「青臭い」正義
みかげは荒い息を吸って、また吐きながら暗い山道を上っている。あの看護師はなぜ、独断で薬を減らしてくれたのか。その理由はわからない。気にはなるが、しかしみかげはそれ以上に峠に向かわなくてはいけなかった。なぜ峠に向かうのか、その理由はもっとわからない。
しかし、彼女の人生において、理由を伴っていた出来事なんて果たしてこれまであったのだろうか?
理由なくこの世に生まれた。理由なく学校に通い、友人などろくにできなかった。理由なくどこかからの声が聞こえてきた。精神科病棟に入院したことには、もしかしたら理由があるのかもしれないが、あったとして十中八九それはくだらない理由だろう。とにかく、みかげには向かうべき目的地があった。そこへ到達するには、まずあの峠に向かい、そしてそこにあるはずの祠の扉を開かなくてはいけない。素足は痛み、また寒かった。秋を迎えた山の土と下草は決して人間の肌に対して友好的ではない。
内臓が、筋肉が、すべての細胞たちが血流とそれに運ばれる酸素を欲していた。応じようとする心臓と肺はそれら本来のキャパシティをも無視して稼働し、みかげの脳に痛みさえ超えた純粋な苦痛の信号を放ち続ける。
みかげは彼女の全身が奏でる軋みの交響曲さえ燃料として、また脚を動かす。上へ、上へと。
「逃げ出すのも当然だと思いませんか」
ロベールの声には、義憤も叛意も込められていない。科学的事実を前にした医療従事者の冷静さで院長の前に立っている。ロベールより二十センチメートルも身長の低い槇は、ロベールの眼を見ていない。胸ポケットに掲げられたロベールのIDカードを黙って見つめている。
「槇院長。彼女はリアルタイム・ニューロイメージングの治験対象だったみたいですね」
「そうだよ」
槇がまばたきする。どことなく爬虫類的な所作のまばたきだった。
「彼女の脳神経組織は完全に正常なものでした。本来、あのような症状のある患者ならば神経組織の動き自体に異常が見られるはずにもかかわらず。たしかに幻聴、妄想の症状があるといえ、それならば無闇な投薬治療にこだわらずに本当の原因を調べるべきじゃないんですか」
「……」
「先生も医師でいらっしゃるなら、科学的な態度と患者に対する倫理を持ってしかるべきです。今からでも治療方針を見直してください」
「どうやって知った」
「は?」
ロベールは一瞬、槇の詰問の意図が理解できない。
「私のPCを盗み見たんじゃないかね」
「ええ、そうですよ」
ロベールは四肢がこわばっていくのを感じた。しかし、今さら後戻りしようとも思わない。
「その点は私の問題行動だと認めます。ですが院長、それとこれは別ですよ。前科者が現行犯を捕まえてならない、なんておかしいと思いませんか」
「私を犯罪者みたいにいうのは止してくれないかな」
槇は微笑する。表情筋をどう動かせば微笑に見えるか、背後で計算してつくられる肉の仮面。
「私は医師で、つまり国家試験に合格している、ということだ。なぜ医師となるのに国家試験があるか。極めて高度な専門知識がたくさん要求されるからさ。看護師になるよりずっとずっと多い専門知識が」
「学歴と権威で押し通すつもりですか? はっきりいってダサいですよ。専門知識がなくてもあんなの間違いだとわかる。誰にだってね」
槇はため息をつく。この男の吐息は体温をまとっているのだろうか、とロベールは疑った。
「君も所詮、看護師だね。それも新人の。私の武器は学歴と権威だけじゃない。同業者との誼もある。医師会は私の見解を肯定するだろう。そしてそれは科学的事実と認定される――一人の新人看護師の意見は誤謬として省みられない。科学は純粋に客観的な事実の集積じゃない。純粋に客観的な事実などどこにもないからね」
「あんた……」
「せっかく看護学科まで出て、え? 数日でキャリアが台無しだな。今ならまだ許してやらないでもないぞ」
ロベールは唇が痛むことに気づいた。自分の歯が、唇を噛んでいた。
「院長。そこまでして、あんた何がやりたいんだ」
槇は鼻で失笑するわけではない。この男から侮蔑を感じることはできない。おそらく、侮蔑とは潜在的にでも己と同格になり得る他者に対する感情だからだろう。
「私にもキャリアというものがあるんだよ」
医師の世界は競争が激しいんだ、と槇は言葉を継ぎたかったのだが、それが発せられることはなかった。ロベールの拳が全力で槇の顔の中心にたたき込まれたためだった。精神科の入院病棟に配属されるくらいなので、ロベールも腕っ節はある。
一撃で槇医師は昏倒し、前歯が二、三は吹き飛び、鼻から出血したうえに唇が盛大に切れていた。
「医学部同期の整形外科医にでも診てもらえよ」
言って、ロベールはみかげを追うために走り出す。もはや行く宛てなどどこにもないが、しかしどこかには行かねばならない。




