートに足を着く。
「ほら、よく言うでしょ?本当にそういうことする人は、ひっそりと消えるように…って。こんな目立つところでする訳ないよ」
適当に放り投げてあった鞄を拾って、肩にかける。振り返ると、先ほどと同じ、厳しい表情は変わっていなかった。
「……」
少し、気まずい。
「そんなの、そいつらの中のマジョリティがそうだってだけでしょ」
彼女は警戒したような声音で、そう言ってくる。
「……ん?どう言う意味?」
「『そういう傾向がある』ってだけでしょ。そうじゃない人もいる」
「ひっそりと消えないやつもいる、ってこと?それが僕だと?」
「君だと確定して言ってはない。……でも、そう。人は違う」
彼女は、淡々とそう返してくる。
「まぁ、それは僕もそう思う…けどさ」
彼女の『人は違う』という考えには同意できる。
「でも案外、傾向とか、多数派ってのは、よく考えてみれば自分に当てはまることが多いよ。なんと意外にも、僕らは大抵、特別じゃないんだよ」
「よく喋るね」
彼女は、殆ど被せるようにそう言ってくる。その言葉に、思いもよらず舌が回っていた自分に気付く。
「寂しいの?」
少し、柔らかくなった音が星架に届く。星架は、彼女から眼を逸らし、ただ足元のコンクリートを見つめる。
「………」
「…………」
「一人は、嫌?」
彼女は、短く、優しい声でそう聞いてくる。
「……分かんない」
星架の声には、涙の色が滲んできていた。
「じゃあ、私と、たくさん話そう?」
彼女はそう言って、星架の手首を優しく握る。




