噴出
妙子目線となります。
闇使は誰の誘いも受けない。そして自分のことを「大切な存在」と言う。
となれば、闇使にとって自分は他の人達よりも一歩だけでも特別な存在なのではないかと思ってしまう。
(違う違う。そんなことないよ…)
否定したくとも否定しきれないものがある。
どうせならいっそのことバッサリ「趣味じゃない」とでも言われた方がすっきりするのだろうが、そうなれば今の生活が壊れてしまう。もう誰もいない家に帰ることなど考えられない。闇使ほどに安心できる存在もいないだろう。
そんなすっきりしない生活を送っていれば、内に秘めた想いが膨れ上がってきて、妙子の心を搔き乱す。
多少なりとも妙子に興味を持ってくれているのでは?
多少なりとも妙子を好いていてくれているのでは?
好きだと伝えたらどんな反応をするのだろうか。
喜ぶだろうか、困るのだろうか。
溢れそうになる想いを必死に押し留めて蓋をする。そしてすべてを否定する。
あたしはそんな魅力的な女じゃない…。
闇使は「大切な存在」とは言ってくれるが、それ以上には見ていないことは分かる。
妙子を女性として意識してくれているならば、まったく手を出してこないなどありえないだろう。
紳士だからというわけではない。闇使にとって、妙子は恋愛対象になるような存在ではないのだ。
だとしたら何故「大切な存在」などと言うのだろう。
目を覚ます。
まだ暗いが朝だということは分かる。昔は朝が苦手だったのに。いつからかこんなに早く目覚めることが習慣になっている。
身支度を整え、部屋を出る。台所に立って動いていると、奥の部屋から闇使が出てきた気配があった。
「おはようである」
「おはようございます」
そして一緒に仕度をする。
最初に闇使を寝かせていた部屋は、元々妙子が使っていたので、闇使が「元々お主の部屋であろう」と申し出てくれたのを幸いに、闇使に奥の部屋を使ってもらっている。
どうにも自分は料理に関してはあまり、いや、かなり才能がないらしいので、見かねた闇使が手伝ってくれている。
おかげで近頃ご飯を美味しくいただけている。
一緒に暮らしていれば、指が触れる、肩が触れるなど当たり前のようにある。それでもドキドキしているのが自分だけだと思うと少し悲しくなる。
こんな素敵な人の目に、あたしなんかが映るわけがないんだ…。
そして今日も自分の心を殺す。
バスに揺られて畑へとやってくる。
仕事中は闇使とも物理的な距離が離れるのでほっとする。仕事中は何も考えなくてすむから気が楽だ。
休憩時間になると闇使が足早にやってくる。近頃女の人に声をかけられることが減ってきた。闇使男色家の噂が広まっていると蘭子さんと美鈴さんが教えてくれた。
「あたしたちは信じちゃいないけどね~」
そう言って二人は意味深に笑いあっていた。いい加減自分を肴に盛り上がるのはやめてほしい。闇使とはそんな仲になりえないのに…。
そう、なりえないんだ…。
自分で再確認して落ち込む。
もう誰でもいいからこの気持ちを切り取ってどこかに捨ててくれないものだろうか。そうしたらもっと楽になれるのに。
「なんの話をしているのだの」
「やだあ、闇使君てば」
人を置いて盛り上がる。楽しそうなのはいいけど、あたしはついていけない。
何故か闇使はあたしの後ろに座る。横に来たら? と美鈴さんが言ったけど「妙子の側にいたいのでの」と堂々と言いのける。
二人は黄色い悲鳴を上げていたけど、こっちは心臓がバクバクだ。
そんな、期待を持たせるようなことは言わないでほしい…。
いつものようにバスに乗って座席に着く。
「寄りかかってよいぞ」
「うん…」
心臓がドキドキするけど、ある意味自然に闇使に触れられる口実である。それに男の人ということもあろうか、とても寄りかかりやすい。
そっと頭をもたれかける。がっしりした肩は寄りかかるのに丁度いい。
疲れもあってすぐに意識が落ちかける。
(闇使さんの匂い…クロに似てるなぁ…)
猫と人なのだからまったく同じわけがないのだが、闇使の匂いに触れるとクロを思い出す。
(クロ…。どこにいるんだろう…)
常識的に考えてひと月以上帰ってきていないのだ。魔物か人かに殺されていても不思議はない。
(こんなことなら、家から出さない方が良かったかなぁ)
何かあった時にすぐに逃げられるようにと外に出していた。いつも夜には帰ってきて、一緒の布団で寝ていたのに。あのぬくもりが恋しい。
(闇使さんがいなかったら、あたし、ひとりぼっちになってたんだ…)
クロがいなくなった日から闇使が側にいてくれている。だから妙子はギリギリ折れないでいられている。
(でも、闇使さんは…)
記憶を取り戻したら、どうなるか分からない。その先は考えたくもない。
バスの揺れが睡魔を誘う。妙子は思考を放り出して睡魔に身を委ねた。
「うわ!」
大きな声と、急ブレーキの音。体が前に投げ出されそうになったのを、すかさず闇使が支えてくれた。
腕が体に回されている。妙子よりも逞しく太い腕だ。
(違う違うそっちじゃない)
思考がどうしても闇使寄りになってしまう。しかし今は大きな声と急ブレーキの原因を知らなければならない。
なんだ、どうしたと声がざわめく。
妙子もどうして急ブレーキがかかったのかと、首を伸ばして前を見る。
「おーい。何やってんだよ」
焦れた一人が運転手に向って声をかけた。
「静かに! 気づかれる!」
運転手の緊迫した声が聞こえた。
「ひ!」
前の列に座る者から小さく悲鳴が漏れた。
「ま、魔物…」
その単語が聞こえた途端、バスの中に緊張が走った。
「だ、だめだ…。気づかれてる…」
運転手の絶望的な声が聞こえた。バスの通りは安全なはずだったのに、何故魔物が?
「なんでこんなところに…」
誰かの呟きが聞こえた。
「うわあああああ!!」
運転手の絶叫に続いて、フロントガラスが割れた音がした。運転手の声が遠ざかる。
何が起こったのかと妙子も首を伸ばして前方を確認する。そして見えてしまった。
「たす、助けて…」
運転手の体が地面に叩きつけられる。ぐったりとなったその体を、魔物が口を大きく開け…。
「!!」
その先は見ずとも分かる。妙子は顔を伏せた。
「今のうちだの! バスから出るのだ!」
闇使の声が響く。そうだ。逃げなければ捕まってしまう。
「急げ! バスに閉じ込められたら終わりだの!」
バスの中がパニックになったのが分かった。皆急いでバスから降りようと出口に向かいだす。これではとてもじゃないが降りられない。
「窓だ! 窓からでも出られる!」
闇使の声に幾人か冷静になったのか、窓を開けてそこから体を押し出していく。
「妙子、我が輩たちも窓から出るぞ」
「あ、闇使さん…」
魔物の恐怖で体が強張っている。構わず闇使が妙子の横の窓を開けてくれた。
「我が輩が先に出る。妙子、続くのだぞ」
なんとも身軽に闇使が窓から飛び出した。
「妙子!」
闇使の声に励まされて、妙子も強張る体に活を入れ、窓から体をのり出す。逃げなければ命はないのだ。
お尻が引っかかったらどうしようなどと、こんな時にアホな心配をしてしまう。胸がつかえる心配は残念ながらまったくない。頭から落ちそうになったが、闇使が受け止めてくれた。
「物陰に隠れて様子を見るのだの。走るぞ」
手を掴まれて走りだす。早すぎて足がもつれそうになる。しかしゆっくり走ってなどいられない。
だがしかし、急に足が何かに引っかかり、転んでしまう。
「きゃあ!!」
闇使と手が離れてしまった。初めて手を繋げたのに、その感触を味わう暇もない。
「闇使さん!!」
「妙子?!」
体が恐ろしい力で引きずられていく。その先に何があるのかは見なくとも分かる。
(死にたくない!)
恐怖が体を満たす。
「此奴! 妙子に何を!!」
闇使が今までに見たことがない恐ろしい形相を浮かべると、地面を蹴った。
視界から闇使の姿が消える。
(え? どこ?)
引きずられながら闇使の姿を探すが、ない。
(やだやだ! 助けて!)
魔物の手が上がり始めるのが分かった。
先ほどの運転手の光景がちらつく。自分もあんな風に地面に叩きつけられるのだろうか。それとも…。
「たす…」
声がうまく出てこない。周りに人影もない。
(闇使さん!!)
ドゴオ!!
背後で何か重いものが落ちたような音がした。途端、魔物の手から力が抜けていく。
(何? 何があったの?)
妙子が体を起こして後ろを見ると、魔物が淡い光を放ちながら消えていくところだった。
「妙子! 大丈夫かの?」
闇使が駆け寄ってくる。その姿に安堵を覚える。
「あ、闇使…さん…」
この人がいれば大丈夫。そう思えた。以前にも同じように助けてくれた。闇使は確かに自分を守ってくれるのだ。
闇使に支えられて座り込む。恐怖が抜けきっていないのか、足が震えて力が入らない。
それを見た闇使が言った。
「すまぬ。ここで少し待っていてくれ。あちらを片付けてくるでの」
「闇使さん…?」
妙子とて分かっている。バスの向こうでまだ別の魔物が動いている。あれを退治しなければ、他の人達が食われてしまうし、安全を確保できない。
分かっているのに、離れたくなかった。置いて行って欲しくなかった。行くなら連れて行って欲しかった。
ただの我儘だと分かっているのに。
「待って…」
妙子が言う前に闇使は駆け出して行く。
その後ろ姿はまるで、記憶を取り戻して妙子の元から去っていくように見えた。
分かっているはずだった。分かっているはずだったのに。
感情がついてこない。ただの我儘の被害妄想だと分かっているのに、押し込めて押し込めて蓋をしてきた気持ちが溢れて、止められなくなっていた。
その気配を感じ取っているのだろう。闇使も気まずいようでよそよそしい。
結局あれからまともに口もきかず、目も合わせず、家に帰ってきた。
家に帰りついてほっとしたのか、体がふらついた。
「っ、妙子…」
闇使が支えようとしてくるのが分かった。
「触らないで!」
自分でも驚くほど鋭い声が出た。
違う。そうじゃない。そうしたいわけじゃない。
助けてくれてありがとうと言いたい。今日は疲れたねと笑いあいたい。いつもと同じように過ごしたいのに、一度暴れだした感情がそれを許してくれない。
部屋に入ると力が抜けた。床にペタリと座り込む。
これ以上醜い姿を晒したくない。自分のことなど放っておいて、部屋で休んでくれたらいいのに。
だけど分かっている。闇使はそんなことはしない。優しい人だから。妙子を大切に思ってくれているから。
「妙子」
「気安く名前を呼ばないでよ!」
違う。こんなことが言いたいんじゃない。
抑えられない。闇使が好きだという感情が溢れ出している。そして、いつかいなくなるという恐怖が心を蝕んでいる。
あっちへいって。放っておいて。
しかし心の声は闇使に届かない。
「す、すまぬ…。我が輩、何かしただろうか…」
声音に悲しみの色が混ざっているのが分かった。
違う。傷つけたいんじゃない。悲しませたいんじゃない。それは自分だけでいいんだ。
だけど口から出てくる言葉は、妙子の考えとは反対のものが出てくる。
「どうせ…でしょ」
「ぬ?」
「どうせ! 記憶が戻ったら、あたしの前から消えるんでしょう!!」
「?!」
不安。
多分この感情は不安から来ているのだ。闇使と妙子の間には確かなものがない。時が来ればきっと闇使はあっさりと妙子の前から消えてしまう。それが怖い。
「だったら! 期待なんかさせないでよ!! 優しくなんてしないでよ!! こんな、こんな思いするなら、いっそ何も知らない方が良かった!!」
この感情を知らなければ、自分はこんなにも不安になることはなかっただろうか。こんなに傷つくことも、傷つけることもなかっただろうか。
傷つけたくないのに、言葉が止まらない。
「妙子、何を言っているのだの…」
「触んないでったら!!」
肩に手を置こうとしてきた闇使の手を乱暴に振り払う。体を捻った反動で、闇使と目が合った。
黒く深い瞳。そこに映る今の自分の姿は醜い。
「分かってるわよ。あたし、そんな美人じゃないし、可愛くもないし、女として魅力がないなんて…。でも、大事な人とか、守りたいとか、そんな言われたら、いくら鈍感でも、勘違いしちゃうじゃない…」
するすると言葉が出てきて止まらない。闇使が悲しそうな顔をしている。そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
「もうやめて。期待させないで…。疲れるの…。どうせ叶わないって分かってるの…。だから、もう優しくしないで…」
優しくしないで。どこかへ行って。こんな醜い私を見ないで。
視線を外して床に落とす。
惨めだった。とても惨めだった。自分のような平々凡々な者が、高嶺の花を手に入れたいと思ってしまった。絶対に手に入らないと分かっているのに。それでも惹かれてしまう心を止められなかった。
もういらない。こんな感情はいらない。どこかへ捨ててしまいたい。
「妙子、すまぬ…。すまぬ…」
闇使が手を伸ばしてくる。
「触らないでよ!」
違う。触れてほしい。いや、ほしくない。
もう自分がどうしたいのかも分からない。
「お主の想いには気づいていた。しかし我が輩はそ知らぬ振りをしていた。まことに申し訳ない…」
「もうやめてよ。もう何も聞きたくない…!」
大切な存在なんて言わないで。
好きという気持ちを気づかせないで。
妙子は耳を塞ぐ。
それで自分の感情に蓋をするかのように。
「妙子。今までの非礼は詫びる。お主を傷つけるつもりはなかった。だが結果としてお主を傷つけてしまった。許してくれ。我が輩が愚かだったのだの」
闇使の悲痛な声が手の隙間から聞こえる。だがもう何も聞きたくない。
「妙子、頼む。許してほしいのだの。我が輩にできることならなんでもする。だから…」
黒い感情が沸いた。自分は醜い。汚い女だ。
だけどもうそれもすべて知られてしまった。もういい。何もかもどうでもいい。
こんなことを言ったら本当に嫌われてしまうかもしれない。でももう、どうでもいい。
「本当に、なんでもするの?」
「できることなら」
「だったら、あたしを抱いてよ」
受け入れられないことなど分かっている。
卑怯だということも分かっている。
言いながら自分を傷つけて、闇使も傷つけている。
でももう止まれない。
「できないでしょ? ほらね? 結局口だけじゃない。なんでなんとも思ってない女なんか、一番大切だとか守りたいとか言えんのよ。あんたにとってあたしは、いったいなんなのよ! もう放っておいて!」
このまま闇使は消えてしまうかもしれない。
でももうどうでも良かった。
こんな醜い自分を知られて、今までのように笑うことなどできない。
いっそ消えてしまえばいい。そうしたら、こんな醜い自分ともおさらばできる。
「妙子」
闇使が強く両肩を掴んだ。
「っ、痛い…」
びっくりして声が漏れる。
「抱けばよいのだな?」
「え…」
「お主を抱けば、許してくれるのだな? 今までのように、傍にいてよいのだな?」
闇使の瞳にも不安げな色が浮かんでいた。
どうして? こんな醜い自分を見て、何故抱きたいと思える?
そんなお義理で関係を結びたいわけじゃない。本当は心からこちらを向いてほしい。
しかし、妙子の口から出てきたのは、
「うん…」
肯定の言葉だった。
お読みいただきありがとうございます。