書肆・鯱の目
車の重心が設計者の想定よりはるかに傾いでいる事に加え、九度の運転はだいぶ荒かった。運転を交代したドゥリーパのそれも荒かった。そのために楓の顔色は本人が見ても面白いように悪化し、途中のサービスエリアでは何度か身体の上の方から虹色のものが出てくることになった。ドライブの終わりの方にはもはやぐったりして、車窓から飛び去る街の灯りを見ているだけだった。
「お客さん、終点ですよ」
ドゥリーパに肩を揺すられても、「うー」くらいしか言い返せない。どうにか降りて新鮮な車外の空気を吸い、周囲を見回した。
「どこ、ここ」
「荒川の西であり隅田川の東、いわゆる濹東だ」
九度が答えた。
「東京?」
まだ少しふらふらしている。
「ああ。墨田区の鳩の街商店街という」
変な名前の商店街だ、と思ったが口には出さなかった。単に軽口をたたく元気がないのだ。見上げると、「書肆・鯱の目」とある。
「しょ……しつ?」
「書肆、と読む。後ろは分かるかな」
「シャチのめ」
「よろしい」
こいつは国語の教師だったのかな、と楓は想像した。雰囲気は高校数学の教師だけど。周囲は通俗的な表現でいえば「レトロ」そのものの通りだった。すでに深夜を通りこし未明の時刻に近く、人通りはまばらだが、おそらく昼間は地元の買い物客やら外国人観光客やらでそれなりに賑わうのだろう。相当に古い建物が多いところと、路地が細いところを見ると今世紀初頭以来の再開発の嵐を免れ続けた、東京全体でも稀な地区だと分かった。
「こちらへ」
九度老人は店舗脇のドアを開ける。促されるまま、中に足を踏み入れると濃密な古い紙の匂いがする。ドゥリーパの身長よりも高く、古書が積まれているのだから当然だった。そのまま老人は二人を店の奥、居住スペースへと案内する。
「むさ苦しい場所で申し訳ないが、我慢してくれ。女性は個室あり」
ドゥリーパと九度は同じ部屋で雑魚寝するようだった。もはや力尽きて楓は布団に倒れ込む。もともとこの奇妙な旅がはじまってから大して化粧もしていなかったが、今夜ばかりはシャワーを浴びる気力も、着替える気力さえなかった。人は自分がいつ眠ったのかを自分だけで知ることはできない、と当たり前のことを思っている間にもう入眠していた。




