明灘京司のなすべきこと
海の底の、さらに下。ドゥリーパ・シェンケヴィッツは今、消滅しようとしている。その身体は透き通り、何かの残り香のような印象になっていく。
「さよならです」
別れの挨拶に楓より驚いているのは、みかげだった。
「なんで」
みかげの頬を涙がつたう。
「なんで、『なにか』と一体になった私じゃなくて」
「エンタングルメント」
ドゥリーパが透明な笑みを向けた。
「僕も、器としての資格がある。この程度はできます。楓さん」
弓弦楓は蒼白なまま、涙を流すことも言葉を放つこともできない。ただ首を横に振るだけである。
「とても楽しかった」
楓はドゥリーパの手を握ろうとするが、もう楓の手とドゥリーパのそれが、物質としての相互作用をすることはない。ただ、すり抜けるだけだ。これが結末なのか、とロベールは思った。そう、まさにみかげの言ったとおり、人はいつか別れがくると知ってなお、誰かを愛する。そうだとしても、あんまりではないか。
「ドゥリーパさんは、どこに行くんだ」
「彼はおそらく、消えはしない……ただ別の宇宙に行く。そして、そこに向かうことも、通信することももはやできなくなる」
答えたのは、床に横たわったままの京司だった。ロベールは、みかげの父に歩み寄った。
「なあ、京司さん」
「なんだ」
「なんとかなりませんか。自分の姉が死んだように生きるのを、僕は見ていられない」
「私ではどうしようもないぞ」
「そうかもしれない。でも、あなたはなぜここを一人で作る必要があった?」
京司は微笑んだ。憑き物の落ちたような、邪気の無い笑みだ。
「いいだろう。まだ、『なにか』はぎりぎりで残っているから間に合うかもしれない。ひとみ、頼んだ」
そして、一つ前の世界に残ったみかげの母親の助力で楓もまた透き通っていく。もう視覚でも残像としてさえ捉えられなくなった、気配のようなものが抱き合うのが感じられ、そして去った。
「姉さん」
ロベールがつぶやき、みかげがその手を握った。
「行きなさい」
京司が言う。
「お父さんはどうするの」
「現実的にいって、私は地上に戻るわけにもいかない」
「……」
「ロベール君、いろいろと迷惑をかけたね」
「僕は、あなたを担いでいきますよ」
「そうだろう。もともと看護師だしな。だが、そんな手間はかけない」
言う側から、京司もまた透明になっていく。
「私やドゥリーパ・シェンケヴィッツのように、精神そのものを転送し世界を渡り歩いてきた者はもうこの世界に存在することはできない。精算すべき時だ」
「お父さん!」
「行け。行って幸せになれ」
そして、明灘京司は親としてなすべきをなした。




