ただ恋をしただけなのに~愛人を選んだ夫の末路~
王国騎士のベルナードはこのたび戦で功績を上げ、男爵位を賜わった。
これで貴族の仲間入りだ。
妻を迎えることもできた。
順風満帆な人生だと誰もが思っていた。
ところが、当の本人は大きな悩みを抱えていた。
「どうしよう。家に帰りたくない」
ベルナードは半年間、遠征に出向いている。
そして、彼のそばには子爵令嬢ロルナがいる。
実は彼女と恋仲になってしまった。
いけないことだとわかっていたが、彼女と情熱的な夜を過ごした日から、お互いに離れがたい存在となってしまったのだ。
ロルナとは三カ月前に出会った。
戦で怪我を負ったベルナードの治療をしてくれたのがロルナだった。
ロルナは実家で両親と兄弟姉妹たちに虐げられてきた可哀想な令嬢だ。
それなのに、彼女は心優しい人だった。
ロルナの境遇を思うと不憫すぎて、つい彼女に深入りしてしまったのだ。
ある日、ロルナが頬を腫らしてベルナードの前に現れた。
ベルナードは涙を見せる彼女をそっと優しく抱きしめ、慰めた。
「騎士様、お願いでございます。どうか私をお連れくださいませ」
ベルナードは胸が引き裂かれる思いがした。
独身であればすぐにでもロルナを連れて帰還するだろう。
しかし、彼には妻がいる。
「すまない……俺は、既婚者だ……君を連れて帰るわけには……」
「……そうですよね。申し訳ありません……私が愚かでした。お忘れくださいませ」
ロルナはそう言ってベルナードから離れた。
その瞬間、彼女がまるで消え去ってしまいそうな気がして、ベルナードは思わずその手を掴んで抱き寄せた。
「行くな。君を傷つける者たちがいるところへ戻ることはない」
「……でも、私には他に行くところがありません」
「俺が……俺が何とかしよう」
「そんなっ……騎士様には奥様が……」
「君を友人だと言って迎えればいい。君は、俺の命を救ってくれた恩人なのだから」
「ああ、騎士様……」
「名前で呼んでくれ。ロルナ」
「はい、ベルナード様」
ふたりは切なげな表情でお互いに見つめ合い、強く抱擁を交わした。
こうして、ベルナードはロルナを連れて帰還することになった。
馬車の中でふたりは寄り添い、片時も離れなかった。
時折涙を見せながら震えるロルナを、ベルナードは優しく抱きしめ、その涙を拭った。
ふたりは幾度となく見つめ合い、顔を近づけたが、口づけをすることはなかった。
ベルナードは自身に言い聞かせていた。
ロルナはあくまで恩人であり、友人ということにしておきたかった。
すでに彼女への恋心を自覚していたが、不貞行為にはしたくなかったのだ。
ロルナは寸前で拒絶されるたびに落胆し、涙を見せた。
その様子を見ると、ベルナードは胸が引き裂かれる思いがした。
「すまない、ロルナ……俺が、既婚者でなければ、君の思いに応えてやれるのに」
「ベルナード様っ……私たちは、出会うのが少し遅かったのですね……きっと、運命だったのに……神はなんという試練をお与えになったのでしょう」
「くっ……本当に、残酷な運命だ」
ベルナードは己の運命を呪い、苦悩した。
ロルナは彼に肩を抱かれたまま泣き続けた。
こうして、ようやく男爵家へ帰りついたが、待っていたのは妻の冷ややかな出迎えだった。
「おかえりなさいませ、旦那様。その者があなたの恩人ですか?」
妻のサラは気の強い女性だ。
ベルナードは結婚したときから彼女のことが苦手だった。
ロルナのことは先に手紙で伝えておいたので、問題はないはずだ。
「ああ。俺の命を救ってくれた。大切な人だ。丁重にもてなしてほしい」
「わかりました。では、あなた……侍女に部屋へ案内してもらいなさい」
ロルナは戸惑い、ベルナードを見つめた。
ベルナードは穏やかに笑い、ロルナに優しく声をかけた。
「またすぐに会える。今はゆっくり部屋で休むんだ」
「ええ、そうさせていただくわ」
ロルナは侍女に連れられて先に邸宅内へ入っていった。
エントランスに残ったベルナードはサラと対面している。
サラはにこりともせず、無表情だ。
結婚当初からあまり笑わない妻だったが、遠征から帰還した夫に笑顔も気遣いも見せない彼女に、ベルナードは内心うんざりした。
しかし、事を荒立てたくないので、やんわり話しかけた。
「……元気そうで、何より」
「旦那様はお疲れでしょう。ゆっくり休養なさってください」
「ああ、ありがとう」
気まずいので会話はこの程度で切り上げて自室へ向かおうとしたら、サラが声をかけた。
「あの女性はいつまで滞在する予定ですか?」
「……事情があって、家に戻ることができない。新しく住む場所が見つかるまで、うちにいさせてやりたい」
「そうですか。わかりました」
サラはそう言ってくるりと背中を向けると、さっさと立ち去ってしまった。
ベルナードは深いため息をつく。
「帰宅したのに余計に疲れてしまうな」
サラとはいわゆる政略結婚だった。
国王から爵位を賜わったときに、伯爵家のサラとの縁談も受けたのだ。
社交界に疎いベルナードにとって伯爵令嬢を娶ることは貴族との深い繋がりもできてよかったはずだ。
サラと結婚してしばらくはともに過ごした。
しかし彼女はにこりともしないので、次第に気が重くなってしまった。
そんなときに王宮から遠征の依頼が舞い込んできたので、ベルナードは即座に引き受けたのだった。
帰還してからしばらくはゆっくり過ごした。
そのあいた、サラに気を使ってロルナと会うことを控えていた。
しかし、会えない時間が長引くと、余計に胸が締めつけられ、会いたい衝動が抑えられず苦しんだ。
苦しむあまり眠れず、休養してもまったく疲れが取れない。
もっとも億劫だったのは食事の時間だった。
ロルナも一緒に食事をするようサラに言われたのだ。
サラは食事中も必要なことしか話さないので、重々しい空気が漂う。
その空気に圧倒されたのか、ロルナは終始震えていた。
その様子を見るとあまりに可哀想でならなかった。
「奥様と一緒に食事をするのは無理よ。心が傷ついてしまう」
ロルナが泣きながら訴えてきたので、ベルナードは優しく抱きしめて彼女の頭を撫でた。
ベルナードはサラにやんわりと伝えることにした。
ロルナは家族から酷い目にあっており、大勢で食事をすることに慣れていない。
彼女だけ個別に部屋で食事をとってもらうようにと。
サラはすんなり了承した。
「ふふっ、とても美味しいわ。こんなに食事が美味しいと感じたのはひさしぶりよ」
ロルナだけ特別に用意してもらった食事を、彼女の部屋で食べてもらうことにした。
そのときはベルナードも付き添った。
もちろん彼はサラとの食事があるので、ロルナの食事中はただそばにいて話し相手になった。
「しっかり食事と睡眠をとって元気になってほしい。君には笑顔が似合う」
「ありがとう、ベルナード。けれど、あなたと一緒に食事ができないのは寂しいわ」
「ああ……そうだな」
もしも独身だったら、堂々とロルナとふたりで過ごせるのに。
運命というものはなぜこれほど残酷なのだろう。
ベルナードはもう幾度となく己の運命を憂いた。
ふたりきりで過ごすことができない。
その事実はベルナードとロルナの恋心をさらに燃え上がらせた。
ロルナはベルナードが部屋を訪れるとまばゆい笑顔で迎え、出て行くときは毎回涙を見せる。
ベルナードの心は強烈に締めつけられ、このまま彼女と逃げてしまいたい衝動にかられた。
そして、ある日、ついに実行したのだった。
「ベルナード、あなたにこんなことをさせるなんて、私はなんて罪深いの?」
「そんなこと、君が気にする必要はないんだ。俺がすべての責任を取る」
ふたりは手を繋いで最低限の荷物を持ち、屋敷を出て行った。
そして平民街の宿に泊まり、深く愛し合った。
「あなたがいれば私は何もいらないわ」
「俺もだ。君さえいれば、他には何もいらない」
こうしてふたりは誰にも知られないようにこっそりと平民街で暮らすことにした。
ところが、それは長く続かなかった。
ベルナードは多めに金を持って出てきたが、それはあっという間に尽きてしまったのだ。
「仕事をするよ」
「苦労をかけてごめんなさい」
「君のためなら俺は何でもできる」
ベルナードは仕事を探した。
しかし彼は幼少の頃から騎士見習いとして育ち、成長してからは騎士として活躍した。
他の仕事などしたことがなかったので、食堂の皿洗いや荷物運びなどの簡単な仕事は続かなかった。
というよりも、ベルナードは騎士だったため、そのような庶民の仕事は自身のプライドが許せなかった。
「また仕事を辞めてしまったの?」
「ああ。俺にはこういった仕事が向いていないようだ」
「でも、これじゃあ暮らしていけないわ。明日のパンだって買えないのよ」
「わかってるよ。でもどうしようもないんだ。こんなことを頼みたくないが、君も働いてもらえないか?」
「え? でも私は体が弱いから仕事はできないわ」
「しかし、君は騎士の治療所で怪我の治療をしていただろう? そういう仕事ができるのではないのか?」
「あれはお手伝いだったのよ。私はあなたが発熱していたときに汗を拭く役目だったもの。治療なんてできないわ」
「え? そうだったのか」
「……ベルナード、私のことを軽蔑する?」
潤んだ瞳で上目遣いに訴えるエレナに、ベルナードは戸惑った。
だが、ここはやんわり優しく応じた。
「軽蔑なんてするもんか。君は俺が発熱中にずっとそばについててくれたんだ。それだけでも素晴らしいことだ」
「ああ、ベルナード。愛しているわ」
ロルナが抱きついてきたので、ベルナードは抱きしめようとしたが、ふと手が止まった。
よくわからないが、胸の奥でちりっとした違和感が芽生えた瞬間だった。
それでも、このときはロルナをそっと抱きしめ、慰めながら、一緒に眠ったのだった。
それから、ふたりの生活はますます困窮していった。
ベルナードは子供に剣術を教える仕事に就いたが、あまりにも給金が安すぎて食べ物を買うことしかできなかった。
そのせいか、ロルナはみるみるうちに変わり果てていった。
彼女の衣服は汚れても洗濯できず、袖がほつれても修復できない。化粧をすることも髪を整えることもできない。食べ物が質素になり、どんどん痩せ細っていく。
あっという間にロルナは別人のように容姿が変わった。
それはベルナードも同じことだった。
彼も髭を生やし放題で、常に汚れた衣服を身に着け、匂いまで漂った。
するとロルナは一緒に寝てくれなくなった。
「ロルナ、なぜ俺を避けるんだ?」
「だって、あなた臭いんだもの」
「それは、君もだろう。それに、君は容姿まで変わってしまった。出会った頃のような可愛らしい姿はどこへ行ったんだ?」
「酷いわ、ベルナード。そんなふうに言うなんて。私のことを愛しているんじゃなかったの?」
ふたりは喧嘩が増えていった。
だんだんとお互いを罵るようになり、険悪な仲になっていった。
駆け落ちしてから半年のことだった。
ある日、ロルナが言った。
「なぜ、ベルナードが出て行かなければならなかったの? あのお屋敷はあなたのものでしょう? あなたは主人なのよ。出て行くべきだったのは奥様だわ」
ロルナの言葉に、ベルナードはハッとした。
サラに罪悪感を抱いていたため、駆け落ちをしたが、よく考えればサラと離婚すればよかっただけだ。
それに気づいたベルナードはロルナを連れて男爵家へ戻ることにした。
ベルナードはあまりの貧困に疲れ果て、冷静な判断ができなくなっていた。
「おかえりなさいませ、旦那様」
ふたりが屋敷に戻ると、サラはまるで何事もなかったかのように冷静にそう言った。
ベルナードとロルナは驚き、言葉も出なかった。
「おふたりに湯浴みの準備を整えて。そして、温かい食事もお部屋に用意しておいてちょうだい」
サラの命令で使用人たちはさっそく動いた。
ベルナードはサラに訊ねる。
「君は何も言わないのか? 俺たちは半年も帰らなかったんだぞ?」
「事情がおありなのでしょう? 旦那様のやることに私は口出しなどいたしません」
「き、君は……どうしてそんなに、他人事なんだ? 君は俺の妻だぞ!」
ベルナードは怒りに満ちた表情で強く言った。
しかしサラは特に驚きもせず、淡々と答える。
「ええ、そうです。ですから私は主人のために家に尽くし、主人のやることに口出しはいたしません」
「そ、そういうことじゃないんだ! 君には人の心ってものがないのか?」
サラはじっとベルナードを見つめた。
ベルナードは言葉に詰まる。
沈黙のあと、サラが口を開いた。
「私の役目は、旦那様がこの家で快適に過ごされるために尽力することです。どんな理不尽なことがあっても、目を背けたくなるほどの残酷な目にあっても、これだけは決して揺らいではならないのです」
ベルナードは返す言葉がなかった。
それは自身が真逆のことをやってきたからだ。
だが、まるでそのことを責め立てられている気分になり、ベルナードは激昂した。
「すべて君のせいだ。君は結婚しても俺に対して笑顔を向けてくれなかった。ずっと冷たく接してきたじゃないか。君に可愛げがあれば、俺はこんなことをしなかった」
「……こんなこと、とは何ですか?」
「は? いや、だから、ロルナと駆け落……」
言いづらくなり、ごにょごにょと言葉を濁した。
サラは静かに告げる。
「縁談のときに、私が表情筋を上手く動かせない病気であることをお伝えしているはずですが」
ベルナードは眉をぴくりと動かした。
確かに、そのことは結婚する前に聞いていた。
しかし、サラは笑顔どころか、会話さえあまりしないのだ。
こちらから声をかけても反応が薄く、彼女はただ与えられたことを淡々とこなす。
それではただの使用人だとベルナードは憂いたものだ。
ロルナと出会って、女性が愛らしく可愛い笑顔のできるものだとあらためて知ってしまった。
それが、彼の枯れきった心に潤いを与えたのだろう。
女性とはこうあるべきだと、いつしか彼の中で揺るぎないものになっていた。
「旦那様、湯浴みをなさってお着替えくださいませ。言いにくいのですが、とても臭います」
「なっ……」
ベルナードは赤面し、同時に怒りにわいた。
「こうなったのはすべて君のせいだ」
他に言うべき言葉が見つからず、ベルナードはサラから顔を背けて立ち去った。
男爵家に戻って、たっぷり食事と睡眠をとり、ゆっくり静養したおかげか、ロルナは元の可愛らしい娘に戻っていた。
きちんと化粧もして髪も整え、ドレスを着た彼女はふたたび美しい姿となった。
ベルナードは安堵した。
やはり、自分に必要な存在なのはロルナだ。
ロルナといると人生が輝くのだから。
そのことに気づけただけでも駆け落ちしてよかったものだ。
「サラ、俺と離婚してくれ」
ベルナードはついにサラに離婚を告げた。
サラはしばらく無言だった。
何か問い詰められるかと思ったが、それはなかった。
「わかりました。理由をお訊きしてもよろしいですか?」
「ロルナが俺の人生に必要な女性だとわかったんだ。本来は彼女と結婚するべきだったが、その前に君と縁談してしまったからだ。しかし、君とは政略結婚だ。やはり、俺は愛のない結婚生活を続けることはできない」
「……承知しました。では、身の回りの整理をしたら出て行きます」
サラは怒ることも、泣くこともせず、淡々と告げて部屋を退室した。
彼女が感情的になることはないとわかっていたが、それでも虚しさが残った。
サラとの結婚は人生における一瞬の間違いだったのだ。
これからはロルナとともに愛のある結婚生活を送ろう。
そう思った。
「嬉しいわ、ベルナード。これからは私だけを愛してくれるのね」
「そうだよ、ロルナ。君は俺の妻だ。これからは堂々と君を連れて夜会へ参加できる」
「愛しているわ、永遠に」
「俺も愛している。幸せな家庭を築こう」
こうしてふたりは教会で結婚式を挙げ、結婚生活をスタートさせた。
それから三カ月が経った頃、ベルナードは苦悩していた。
男爵家の財政管理が上手くいかないのだ。
侍従から、このままでは財政難に陥ると言われた。
しかし、ベルナードにはそういった知識がなかった。
侍従から指示された通りに執務をおこなっても上手くいかず、毎日疲弊した。
焦りと疲れで夜は知らないうちに寝入ってしまい、毎日ロルナの愚痴を聞くことになった。
「結婚してからぜんぜん私との時間を作ってくれないわ。どうしてなの? 愛が覚めてしまったの?」
「そんなことないよ。やるべきことが多すぎて頭を抱えているんだ。もうすぐ落ち着くから、それまで我慢してほしい。そうだ。ほしいものがあればなんでも買ってあげよう」
「本当? じゃあ、新しいドレスを新調したいわ。次の夜会で着ていきたいの」
「夜会か。そうだな。君は俺と結婚して初めての夜会だからな」
「ええ、楽しみだわ」
ベルナードも夜会はひさしぶりだ。
ずっと遠征に行っていて、そうした行事はすべてサラがおこなっていた。
これからはロルナとともに出席できる。
それはとても嬉しいことだった。
夜会当日、新しいドレスを着たロルナを見て、ベルナードは心から彼女を妻にしてよかったと思った。
ロルナは見違えるほど美しい姿になっていたのだ。
ベルナードは周囲がロルナを見て褒めたたえる様子を想像しては誇らしく思った。
ところが、現実はそうでもなかった。
会場ではふたりを冷ややかな目で見る者たちばかりだった。
挨拶をして回っても、どこかよそよそしい。
「愛人だったんですって」
「まあ、前の奥様は気の毒に」
「よくも社交界へ顔を出せるものですわ」
周囲の人々はふたりを避けていた。
ベルナードが名のある高位貴族たちとの談笑に加わろうとすると微妙な顔をされる。
「男爵位のくせに上級貴族と話をしようとするのか」
「身の程を知れ」
なぜこれほどまで嫌われているのか理解できなかった。
事前に社交界でのことは、侍従に聞いていた。
ベルナードの家門は男爵位だが、上級貴族たちとよい関係を築いているという話だったのに。
「話が違うじゃないか。夜会へ出席すればどの貴族とも円満に交流ができるとお前は言っていただろう?」
ベルナードが帰宅後に侍従へ詰め寄ると、彼は渋々答えた。
「ええ。確かによい関係でした。サラ様が必死に駆け回って築き上げたものですから」
聞けば、サラはひとりで夜会へ出席し、男爵家を知ってもらうため、多くの貴族たちと積極的に交流したようだ。
そのおかげか、上級貴族たちからも一目置かれる存在となっていたのだ。
「サラにそのようなことができるなら、ロルナにもできるはずだ。ロルナは愛嬌があるのだから」
ベルナードはそう言ったが、侍従は遠慮がちに答えた。
「サラ様は貴族名鑑に記されたすべての家門の特徴と、当主のお名前を暗記されておりました。もちろん、当主の趣味趣向もすべて把握されており、話題を途切れさせることはありませんでした。経済や情勢にも詳しく、多くの殿方が魅了されたようです。それだけでなく、流行のファッションにも精通されており、令嬢たちからも人気でございました」
ベルナードは呆気にとられた。
あの素っ気ないサラがそんなことを成し遂げていたとは思いもしなかったのだ。
「だが、それならロルナも同じようにすればいいだけだ」
ベルナードはさっそくロルナに勉強するように言った。
しかし、ロルナはそれを拒絶した。
「無理よ。だって私は本を読むことができないもの。あの分厚い本の文字を目にしただけで頭が痛くなるのよ」
ベルナードは衝撃を受けた。
聞けば、ロルナは実家で虐められていたせいか、ろくに教育を受けさせてもらえなかったのだ。
そのため、本を読む習慣もなく、文字を見ると目眩がしてしまうようだ。
当然、記憶能力にも乏しく、暗記などもってのほかだ。
「でも大丈夫。私の愛嬌でみんなと良い関係を築くわ」
ロルナはにっこりと微笑んだ。
以前はそれがまばゆいほど美しいと思っていたが、今では不安でしかなかった。
ふたたび夜会の機会が訪れ、今度はロルナも頑張って多くの貴族たちと交流を試みたようだ。
男性相手だとそこそこ上手くいっていたが、女性相手だと会話すらさせてもらえなかった。
ロルナは帰宅するとベルナードに抱きついて号泣した。
「酷いのよ。令嬢たちは私の顔を見るとあからさまに避けるの。それに、話しかけると嫌な顔をするし、ようやく会話ができると嫌味ばかり言うの。元奥様は物知りだったのにあなたは何も教養がないのねって」
ベルナードは驚いて目を見開き、ロルナを抱きしめたまま硬直した。
泣きじゃくるロルナを慰める余裕はなかった。
ただ、これからどうやって社交界で生きていくべきか、その不安ばかりが胸に広がった。
「元奥様と比較するなんて失礼にもほどがあるわ。私はもう夜会へ行かないわ」
「それは、駄目だ。俺たちは貴族だから、社交界へ顔を出さないと生きていけない」
「でも、私はもう無理。あんな汚い人たちと二度と会いたくないもの」
「君は子爵令嬢だっただろう? 社交界のことは多少知っていたのではないのか?」
「知らないわ。だって私は夜会へ出たことがなかったから。あなたと一緒に参加したのが初めてよ」
なんということだろう。
ベルナードは衝撃のあまり放心状態だった。
自身も平民から男爵位を得て貴族の仲間入りしたばかりだ。
そして令嬢だったはずのロルナは社交界が初めてという。
これからどうやって貴族社会で生きていけばいいのだろうと、ベルナードは絶望した。
問題はそれだけではなかった。
男爵家はいつの間にかとんでもない財政難に陥っていたのだ。
ベルナードは今まで通りの生活をしているだけだ。
特別贅沢をしていない。
なぜそこまで金がないのか、侍従に問いただした。
「これまでサラ様がすべて管理をおこなってくださいました。正直、以前からこのお屋敷の財政は不安定だったのです。私たちでは手に負えませんでしたが、サラ様がどうにかこの家を支えてくださっていました」
聞けばサラは無駄な支出を極力減らし、自身は質素に暮らしながらも、使用人にはきちんと給金を与え、夫には何不自由のない暮らしを提供していたという。
だから、ベルナードは気づかなかったのだ。
以前と暮らしは変わっていないと思い込んでいたが、知らずうちに無駄遣いをしていたことに。
男爵家の財政が危ういなど知りもしなかったので、ロルナに新しいドレスや宝石を与え、多少の贅沢をさせてやった。
侍従からは何度か予算がどうのと言われたが、ほんの少しの支出だから問題ないと思っていた。
「私は何度も申し上げましたよ。あまり多くの支出はお控えくださいと。しかし、旦那様は問題ないと言ってロルナ様のために多くの物をお与えになりましたので」
「俺のせいだと言うのか? こういうことはお前が管理すべきだろう。責任転嫁するな!」
ベルナードは焦りのあまりか声を荒らげた。
侍従はそれ以上何も言わなかった。
男爵家は瞬く間に転落していった。
使用人に給金が払えなくなり、何人も解雇する羽目になった。
ロルナに与えた宝石やドレスも売り払うことになった。
ベルナードは騎士の仕事を増やし、屋敷を空けることが多くなった。
そして、ある日めずらしく早めに仕事を終えて帰宅したベルナードは、寝室に見知らぬ男がいるのを見て驚愕した。
男は上半身裸で簡素はシャツを羽織っただけ。
それだけではない。
閨のドレスのままのロルナがベッドに横たわっていた。
「これはいったいどういうことだ?」
するとロルナが不機嫌な顔でぼやいた。
「この人がうちに支援をしてくれるそうよ。だから接待をしていたの」
「はあ? 君は俺の妻だぞ。これは不貞行為だ。こんなこと絶対に許されな……」
「うるさいわねえ。たいして金も稼げないくせに偉そうにしてんじゃないわよ!」
「ロルナ……?」
怯むベルナードにロルナが顔を歪ませて告げる。
「もう、あなたは必要ないの。さようなら」
「え? 何言って……」
ロルナがそのまま立ち去ろうとすると、ベルナードは彼女の腕を掴んで声を荒らげた。
「これは不貞行為だ。訴えてやる。裁判を起こして慰謝料を取ってやる」
すると、男がベルナードの手を振り払い、ロルナを抱き寄せた。
そして、ロルナは男から札束を受けとると、それを部屋中にまき散らした。
バラバラと札束が舞う中、放心状態のベルナードにロルナが冷たく告げた。
「慰謝料。これでいいでしょ? さようなら、旦那様」
ロルナは男とともに屋敷を出ていった。
入れ替わるように侍従が離縁状を持って入室し、ベルナードに渡した。
「ロルナ様のサインはすでになされております」
ベルナードは離縁状を見つめたまましばらく動けなかった。
それから一年後。
ほとんど使用人のいない男爵家は掃除が行きわたらず汚れていた。
侍従のおかげでどうにか男爵家は没落の危機を免れたが、ある日彼は退職を申し出た。
「これまで尽くしてまいりましたが、そろそろめどが経ちましたので辞めさせていただきます」
ベルナードに引き留めることはできなかった。
彼は静かに受け入れた。
ベルナードは細々と仕事をこなしながら、ギリギリの財政状態で男爵家を存続させた。
それから、いくつか縁談話を持ちかけたが、財政難の男爵家に嫁いでくる令嬢はいなかった。
彼は夜会へ出席することもなくなり、社交界から消えていった。
ロルナと離婚してから数年は、彼女との楽しい日々を思い出しては落ち込んでいた。
あれほど愛し合ったのはいったい何だったのか。
運命の相手だと信じていた疑わなかったあの頃を思い出しては鬱々とした。
結局、ロルナは自分を愛してはくれなかったのだ。
その事実を受けとめようとすると、胸が苦しくてたまらなかった。
ある日、新聞で違法麻薬の密売に関与していた者たちの記事を見た。
そこにはロルナと数人の名前が書かれてあった。
ベルナードは一気にロルナへの感情が冷めていくのを感じた。
それ以来、ロルナのことを思い出すことはなかった。
それから、さらに数年が経った。
ベルナードは町でサラに似た人物を見かけた。
急いで駆け寄ると、その女性は見知らぬ男とふたりの子供がそばにいた。
ベルナードはその場に立ち尽くし、その家族を静かに見送った。
「……サラに、夫と子供がいるはずがない。なぜなら、彼女は俺の妻だからだ」
その日からベルナードの心にサラが住み着いた。
数十年後――
ベルナードは初老の男になっていた。
どうにか男爵家は続いており、今では安定した暮らしが送れている。
ただし、彼は独り身だった。
ベルナードは朝目が覚めると、サラのことを思い浮かべた。
そっけない感じで「おはようございます、旦那様」といつも通りの挨拶をする。
それを思い出しながら彼は微笑んで「おはよう、サラ」と窓の外に向かって呟く。
朝食のときも、向かい側にサラの姿を思い浮かべる。
彼女は無表情で黙々と食事をする。
ベルナードは「今日の料理は美味いか?」と訊ねるように呟く。
返事はない。当たり前だが、彼の向かい側は空席だ。
庭を散歩するときも、花壇を眺めてふと呟く。
「君の好きな紫のチューリップが今年も咲いた。実に美しいな」
最近、使用人たちのあいだでは、ベルナードが呆けてきたのではないかと噂になった。
しかし言動ははっきりしているし、執務にもまったく影響はない。
彼はただ、ひとりの女を想い続けているだけなのだ。
その想いが強すぎて、幻を見てしまっている。
昔のことを知らない使用人たちは主人を気の毒に思った。
「そんなに長く想い続けるお方がいらっしゃるなんて、旦那様が一途すぎて泣けてしまいます」
ベルナードは一度目の結婚のときに、愛人をずっと想い続けていた。
そして二度目の離婚のあとは、最初の妻を想い続けている。
彼はただ、恋をしただけ。それだけだ。
「サラ、見てごらん。星が綺麗だな」
ベルナードはその夜も空を見上げて、笑顔で妻に語りかける。
彼の晩年は、本人にとっては実に幸せなようだ。
ありがとうございました




