明灘みかげ
ロベールは職業的な冷淡さでみかげに接するようにしていた。医療従事者がいちいち患者に同情したりしていては業務にならないので、当然であった。
みかげは確かに、普段はなにも問題など起こしはしなかった。むしろ、行動らしい行動をせず、なけなしの能動性をここぞという時のために蓄積しているようにも思えた。
ロベールがみかげから発声したのを聞いたのは一度だけ。
「あの峠」
「え?」
「あの峠に祠があるはず」
ロベールがすこしずつ紅葉の進む山嶺を見ると、入れ替わりにみかげは眼を閉じた。
「祠?」
それきり、みかげから話すことはなかった。
次の日、ロベールの父の訃報が届いた。母は若い頃、コンゴへ医療支援ボランティアとして赴任し、日本に戻ってからロベールを生んだので、ロベールは父の顔も知らない。母は自身の出自に興味を抱き始めた彼が詳しく聴く間もなく、小学生の息子を残して逝った。
実際に逝去したのはもう一ヶ月も前のことだったようだ。ロベールは感慨らしいものをおぼえなかった。ただ、彼の精神がもし一つの部屋であったならそのカーテンが夕陽を浴びつつ風にそよいだような、そんな気がしただけだった。孤独になったといえばそうなのだろうが、正直それは以前からずっとそうだった。残念なことがあるとすれば、いつか父を訪ねてアフリカに行ってみたい、という思いがあったのにいよいよ目的地というものを失ってしまったのだな、という点だけだった。
彼はみかげの病室に向けて歩んでいる。手押しワゴンには向精神薬の一個連隊が乗っている。院長の処方だった。あきらかに異様な量だった。
「明灘さん。お薬の時間です」
ノックして部屋に入る。少女は半眼を開いているが、その目は現実よりももっと曖昧ななにかを見据えているようだった。
ロベールは周囲をさりげなく警戒する。この個室は女性向けであるということもあって、さすがに室内にまで監視カメラがないはずだったが、今から行おうとしていることは明確に越権行為だ。目撃されるのはまずい。が、あまり時間をかけすぎても疑いを持たれるだろう。
ロベールは意を決し、七種類の錠剤のうち、二種類はそれぞれ一錠ずつ残してほかはすべて開封し、さらに三種類の粉薬も開封して隠し持っていたビニール袋に入れた。カクテルでいえばウォッカベース並にきつい、向精神薬のブレンドが完成し、そのまま便器に流した。
「明灘さん、これだけ飲んでおいてください。ほかの包装はそのままで」
少女の表情には変化がないように、そのときは思えた。
ロベールが院長に無断で減薬をはじめて、早くも四日で少女の様子が変わってきた。
以前よりも視線が焦点を結ぶことも多くなったし、食欲も増したらしい。
配膳のときに、聞き取れるか否かぎりぎりの声量ではあったが「ありがとう」という声も発した。
もちろん、それは看護師としてうれしいことだったが、ロベールはいよいよ疑念を深めた。院長の処方を何度見直し、検討しても「人間の思考能力を麻痺させるための向精神薬フルコース」という塩梅だ。すくなくとも、治す意志を読み取るのは困難だった。
あるいは、投薬されていない状態の彼女は周囲にも危害をおよぼしかねない問題行動を取り得るので薬で抑えていたのか。しかし、薬が抜けたあとの彼女は以前よりもクリアな印象になれど、自他に危険をおよぼす様子はなかった。
ロベールはおぞましいがありふれた可能性に思い至る。この病院では一週間に一回、主治医が入院患者を巡回する。みかげの場合、明日がその日なので院長は無断で減薬されたことに当然気づくだろう――誰がみてもよくなっているのだから。
もし、自分のたてた仮説が正しいなら、今日中にことを起こして為すべきことを為す必要があった。
院長の槇はほぼ毎日、午後九時ごろまでPCに向かってなにやら作業している。この病院は「開かれた病院」を標榜しているので、院長専用の部屋というものはなく、職員はひとつのフロアにそれぞれのデスクを並べている。おそらく、院長が他の職員にも目を光らせるための設計なのだろう、とロベールはみていた。
その晩、槇は医師のなかでやはり一番遅くまで残っていた。ロベールも残っていた。ロベールは知っている。槇は用を足しにいくとき、PCにロックをかけることはほぼない。戻るまでに五分はかかる。
槇はまったく無警戒にロベールの前を通り過ぎて、生理的欲求を満たしに部屋を出ようとする。通り過ぎる槇を上目で見ながら、ロベールは槇の右目の瞳孔は左目のそれよりも常時、収縮していたことに気づく。槇は部屋を出て行き、ドアが閉まり、他に誰もいない。医師も、看護師も。
ロベールは椅子から立ち上がるとき、音を立てないように注意を払った。槇の画面ではブラウザがクラウド上の電子カルテを開いたままだ。カーソルは検索ボックスのうえで、ロベールを誘うように点滅している。
患者番号3301を入力してエンターキーを押すと、みかげのデータが表示される。
明灘みかげ、17歳、女性。出身は宮城県仙台市。14歳のころから幻聴に悩まされ、母親に付き添われて受診。投薬治療を行うも一向に改善の兆しはなく、一年三ヶ月前から本院に入院中。
新しい情報はないように思えた。ロベールは自分の思い過ごし、という可能性が意識に這い寄ってくるのを感じた。むやみに院長を疑いすぎたのか、と。スクロールしても不審な点は見当たらない。安堵感、やましさ、そして違和感が心の中でマーブルを描いた。
たぶん、あと一分かそこらで院長は戻る。もう離れようかと思ったとき、一個のリンクに目がいった。
「リアルタイム・ニューロイメージング、か」
要は生きている人間の脳活動をこれまでにない精度で、かつリアルタイムに捕捉、解析する技術だ。気になったのは、そのリンクが書かれた日付である。
「ちょうど一年前だな」
リアルタイム・ニューロイメージングが市場で発売されたのは半年前。医療業界で大いに話題になったので、よく覚えている。なぜ、発売前の検査技法を使えたのか?
タッチパッドに触れる指が震えているのかもしれない。マウスカーソルはややぎこちなくリンクに近寄り、それをクリックした。
「……これは……」
ロベールは仮説の正しさを確かめることができた。槇院長は医師として行うべきでない行為をして、ヒポクラテスの誓いに背いていた。証拠をつきつけてやろうとロベールが大股に出入り口の前まできたとき、ドアが開く。槇だ。
「月浜君!」
ロベールが糾弾の声をあげるより早く、槇が叫んだ。
「3301番の患者がまた脱走したぞ!」




