救いの糸
家田裕介。
6畳単身アパート住み36歳、フリーター。
こう書くと悲惨な人生のように見えるが、彼は別に悪いことをした訳でも、不真面目で堕落した訳でもない。
息を吸うのと同じように日々を浪費し、特段何をすることもなく、飲みかけの水をシンクに流すように36歳になっただけ。
経験なんかない。
成功もない。失敗だってない。
大人だって思われてるけど、そんなに大人でもない。
学生時代いじめられて〜とか、そんなこともない。
当然、加害者だったわけでもない。
だからといって人気者でもない。
かといって孤立していたわけでもない。
今だってそうだ。
苦しんでもないが、幸福でもない。
比較的低賃金ではあるが、1人でボチボチ生きていく分には余裕な懐事情。
何も言うことがない。ただそれだけの人間。
これは彼にとってのリアル・・・現実が、俗世から多次元数理空間の中へと移っていく話だ。
空虚な彼は、結果的に肉体をも捨てた。
金持ちの老人に肉体を明け渡し、多額の現金を得る。
そして、バーチャル空間用の市民権を購入したのだ。
もはや、彼にとっての世界は、ここ現実のことではなかった。
パーソナライズされた最適な人間関係と、厳選に厳選を重ねて選出された懐かしくもあり刺激的でもある情景が無限に提供され続けるその向こう側が、彼にとっての世界だったのだ。
彼は幽霊となった。
これから、彼はいつもの6畳の真ん中に設置されたラックの中の世界で生きていくことになる。
彼が最後に自分の部屋で行った行為は、がらんどうになった小さな冷蔵庫のコンセントを引き抜くことだった。
それから、迎えの車が来て、彼はそれに乗り込んだ。
ここからは後戻り出来ないことを示す意思確認用紙に2~3ボールペンでチェックを付け、運転席のミラーで自分の顔を眺めている間に、人間処理センターに到着する。
そこについてからは、明確に自身の扱いが「人間」から「処理対象」に移り変わったことを感じた。
紙で作られた手術着に着替えさせられると、髪の毛を剃られ、体を金属の青いクッションベッドに固定された。
鉄の照明の側面に電極が数個貼り付けられた自分の頭部が見える。
痛々しかったが、何故か他人事のように感じて、あまり怖くはなかった。
男の目は、冷たい雰囲気で、指の腹で擦ったクレヨンの筆跡のようだった。
「・・・いーち、にーい・・・ さー・・・・・・
唐突に、看護師が心を殺した声色で秒数を数え出した。
満を持し、人生の終わりへのカウントダウンが始まったのだ。
本当は目を閉じるんだろうな、などと思考していると、3の途中でパチッと弱い電流がこめかみに走った。
瞬間、目が全く見えなくなり、急激に耳が遠くなる。
そして、思考がふわりふわりと散らばって・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・
◇◇◇
・・・ぱちくり。
午後3時頃だろうか。
暖かな午後の西日が射し込むバレエスタジオの中で、目の前の巨大な鏡に向かって可愛らしくまばたきする女の子がそこにいた。
どうやら脳交換はうまくいったらしい。
全部諦めたような顔のしみったれは医療廃棄物として火葬され、この新世界には希望に溢れる陽気な女の子が降り立ったのだ。
彼女はとてもご機嫌だった。
これからは永遠に、何の変哲もない幸せな毎日を送れるのだから。




