廃倉庫
楓とドゥリーパは古い、天井の高い建物に逃げ込んだ。かつては工場兼倉庫として使われていたらしく、天井にはもう二度と何かを照らすことはないナトリウムランプ、梁として渡された鉄骨の各所には滑車やクレーン、時間だけがなしうる「風化」という魔法にさらされ続けた壁は赤錆それ自体を板状に成型したもののように見える。壁際のところどころに、うずたかく金屑の山がそびえて、数十年ぶりの闖入者にも動じず自分を流れる時の流れに身を委ねている。
「スクラップ工場かなにかみたいですね」
「見りゃわかるわ。で、ここで空が曇るのを待つ? 今夜は晴天の予報みたいだけど」
「もちろん、そんな悠長な真似はできません」
「迎え撃つってことね。わざわざあなたを殺しに派遣された、すなわち、かなり手練れであろう相手を」
ドゥリーパは静かにうなずく。
「弓弦さんは隠れていてください。おそらく出ようとすれば狙撃されるが、追っ手を片付ければスナイパーもいったんは退くでしょう」
「何人いるの。正確な予測はできずとも、一番ありそうな人数は?」
「たぶん一人です。僕は例外ですが、普通ヘルメティカのエージェントは二人一組で行動する。スナイパーで一人なら、残るは一人」
「なるほど、二対一、ね」
「……話聞いていましたか? 弓弦さんは隠れていてください」
楓は横目がちにドゥリーパを見る。
「よりによってあなたに傾聴の態度についてお説教されたくない。こちらが使える武器とかはそのザックに入っているの?」
「せいぜいナイフとスタンガン程度」
「一人一個はあるわけね」
ドゥリーパは諦めてザックの口を開け、ナイフを楓に渡す。正直ふつうに隠れていてくれた方がかなり気が楽なのだが、そういって従うような相手ではないこと程度は理解していた。
「私にいい方くれるの?」
「レディーファーストというものです」
「ありがたいけどスタンガンの方がいい。人を刺し殺した経験なんてないもの、いきなりは無理かも」
「僕もありませんが、交換しましょう」
楓はスタンガンを受け取り、ドゥリーパはナイフを受け取る。それぞれに隠れる。正真正銘のアサシンに対して幼稚な戦法ながら、まさか真っ正面から果たし合いするわけにもいかない――目的は戦うことではなく、生きてここを出ることなのだから。
シルヴェストラはリンドボリからの音声通信によるサポートを受けつつ、廃倉庫に接近している。目標二名は逃げ出していない。この距離ではまだ赤外線波長による探査も使えず、倉庫内のどこに二人が潜むかは不明だ。時間はかけられないが、内部の様子は最低限知っておきたい。反撃を恐れるわけではないが、片方を殺害してもう片方に逃げられるのは困る。どれだけシルヴェストラ個人の戦闘技量が高くても、彼の身体が一つだけという点はどうしようもない。
懐からケースを取り出す。入っているのは掌に乗る程度の自律型偵察ドローンだ。外部を警戒しているのは間違いないが、二人だけでは死角を埋められるはずもない。
廃倉庫内における目標の位置を確認したシルヴェストラは上から見れば長方形をなす倉庫建屋の長辺にあたる西側の壁のすぐ外側にいる。このすぐ後背にはドゥリーパ・シェンケヴィッツが息を潜めている。50センチ先にはドアがある。施錠はされていない。おそらく、彼らはここからシルヴェストラが突入してくることに一縷の望みを賭けている。開いた瞬間を狙って斬りかかるつもり、ということか。ドアを開け、シェンケヴィッツが斬りかかる。空振りに終わった一撃でよろめいた彼の体をコンバットナイフで一突き。弓弦楓の位置はドローンでも把握できていないが、きっと逃げだそうとする。だがリンドボリから死角になっているのは西側のみで、倉庫から出た瞬間、彼女は狙撃される。
今回はこれで行こう、決断しドアを一気に蹴破る――だがシェンケヴィッツの一撃はこない。シルヴェストラは経験に基づく用心深さで、室内をうかがう。シェンケヴィッツは想定した位置には既にいない。倉庫の中央近く、ドアから20メートルは離れた場所に隠れもせず、向こうもナイフを構え立っている。シルヴェストラは獲物を狩るために走り出す――わけはなかった。ブービートラップの類いに誘い込もうとしているようにしか見えない。天井には滑車やらクレーンやら、その手の材料に使えるものが豊富にある。
人家への距離を考えると気は進まないが、即座に拳銃を取り出す。ガイドの赤いレーザーはシェンケヴィッツの顔のど真ん中を照らし、しっかりと射線上に捉えていることを光学的に証明している。目標の表情は強張っている。任務の性質上、目標が飛び道具を持っている可能性は排除できるので、ためらうことなく引き鉄に指をかけた。
ドゥリーパ・シェンケヴィッツは美男子だ。美男子の中でも、かなり良い方だと言ってもよかろう。シルヴェストラはその顔のシンメトリーが自分の手で崩れてしまうであろうことに、実はほんの少し残念な気分を持っていたのだが、シルヴェストラは残念さではなく驚愕を味わうことになった。彼自身の偵察ドローンがシルヴェストラの右手に突撃し、射線は盛大にずれ、金屑の山に吸い込まれた。
ほんの一瞬だけシルヴェストラの体勢が崩れた機に、ドゥリーパは矢のように相対する敵に向けて走り出す。だが体勢が崩れたのは本当の意味で一瞬に過ぎなかった。素早い判断で拳銃を投げ捨て――たとえ目標が拾っても、拳銃の生体認証をパスしなければロシアンルーレットにさえ使いようがない――コンバットナイフを構えた。シルヴェストラにとって最も信頼のおける人工物を。切っ先はドゥリーパの心臓を狙う。まるでその肉を裂き、血潮をまき散らすのは己の宿命だとわきまえるようなナイフが反射に光った。だが、それは街灯や星月の静かな光を反射したものではない。この場におよそ似つかわしくない、強烈極まりない閃光であり、シルヴェストラの闇に慣れていた眼をつぶすのに十分だった。光源はドゥリーパの背後にある。今、細かな金屑から成る山が一気に燃え上がっている――空気に触れる面積が十分であれば、金属はよく燃える。楓は一気に躍り出て、点火に使ったスタンガンを最大出力のまま容赦なくシルヴェストラに押し当てた。筋骨たくましいアサシンの体は倒れ、それでも押し当てられる電極のためにびくびくと痙攣し、すぐに意識を失った。
「はあぁ、……びびった」
楓は偽らざる感想をもらす。ドゥリーパがサムズアップしているので、呼吸を整えてからVサインで返す。
「しかし、よくこんな作戦を思いついて、更には実行できましたね」
「ストロボ。大昔の写真撮影ではこういうことは日常的にやっていた。私の祖父、職業写真屋の最後の世代だったらしいの」
「カメラマンということですか?」
楓は首を横に振った。
「カメラマンじゃなくて写真屋、よく間違えられるけど。昔はデジタルカメラはない。フィルムを現像するにはそれなりの専門知識が必要だったらしくて、そういう職業があったと父がよく私に話していた。だから思いつけたんでしょうね。それより、あの短時間でよくドローンをハックできたね」
シルヴェストラが見ていた画像も生成されたものだった。「情報」と「嘘」の境界が曖昧になって、それなりの年月が経つがシルヴェストラのような手練れでも時間に限りがあれば確認を怠ってしまう。幾重にもフェイントを張って、ようやく仕留められる相手であったので、彼が映像の真偽をいちいち確認してくれなくて助かった。
「それくらいしか取り柄がないので」
「その謙遜は嫌味にしか聞こえない。それより、こいつどうするの」
シルヴェストラは白目を向いて倒れているが、死んではいない。逃亡を優先したいが、この男の身を自由にしたまま逃げておいかけてこられるのは好ましくない。
「悩ましいところではありますね。彼は我々と少なくとも一度は交戦した以上、次回があればより慎重に徹底的に我々を追い詰めにかかる。かといって、ここで彼を戦うことが不可能な状態にしたところで、他のエージェントが派遣されてくるだけでしょう」
「本当はこんなことを言っている場合じゃないのかもしれないけど、いくら正当防衛でも殺人者にはなりたくない」
「私もですよ。むしろ、彼を生かしておきつつ追っ手にとって最も時間のロスが大きくなるような方法を考えたい」
「人が悪いね」
「元からです」




