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連作短編集「リセマラ」

ラストラップ・アゲイン

作者: 双瞳猫

本作品をお選びいただき、ありがとうございます。

本作は「秋の文芸展2025」の指定テーマ「友情」に合わせ、過去に執筆した物語を改稿したものです。

箱根駅伝を目指す大学陸上部を舞台に、勝利への渇望が生んだ過ちと、ライバルとの間に芽生える本当の絆を描いてみました。

 序章 敗北のフィニッシュライン

 乾いた喉に、鉄の味が広がる。心臓が肋骨を内側から叩き続け、今にも張り裂けそうだ。肺は悲鳴を上げ、これ以上一滴の酸素も受け付けないと抗議している。それでも、足は止められない。止めてはいけない。


 相葉陸あいば りくの視界に捉えられているのは、すぐ前を走る一人の男の背中だけだった。城西大学陸上競技部の、藍色のユニフォーム。風間隼人かざま はやと。陸と同じ19歳。そして、陸がこの一年、片時も忘れることなく意識し続けてきた、最大のライバル。


 箱根駅伝出場をかけた、大学の長距離記録会兼選考会。その最終種目、男子10000メートル。スタンドからの声援が、熱風となってトラックに渦巻いている。


「ラスト一周!」


 審判が鳴らす鐘の音が、陸の耳には遠い世界の響きのように聞こえた。残りは400メートル。レースは、陸と隼人の完全な一騎打ちとなっていた。三位以下の選手は、すでに遥か後方だ。


 陸は、努力の人間だった。誰よりも早く朝練に来て、誰よりも遅くまで自主練を重ねた。食事制限も、ウェイトトレーニングも、一日たりとも怠ったことはない。その努力のすべてを、この一周に注ぎ込む。


(ここで勝つ。ここでこいつに勝てば、俺は変われる!)


 ラスト200メートル。コーナーを抜け、最後の直線に入る。陸は奥歯を噛み締め、腕を振る力をさらに強めた。筋肉が断末魔の叫びを上げる。一歩、また一歩と、隼人との差が僅かに縮まる。並んだ。いける!


 その瞬間、陸の視界の端で、隼人の口元がほんの少しだけ緩んだのが見えた。

(笑った……?)

 次の瞬間、隼人の走りが変わった。それまでのリズミカルなピッチが、まるでギアが一段階上がったかのように、爆発的な加速に転じる。しなやかで、力強く、そして美しい。天才だけが持つ、残酷なまでの才能の奔流。


 あっという間に、陸は引き離された。一メートル、三メートル、五メートル。目の前の背中が、絶望的な距離へと遠ざかっていく。フィニッシュテープが、無情にも隼人の胸に吸い込まれていった。


「……あ……ぁ……」


 数秒遅れてゴールした陸は、糸が切れた人形のようにトラックに崩れ落ちた。全身から力が抜け、指一本動かせない。耳に届くのは、勝者である隼人にだけ注がれる歓声と拍手。悔しさで視界が滲み、アスファルトの匂いが鼻をついた。


 また、負けた。何度繰り返せばいいのか。血の滲むような努力をしても、結局、天才の背中を拝むことしかできない。


 シャワーを浴び、重い足取りで部室のロッカーに戻る。チームメイトたちの「隼人、すげえな!」「自己ベスト大幅更新じゃん!」という声が、ぐさぐさと胸に突き刺さる。


 陸は、ロッカーの奥から小さな布袋を取り出した。中に入っているのは、古びたアナログ式のストップウォッチ。プラスチックの黄ばんだボディに、擦り切れた革紐。陸上選手だった祖父が遺してくれた、唯一の形見だった。


 そのストップウォッチの、本来ならラップタイムを刻むボタンがあるべき場所に、不釣り合いなほど新しく、つるりとした銀色のボタンが埋め込まれていた。祖父が亡くなる直前、「どうしても勝ちたい時、一度だけ押せ」と悪戯っぽく笑って渡してくれたものだ。陸は今まで、それをただの冗談、お守りのようなものだと思っていた。


 だが、今の陸には、藁にもすがる思いだった。

(やり直したい……)

 レースが始まる前に。隼人がスパートをかける、あの瞬間に。もう一度、やり直せたら。

 陸は、ほとんど無意識のうちに、その銀色のボタンを、爪が白くなるほど強く押し込んでいた。


 第一章 歪んだ勝利

 ぐにゃり、と視界が歪んだ。激しい眩暈に襲われ、陸は思わず目を閉じる。次に目を開けた時、彼は信じられない光景を目の当たりにした。


 さっきまでいたはずの薄暗い部室ではない。燦々と降り注ぐ太陽。熱気を帯びたトラック。そして、耳をつんざくような静寂。


(ここは……スタートライン?)


 見渡せば、自分と同じようにスタートの姿勢をとる選手たちがいる。隣には、レース前の集中した表情を浮かべる隼人がいる。スタンドの観衆が固唾を飲んで号砲を待っている。さっきまで全身を支配していた疲労は嘘のように消え去り、レース前の心地よい緊張感が体を包んでいた。


 何が起きたのか理解できない。夢か? それにしては、あまりにも五感が鮮明すぎる。

 その時、スターターがピストルを天に掲げた。


 パーン!


 乾いた号砲が響き渡り、選手たちが一斉に走り出す。陸も、反射的に体を前に進めた。混乱した頭のまま、ただ集団の流れに乗って走る。一周、二周。レースは、一度目と全く同じペース、同じ展開で進んでいく。まるで、完璧にリハーサルされた演劇のようだった。


(まさか……本当に、やり直してるのか?)


 陸の心に、混乱と同時に、黒く、甘い喜びが湧き上がってきた。これは、チャンスだ。神様か、あるいは祖父の魂がくれた、二度目のチャンスなのだ。


 レースは淡々と進み、やがて終盤に差し掛かる。先頭集団は、一度目と同じように陸と隼人の二人に絞られていた。

 そして、運命の最終周を告げる鐘が鳴る。


(来る……!)


 陸は、一度目の記憶を必死に辿る。隼人がスパートをかけたのは、ラスト200メートル。最後のコーナーを抜けた、あの瞬間だ。

 陸は、そのさらに手前、バックストレートで勝負をかけることに決めた。隼人の得意なパターンに持ち込ませる前に、不意を突く。


 ラスト300メートル。

(今だ!)

 陸は、呼吸のリズムを変え、一気にピッチを上げた。一度目のレースで温存していた、最後の力をここで解放する。

 突然のロングスパートに、隼人の肩がわずかに揺れた。虚を突かれたのは明らかだった。


「なっ……!」


 隼人が慌てて追いかけてくる気配を背中に感じる。だが、もう遅い。陸はすでにトップに立っていた。最後の直線、隼人が猛然と追い上げてくる。その息遣いが、すぐそこまで迫っている。


(抜かせるか!)


 陸は、一度目の敗北の光景を脳裏に焼き付け、歯を食いしばった。ゴールテープが、今度は陸の胸に飛び込んできた。


「やった……!」


 天を仰ぎ、拳を突き上げる。タイムは、自己ベストを五秒も更新する、驚異的な記録だった。倒れ込む陸に、チームメイトたちが駆け寄ってくる。「陸、すげえ!」「やったな!」。その声が、心地よく耳に響く。


 ふと見ると、隼人が少し離れた場所で膝に手を突き、荒い息を繰り返していた。彼はやがて顔を上げ、陸を見ると、悔しそうな、それでいてどこか面白そうな、不思議な表情で言った。

「……やるじゃん」


 その日の夕方。陸は、高揚した気分のまま監督室のドアをノックした。45歳の監督は、現役時代に「鉄人」と呼ばれた名ランナーだった。その厳しい指導は有名だが、選手のことを誰よりも考えてくれる人物として、部員からの信頼は厚い。


「監督、やりました。自己ベストです」

 陸は、褒められることを信じて疑わなかった。しかし、監督は手元の記録用紙から顔を上げると、厳しい眼差しで陸を射抜いた。


「相葉。タイムは良かった。だがな」

 監督は、ゆっくりと続けた。

「お前の今日の走りは、見ていてちっとも面白くなかった。魂がこもってない。ただタイムを出すためだけの、つまらん走りだ」


「え……」

 陸は、頭を殴られたような衝撃を受けた。なぜ? 勝ったのに。自己ベストを出したのに。

「記録も大事だ。だがな、それ以上に大事なもんがある。記録より記憶に残る走りをしろ。お前の今日の走りは、明日には誰も覚えちゃいない」

 監督の言葉の意味が、陸には全く理解できなかった。彼はただ、呆然と監督室に立ち尽くすしかなかった。


 第二章 機械になったエース

 監督の言葉は、陸の心に小さな棘のように刺さった。しかし、勝利の甘美さと、時間を操るという全能感は、その小さな棘をいとも簡単に覆い隠してしまった。


 陸は、銀色のボタンの力に魅了されていった。


 週末の記録会。彼は再びボタンを使った。一度目のレースで全体のペースとライバルの動きを完璧に把握し、二度目のレースで、まるで精密機械のように理想的なラップを刻み、完璧なタイミングでスパートをかける。結果は、またしても自己ベスト更新。


「相葉、最近どうしたんだ?」「努力が実ったんだな!」「すごい集中力だ!」

 チームメイトからの称賛が、陸の自尊心を満たしていく。監督の「つまらん走り」という言葉は、もはや過去の雑音にしか聞こえなかった。勝てば官軍。結果がすべてだ。


 彼は、練習ですらボタンの力を使うようになった。400メートルのインターバル走。一度目はわざと手を抜き、他の選手の調子を観察する。そしてボタンを押し、二度目には全員を周回遅れにするほどのタイムを叩き出す。


 陸のタイムは、面白いように伸びていった。10000メートルで、ついに大学記録を更新。5000メートルでも、歴代二位のタイムをマークした。彼は、名実ともに城西大学陸上部の絶対的エースへと上り詰めた。


 だが、その栄光と引き換えに、陸は何かを失いつつあった。


「なあ、最近の陸、なんか変わったよな」

 練習後、アイシングをしながら交わされる同期たちの会話が、陸の耳にも届くようになった。

「うん。話しかけづらいっていうか……前はもっと、練習後にバカな話とかしてたのに」

「走りが、綺麗すぎるんだよ。寸分の無駄もない。でも、なんていうか……感情が見えないんだ。まるで機械みたいで、ちょっと怖いよ」


 彼らの言う通りだった。陸は、仲間との間に見えない分厚い壁ができているのを感じていた。練習メニューについて議論することも、レース後の反省会で熱く語り合うこともなくなった。彼の興味は、ただ一つ。次のレースで、どうやって完璧な走りをして、記録を更新するか。それだけだった。


 孤立感は、隼人との関係において、より顕著に現れた。かつてあれほど意識し、競い合ってきたライバル。しかし今、陸は隼人を「攻略すべきデータ」の一つとしてしか見ていなかった。


 ある日の練習で、二人は並んでジョグをしていた。気まずい沈黙が続く。先に口を開いたのは隼人だった。

「なあ、陸」

 飄々とした、いつもと変わらない口調だった。

「お前、最近どうやって走ってんの? まるで未来でも見えてるみたいだな」


 ドキリ、と心臓が跳ねた。陸は努めて平静を装い、顔を背けたまま答える。

「……別に。練習の成果が出てるだけだろ」

「ふーん。まあ、いいけどさ」

 隼人はそれ以上何も言わなかったが、その横顔には、以前のような闘争心とは違う、どこか寂しげな色が浮かんでいるように見えた。


 そんな中、陸の体に確かな異変が起き始めていた。

 最初は、練習後の軽い足首の違和感だった。ストレッチをすれば消える程度の、気にも留めないもの。

 しかし、ボタンを使う頻度が増えるにつれ、その違和感は、じくじくとした鈍い痛みに変わった。そしてある日のレース中、それはガラスの破片が突き刺さるような、鋭い激痛へと変貌した。


「っ……!」


 思わず顔を歪め、足を引きずる。幸い、すぐに痛みは引いたが、陸の心には冷たい恐怖が芽生えていた。

 ボタンで時間を戻せば、その瞬間の痛みも、足の違和感もリセットされる。しかし、やり直すたびに、次に現れる痛みはより強く、より頻繁になっていった。まるで、時間を歪めた分の代償を、彼の体が支払っているかのように。


(これは、代償なのか……?)


 恐怖が、黒い染みのように心を蝕んでいく。だが、陸は止まれなかった。エースという称号、周囲からの期待、そして何より、一度手にした勝利の味。それを失うのが、敗北者に戻るのが、何よりも怖かった。彼は、破滅へと向かう道を、自らの意思で走り続けていた。


 第三章 砕かれたプライドと絆

 秋晴れの空の下、号砲が鳴り響いた。箱根駅伝本戦への出場権をかけた、最後の関門。立川での予選会。各大学のエースたちが、チームの命運を背負ってスタートラインに並ぶ。


 城西大学のエースとして、陸はトップ集団を走り、チーム全体を少しでも有利なタイムに導くという重要な役割を担っていた。しかし、スタートの瞬間から、彼の左足首には不気味な時限爆弾が仕掛けられているかのような、鈍い痛みが居座っていた。


(大丈夫だ。いつものことだ。レースが終われば、またボタンを押せばいい)


 陸は自分に言い聞かせ、痛みを無視してペースを上げた。レースは中盤、10キロ地点に差し掛かる。陸は先頭集団の中で、冷静にレースを進めているように見えた。その走りは、相変わらず機械のように正確で、美しい。


 だが、その内側では、肉体が悲鳴を上げていた。足首の痛みは、もはや鈍痛ではなかった。一歩踏み出すごとに、焼けた鉄の棒をアキレス腱に押し付けられるような激痛が走る。冷や汗が、額から止めどなく流れ落ちた。


 そして、12キロ過ぎの給水ポイント。紙コップを受け取ろうと、わずかに体のバランスを崩した、その瞬間だった。


「ぐっ……あああああっ!」


 これまでとは比較にならない、絶叫に近い激痛が左足を貫いた。まるで、アキレス腱が内側からブツリと断ち切られたかのような感覚。陸は思わず顔を歪め、足を引きずった。完璧だったフォームが、見る影もなく崩れる。ペースが、急激に落ちていった。


 次々と選手たちが、陸を追い抜いていく。その中に、隼人の姿があった。彼は陸の異変に気づくと、すぐに並走し、苦しげな表情で声をかけた。

「陸! どうした! 足か!?」

「……なんでも、ない……! 先に行け!」

 陸は、エースとしての虚勢を張った。こんな無様な姿を、誰にも、特に隼人には見られたくなかった。


「馬鹿野郎! そんな足で走れるわけないだろ!」

 隼人はペースを落とし、陸に付き添おうとする。だが、これは個人競技ではない。チーム戦だ。沿道で檄を飛ばしていた監督が、鬼の形相で叫んだ。

「風間! 行け! お前は前に行け!」


 隼人は、悔しそうに顔を歪め、一度だけ陸を振り返ると、再び加速した。

「……待ってるからな」

 その小さな呟きを背に受けながら、陸はついにトラック脇の芝生に崩れ落ちた。遠ざかっていくライバルの背中、チームメイトたちの必死の走り。そのすべてが、霞んで見えた。偽りの栄光に飾られたプライドは、激痛と共に粉々に砕け散った。


 医務室の簡素なベッドの上で、陸は医師から無情な診断結果を告げられた。

「左足アキレス腱の部分断裂です。おそらく、慢性的な炎症が続いていたところに、過度な負荷がかかったんでしょう。原因は……はっきりとは分かりませんが。いずれにせよ、今シーズンの復帰は絶望的です」


 絶望。その二文字が、陸の頭の中を支配した。

 数日後、大学病院の個室。窓から見える空は、予選会の日と同じように青く澄み渡っている。その青さが、陸の心を一層惨めにした。

 コンコン、とドアがノックされ、隼人が入ってきた。手には、スポーツドリンクのペットボトルが数本握られている。


「……よお」

「……」

 気まずい沈黙が、病室に落ちる。先に口を開いたのは、隼人だった。

「……やっぱりな」

「何がだよ」

 吐き捨てるように、陸が答える。


「お前が急に速くなった時から、ずっとおかしいと思ってた」

 隼人は、ベッドの横の椅子に腰かけ、静かに語り始めた。

「お前の走りから、必死さが消えた。迷いが消えた。……そして、一番大事な、走る喜びも消えた」


 その言葉は、鋭い刃物のように陸の胸を抉った。

「俺はな、陸。お前と競い合うのが好きだったんだ。泥臭くて、がむしゃらで、最後の最後まで絶対に諦めない。そんなお前がいたから、俺ももっと強くなれた。なのに、いつからかお前は、ただ記録を出すための機械になっちまった。そんなお前に勝っても、ちっとも嬉しくなかったぜ」


 隼人の真剣な眼差し。その瞳に映る自分は、なんと矮小で、愚かなのだろう。陸の目から、熱いものが止めどなく溢れ出した。涙が、枕を濡らしていく。

 勝利に囚われ、記録に縛られ、一番大切なものを忘れていた。ライバルと魂を削り合って競い合う喜び。仲間と一つの目標に向かう楽しさ。そのすべてを、自らの手で捨ててしまっていた。


「なあ、陸」

 隼人は、泣きじゃくる陸の肩に、そっと手を置いた。

「お前、何か隠してるだろ。俺には言えないことか?」

 その目は、すべてを見透かしているようだった。陸は、隼人が自分の秘密に、その核心にまでは至らずとも、何か人知を超えた力が関わっていることを見抜いているのだと悟った。


「……ああ」

 陸は、しゃくり上げながら、途切れ途切れにすべてを告白した。祖父の形見であるストップウォッチのこと。時間を巻き戻す銀色のボタンのこと。偽りの勝利を重ねてきたこと。そして、その代償として、足が蝕まれていったこと。


 荒唐無稽な話を、隼人は黙って聞いていた。非難も、嘲笑もしない。ただ、静かに。

 全てを語り終えた陸が顔を上げると、隼人はふっと息を吐き、困ったように頭を掻いた。

「……そっか。未来が見えてる、なんて冗談で言ったけど、あながち間違いでもなかったわけか」

 そして、彼は真っ直ぐに陸の目を見て言った。

「お前と走るのは、退屈しないな。本当に」


 その言葉は、初めて陸が隼人に勝った日に、隼人が言った言葉と同じだった。だが、その響きは全く違って聞こえた。そこには、ライバルへの敬意と、そして変わらない友情が込められていた。

「お前がズルしたとか、そういうのはどうでもいい。ただ、俺はまた、昔のお前と走りたい。それだけだ」


 隼人の言葉が、固く閉ざされていた陸の心の扉を、優しくこじ開けていく。そうだ、俺が本当に欲しかったのは、こんな風に競い合えるライバルだったじゃないか。記録や勝利という結果ではなく、そこに至るまでの過程を分かち合える仲間だったじゃないか。


「……隼人」

「なんだよ」

「今度こそ、お前を追い抜いてやる! 俺自身の足で……必ず!」

 それは、プロットに書かれたセリフだったが、今の陸の口から発せられた言葉は、脚本にはない、魂からの叫びだった。

 隼人は、ニヤリと笑って拳を突き出した。

「おう。待ってるぜ」

 陸も、震える手で拳を突き出す。二つの拳が、ごつんと音を立ててぶつかり合った。それは、偽りの勝利に別れを告げ、新たなスタートを誓う、固い約束の音だった。


 第四章 もう一度、スタートラインへ

 退院の日、陸は隼人と共に、大学の近くを流れる多摩川の河川敷に来ていた。空は高く、川面が夕日に照らされてキラキラと輝いている。


 陸はポケットから、あの古びたストップウォッチを取り出した。黄ばんだボディ、擦り切れた革紐。そして、中央で不気味な光を放つ銀色のボタン。この小さなボタンが、彼に栄光と、そしてそれ以上の絶望をもたらした。


 もう、迷いはなかった。

 陸は、大きく腕を振りかぶると、ストップウォッチを力いっぱい川の中心に向かって投げた。それは放物線を描き、夕日を反射して一瞬きらめいた後、ぽちゃん、と小さな水音を立てて川面に吸い込まれていった。水面に広がった波紋が消えると、もう何も見えなくなった。


「……さよならだ」


 過去の自分との、そして神の領域を侵した愚かな自分との、完全なる決別だった。

 隣で見ていた隼人が、ぽんと陸の肩を叩いた。

「よし、帰るか。リハビリ、付き合ってやるよ」

「……ああ」


 それからの日々は、地道で、苦痛に満ちたものだった。

 アキレス腱を断裂したランナーの復帰は、簡単なことではない。焦りは禁物。陸は、医師とトレーナーの指導のもと、地味なリハビリテーションを黙々とこなした。最初は、ベッドの上で足首を動かすだけ。やがて、松葉杖をついての歩行訓練。そして、プールでの水中ウォーキング。


 焦りや不安に押しつぶされそうになる夜もあった。もう二度と、以前のように走れないのではないか。そんな恐怖が、悪夢となって彼を苛んだ。

 だが、今の陸は一人ではなかった。


「陸、今日調子どうだ?」

 隼人は、自分の練習が終わると、毎日必ずリハビリ室に顔を出した。他愛もない話をして陸を笑わせ、時には黙って隣に座り、ストレッチを手伝ってくれた。

 チームメイトたちも、代わる代わる見舞いに来た。

「お前の分まで、俺たちが頑張るからな」

「焦るなよ。お前の席は、ちゃんと空けとくから」


 彼らの言葉が、乾いた心に染み渡るようだった。孤立していた時には決して感じることのできなかった、仲間の温かさ。勝つことだけが幸せではない。ライバルと切磋琢磨し、仲間と襷を繋ぐ喜び。それこそが、自分が本当に求めていたものなのだと、陸は心の底から理解した。


 季節は巡り、冬が過ぎ、春が来た。

 桜の花びらが舞うグラウンドに、陸の姿があった。まだ完全ではないが、彼はゆっくりとしたペースで、ジョギングができるまでに回復していた。

 一歩、また一歩。地面を蹴る感触。風を切る感覚。汗が流れる心地よさ。そのすべてが、愛おしかった。


「監督」

 練習後、陸は監督室を訪れた。

「ご迷惑をおかけしました。俺、もう一度、ここから始めたいです。自分の足で、もう一度スタートラインに立ちたいです」

 深く頭を下げる陸に、監督は厳しいながらも、どこか温かい眼差しを向けた。

「……相葉。お前の顔、やっとランナーの顔つきに戻ったな」

 そして、いつもの口調で言った。

「当たり前だ。ここがお前の居場所だろうが。だが、勘違いするなよ。復帰しても、レギュラーの座は保証されてない。実力で奪い取ってみせろ」

「はい!」

 力強い返事に、監督は満足そうに頷いた。


 数ヶ月後。夏合宿の最終日に行われたタイムトライアル。

 陸は、一年ぶりに公式なレースのスタートラインに立っていた。隣には、もちろん隼人がいる。


 号砲が鳴る。

 陸は、集団の後方から、自分のペースを冷静に刻んでいく。足首には、まだサポーターが巻かれている。痛みはないが、恐怖が完全に消えたわけではない。

 だが、彼の心は不思議なほど穏やかだった。


(勝てなくてもいい。自己ベストが出なくてもいい)


 ただ、走れることが嬉しい。この仲間たちと、このトラックを走れることが、たまらなく嬉しい。

 レースは終盤。先頭は、やはり隼人が引っ張っている。陸は、まだ先頭争いに加わるだけの力はなかった。それでも、彼は自分の持てる力のすべてを出し切り、一人、また一人と前の選手を追い抜いていく。


 その走りは、機械のような正確さも、洗練された美しさもなかった。顔は苦痛に歪み、フォームも荒削りだ。だが、そこには、見る者の心を揺さぶる何かが宿っていた。魂の燃焼。走ることへの、純粋な渇望。


 スタンドの片隅で、監督がストップウォッチを片手に、その走りを見つめていた。

「……フン。記録はまだまだだが、記憶には残りそうな走りじゃねえか」

 その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。


 陸は、結局五位でゴールした。トップの隼人からは、30秒以上も離されている。

 それでも、ゴールした陸の表情は、晴れやかだった。駆け寄ってきた隼人が、陸の背中をバンと叩く。

「おかえり、陸」

「……ああ。ただいま」

 息を切らしながら、二人は笑い合った。


 陸は、空を見上げた。どこまでも青い、夏の空。

 もう、時間を巻き戻すボタンはない。与えられた時間は、一度きりだ。失敗も、敗北も、すべて受け入れて、前に進むしかない。

 だが、それでいい。それがいい。


 ライバルがいる。仲間がいる。そして、自分の足で走れる喜びがある。

 彼の瞳には、偽りの栄光を追い求めていた頃とは比べ物にならない、本物の輝きが戻っていた。

 ラストラップは、もうやり直さない。たった一度のゴールを目指して、相葉陸の本当のレースが、今、始まった。(了)



最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

改稿にあたっては、主人公が過ちから再生する過程と、それを見守るライバルの心の動きを丁寧に描くことを心がけました。

「記録より記憶に残る走り」という言葉に込めた、友情の温かさを感じていただけていれば幸いです。

ご感想などいただけますと、今後の創作の励みになります。よろしくおねがいします<(_ _)>



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