タクシーに乗ったものは誰と何か
ドクトル・シェーファーは高松についたあと、すぐタクシーを配車させた。まったくの自動運転タクシーというものも以前は走っていたのだが、偶然にも一年間で立て続けに五回の致命的な事故を起こしてからは世間の目が厳しくなったので必ず非常時に運転を代行できるドライバーを乗せるよう、いわゆる進歩とは逆行する法改正が行われた。結果、とりあえず免許だけ取れば普段はほとんど何もしなくても小遣い稼ぎになるチョロい仕事としてのタクシードライバー職が日本各地で誕生したわけだ。シェーファーを拾いにきたドライバーもそのくちらしく、歳は30歳にはなっていない、少しヘラヘラしている感じだった。
「あ、おはようございます」
もちろんシェーファーは高確率で日本語母語話者ではないと判断できる風貌なのだが、まったく意に介さず日本語で挨拶してきた。まあ、挨拶してくるだけマシな方の若者かもしれない、とシェーファーは思った。東大やらチューリヒ工科大学の学生ばかり相手にしているとすぐ忘れてしまうが、上昇志向を剥き出しにして他者を蹴落とす機会を如才ない社交性の裏で探っている者だけが20代ではない。
「ああ、おはよう」
あまり構っている暇はないし、こちらも面倒であるので乗り込みながらドイツ語で返した。一応、耳につけたままのイヤフォンが随時の翻訳をしてくれる。翻訳ソフトが絶対に間違えない、とは言えないが。
「高松港っすよね」
「うん、急ぎで頼む」
「了解でーす」
妙なもので、このドライバーが――あまり良い表現ではないものの――軽佻浮薄な若者だ、というのをソフトウェアは翻訳しないが、それでもその事実は一見してわかるものだ。高松空港は高松市の中心市街からかなり離れた内陸の高台にある。タクシーで飛ばしても、20分はみた方がよかろう。
「香川はお仕事っすか」
いや、話しかける暇があったら急げ、と思いつつ根が愛想のよいシェーファーは応じてしまう。
「うん、まあそうだね」
「そっすか、ここウドンしかないんですよ。ウドン食べたことあります?」
「うん、まあ東京には何回かきたことがあるから……」
いいから急げ!と言いたいのだが、流石に一般人に怪しまれることは避けたい。なにしろ、まだ朝の8時前である。重要な商談などがそんな時間にあるわけもない。この運転手だったら高確率で何も気づかないような気はするが、組織に属して長いシェーファーはこうした些細なことから破滅をたどった者を多く知っている。怪しまれない、上手い言い訳はないか。
「じつは、今日、息子の結婚式があるんだ。香川の方と結婚するんで、スイスから羽田で乗り継いできたんだ。できるだけ急ぎたいので、お願いできるかな」
「へえ、結婚式ですか。スイスからいらした」
「ああ」
「シェーファー教授の乗ってきた便、高松行き羽田の始発ですよ。東京で前泊されたなら可能ですが、そうならスイスから来る以上、前夜には入っているのが自然だ。というか、最初に仕事って言っちゃってるし。嘘のつきかたが熟れてないっすね」
運転手は名乗っていないはずの客の名前を呼びながら、羽田に離発着する航空機便のタイムテーブルを把握していることをドイツ語で示した。シェーファーは驚愕しつつ、あることに気づいた。この運転手は両耳とも何もつけていない。つまり、シェーファーのドイツ語をそのまま理解している。
「運転手さん、あんた誰だ」
「あんたが呼んだんじゃないか」
ドライバーはへらへらと笑う。薄っぺらい、というよりは虚ろ、と形容するべき笑い声だった。
「呼んだだろ、ド・メ侯爵に対して実働部隊の増援を」
唖然とするシェーファーに対し、ドライバーは振り向かず続けた。
「俺の名前はヤン・ファン・ラームだ。顔は覚えても意味がないぞ、親にもらったやつからずいぶんいじったし今後もいじる予定だ」
「……芝居がかった自己紹介だな」
「ガキの頃はブロードウェイに憧れていたからな」
シェーファーは相応の能力、相応の努力の結果、この辛辣な業界を生き抜いて組織の内外問わず、多くの人間を見てきた。いずれも一筋縄でいかない海千山千だったが、この男の不気味さは群を抜いている、と直感した。いかなる人間でも直視したくない、直視できない自分の一部分、というものがあるが、もしかするとこの男はそうしたものさえ平然と直視し、それを楽しみさえしているかもしれない。悪寒がシェーファーの背を走ったが、この後のことは話しておかねばならない。
「で、他の増援は?」
「俺だけさ」
シェーファーはラームに意外な顔を見せまいと思っていたが、結局失敗していた。ラームは当然、そのことを予期している。
「ま、心細くなるのも無理はないな。だがギイ・ド・メがこの俺を選んだことは念頭においた方がいい。あと、スマホ見せろ」
怪訝に思いつつ、シェーファーは組織向けのスマートフォンを取り出そうとした。
「ああ、違う違う。ETH教授としてのあんたのヤツだ」
「研究用か?」
「いいから寄越せ。おそらく、あんたの教え子が番号教えたんだろう。シェンケヴィッツが追跡しているぞ」
「なぜ、わかる」
「俺が奴らと同じ情報を持っていたらそうするだろうというだけさ。まあ、用心に越したことはない。そうだろう? それに、上手くやればシェンケヴィッツを殺してもっとポイント稼ぎできるぞ」
「『もっと』?」
比較級が不穏さをまとう文脈だった。
「そうさ。このタクシーのトランク、何入ってると思う?」
「そうだな……本物のドライバーの死体、とかか」
「おお、正解だ。ただそれだけじゃないから、満点とはいえない」
「……」
「リンドボリの生首さ。かわいそうだが、仕方のないことだ」
シェーファーの戦慄も乗せて、タクシーは高松港に走っている。




