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地図の指し示す先

祠は言葉を覚える前の幼子がたたずむような自然さで、そこにあった。

「これ?」

ロベールの確認に、みかげは首を縦に振る。二人は一歩一歩、祠に近づく。二組の脚は落ち葉を踏む。湿っているので、乾いた音はせずかわりにぐしゅぐしゅとした感触が靴裏から響いた。

ロベールも、どういうわけかここで何をすればいいかわかっているようだった。迷うことなく巨樹の枝を払って、祠の扉を開く。きしむ音とともに、古いことそれ自体のにおいが空気に混じる。

周囲の闇よりなお暗く、そのためにむしろ暖かさをまとったような祠の裡に、一冊の地図帳が無造作に置かれていた。

ロベールはみかげの方を見る。みかげはかすかにうなずくと静脈の青さが浮く細い腕(もちろん、この暗さで見えるわけではないがロベールは病室で見た彼女の腕を思い出していた)を伸ばして、地図帳を手に取った。

それぞれに色あせた、表紙と裏表紙。裏表紙に記載された発行年は平成二十年――西暦でいえば二〇〇八年、四十三年前ということになる。ずっとこの祠の中に置かれていたにしては、ずいぶん状態がよいように思える。本当に半世紀近くも前の地図帳だろうか?

ただ、この場ですぐさま真贋を確かめる術もない。折り畳まれた地図帳を開き、懐中電灯で照らす。

「これ、そもそもどこの地図?」

みかげでなくても最初に発したであろう問いだ。頼りない光で照らされる地図が示す場所は、どことなく古代ギリシアの地理学者が世界認識を記した、巨人やら一つ目の種族の国に言及した地図のようにさえ思える。聞き覚えがある地名。だがそれが現実のどの地点を指すのか、像を結ばない。

「地名とかからいって、間違いなく日本のどこか、ではあるみたいだけど……」

「ねえ、これって離島とかじゃない?」

みかげの言う通り、たしかに海に取り囲まれた土地だった。

「そもそもどこについての地図なのか、が意図的に消されている。すぐわかるような施設名とかもない。本当に二〇〇八年の地図なのか?」

「あと、この地図はここだけなにも書いてない」

たしかに、島の中央部のみ、不自然なまでに何の記号もなかった。

誰かがいたずらとしてここに置いたのか。しかし、だとすればなぜ地図帳が置かれたことをみかげが知り得たのか。

地図を二人でにらむ。本来、みかげにもロベールにも、この地図に記された場所に行くべき積極的な理由はなかった。だが、二人とも他に行く場所はない。どこに行くわけにもいかないなら、ある意味、どこに行ってもよいのだ。

「この島、空港がない」

みかげの指摘を受けて、ロベールは地図をさらに見る。縮尺からいって、決して大きな島ではないはずだ。せいぜい長辺が二キロ、三キロ。海岸の一カ所にのみ港があり、その周囲に小さな集落があるように思われる。

「この港から出てる点線。これって航路?」

「そうっぽいな。ええと、……尾道行き、か。瀬戸内の島みたいだ」

「瀬戸内海。ずいぶん遠いんだ」

みかげはつぶやく。道のりの遙かなることを嘆いているわけではなかった。それをいったら、たぶん病室からこの峠までもずいぶん遠いものだった。

「ああ」

ロベールもうなずく。

「遠い」

東を見れば、墨を流したようだった空の下辺をわずかな薔薇の色が縁取っている。山脈がなすスカイラインと空が、暁光で分かたれつつあった。

「どうやって行く?」

問うたのはロベールの方だ。

「普通に考えたら、歩いて」

ロベールは苦笑した。その通りだったからだ。脱走した精神科の患者と、暴行罪の容疑者である「元」看護師。スマホも、現金も持っていない。他にどういう方法があるだろうか?

「何ヶ月かかるかな」

「さあ。直線距離なら千キロくらい、まったく順調に一日二十キロとか歩けたとして、五十日かそこらか」

「割り算って便利だね」

みかげの言葉が皮肉だとすれば、それはロベールに対してというより自分たち自身の状況に対してだろう。夜明けは空のところどころに浮かぶ雲底を赤く染め始めた。森から、鳥たちの声が響く。個々の鳥が鳴いているというより、山と呼ばれる有機体そのものの脈動のようにも思われる妙音。

ロベールは思う。全部なくして、代わりに目的地を得た。この交換は等価か、あるいは少しばかりは得をしたのか。決算が行われる日がいつかは知らない。

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