盛岡の病院へ
ドゥリーパ・シェンケヴィッツが楓にシステムのデモンストレーションを行う時点からさかのぼること一週間。盛岡駅西口バスターミナルから一人の青年が公営バスに乗った。青年の肌の色は、彼がアフリカ系の出自を持つことを証している。
年齢は二十を過ぎたばかり、といったほどで、肉体を誇示するほどではないにせよ健康的な身心の持ち主であることが見て取れた。
太陽はすでに奥羽の山嶺を超え、地平線の下にある。
青年にとって、盛岡は馴染みのない場所ではなかった。むしろ、生まれてから今に至るまで生活の場としてきたここは、一般的な意味でいえば故郷と呼ぶにふさわしいはずの場所だった。
だが、ある種の戸惑いなしにここが故郷だ、といえる気分になったことは今日までない。
バスはさみしい道路を、ただ己のヘッドライトのみを頼りに進んでいく。
一際さみしげなバス停で降りる。彼の就職先まで、ここからさらに十五分ほど歩く必要があるだろう。看護学科を卒業し、初めての就職先は精神科病院の入院病棟だった。
「初勤務が夜勤とはなあ……」
今も昔も、看護師というのは食いっぱぐれの可能性が低いことの表裏として人手不足で、とくに地方都市の病院ではこの程度のことは十分あり得ることだった。闇の中、スマートフォンの地図アプリは場違いなほどの光で青年の顔を照らす。
向かうべき方角を確認し、青年は歩き始める。行く手の先には尾根が立ちはだかり、そこに生える木々の梢は夜空よりさらに黒かった。
「君が月浜君、だね」
精神科医に特有の仮面だ、と青年は思った。実習中、何度も見たがまだ慣れていない。
「はい。月浜ロベールです」
「院長の槇徹だ、よろしく」
槇は言葉を切って、ロベールを見た。さりげなさを装ってはいるが、観察されていることは明瞭だった。身体のプロポーション、姿勢、筋肉の付き具合からの運動習慣、顔の表情からにじむ今の感情、それらがそれぞれ他の要素に与える影響。
「ご両親のどちらかが、アフリカのフランス語圏ご出身かな」
「父がコンゴ人でした――コンゴ民主共和国、旧ベルギー領の方です」
「うん。よろしく頼む」
差し出された手を握った。院長の手には奇妙な湿り気があって、嫌な感じだった。
一通りのレクチャーを受け、担当の患者にアサインされる。
「月浜君」
「はい」
前方を歩く先輩男性看護師の菊谷が、振り返りもせずに告げる。
「この患者さん、普段はそんなに問題行動は起こさないんだ」
「……脱走を繰り返す、とありましたけど」
菊谷は立ち止まる。ロベールも半秒遅れてそれに倣う。
「なあ、ここを、この病院をどう思う」
「率直にいえば」
ロベールは値踏みされているのかもしれない、あるいは一種の罠かもしれないということは承知で言おうと思った。
「まったく空気がよくないですね。こんな場所にあったら、患者に対して『お前たちなど社会から隔離されて当然だ』という言外のメッセージになるでしょう。それに、職員の皆さんも僕を含めて誰とも互いに目を合わそうとしません。院長は別でしたけど」
「……せいぜい二時間かそこらで、しかも新人でそこまで観察しているのはさすがだな」
「院長だけが観察できるわけではないですから」
ロベールは菊谷の前方に回り込んで、その目を見る。思っていたほどには怯えていない。
「たぶん、院長の処置のためにこの患者さんは脱走を試みるのだ、とおっしゃりたいのではと思いますが、さすがにはっきりとは答えてくれなさそうですね」
「まあな。が、解釈は君の自由だ」
非常灯だけが病棟のリノリウム床を単調な光で照らす。二つの人影はしばし相対し、空気は彼らの呼吸音のみによって揺れていたが、また歩き始める。
「なんで、この病院に応募しようと思った?」
「ほかにも応募しましたよ、採用してくれたのがここだけだったんです」
「ふん、そんなものだよな」
さらに二分歩き、彼らは個室の前に立っている。入院患者名は「明灘みかげ」と記されていた。
「昨日から薬を減らし始めているから、たぶん今は意識あると思う」
菊谷は言いながら外から解錠し、ドアを開ける。
「明灘さん。入りますよ」
少女がベッドの上に、仰向けに伏している。高校生くらいのように見える。
痩せすぎで髪の毛が肩口より少し伸びているくらいの、これといった外見的特徴を持たない少女。
「明灘さん、起きてますか」
少女は答えない。窓から射し込む月光はその瞳に映っているようだったが、今入室してきた男性看護師二人のことは意図的に無視していると思われた。
「明灘さん」
ロベールが呼びかけるが、反応は変わらない。
「はじめまして。明日から明灘さんの担当看護師になる、月浜ロベールです」
ロベールは少女が見つめる先を視線で追った。山並みが東方のスカイラインをなし、そのうえに大きな満月が上っている。ロベールは一瞬だけ、三十八万キロメートル彼方の自然衛星が一メートル前方に横たわる少女と自分を媒介するものに思えた。




