それでも峠に向かう夜
みかげは疲労、寒さ、痛み、そしてなお残る薬物の影響のためにもうそれ以上を進めなかった。峠まで行かなくてはならない。行かなくてはいけないが、行けない。不可能が必要である、という事態が生むのは焦りであり、摩耗だった。
脚はもつれ、転び、みかげは冷たい地面に身をぶつけた。どうすればいいのか。なぜ行かねばならないか。思考と感覚はみかげの脳をかけめぐり、途切れ始めた意識はそのそれぞれにフォーカスしようとしても一秒たたずに別の思考、別の感覚にジャックされる。
喉が渇いた。十秒ちかく考えに一貫性を持たせるトライを続けて、やっと脳内に絞り出された文章はそれだった。
気づくと、水をたたえ、蓋の開けてあるペットボトルが目の前に差し出されている。幻覚だろうか。もう、幻覚でも構わなかった。どうにかボトルを受け取って、冷たすぎないが生ぬるいわけでもない液体を飲み干す。体温と水温の差は食道の輪郭を浮かび上がらせる。おいしい、とみかげは思った。おいしい。そんな感慨を持ったのはいつぶりか。
飲んで七回か八回、深い呼吸して看護師の存在に気づく。アフリカ系らしいこの看護師は、月浜、と名乗っていた気がする。
「連れ戻しにきたの」
「あなたと一緒に行くためにきました。ご迷惑でなければ、ですけど」
この男は嘘を言っているわけではないとみかげは知っていた。理解したのではなく、そう知っている。
ロベールの手を借りて、みかげは立ち上がる。
「見える? あの一番高い峠。意味がわからないと思うけど、あのあたりに絶対祠がある。古いやつが」
「行ってみましょう。靴は持ってきました。ないよりマシですよ」
「ありがとう」
みかげは、自分はずいぶん久しぶりに微笑みながら礼を言ったと思った。長らく使っていない表情筋の使い方だった。
もう、日付は変わっているだろう。今日は昨日に、明日は今日に。未明の冷気の中をよろけながら二人が進んでいる。
「声って、どんな感じなんですか」
ロベールが質問した。
「頭のなかに音声が響くのではなくて、表現しづらいけど……そう、意味が言葉にならずに直接流れ込んでくる感じ」
ロベールはうなずく。否定も肯定もせず、また無視もしない。
「なんで院長の命令を無視したの」
「そうですね」
なぜだろう、とロベールは自分でも思う。
「あとから理由を探すことはできるけど、どれもしっくりきていないんです」
「そっか」
みかげはそれだけ言って、あとは黙々と歩く。ロベールも。一時間も歩いた頃だろうか。疲労の感覚も麻痺しかけたころ、登り道は下り道に転じる場所に着く。
ロベールは懐中電灯の光を周囲に投げた――事務室の緊急用として常備されていたものを失敬してきた。どたばたの最中、スマホなど持っていく余裕はなかったがこれだけは、と思ったのだ。みかげはそもそもスマホなど持っていないし、それで連絡を取るべき相手はなおさらいない。
周囲をゆっくり順に照らしていくと、たしかに祠がある。巨樹の根元に抱かれた、古い祠だった。




