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猫のような男

午後五時、さすがに多少は涼しい風が吹いている。楓は四階のテラス席に座ってラップトップマシンで資料作成をしていたが、ふと上を向くと地球が自らの回転を証明をするように、空は朱色だった。やがて夜が訪れるだろう。

「夜、か」

口には出されないつぶやきを心中でもらす。首都圏で満天の星など見えるはずもないが、数光年の距離を隔て、それらが発した光子は届いているはずで、ただ誰にも見てもらえないだけのことだった。

「こちら、よろしいですか」

英語だった。アメリカ合衆国西海岸のアクセント。

「どうぞ」

ラップトップから顔をあげず、楓は応じた。異国的な面立ちの青年はまだ蒸し暑い関東で、カジュアルなものながら長袖のジャケットを羽織って、踝まであるパンツを履き、しかしながら汗もにじんでいなかった。

ただ、楓にとって気になったのは他のテラス席はがら空きなのにわざわざ自分と同じテーブルを選んだことだった。ナンパであれば応じるつもりはなかったが、どうもそういった印象でもなく、そのことが却って楓に青年の存在を意識させた。一秒にも満たぬすきに、画面から顔をあげて青年の方を見ると彼は先ほど楓がしていたように、西の空を見ている。

「あの」

青年が振り向く。月も出ていない夜の水平線で、空と海が交じる場所のような黒さの瞳。

「お名前は」

「ドゥリーパ・シェンケヴィッツです」

ファーストネームはインド系の響きだが、ファミリーネームは東欧を連想させる。きっとそれらの血を引いているのだろう。東欧もインドも、コンピュータサイエンティストを多く輩出する地域で、かつアメリカ西海岸のアクセントから察するにシリコンバレーで働いていた両親がある日出会い、夫婦となって生を受けたのがこの青年か、と楓は想像した。

「弓弦さん、あなたのプレゼンテーションは素晴らしいものでした」

「それは、どうも」

そっけなく返す。ドゥリーパは意に介する様子もなく、言葉を続けた。

「必要な条件を満たせば無制限に自己の計算能力を高めつづけるシステム。宗教的なまでの狂熱で語られてきた『シンギュラリティ』の具体化として、かなり適切な落とし所でしょう。ただ……」

「なにか、おっしゃりたいことが?」

「そのシステム、ディリーマの現実的な応用――アプリケーションについて、展望はお持ちですか?」

楓は一瞬、眉間に皺を寄せたあとそれをドゥリーパに見られたことに思い至って平静な表情を作った。

「ご指摘、流石ですね」

ディリーマはおよそ人間の作り上げたもののうちで、最もポテンシャルを秘めた構築物だ。しかし、というか、だからこそ、というか、それを何の役に立てるべきか――そこはまだ見えていない。

「いえいえ。必要に応じた分のみ、という制限はあれど、人間は実質的に無限である能力を前にたじろぐ。無限そのものを、私たちは思考できないようにできている。そういう風に感じることがあります」

楓は穏やかな口調の青年に、なぜか違和感と表現するには少し鋭すぎる警戒をおぼえた。

「シェンケヴィッツさん、あなたはどちらのご所属?」

「失礼。自己紹介を続けるにあたって、もしよろしければあなたのラップトップのブラウザをお借りしても?」

「よいですが、ゲストモードで起動してください」

自己紹介になぜ、相手のPCのブラウザが必要なのかは意味不明だったが、好奇心もあり許可した。楓が胡散臭げに見る中で、ドゥリーパはゲストモードのブラウザタブを開き、URLを打ち込み始める。それなりに長い上にランダムな文字列に見えるURLなのだが、なにかを参照することもなく入力しているあたり、丸暗記しているらしかった。エンターキーをドゥリーパが押すと、表示されたのは今日日めずらしいほどシンプルなデザインのログインページ。そのままドゥリーパは数字16桁で構成されたIDを入れ、パスワードを入れた。

ドゥリーパがログインした先には、やはり無機質な操作画面がある。左側のペインから "Baseline" とあるメニューを選ぶと、デジタル地球儀が現れた。右上にあるのは "07/10/2051 17:19:33" 、つまり現在の日付である2051年10月7日と今の時刻がヨーロッパ風の表記で描画されている。

「弓弦さん。今から一分間に何が起きるか、正確に予測することは人間に可能だと思いますか? 『正確に予測する』とは、この宇宙に起きるすべてを細大もらさず、完璧に予測するという意味です」

もちろん、できるわけがない。楓はそう考える。科学的に考えるまでもない話だった。

だが、とも思う。

「たぶん、あなたが敢えてそう問いかけるのは『実は可能なのだ』、と主張されたいからでしょう?」

青年は答えず、ただ微笑む。これは猫に似た男だ、と気づく。夜と自己の境界を曖昧にし、誰にも意図をさとらせないのは猫の特徴だ。

「いいですよ。私が今、十進法で五桁の数字を思い浮かべました。それだけを当てるのでは、単に私の脳を何らかのかたちでスキャンしただけかもしれませんけど」

「おっしゃるとおり、それでは芸がないですね。では、こういうのはどうでしょう」

ドゥリーパの笑みは不敵なものでも、挑発的なものでもなく、ただ今こうして過ごす時間が楽しいのだ、というものだった。

「今、フランスのパリは午前の九時。今から五分後、パリの証券取引所平均株価の、小数点以下五桁も当ててみれば信じてくれますか?」

「……いいでしょう」

それなら自分が脳内で五桁の数字を思い浮かべた意味はなんだったのか、と思わないではなかったが、承諾する。答え合わせは五分後、ということになる。

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