猫とダブルチョコレートマフィン
うちの高校では、三年生は一月半ばの共通テストの後から自由登校になっている。
一月の下旬から二月の上旬は私立大の試験が集中するが、小木曽先輩のクラスでは、二月の下旬、国公立試験の前期日程がほとんどの生徒の山場のはずだった。前期惜しくも受からなかった人だけが、三月の後期試験にラストチャンスを賭けて挑むのだが、後期試験は設定していない大学も多いし、よしんばあっても定員枠がとても少ない。その少ない枠に、何らかの事情で前期を失敗したレベルの高い学生が殺到することになるので、大体の人は前期日程で今年の勝負が決まる。
その前期日程も、あと十日ほどに迫っていた。三年生たちは、自分が一番集中できる場所で、最後の追い込みをかけている。自宅に引きこもる人、塾の自習室に行く人、学校の図書室に行く人。小木曽先輩のクラスでは放課後の自主的な受験勉強会が活発だったので、教室に来て勉強している人も半数近くいるらしい。
他人ごとのように言ったが、同じ特進科の一学年下に在籍する私にとっては、来年はわが身ということになる。あと一か月ほどで今の受験生たちの身の振り方が決まれば、高校や塾の先生たちは、四月にもならないうちから私たちの学年を『受験生』と呼ぶことになるのだ。
「受験ってやだなあ」
誰にも聞かれていないのをいいことに、ぽつんとつぶやいた。
風が冷たく乾燥した季節に、日当たりの悪い中庭でベンチに座っている酔狂な人間など、私くらいだ。もう、午後四時ちかい。紺サージのプリーツスカートの下にタイツを重ねていても、足首のあたりからしんしんと冷気がしみとおってくる。
たった一日か二日の試験で、それまで三年積み重ねてきた高校生活や、十八年積み重ねた人生が判断されて、その先四年間のほとんどを過ごす大学に入れるかどうかが決まるなんて、この上ない不条理だ。
受験で人柄そのものを審査されたり、否定されたりするわけではない。限られた入学者枠に対して収まりきらない希望者を、できるだけ全員が納得いく方法で、受け入れるかお断りするか決めるだけのものだ。積み重ねたものは、受験の合否とは関係なく、自分の中に残るはずだ。
理屈ではわかっている。けれど、そんなきれいごとで簡単に割り切れるわけもないほど、高校生活にのしかかっている受験という重石は大きい。
もちろん、色々な入試のルートがあって、両親が受験した時代よりはよほど、二月、三月の筆記試験にすべてを賭ける、みたいなことは減ったのだそうだ。それでも、打ち込んだ部活や課外活動と進学したい学部にあまり関連がないので、私にも小木曽先輩にも、推薦で選べる大学に行きたいところはない。有名大学に深いつながりがあるわけでもない地方の公立高校では、学校推薦も望み薄だ。自分が打ち込んで勉強したいと思う内容をやれる学部に進学するためには、結局、本試験をがんばるのが一番近道なのだった。
結論。うちの高校の三年生で、国公立志望者のカレンダーに、バレンタインデーの文字はない。
そんなことはわかっている。言われなくても。
だから、付き合い始めて半年ちょっと、初めてのバレンタインデー当日に何も約束がなくたって、気にしているわけではない。
いくら付き合っているからって、いやむしろ、だからこそ、邪魔になることをしたいわけではない。あんなに頑張って、誰よりも受験勉強と向き合ってきた小木曽先輩だから、絶対、報われてほしい。
そう。だから、ココア生地にチョコチップを混ぜこんだ、ダブルチョコレートマフィンを作ったのは、あくまで、お父さんと弟たちのためである。これ以上なく、義理中の義理チョコだ。ちょっと足りないかな、と思って材料を二倍の分量にしたのも、他意はない。卵を一個使うレシピなのだから、中途半端には増やせないではないか。
そしたら、家族で消費するには、いささか多すぎてしまっただけ、なのだ。
『なら三個目食べていい?』
と返事も聞く前に手を出した下の弟に軽くグーパンをかましたのは、単なる勢いだ。
『ばか、やめろって。察しろ』
とこちらを見てにやにやした上の弟の足を踏んだのは、少々すべっただけ。
とりあえず学校に持ってきたけれど、結局誰にも渡せていない。少々いびつに膨らんだ、こげ茶色の不格好な塊は、行儀よく紙袋に収まって私の横に並んでベンチに座り、優柔不断な創作主のことを嘲笑っている。
にゃあ、と声がして、足元にどしんと寄りかかってくる重みがあった。
「エリちゃん」
左耳のてっぺんのところが桜の花びらのように欠けたキジトラの猫は、遠慮なく私の足にまつわりついて、ローファーの上にドカッと座り込んだ。
校舎のどこかに住みついていて、愛嬌を振りまいてはお弁当のおかずをねだってーー正確に言えば、愛嬌に見せかけて鋭い眼光で食べ物をカツアゲしてまわる、高校の名物猫だ。三年生の登校者が減って、なわばりの実入りが減ったのだろう。私が軽く頭をなでると、そんなことより何かないんかい、という風情で伸びあがり、傍らに置いていた紙袋をふんふんと物色した。
エリちゃん、などとかわいく呼ばれているが、先輩から連綿と下級生に伝え聞かされている彼女の本名は、エリザベス・シッダールタ・ラムセス・エリツィン三世という。先輩たちの誰かが、世界史の試験勉強に煮詰まったときにつけたに違いない。
「あ、だめ。エリちゃん、猫はチョコレート厳禁なんだよ。煮干しあげるから」
私が慌てて紙袋を取り上げ、通学バッグの中に入れていた煮干しの小袋を取り出そうとしていると、ひょい、と紙袋を取ってくれる手があった。
「手伝うよ。持っててあげるから早く探しな」
「あ、ありがとうございます」
何気なく言って、すぐに見つかった目当ての小袋を引っ張り出して、顔を上げるとそこにはなじみの笑顔があった。
「……っ」
不覚だった。早く帰るべきだったのに、帰る気を奮い起こせずにこんなところでうだうだしていたせいで、最も見つかってはいけない相手に見つかってしまった。
「チョコレートなんだ。猫はダメなら、オレはいい? 諸富」
小木曽先輩はにこっと笑った。
「つ、、ついでですから。別にわざわざとかじゃないんで、待ってたわけじゃないんで。たまたまなんで、気にしなくていいんで……!」
あわあわと逃げようとする私の頬に、あつあつの缶入りカフェオレがくっつけられる。
「たまたま、小一時間もこのベンチで時間つぶしてたの?」
「な、なんで……」
「渡り廊下から丸見えだっつの」
呆れたように彼は肩をすくめ、紙袋の中を覗いた。
「お、マフィン。ねえ、これオレがもらっていいやつ?」
「……」
ぱくぱくと口を開くが、うまい言葉が出てこない。
「ダメって言われても返したくないなあ。カノジョが二月十四日に手作りのチョコレート持ってたら、自分以外のやつに渡させたりしたくないよね」
にやにやと意地悪い笑顔を浮かべて、これ見よがしに紙袋を高く掲げてみせる。
もちろん、そんなことで心配させたいわけでもない私は、真っ赤になって言うしかない。
「他の人になんてあげるわけないじゃないですか。でも、ついでなのは本当です。弟と父にあげる分も作ったので。大げさにしたかったわけじゃないし、負担に思われるのも嫌なので! ちょっとした差し入れ、くらいに思ってくれれば」
「そういうことなら、ありがたくいただくな」
ふふっと笑って、彼は私の手に缶コーヒーを押し込むと、紙袋を手首にひっかけて、個別にラッピングされたチョコレートマフィンを一つ手に取った。
「ちょっと行儀悪いけど、歩きながら食べてもいい? 駅まで一緒に帰ろう」
空気は冷たいけれど、少し日が伸びてきたことを実感する。商店街では、早くもバレンタイン商戦の飾りつけを撤去し始めていた。当日の夕方に撤去とは、何とも気ぜわしい。
お父さんはいつも、バレンタインのお菓子を大げさなくらいほめてくれるし、弟たちは憎まれ口しか叩かない割には先を争って奪い合う。そうやって、わかりやすく、あるいはさりげなく喜んでいるのを示してくれるのを、毎年嬉しいなあと思っていた。だから、先輩の小さな「うま」という独り言が、そんな家族の反応全部ひっくるめたより百倍も千倍も嬉しくて、どきどきする、なんて、思ってもみなかった。
「ちょうど、糖分足りてないなあって思ってたんだよね」
食べ終わってからそういって、さりげなく手をつないでくるところも。
「忙しい時期だから、邪魔しちゃ悪いかなって」
そんなかわいくない私の言い訳ににやにやしながらうなずいてくれるけれど、引っ込めようとした手を放してくれないところも。
「どれだけ後ろにもつれこんでも、三月十二日の後期試験が終わったら今年度の勝負は終わりだから」
彼はふと真顔に戻って言う。
「だから、来月の十四日は空けといて」
こくこくと私はうなずくしかない。
春の足音は次第に近づいてきている。志望校に合格すれば、彼は遠くの町に引っ越す。それでもきっと、大丈夫だ。私が受験生になったって、住んでる場所が少し遠くなったって。
私はつないだ手に少しだけ力をこめた。彼も応じて、優しく握り返してくれる。
積み重ねたものは、決して消えたりしない。
私があれこれ考えすぎて、ぐるぐるふわふわ、地に足がつかなくなってしまう時に、この人はちゃんとつかまえていてくれる。
だからきっと、大丈夫。
どこかの家の庭先に植わっているのだろうか、風の中に梅の香りがふと漂った。
ああ、春だ。わけもなく、ほんの少しだけにじんだ涙を、私はさりげなくまばたきして散らした。
本作は拙作「天の川とアイスコーヒー」「地上一センチの天使」のスピンオフ作品ですが、これ単独でも読んでいただけるように書いています。こちらを気に入ってくださったら、上記の作品の彼らにも会いに行ってやっていただけたら嬉しいです。
本作は香月よう子様主催『バレンタインの恋物語』企画参加作品です。
同じく香月様主催『夏の夜の恋物語』企画への参加作品として構想した『天の川とアイスコーヒー』も、本作も、企画の存在がなければ書けていなかった作品です。素敵な機会と、たくさんの温かいご縁をくださった企画者様に、心より感謝申し上げます。