浮かれた街のどこかにて
この作品は、2025年12月に発表された筑波大学文芸部誌『樹林』157号(2025クリスマス号)に寄稿した作品を加筆修正したものです。
駅の東口コンコースのやたらのんびりなエスカレーターを歩いて降りると、街路樹の葉が風に吹かれて道路に舞い落ちていた。
コートを着るにはまだ早く、しかし朝晩は冷える季節。
私は制服のジャケットのポケットに手を突っ込んで信号を待った。
私の通っている塾は駅から歩いて三分、この信号の目と鼻の先にある。
味気ない白い外壁の七階建ての建物は一見すると普通のビルにも見えるが、でかでかと掲げられた「現役合格に向けて徹底サポート!」の横断幕がこの建物を塾たらしめていた。
その入り口に、厳然とした建物とはかなり不釣り合いな茶髪の女子高生が入っていくのを私は見つけた。
私と同じダークグレーのジャケットとチェックのスカート。
しかしそのスカートは膝上──というより股下で測った方が早いくらいに短く加工されている。
もう十一月だというのに靴下はくるぶしまでしか覆っていない。
肩掛けタイプの合皮のスクールバッグはキーホルダーやら落書きやらでこれでもかとデコレーションされていた。
加野彩奈。
私のクラスメイトの一人で、所謂〈一軍〉に分類される女子だ。
といっても、私のいるクラスの一軍たちは平然と校則違反をしたり教室で騒いでいたり授業をすっぽかしたりするだけで、他の生徒をいじめるなどはしない人々なので、私のようなカースト下位の生徒たちとは良くも悪くも関わりがなかった。
一軍たちの会話を聞く限り、彼らのほとんどは推薦入試組か、もしくは就職組だったはずだ。
だから、加野さんが一般入試組なのは意外だと思った。
が、一軍女子の進学先や入試方式がどうだろうが所詮私には関わりのないこと。
そもそも遠目に見ただけなので、もしかしたら人違いかもしれない。
彼女のことは、自習室で勉強している間に忘れてしまった。
しかし三日後、私はこの出来事をもう一度思い出すことになった。
その日は土曜日で、英語の授業があった。
土曜に授業があるのは、浪人コースを除くと旧帝大向けと、誰もが知る国内トップ大学向けのクラスしかない。
なのに、加野さんがいた。
前回と違い、今日はエレベーターの前で鉢合わせた。
加野さんは白とグレーの千鳥格子柄のジャケットに黒のミニスカート、黒のロングブーツといういでたちだった。
腰まである長い茶髪を、ピンクのリボンをあしらったヘアクリップでポニーテールに纏めている。
鉢合わせた、といっても私が後から来て彼女の後ろに並んだ形なので、向こうは私に気づいていないようだった。
あるいはそもそも関わりがなさすぎて私のことを認識できていないのかもしれないが。
同じエレベーターに乗り込んだ後、加野さんは四階で降りた。
土曜日は某トップレベルの大学向けの授業しかやっていないはずのフロアだった。
五階の旧帝大向けの授業に向かいながら、私の頭の中は疑問符でいっぱいになった。
私が変に意識し始めたせいなのか、その後も塾やその周辺で何度か加野さんを見かけることがあった。
通りを挟んで塾と反対側のカラオケから例の一軍グループと一緒に出てきたこともあった。
加野さん以外の人たちは、一つ隣の、所謂繁華街といった風な通りの方へ行くようだった。
あんな、勉強を舐め腐ったようなギャルが、あり得ない。毎日放課後に買い食いしてカラオケでたむろしているような子、こんなに勉強を頑張ってきた私に比べたら学力は下に違いない。ふざけてる……。
学校で共通テスト模試が返却された。
点数よりも偏差値よりも全国順位よりも先に、校内順位を見る。
三位、五位、十九位、三十二位、一位、……、一番下に記された「文系5‐7」の欄の数字は、「2」だった。
毎回そうだ。どれだけ勉強しても、国立文系の中で一位がとれない。
この学校、学年の三百二十人の中に、私を常に超えてくる誰かがいるのだ。
まあいい、と私は気持ちを意識的に切り替える。
点数はまずまず。苦手な数学もほんの少しではあるが前回よりも点数が上がった。国語は安定して一位を取れているし、世界史で少しこけた以外は納得のいく出来だと思う。
この調子であれば第一志望校への合格は難しくないはずだ。
私を蹴落として一位を掠め取っていく人がいようが、私には関係のないこと……。
ぎゃーははは、と耳をつんざくような笑い声が教室の左手後方からあがった。
確認するまでもなく、例の一軍グループだ。
教壇に立つ先生が「静かにしなさい、ホームルーム中なんだから」と注意するが、彼らは気にも留めていない様子だ。
ちらりと振り返ってみると、六、七人の男女混合の生徒たちが誰かの手元のスマホに群がっていた。
大方、TiktokかYouTubeでも見ているのだろう。
私はとうの昔に削除した。勉強の邪魔になるからだ。
彼らのものと思わしき成績表は周囲の机に放り出されていた。
ただ一人、加野さんだけが、青みがかった紙を後ろ手に持っていた。
教室の空気がわかりやすいくらいにピリついている。
昼休みに教室で勉強する一般組を、その他の生徒たちは遠巻きにして喋ったりゲームをプレイしたりしていた。そういう時期だ。
私はというと、弁当を一人でさっさと食べ終え、別棟の少人数教室に設置されている自習室で勉強することにしていた。
そちらのほうが静かだし、ピンと張りつめたような空気感の中に身を置くと集中しやすいからだ。
加野さんは、いつもの一軍グループと一緒に教室の窓際辺りにたむろしていた。
彼女が学校で自習しているところを私は見たことがない。
もしかすると全て私の勘違いで、あの日見かけたのは別人だったのかもしれない。そんな気がしてきた。
放課後になると、私はすぐに荷物をまとめて塾に行く。
授業がない日も自習室に行くことにしていた。
自習室で小一時間、世界史の勉強をする。
滑り止めの私立大対策のテキストを二回分解き終わり、水分補給をしようとしたところで、水筒のお茶がなくなってしまったことに気づいた。
デスクライトを消し、スマホと財布を持って席を立つ。
自習室の出入り口で一時退出の手続きをして、エレベーターに乗り込んだ。
エレベーターは途中階で何度も停止し、階段を使えばよかったかと少し後悔する。
一階で吐き出される生徒の群れに混じって降りた。
塾の建物の一階には自販機が二台設置されている。
ちょうど授業終わりの時間なのか、ロビー周辺はざわざわとしていたが、自販機には幸い他に人はいなかった。
まず目を引くのは定番のホットココア、これは蓋が閉まらない缶だからたぶん自習室への持ち込み禁止。
次にホットミルクティー、これは蓋は閉まるが、甘いものは一口飲むとどんどん飲みたくなってしまうため却下。
コーヒー……に頼るほど眠いわけではない。
アイスの爽健美茶にしておくか、いやだめだ、「売切れ」のランプが点いている。
となると無難に緑茶かミネラルウォーターか──
「もしかして理子ちゃん?」
「……はい?」
唐突に背後で私の名前を呼ぶ声が聞こえ、ぎくりとした。
この塾にわざわざ私に話しかけてくる知り合いはいないはずだ。もしかしたら私ではない別の「理子ちゃん」に呼びかけたのかもしれない。……いや他に返事が聞こえないからやっぱり私のことだ。
ここまで考えるのに二秒ほどを要した結果、私の返事は不自然に数テンポ遅れたものとなった。
振り向くと、そこにいたのは加野さんだった。
「え、やっぱり理子ちゃんだ! 同じ塾だったんだね~、初知り!」
「あ、うん、そうだねー」
私は知ってましたけどね。
というか加野さんって私の存在を認識してたんだ。ほぼ喋ったことないのに。陽キャってすごい。
加野さんは何気なく私の隣に並んだ。
私のより少し高い位置から、ぱっちりとした焦げ茶の瞳が自販機のディスプレイを順番に眺める。
「あ、ホットのマックスコーヒーある! この前までなかったのに」
細いすらりとした指がディスプレイの右下を指さした。
薄ピンクに塗られた爪がプラスチックの板にカツンと当たる。そんなに爪を長くして折れないのだろうか、と思う。
加野さんは迷わずマックスコーヒーのボタンを押し、電子決済の機械にスマホをかざした。
ピピッという音とともに、黄色と茶色の派手な缶が受け取り口に落ちてくる。
「あ!」
しかし、受け取り口のフラップを押し上げながら、加野さんは声をあげた。
「自習室、缶の飲み物持ち込めないじゃん……」
うわあどうしよう~、と頭を抱える加野さん。
理子ちゃんこれいる?と哀れなマックスコーヒーが差し出されたが、私も自習室だから、とお断りした。
「もったいないし、ロビーで飲んで行っちゃおうかな。ちょうど休憩したかったし。理子ちゃんも来る?」
「え、私も?」
「うん。だめ? あ、もしかして次授業?」
「いや違うけど……」
純粋な瞳を向けられ、押しに弱い私は断ることができなかった。
あまり長時間離席していると後で注意されそうだが、少しくらいなら大丈夫だろう。
私は結局、ミネラルウォーターを購入した。
「あーあ、勉強したくないなー」
ロビーのソファに並んで腰かけ、加野さんが発した第一声がそれだった。
「え?」
「だってさあ、楽しくないじゃん。こんなことやってる間にもっと青春したくない?」
加野さんは長い爪にもかかわらず器用にプルタブを引く。
彼女が口をつけた所から、人工的な甘ったるい匂いが漂ってくるような気がした。
「加野さんは、どこ大志望なの?」
私は、投げかけられた質問──の姿をとりつつ当然の同意を求める疑問形を無視した。
「うちはねえ……」
茶髪の女子高生は、某大学の名前を挙げた。まるで茶化すように。
「なんか、親が教育熱心でさ。うちは正直ある程度の偏差値と知名度のある大学ならどこでもいいんだけど、目指すなら高みを目指しなさいとか言われて。本当はもっと、バイトしたり遊んだりしたかったのになー、って感じ」
頭がぐらぐらした。脳味噌の細胞が総動員で、彼女の言葉を受け入れることを拒否していた。
「……ねえ、この前の共テ模試、校内何位だった?」
「えーとね、確か、一位だったはず」
この世はあまりにも残酷だ。
「ごめん、そろそろ自習室戻らないと叱られちゃうから行くね」
「あ、もう? うち、これ飲み終わってから戻るわ。じゃあね」
私は振り返りもせず、逃げるようにその場を後にした。
ちょうどドアの空いていたエレベーターに滑り込む。
なんで。なんであんなヘラヘラした奴が、私のよりも上の大学を志望してるんだ。なんで私より点数が良いんだ。なんで。どうして。
『えーとね、確か、一位だったはず』
私があんなに悔しがっていたのに、あの子にとっては、校内順位なんてどうでもよかったのだ。
私は勉強が好きだし頑張っている、なのに、加野さんは勉強が嫌いで大して努力してもいないくせに、私より上にいる。
悔しいという感情さえ浮かばなかった。
せめて加野さんが私をあからさまに見下したり敵視したりしてくれればまだ救いがあった。でもそうではなかった。
彼女は、私や他の受験生の努力を、情熱を、全部馬鹿にしたのだ!
ふざけるな。ふざけるな、ふざけるな……!
「受験を、舐めるなよ……っ」
エレベーターに乗り合わせた人たちの視線を背中に感じ、私は我に返る。どうやら思考が口から漏れていたらしい。
自習室のある六階に到着すると、私はそそくさと再入室の手続きをして元居た席に着いた。
戻ってきたはいいが、もはや勉強する気力が失せていた。
この後解き直しをする予定だった第一志望校の赤本が机の上に鎮座している。
目線を上げれば、個別のブース状になった机のライトの上部分に数冊の参考書が重なっている。
隣の席も、またその隣も、同じ光景がずっと続いている。
こんなに時間をかけて、シャープペンシルの芯を削って、参考書をマーカーと付箋まみれにしてもなお、勉強を「楽しくない」と一蹴するような人に勝てないのだ。
私は赤本を一度開いて、そしてやっぱり閉じた。今日はもう何をやってもダメ。
机の上に広がっていたルーズリーフをバインダーに纏めて、赤本と参考書、ペンケース、さっき買ったばかりのミネラルウォーターを全てリュックに仕舞う。
椅子の背に掛けていたコートを羽織ってリュックを背負い、消しカスを集めてゴミ箱に捨ててから、自習室を後にした。
味気ない白い建物を出た私の足は、ふと一本隣の通りに向いた。
いつも対角線上の歩道に向かって二度渡る横断歩道を、今日は一度だけ渡る。
家電量販店のビルの陰の薄暗い道を抜けると、やがて賑やかな通りに出た。
通りの両側には飲み屋が多く並び、手ぬぐいや前掛けを付けた呼び込みの店員が声を張り上げている。
その中を通り過ぎると、蛍光カラーの電飾に彩られたゲームセンターがある。
室内に入る前から、ゲーセン独特のチープで雑多な電子音が鼓膜を刺激する。
このゲーセンに入るのは三回目だ。
中学二年の頃に友達と遊びに来て以来だから、もう四年ぶりになる。
流石に内装やレイアウトが変わっているかと思ったが、一階にクレーンゲームがある点は少なくとも当時のままだった。
特にプレイしたいゲームがあるわけでもなく、私はなんとなくクレーンゲームの筐体の間の通路をぶらぶらと歩きまわる。
やがてフロアを一周し、再び出入口付近に戻ってきた時だった。
見覚えのある制服を着崩した男女混合のグループが自動ドアを通ってくるのが見えた。
私は無意識に近くの台に身を隠す。
クラスメイトの一軍グループだ。
しかし、いつも一緒にいるはずの加野さんはその中にいなかった。まだ塾にいるのだろう。
彼らはこちらには来ず、私が先ほど通ったのと同じルートでクレーンゲームを見て回ることにしたらしい。
追いかけてみようと思い立ったのはほんの気まぐれだった。
私もクレーンゲームを眺めている風を装い、彼らから付かず離れずの距離を保って移動する。
ゲーセン内はうるさいとはいえ、彼らの話し声も相当大きいため、会話をそれなりに聞き取ることは不可能ではなかった。
「えっねえこれかわいい! こうき、これ取ってよ」
ボブヘアの女子が、隣の背の高い男子の袖を引っ張る。
女子のほうは根本さんで、男子のほうはおそらく若柴くんだろう。
若柴くんと思われる男子は「えー、自分で取れよー」と言いつつまんざらでもなさそうだ。
いちいち距離が近いが、もしかしたらこの二人は付き合っているのかもしれない。
あるいは、一軍陽キャという生き物は男女であってもこのくらいの距離感が当たり前なのか。
「てかさあ、あや最近ちょっとノリ悪くない?」
「それなー思った。塾行ってるんだろ?」
二人がクレーンゲームに夢中になっている中、後ろにいた他のメンバーの誰かがそう言いだした。
あや、というのが加野さんのニックネームなのだということは、教室での彼らの会話から知っていた。
「あやがガリガリ勉強!ってイメージないわ」
「だよねえ」
塾ではこーんな瓶底眼鏡とかしてんのかな、と男子の一人が指で丸を作って自分の目にあてがう仕草をすると、どっと笑いが起きた。
その間にクレーンゲームのほうは失敗に終わったらしく、根本さんと若柴くんが会話に合流する。
「正直ダサいよね、勉強ガチるとかさ」
誰かが言った。
体中の血がぐわりと沸き立ってから一瞬で冷水を浴びたような心持がした。心臓が変な音を立てている。
今日は厄日かもしれない。
私は彼らに殴りかかりたいのを我慢して深呼吸を一つしてから、背を向けてゲーセンを後にした。
繁華街の喧騒がくぐもって聞こえる。十二月の空気が火照った頬に冷たかった。
私は怒っているのだ、とようやく理解したのは、駅の改札を通り抜けた頃だった。
私は怒っている。何に? 勉強を真面目にやる姿勢を馬鹿にされたことか。それとも、それによって私自身が否定されたように感じたことか。
どちらもしっくりこなかった。
否、そのどちらもあることにはあるのだろうが、もっと根本的な何かが抜け落ちている気がする。
ホームに降り、ちょうど到着していた列車に乗り込む。
なんか、親が教育熱心でさ。
コーヒーの缶を手にした加野さんの姿が思い浮かんだ。
ああそうか、と思う。
私は、加野さんが貶められたことに対して怒っているのだ。
確かにこの期に及んで受験に対して中途半端な姿勢でいるのだからあんな風に言われようが当然の報いだ。
けれど、動機がどうであれ友人と遊ぶ時間を削って塾に通い勉強している人間に対して、よりにもよって彼女と友人関係にあるはずの彼らがあのような言い草……。
急に加野さんに対して同情の念が湧いてきた。
次に学校か塾で会ったら、今日突き放すように別れてしまったことに対して謝罪しよう。そう決めた。
しかし、事はそう上手くはいかない。
翌日、私は酷い悪寒と倦怠感で目を覚ました。
病院に行ってみれば、面白いくらいに呆気なくインフルエンザと診断された。
ワクチンを打ってあったため重症化することはなかったが、約一週間の出席停止を命じられ、学校にも塾にも行けなくなってしまった。
「頭を使うと知恵熱で悪化するかもしれないから」と母に止められ、熱が下がるまでは自主学習さえもできなかった。
ようやく出席停止が解除されたのは、終業式の翌日だった。
心配性な母はもう一日くらい休んでもいいんじゃないかと言ったが、そんなに悠長に構えている暇はない。
既に冬期講習の一週目を休んでいるのだ、早く授業の進度に追い付かなければならない。
その日は奇しくもクリスマスイヴで、塾の最寄り駅は浮かれた音楽と浮かれたディスプレイ、そして浮かれた老若男女で埋め尽くされていた。
コンコース上にクリスマスマーケットと称して並んだテントの群れの間を縫って、一週間ぶりの塾へ向かう。
休んでいた間もチューターの先生と連絡を取って授業の進み方や課題についての情報共有をしてもらっていたため、授業には何とか付いていくことができた。
最後の授業が長引いたせいで、私が塾を出たのは閉館間近の二十時五十分だった。
いつものように塾の目の前の交差点を渡り、やたらのんびりなエスカレーターに乗ろうとした時、私は奇妙なものを見た。
エスカレーターの下の暗がりに、長髪の女性がしゃがみこんでいた。
この近辺には飲み屋も多いし、さらに少し駅から離れれば夜の店もある程度存在するので、そういった界隈の客が酔いつぶれていてもおかしくはない。私は通り過ぎようとした。
しかし、ふと気づく。この通りにはそういった店はほとんどない。
一本向こうの通りに接したエスカレーターの辺りならまだしも、なぜここに。
平穏に帰宅したい気持ちと良心の呵責(そして少しの興味)とがせめぎあい、私はエスカレーターの前で右往左往する不審者の様相を呈していた。
次の瞬間、しゃがみこんでいた人が何の前触れもなしに顔を上げた。
「えっ」
加野さんだった。
髪は少しぼさっとしているし、いつも綺麗に施されているメイクはぐしゃぐしゃだったけれど、間違いなく加野さんだった。
「あ、あの、」
私が近づくと加野さんはようやく私の存在に気づき、慌てて手にしていたハンカチで顔を覆ってしまった。
「加野さん、だよね? ごめん、あの、たまたま通りかかったから、その、ど、どうしたの……?」
なぜか言い訳がましくなってしまう。
加野さんはハンカチに顔を埋めたきり、うんともすんとも言わない。
傍らには黒いリュックと、白を基調とした上品なデザインの紙袋が置いてあった。
「……理子ちゃん、ごめんね」
沈黙を破った加野さんの第一声はそれだった。
「ごめんって、何が?」
「この前、塾で、失礼なこと言った」
加野さんはようやく顔をハンカチから離した。この前、というのは塾のロビーでの会話のことだろう。
「ううん、こちらこそごめん。感じ悪かったよね」
「馬鹿にしたみたいになっちゃって、ごめん」
「ううん、いいんだよ」
黒のダウンジャケットに包まれた背中を、躊躇いながらもそっとさすってみる。
加野さんは再び俯いてしまった。
二人の間にまた沈黙が流れる。
紙袋の中をちらりと見ると、包装紙でラッピングされた長方形の箱が入っているのがわかった。
「……ねえ、もし嫌じゃなかったら、なんだけど、何があったのか教えてくれないかな」
自分でもとんでもない一線を踏み越えようとしているのはわかっていた。
こんなのは柄じゃない。いつもなら、明日早起きするためにさっさと帰って寝たいと思っているところだ。
でも、どうしてか、弱っている加野さんを放っておくことはできなかった。
普段、背筋をしゃんと伸ばして歩いている彼女を知っているから、尚更。
「……あのね、これ、光輝に渡そうと思ってたの」
加野さんが指さす先には、例の紙袋がある。
「光輝って、うちのクラスの若柴光輝?」
「……うん。うちら、……付き合ってるから」
「そっか…………えっ加野さん彼氏いるの⁉」
思わず大きな声が出てしまい、慌てて口を手で覆う。
まあ、よく考えてみれば高校生の一軍なら当たり前か。
私がその手の情報に疎いだけで、実はうちのクラスにも結構カップルがいるのかもしれない。
というか、受験直前の大事な時期に恋とか愛とかに現を抜かすなんて良い度胸だな……いや、そんなことはこの際どうだっていい。
いや待てよ、この前ゲーセンで例のグループを見かけた時、若柴くんは他の女子とべたべたしてなかったか……?
「あ、えっと……それで?」
「その、本当は今日デートしたかったんだけど、塾があるから、その前にプレゼントだけサプライズで渡しに行こうと思ったの。光輝の家、この近くだから。……そしたら、光輝と優が手を繋いでるの、たまたま見ちゃって」
優──根本優だ。ゲーセンで若柴くんにクレーンゲームを強請っていたボブの女子。
要するに、加野さんは浮気されたということだ。
「結局プレゼント渡せなくて、塾に行く気力もなくて、……ここで動けなくなっちゃった」
えへへ、と加野さんは笑ってみせようとする。
その仕草があまりにも痛々しくて、私は見ていられなかった。
ふと、紙袋が目に入った。
「……ねえ、プレゼント、何あげようとしたの」
「マグカップ。ペアの」
すん、と鼻を啜って加野さんは答える。
私は徐に紙袋に手を伸ばした。
中から箱を取り出し、紙袋と似たデザインの美しい包装紙をビリビリに破く。
彼女がいながら浮気した若柴くんと、友人の彼氏を寝取った根本さんと、加野さんを馬鹿にした例のグループへの怒りを込めて。
加野さんは私の突拍子もない行動を呆気に取られて見ていた。
やがてブルーグレーの箱が姿を現した。
持主の許可も得ず、私は封のシールを剥がし乱雑な手つきで箱を開けた。
中には、ブルーグレーと白のマグカップが一つずつ、緩衝材に包まれて座っていた。
「どっちがいい?」
「へ?」
「白とグレー、どっちがいいか聞いてるの」
「えっと、白」
「わかった」
私はブルーグレーのほうを箱から取り出した。
「これ、私とお揃いにしよ」
「……え?」
加野さんはきょとんとしていた。
泣き腫らした目で、私の手の中のマグカップと箱の中のマグカップに交互に視線を向ける。
「どうせこのまま無駄になるなら、私が片方貰う。だから、一緒にこのカップ使ってさ、一緒に受験頑張ろうよ」
加野さんは数秒静止して、突然堰を切ったように泣き出した。
ずっと仕事をしてくれなかった私の理性がこのタイミングでようやく働き始め、私は急速に恥ずかしくなる。
客観的に見て、今のはかなり、なんというか、気障な言動だったのではないだろうか。
穴があったら入りたい……。
「あっ、その、不愉快だったら全然今のは気にしないでいただいて……」
「ううん。ううん! ……嬉しいの」
加野さんはかすれた声で言った。
そして、一人で勝手にあたふたする私の手を取った。
「理子ちゃん、ありがと。うち、ちゃんと勉強する。だから、お互い頑張ろうね」
近すぎる距離感に、私はどぎまぎしてしまう。
加野さんの細い指先は冷え切っていて、彼女がどれだけここにうずくまっていたのだろうとまた心配になる。
けれど、彼女の表情はさっきのように無理をして形作られたものではないように見えた。
加野さんはもう一度ハンカチで涙を拭って、立ち上がった。
「あ~、足痺れちゃった。ありがとう理子ちゃん、うち、もう動けるよ」
「う、うん、よかった。もう遅いし寒いから、早く帰ろ」
「うん! 理子ちゃん、家まで電車? 何線? うちはJRだけど」
「私は東武」
「じゃあ駅まで一緒に行こ!」
加野さんは重たそうなリュックを背負い、先ほどよりも軽くなった紙袋を持つ。
私も裸のマグカップを右手に持ちっぱなしだったことに気づき、とりあえずリュックに仕舞った。
やたらのんびりなエスカレーターに立ち止まって乗ったのは随分と久しぶりだった。
駅のコンコースの混雑の中には仲睦まじく手を繋いだり腕を組んだりしたカップルが少なからず混じっていて、私は思わず隣を歩く加野さんを見上げる。
しかし、加野さんは私の心配に反して、「絶対メイクぐちゃぐちゃだあ、恥ずかし~」とおどけてマフラーに顔を埋めるだけだった。
たぶん、彼女が若柴くんのことについて吹っ切れるにはまだ時間がかかるだろう。
そもそもまだ明確に交際を解消したわけでもなさそうだ。
あのグループの人たちとこれからどう関わっていくのかもわからない。
けれど、加野さんなら大丈夫な気がした。
根拠はないけれど、私の頭の中の加野さんはいつでも背筋を伸ばして胸を張って歩いていた。
「ん? どうしたの?」
私に見られていたことに気づいてか、加野さんが言う。
「いや、君も君で色々大変なんだなーと思って」
「え、何が? どういうこと?」
「えー、彼氏さん、ていうか元カレさんの悪口になるけど大丈夫?」
「マジ? 全然いいよあんなヤリチンのことなんてもうどうでもいいから!」
「実はこの前塾で会った後、ゲーセンでさ──」
二人の女子高生の白い息が、浮かれた都会の夜空に吸い込まれていった。




