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ラームにとっての慰め

炎はクルーザーの上でいよいよその勢いを増し、船上のすべても、船それ自体も焼き尽くそうとしている。九度は信じられない気分だった。その利き手ではないとはいえ、左手に与えた負傷にもかかわらず、ラームの攻撃は苛烈を極め、九度は既に舳先にまで追い詰められた。

後ろを振り返って確かめる必要もなく、冷たい海面が待っている。ラームはコンバットナイフをこれ見よがしにぶらぶらさせながら、じりじりと詰めてくる。

「けっこう楽しめたよ、爺さん」

九度は恐れていないが、観念した。しかし、たとえここで死ぬとしても目的は達した。九度を殺しても、もうこの男も助かりようがない。

「なあ、爺さん、あんたひょっとしてこう考えているんじゃないか? 『ここで死んでも、ラームは……』あ、自己紹介しちゃったな。まあいいか。『ラームも助からない』って。そんなことはないんだなあ、これが」

「……負け惜しみを。どう助かるつもりだね」

「俺だって長瀞が燧灘の測候所に潜んでいる、それも明灘みかげと一緒に、というくらいは見当がついてるさ。そして、そうならドゥリーパ・シェンケヴィッツもそこだし、ということは俺がもともと乗ってきた船に取り付けたビーコンがそこを教えてくれる。まあ、正確にいえばシェーファーの死体につけたんだけど」

「だから? この燃え尽きようという船で、どうやってたどり着くね」

「ぶっちゃけ、爺さんには感謝してもしきれないわけだよ」

ラームはコンバットナイフを握り直す。

「用心して敢えてシェンケヴィッツとは別の船に乗ってきてくれて。いやあ、あのとき粉々にしなくてよかったわ。俺、今夜はラッキーマンみたいだよ」

凪いでいた洋上に、風が渡ってきた。やれやれ、どうもまだ楽はできないらしい、と九度は思う。今は叢雲(むらくも)に隠れたがそろそろ月はもうそろそろ真南を指すだろう。金属棒を、九度も握り直す。ラームは暴戻(ぼうれい)な歓喜をたたえた表情で、何のためらいもなく舳先に走り寄る。素早い。おそらく、筋繊維も神経組織も薬剤で強化しているとしか考えられない。九度は持てるすべてを込めて、金属棒を叩きつけるが、ラームはコンバットナイフの一振りでそれをはたき落とした。

殺戮。人間の祖先が一種の知性、一種の感情を身につけて以来、自分を、あるいは自分の血族を守るために敵を殺すことに法悦を見出すようになって久しい。人類はやがて自分自身を改造し、血族ではない者を守るときも、あるいは防御でないときにさえそれを経験できるようになった。今、ラームはその湧き上がる熱さそのままに刃を振り下ろそうとしている。

だが、なのか、そして、なのか。接続詞の選択に迷うところではあるが、刃は空を切ったのみだった。

「な……」

「十分に近寄ってもらって、こちらこそ感謝の念に堪えないことだ」

九度は舳先にするりとぶら下がり、そのまま正しく(ましら)のようにラームと位置を入れ換えた。

「筋肉組織、そして神経の反応速度の向上。そこまでエンハンスするには、ほとんど致死量寸前、といった量が必須だ」

ラームは老人に飛びかかろうとして、愕然とした。脚が動かない。いや、腕も、発話のために口を動かすことさえ。

「すなわち、もう一押しすればお前は勝手に死ぬ。ドーピングの悪影響を防ぐには代謝機能拡張しかないが、老体には堪えた。それに、気化するタイプがこの吹きっさらしで効くか心もとなかったが、……ぎりぎりで持ちこたえたよ。若い内から身体は鍛えておくものだ」

ラームは脚を滑らせた。最期に見たものが、冷たく無慈悲な海面ではなくて九度の心底哀れんだ視線だったのは、彼にとって慰めであったか、どうか。

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