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第五部 奥州合戦終結

 ニーアル・ファーガソン氏はその著書「大惨事カタストロフィの人類史」(東洋経済新報社・二〇二二年)において、軍事的無能の徴候として以下の傾向を挙げている。

 人員やその他の資源を浪費する。過去の経験の恩恵を受けることのないまま、時代遅れの伝統にしがみつく。利用可能なテクノロジーを誤用したり、使用するのを怠ったりする。自分の先入観を相反する情報を拒絶したり無視したりする。敵を過小評価し、味方を過大評価する。意思決定者の役割を放棄する。特定の戦略にこだわり、それに不備があることを示す有力な証拠があっても方針を変えない。徹底的に攻撃する代わりに手を緩める。偵察を怠る。正面攻撃を命じる。それも、敵の最も強力な箇所に対してそうすることが多い。奇襲や策略よりも強引な方法を好む。失敗や敗北に際しては他人に責任を負わせようとする。前線からの知らせを隠したり歪めたりする。運や巡り合わせといった神秘的な力を信じる。

 何とも辛辣な言葉の羅列であると同時に、一つ一つは軍事的無能の特徴として理解できる傾向でもある。だが、ファーガソン氏はこうした羅列を軍事的な問題として挙げたのではない。そもそもこうした羅列はファーガソン氏の創作ではなくノーマン・ディクソン氏が一九九四年に著した作品の引用である。ファーガソン氏がどういった理由でディクソン氏の著作から引用したのかというと、軍事的無能ではなく、政治的無能の徴候として挙げたのである。このような人物が軍勢を指揮すると大敗するとした延長で、このような人物が政治的トップに立つと国家は貧困と飢饉に見舞われると述べるための引用である。

 何度も記しているが、源頼朝という人は、武人としては三流でも政治家としては超一流である。そして、ファーガソン氏が挙げた軍事的無能の兆候を源頼朝に当てはめて考えると、何一つ合致しないことが理解できるであろう。源頼朝という人をどんなに低く評価する人であろうと、この人に無責任や怠慢といった悪評を下すことはできない。それなのに源頼朝が武人として三流であったのは、戦場で求められる能力を持ち合わせていなかったからであり、軍勢を指揮して行軍することも、戦場と無縁であるならば単なる集団移動となる。それならば政治家としての源頼朝がその本領を発揮するところだ。

 この時点で大手軍の軍勢はおよそ二万五〇〇〇を数えたとあり、何かと数字を誇張することの多い平家物語と違って現実的な数字であろう。二万五〇〇〇もの軍勢を指揮するのは軍事的才能よりもむしろ政治的才能を必要とする。

 源頼朝の率いる大手軍が最初に奥州藤原氏の軍勢と対峙したのは、文治五(一一八九)年八月七日のことである。場所は、陸奥国伊達郡国見宿駅、現在の福島県伊達郡国見町、東北自動車道の国見インターチェンジのあたりである。

 国見宿駅に到着した大手軍はここで、奥州藤原氏が防衛線を築いているのを目の当たりにした。奥州藤原氏もさすがに無為無策で時間を浪費したわけではない。鎌倉方が南から攻めてくると考えるのは当然であるし、地の利も奥州藤原氏側にある。どこに防衛線を築けば最善であるかわかるし、いくらこの時代の土木技術が現在と比べ物にならない程度であろうと人海戦術を駆使すれば防衛線の構築は可能だ。


 その結果が、厚樫山山麓から阿武隈川までの総延長およそ三キロメートルに亘る長大な防衛線であった。幅一五メートルほどの堀を掘削して阿武隈川の水を引き込んでいた上、堀を越えても藤原国衡率いる平泉方の二万の軍勢が大木戸に控えているから、この防衛線はそう簡単に突破できるものではない。しかもこの堀は二重にも、場所によっては三重にも掘削されていたから防御力はそれだけ高まる。なお、藤原泰衡も平泉を出てはいたものの、戦地ではなく多賀城で待ち構えていた。戦場から離れた安全なところにいたというよりも、どのようなルートで来るかわからない鎌倉方の軍勢の進撃について、太平洋に沿いに来るのか、それとも東山道で来るのかを把握できなかったといったところであろう。平泉までのルートが複数あるとき、可能性の高い東山道、現在の東北新幹線沿いのルートは武人の誉れの高い兄に託し、可能性の低い太平洋岸、現在の常磐線沿いのルートは自分が引き受けるというのは間違った選択とは言えない。

挿絵(By みてみん)

 平凡な武人が相手であればこの防衛線で進撃を食い止めることが可能であったろうし、食い止めることに失敗したとしてもかなりの日数を稼ぐことができたはずだ。ここでいう平凡な武人とは戦場において軍勢を指揮する源頼朝も含まれる。

 だが、ここでの源頼朝は、防衛線に向かい合う軍勢を指揮する武人ではなく、より広範囲を観察させる政治家であった。いかに堅牢な防衛線でも無限に広がっているわけではない。防衛線のゴールである阿武隈川も渡って渡れないことはないが、水量を考えれば容易には渡れないし、遮るもののない平原であるために遠回りをするのが丸見えである。しかし、防衛線のスタート地点である厚樫山はたかだか標高二八九メートルの低い山である上に、山の頂上まで登らなければ防衛戦の後ろに回り込めないなどということはない。おまけに、厚樫山そのものが視線を遮るため厚樫山の南西で何をしているかを平泉方から見ることは難しい。また、幅の広い堀が掘削されていようと、人工的に掘削された堀が相手ならば人間の手で埋め戻すこともできる。いかに総延長およそ三キロメートルという長さを誇ろうと、軍勢が防衛線を突破できるだけの余地があればいいのだから、一箇所ないし複数箇所に人員を集中させて堀を埋めればいい。

 大手軍の先陣を畠山重忠が務めていたのには理由がある。畠山重忠の武人としての能力を買ったこともあるが、それより重要な点として、畠山重忠のもとにはこの時代の技術としては最先端の技術を持った土木工事集団がいたのである。吾妻鏡にはその人数およそ八〇名とあるから人海戦術で堀を掘削した奥州藤原氏と違って土木工事のスペシャリスト達の指示に基づく短時間での効率的な工事が展開されたとすべきか。

 源頼朝は堀を埋めるように命じると同時に、防衛線を迂回して敵陣を後方から攻撃する部隊を編成させて出陣させた。

 文治五(一一八九)年八月八日、阿津賀志山の戦いが始まった。阿津賀志山とは厚樫山の異表記である。


 文治五(一一八九)年八月八日の早朝と同時に鎌倉方の軍勢が目のしたのは、厚樫山の前に金剛別当秀綱が軍勢を強いている光景であった。

 鎌倉方の軍勢は、畠山重忠、結城朝光、加藤景廉、工藤行光らが率いる軍勢が先行して合戦開始を告げる鏑矢を飛ばし、ここに先頭の火蓋が切って落とされた。

挿絵(By みてみん)

 吾妻鏡の記載によると弓矢に始まる戦闘は馬を走らせての突撃となり、およそ四時間の戦闘の後に情勢は鎌倉方に優勢となって、厚樫山の前に陣取っていた金剛別当秀綱は藤原国衡のいる大木戸へと退却していった。皮肉にも掘削していたはずの堀が埋められていたために堀に邪魔されず移動できたのである。また、堀には阿武隈川の水を引き入れていたが、いかに深く掘っていても堀全体に阿武隈川の水を引き入れることが成功していたわけではない。水は高いところから低いところに流れる。山の麓であるために標高が他よりも高い厚樫山の近くは阿武隈川から引いた水に量が少ないために堀を埋めるのもさほど困難ではなかった。

 これにより厚樫山が鎌倉方の手に落ちて防衛線の一端が崩れたと同時に、鎌倉方は高所からの攻撃が可能となった。ただし、鎌倉方の行動は厚樫山の制圧でこの日は終わった。戦闘状況は鎌倉方優勢となっていたものの損害も大きく、これ以上の深追いはできなかった。

 日が変わって八月九日は静寂な日となっていた。あるいは、前日の戦闘が鎌倉方にも平泉方にも大きなダメージとなっていたとも言える。また、戦場に陣を敷いて戦いに臨むというのはそれだけで時間が掛かるものである。陣を敷き終えた後で相互に向かい合って攻撃のタイミングを見定めるのであるが、攻撃のタイミングがやってこないとなると双方とも戦闘をしないままで日没を迎えることも珍しくない。八月九日はこうして一日が過ぎていったのであるが、同時に、翌日以降の作戦を練る時間が双方に提供されたとも言える。相手がどのように陣を敷くかによって相手の作戦を見破り、相手の組織体制を見定めるのは戦闘において珍しいことではない。

 厚樫山を奪われてしまった平泉方は、厚樫山を失ったことは痛事ではあるが挽回の余地があるとも考えた。源頼朝が参陣してはいるものの実際の戦闘は畠山重忠が執っており、陥落した厚樫山から畠山重忠の率いる軍勢が攻め込んでくると考えて軍勢を畠山重忠と向かい合うように移動させるようにしたのである。ここで畠山重忠を討ち破って厚樫山を奪還し、逆に源頼朝の側面を突けば情勢を一気にひっくり返すことができる。

 一方で鎌倉方の軍勢は夜になって作戦を発動させた。夜が明ける前に厚樫山を越えて平泉方の側面を突くよう、葛西清重、三浦義村、工藤行光、工藤祐光、狩野親光、藤澤清近、河村季清の七名に命じ、この七名の率いる軍勢は夜闇の中を移動して畠山重忠の軍勢を追い越し、藤原国衡が陣営を構える大木戸へと至った。吾妻鏡によれば自分達を追い越すことに畠山重忠の軍勢の中から不満が漏れたが、不満の声を畠山重忠が抑えこんだとある。

 文治五(一一八九)年八月一〇日、厚樫山を超えた軍勢は夜が明けたと同時に大木戸へと襲撃を仕掛けた。厚樫山の上だけでなく横を通って襲撃してくることを予期はしていた平泉方であるが、主力はあくまでも厚樫山からの襲撃であると考えており、側面からの襲撃についてはさほどの軍勢を割り当てることができなかったこと、また、前日の金剛別当秀綱率いる軍勢の受けたダメージの大きさから回復できずにいたこともあって、奮闘するも鎌倉方に圧倒されて平泉方の多くの兵士が戦場に倒れていった。


 さらに平泉側によって不都合な事態となっていたのがこの日の天候である。朝から霧が出ていたのだ。視界が悪くなり鎌倉方がどのような規模でどのような攻撃を仕掛けてくるかわからないのである。

 霧がだんだんと晴れてきたとは言え完全な視界ではないというタイミングで、畠山重忠の率いる軍勢が山を降りて大木戸に突入していった。平家方は軍勢の大部分を正面に配備していたものの、側面からと正面からの二方面攻撃は平泉方を苦しめた。

挿絵(By みてみん)

 源頼朝は自分の率いる軍勢を厚樫山へと向かわせることで厚樫山をこの戦いの本陣とすることを示した。霧が晴れてきた頃の平泉方が目の当たりにしたのは厚樫山の山頂が鎌倉方の軍勢に制圧されていること、そして、厚樫山から鎌倉方の軍勢が次々と大木戸の平泉方の陣へ攻撃を仕掛けてきていることであった。

 厚樫山の奪還どころか鎌倉方の軍勢の総攻撃の前に敗北を悟った平泉方は全軍退却を指示するが、指揮官たる藤原国衡が軍勢を統率することもできない混乱状態になってしまった結果、作戦としての退却ではなく、敗北の末の敗走になってしまったのだ。金剛別当秀綱らが陣に留まって総大将らが敗走できるだけの時間を稼いだが、平泉方にできた抵抗はそれだけであった。

 金剛別当秀綱は小山朝光に討ち取られ、息子の須房太郎秀方も工藤行光に討ち取られて戦地に散った。

 藤原国衡は弟のいる多賀城方面ではなく、より安全であると考えた出羽国へと向かって敗走していったが、その藤原国衡を和田義盛率いる軍勢は追いかけていった。和田義盛は自分達が追いかけているのが藤原国衡であるとはわからなかったが、平泉方の軍勢の中の有力人物であることはわかった。

 自分のことを追いかけてくる軍勢があると気付いた藤原国衡は、その軍勢と向かい合うこととした。厚樫山では軍略と数の力で敗れたがここではそのような差などない。まともに向かい合えば勝てる可能性がある。吾妻鏡の伝えるところによると互いに弓矢を構えて矢を放ちあい、和田義盛側の放った矢が藤原国衡の左腕を射貫いたところで藤原国衡は再び逃走を図ったものの、そのときに畠山重忠の率いる軍勢がやってきたために道を外れて田畑の中を突っ切っていこうとしたために馬がぬかるみにはまり、身動きできなくなったところを討ち取られたとある。

 翌八月一一日、平泉方の軍勢の中でトップクラスにある人物の首が源頼朝の元に献上され、併せて、その首が藤原国衡のものであること、藤原泰衡が多賀城にいることも源頼朝に伝えられた。源頼朝は全軍を率いて藤原泰衡を討伐するために軍勢を一気に北上させることにした。厚樫山から多賀城までは、関東だと鎌倉から浦和まで、関西だと神戸三宮から京都駅までほどの距離であり、かつ、飛鳥時代には既に整備されていた東山道を北上するだけで到着する位置にある。いかに大軍を率いていようと移動するのに困難となる行軍路ではない。

 一方、多賀城で軍勢を構えていた藤原泰衡のもとに飛び込んできたのは、藤原国衡率いる軍勢が敗れ、厚樫山の防衛線が突破されて鎌倉方の軍勢が東山道を北上しているという知らせである。藤原泰衡は多賀城を出て平泉へと逃れていった。

 藤原泰衡は平泉に到着しても安心とならなかったばかりか、より悪い知らせに直面した。平泉に到着した藤原泰衡を待ち構えていたのは藤原国衡戦死の知らせである。


 文治五(一一八九)年八月一二日に出発した鎌倉方の一行は、八月一三日に多賀城に到着した。多賀城は陸奥国の国府のある地であり、行政上の陸奥国の中心地である。同日、千葉常胤と八田知家が率いて太平洋岸を行軍している東海道軍からの連絡も多賀城に到着した。皮肉にもこの連絡によって、厚樫山で藤原国衡が陣を設営し、多賀城で藤原泰衡が構えていたというのは戦略として間違っていなかったことが証明された。予想よりも早く厚樫山が陥落したために崩れてしまったが、二方面から攻め込んでくる軍勢に対して厚樫山と多賀城の双方で軍勢を待ち構えるというのは理に適っていたのである。

 ただし、予想よりも早く厚樫山が陥落しただけでなく、源義経亡き平泉方で唯一と言っていいほど軍勢を指揮する才覚を持った藤原国衡も命を落としたとなると、二方面に分かれて鎌倉方と対処していたことがかえってマイナスに働いてしまう。軍勢そのものが少ないために鎌倉方を待ち構えて戦場で迎え撃つという戦略を選ぶことができず、ただただ逃避行を続けるしかなくなったのだ。

 多賀城に入った源頼朝の元に飛び込んできたのは、藤原泰衡が多賀城から平泉に向かって逃走したという知らせである。多賀城から平泉までの距離は関東だと鎌倉から小山、関西だと明石から京都駅ほどの距離である。また、どんなに少なく見積もっても二万人以上の軍勢を率いている源頼朝よりはどうこうする人数が少なくて済む藤原泰衡のほうが素早く移動できる。二万人以上の軍勢の移動となると宿泊場所に加え食糧の用意もあり、また、疲労を考えるとここで無茶をさせるわけにはいかない。源頼朝は多賀城で一時的に留まって休息を取らせることとした。

 平泉で藤原泰衡が軍勢を再構築することは十分に考えられたが、それでも今ここで無理をさせるよりは被害が少なくて済む。ただし、多賀城で鎌倉方の軍勢が大人しくしていたとは言い切れず、源頼朝は畠山重忠に対して軍勢の狼藉を取り締まるよう命じている。

 八月一四日、多賀城で一時休息をしていた源頼朝のもとに、藤原泰衡が船迫(ふなばさま)(現在の宮城県柴田郡柴田町)に籠もっているという知らせが届いたが、この知らせには疑問点があった。多賀城から平泉に向けて逃走したはずなのに逆方向であるため怪訝な知らせであったが、無駄な情報ではなかった。藤原泰衡自身が船迫に籠もっているという知らせは虚報であったものの、多賀城と厚樫山との間の中間地点である船迫(ふなばさま)に藤原泰衡の命令で陣地が構築されていたこと自体は正しかったのである。船迫(ふなばさま)を無視すると鎌倉方の軍勢が挟み撃ちになることから小山朝政に命じて捜索させたところ、藤原泰衡はたしかに船迫(ふなばさま)まで来たものの、陣地を見捨てて平泉に向けて逃走して今の船迫(ふなばさま)は五〇名ほどが取り残されているだけであったことが判明した。

 船迫(ふなばさま)に残されていた平泉方の兵士は、ある者は小山朝政の軍勢に抵抗して殺害され、ある者は捕虜として拿捕された。船迫(ふなばさま)が鎌倉方のもとに陥落したことで多賀城に留まる源頼朝らの軍勢の安全は向上した。


 鎌倉方の奥州遠征は、源頼朝の率いる大手軍と太平洋岸を進軍してきた東海道軍の他に、日本海岸を行軍する北陸道軍がある。現代の日本で関東地方から新潟県に行くのは、高速道路にしても鉄道にしても群馬県から直接新潟県へと入るのが一般的であるが、この時代、関東地方から越後国に向かうとすれば上野国から直接越後国に行くのではなく、いったん信濃国を経由するのが普通である。というより、三国峠や清水峠を越えて越後国と上野国との間を行き来すること自体が上杉謙信の登場まで待たなければならない話なのである。無論、大規模な行軍が上杉謙信を待つ必要があるというだけで、個人的に越後国と上野国との間の峠を越えること自体は古代から存在していたが、夏は集中豪雨に見舞われることが多く、冬は豪雪が日常であるという地点を行き来するのはちょっとした冒険行であり、一般的な交通路とすることは困難であった。

 そのため、現在の感覚で行くと、北陸新幹線で長野駅を経由して上越市まで行き、越後国府の置かれている直江津を経由し、それからは日本海沿岸を北上するというルートになる。さらに言えば、北陸道軍における新潟はゴールではなく、進軍路である出羽国に向かうための途中地点だ。

 比企能員と宇佐見実政が指揮する北陸道軍は二重のハンデを背負った行軍を余儀なくされていたことになる。一つは既に述べた行軍路の長さ、もう一つは平家方の残党がまだ残っている可能性が高いことである。

 ところが、北陸道軍は想定以上に素早く行軍できていたのである。もともとの軍勢規模が大手軍よりも少人数であるために素早い移動が可能であったこともあるが、ハンデの二番目として懸念されていた平家方の残党に全く出会わなくて済んだのである。

 吾妻鏡に残る北陸道軍の最初の戦闘記録は文治五(一一八九)年八月一三日、場所は念珠関(ねずかせき)、すなわち越後国と出羽国の国境である。鎌倉を出発してから関東地方を出て信濃国を経て越後国の北端に至るまで北陸道軍は全く抵抗に遭わなかったこととなる。源平合戦期の越後国は平家方である城一族が一大勢力となっていたが、今やその片鱗も確認できなくなっていた。また、念珠関(ねずかせき)で戦いがあったこと、藤原泰衡の郎従である秋田致文らを討ち取ったことが記録に残っているものの、戦いについての詳細は残っていない。記録が残っていないのではなく、記録を残すほどの戦闘ではなかったということであろう。

 越後国で城一族の勢力の片鱗も確認できなくなっていたのは簡単で、城一族の当主である城長茂が平家方であったために鎌倉方に捕らえられて梶原景時のもとに預けられる囚人となっていただけでなく、文治五(一一八九)年時点では鎌倉方の軍勢の一員として大手軍の一部を為すまでになっていたのである。絶大な勢力を築いていた城一族の当主が源氏の一員として平家の赤旗ではなく源氏の白旗を掲げるようになったという知らせ、そして、時代の趨勢は越後国をはじめとする平家方の残党の残る地域に一つの答えをもたらした。源氏の白旗を掲げ、源氏の一員であると宣言するのだ。そうすれば少なくとも鎌倉方から軍勢を差し向けられることはなく安全な日々を過ごせるし、鎌倉方が軍事行動に出るときに同行すると申し出れば、かつて平家方の一員であったという過去を白紙にした上でこれからの時代の勝者として勢力を築き上げることも不可能ではなくなるのだ。

 ただ、ここで一つの問題が起こった。源平合戦期は平家の赤旗と源氏の白旗とで分かれていたので見分けがついていたが、誰もが白旗となるとかえって見分けが付かなくなる。そこで、この頃からそれぞれの家の紋章である家紋を白旗に付加して相互に見分けがつくようにすることが普通になってきた。


 文治五(一一八九)年八月二〇日、鎌倉方の軍勢が多賀城を出発して平泉に向けて出発した。ただし、平泉に直行するのではなく平泉に至るまでの途中の陣地を攻略しながらの行軍を予定していた。

 攻略対象となる陣地の第一段は、現在の宮城県大崎市にあったとされる多加波々城であり、源頼朝の率いる軍勢は多加波々城に向けて進軍していたが、多加波々城は攻略対象にならなかった。藤原泰衡は早々に多加波々城を放棄していたからである。悲惨なのは多加波々城に残されていた兵士達である。彼らは鎌倉方の軍勢の前に抵抗するどころか鎌倉方に対して無条件降伏するしかなかった。

 その後も鎌倉方の軍勢は北上して平泉へと向かうことにしたのだが、ここで源頼朝は一つの厳命を出した。奥州藤原氏が多加波々城を早々に放棄したのは、鎌倉方に対して戦意を喪失したからではなく残る軍勢を平泉に結集させているからであるとし、これから平泉に向かうのにあたっては決して隊列を崩してはならず、抜け駆けをしてはならないという厳命である。

 現実問題として抜け駆けは難しいものがあった。他の武士達からの相互監視が効いていることもあるが、天候がかなり悪化していることもあって行軍そのものが難しくなっていたのである。

 天候悪化は鎌倉方だけでなく迎え撃つ平泉方でも同じ条件であるが、鎌倉方には平泉方には存在しない一つのハンデがあった。これは古今東西変わることのない侵略者に共通するハンデであるとも言える。

 侵略者が背負うこととなるハンデとは、攻撃側が守備側の三倍の戦力を必要とするということだ。侵略を受ける側は地の利を全て理解している場所での防衛戦である上、侵略を食い止めるための防衛ラインを構築していることが普通だ。また、侵略される土地に住む住人も兵力として計算できる。実際に武器を持って戦うのでなくても、柵を築き、食糧や武具を運び、負傷兵を介護する人員として計算できる。ただでさえ三倍の戦力が無ければ侵略できないのに加え、これから攻め込もうとする土地は奥州藤原氏の本拠地にしてこの時代有数の大都市でもある平泉である。

 平泉は天然の要害では無い。北上川の西岸の台地に広がる都市である。台地、すなわち周囲より少し小高い土地であるため北上川の水量が増して洪水となったとしても、北上川の水は東岸に溢れて平泉のある西岸は水害から守られるが、外から攻め込んでくる軍勢に対して何かしらの防御態勢を選ぶことができるほどの高さではない。ただし、平泉市街地の中心を離れると中尊寺や毛越寺といった山麓の寺院が姿を見せるので、都市平泉全体を囲って防衛戦を挑むのは断念したとしても、山麓の寺院を城塞として抵抗を見せることは考えられる。

 これを攻め込む側から考えると、平泉の市街地でゲリラ的抵抗を見せる一般市民がいる上に、寺院の山頂の陣を築いて抵抗を見せる奥州藤原氏の面々という図式になる。包囲戦を仕掛ければ落とせるであろうが、包囲戦の最中に平泉に住む一般市民からの無秩序な抵抗はうけるであろうし、包囲網を完成させて平泉を陥落させたとしても、その間に生じる損害があまりにも大きすぎる。

 鎌倉方の軍勢は少なくても二万の兵力を数えるが、平泉とその周囲から人間を集めれば、老若男女問わずという条件が付くが最大で二〇万人を数えることとなる。二万の軍勢が束になっていなければ全滅となる可能性もあるのだ。

 翌八月二一日、朝から暴風の荒れ狂う天気の中を源頼朝の率いる軍勢が平泉に向かって行軍した。平泉に向かう途中で藤原泰衡の配備した陣地に籠もって抵抗を見せる平泉方の兵もいたが、兵の数はどこも少数で、真剣に向かい合うと言うよりも平泉までの時間稼ぎのための策略と見るべき規模の抵抗であった。藤原泰衡が陣地に配備した兵達は、討ち死にするか捕虜となるかのどちらかの運命しか残されなかったが、役目は果たした。


 平泉に到着した鎌倉方の軍勢は、想像していなかった、それも悪い方向に進んでしまっていた平泉を目の当たりにした。

 平泉にあった藤原泰衡の邸宅にして、奥州藤原氏が統治の拠点としていた平泉館が灰になってしまっていたのだ。平泉館を地形図で考えると台紙の突端にあるために理論上は山の上に築かれた城塞となる。また、発掘結果から平泉館の周囲には堀が張り巡らされていたことが判明しているため、平泉館に籠もればある程度は籠城戦も可能であったはずであった。とは言え、小規模の盗賊相手ならどうにかなる防衛機能であろうが、二万を数える軍勢相手に勝てるほどの籠城戦は不可能である。

 実際、鎌倉方の軍勢は、平泉館である程度の抵抗があるだろう、抵抗のメインは中尊寺や毛越寺といった山の上の寺院だろうと想定していたのである。そのため、鎌倉方は平泉での市街戦を前提とした行軍をした上で平泉にやってきたのであるが、市街戦以前に都市としての平泉が見捨てられたのを目の当たりにしたのである。しかも、藤原泰衡は平泉館に火を放って邸宅とともに運命を終えたのではなく、持ち運べるものは持ち運んだ後で持ち運べないものを全て焼き尽くしたのである。鎌倉方は侵略者として平泉にやってきたはずなのに、平泉の解放者となったのだ。平泉の住人はそれまで自分達を守っていたはずの奥州藤原氏が平泉から出て行ってしまって誰も守ってくれない都市となってしまったことを悟り、鎌倉方を迎え入れることで自分達の身を守ることにした。鎌倉方の軍勢もそのことを理解し、敵地に攻め込む軍勢ではなく、平泉をただの通過点としたのである。

 なお、吾妻鏡によると、平泉館を焼いたものの、倉が一つだけ焼けることなく残っており、牛王(寺院で宝物とすることの多い牛の腸内結石)、犀角(高価な漢方薬)、象牙笛や水牛角、紺色瑠璃笏、金沓、玉幡といった高級な調度品、金花鬘、蜀江錦の直垂、縫い目のない帷子といった最高級の武具、黄金細工の鶴の像、銀細工の猫の像、瑠璃の燈炉といった見るからに高値の品々が並んでいたほか、南廷、すなわちレンガの半分ほどの大きさの銀塊がおよそ一〇〇個あり、それぞれが金の器に盛ってあった。また、最上級の素材を用い、贅沢な刺繍を施した美しい衣服の綾羅錦繍にいたっては、そもそもこの世にそのような高級な衣服があったのことも知らなかったとして、とても書き出せるものではないとしている。なお、象牙の笛と縫い目のない帷子は葛西清重が、玉でできたの仏教の旗飾りの幡や金の華鬘は小栗重成が、それぞれ自分の氏寺に飾るためとして手に入れることを認めたとあるが、現在の考えで行くとこれは略奪以外の何物でもないとは言え、この時代では普通のことであったとするしかない。

 持ち運べないものは焼いたつもりであったが宝物庫でもあった倉が焼け残ったことで、鎌倉方の武士達には奥州藤原氏がいかに絶大な財力を築いていた存在であったかを目の当たりにした。と同時に、攻め込まれているはずの自分達の本拠地を守るでなく、また、その本拠地に住んでいる住民のことを考えるでなく、ごく一部の人達を除いてさっさと逃げ出したことに対する情けなさも痛感した。二年前に第三代当主藤原秀衡を亡くしたことで四代目当主に藤原泰衡が奥州藤原氏のトップに立ったことは誰もが知っている。その第四代トップがこの有様というのは、平泉方の面々に同情の気持ちすら湧き上がる。

 そして、鎌倉方に一つの意識を植え付けるに十分であった。我々は悪辣極まりない藤原泰衡を倒すという正義を遂行しているのだ、と。

 文治五(一一八九)年八月二三日、藤原泰衡が平泉から逃亡して行方不明となったことが正式に宣言され、都市平泉は鎌倉方の支配下に入ったことを伝える使者が京都に向けて出発した。

 とは言え、藤原泰衡が行方不明になっただけで戦いそのものが終わったわけではない。

 藤原泰衡の捜索範囲を平泉とその周辺から少しずつ拡大させていき、奥州藤原氏の関係者を見つけ出すことには成功していたが藤原泰衡を見つけ出すことはできず、戦闘が止んだものの戦争が終わったわけではないという状況が続いていた。


 見つけ出された奥州藤原氏の関係者の心情を支配していたのは失望である。藤原泰衡が源義経を殺害したこと、藤原泰衡の弟達の命を奪ったことは、納得できるものではなかったとは言え、奥州藤原氏が生き残るための選択だとして仕方無しに受け入れていたし、その選択が失敗に終わって戦争が避けられなくなったこと、平泉方として鎌倉方と真正面から向かい合うのも覚悟はしていた。藤原国衡が鎌倉方の軍勢の前に散ったことは受け入れねばならない悲劇の運命であるとして自分で自分を納得させていた。

 それなのに、いざ平泉に鎌倉方の軍勢がやってきたら、藤原泰衡は、持ち出せるものは全て持ち去り、これ以上持ち出せないとなったら邸宅に火をつけて、早々に逃亡してしまった。これではあまりにも無責任に過ぎる。市街戦を避けて一般市民の被害を可能な限り減らすという言い訳は通用しない。戦闘を避けるためならば藤原泰衡が鎌倉方の前に降伏すれば済む話だ。今は劣勢だが後になって挽回するつもりだという言い訳も通用しない。一緒に平泉を脱出した人があまりにも少ない。財産は持って逃げて人は置き去りというのでは挽回の片鱗にもならない。

 八月二五日、藤原基成父子が鎌倉方に捕らえられた。見つかった後で抵抗することもなく、武器を手にすることもなく降伏したのである。それまでの栄華が壊れたことへの無力感に加え、藤原泰衡に対する侮蔑のこもった憎しみの感情を隠せない様子であった。

 このときの藤原泰衡の逃走については、現代の発掘でも一つのヒントが出ている。

 平泉館は周囲に堀を張り巡らした建物であったことは記録にも残っているし、現在の発掘方も確認できている。そして、堀の底の部分からは当時の平泉館で使われていた日用品ならば数多く発掘されているが、存在していたはずなのに発掘数が極めて少ないのが二点ある。

 一つは高価な品。特に金銀の類。これは持ち去ったことが容易に推測できる。

 もう一つ不可解なのが、文書類。平泉館での行政事務や国外との交易に使用していたはずの文書類の発掘数があまりにも少ないのである。平泉はそこまで文書を使用することのなかった統治や交易をしていたのかと考えたくなってしまうほどだ。

 しかし、文書類が存在しないことは、業務に文書を使わなかったことを意味するのではない。そうではなく、何であれ文書を使うことが前提であったからこそ文書類のうち持ち出せるものは持ち出し、持ち出せないものは焼き捨てたとするのが正解であろう。実際、少し後の記録になるが、藤原泰衡は平泉からの脱出時、さらにはその後の逃避行時に文書類を残さないよう焼却してきたことが残されている

 その答えの一つとなるのが文治五(一一八九)年八月二六日のこととして吾妻鏡に残されている記録である。この日、藤原泰衡から源頼朝に向けて接触があったのだ。

 藤原泰衡から源頼朝に対して出された書状は以下の内容であった。

 源義経を平泉で匿っていたのは亡き藤原秀衡であり、自分はその息子であるが父の行為には何ら関与していない。その上、国家反逆者となった源義経を殺害して首を鎌倉まで届けたのであるからこれは褒賞を受けるに値する行為である。それなのに、このように侵略を受けなければならないことは納得がいかない。そのせいで生まれ育った土地を離れて山林で時間を過ごすまでになっている。陸奥国と出羽国は既に制圧された以上これ以上の軍事行動は不要であり、藤原泰衡は鎌倉方の御家人の一人に加えていただきたい、あるいは罪一等を減じて流罪としていただきたい。この許しをいただけるのであれば出羽国比内(現在の秋田県大館市)に返信を置いていただきたい。その内容次第では走ってでも投降する、というのが書状の内容だ

 この書状を目の当たりにした面々は、藤原泰衡は果たして正気なのかと疑ったが、源頼朝の回答は違った。返事を書いて比内に置き、返書を受け取りに来た藤原泰衡を捕らえよというのである。

 たしかに藤原泰衡の書いた書状は正気の沙汰ではない。しかし、文書主義のこの時代の統治に従えば、平泉と奥六郡に対する正式な統治権を持ち、藤原秀衡が持っていた東北地方の権利と権益を藤原泰衡が継承したこと、その文書を持参した上で源頼朝のもとに降伏すれば源頼朝は藤原泰衡の手にある文書に記された全ての権利と権益を継承できるのである。つまり、鎌倉方の軍事行動の目的は果たせるのである。

 もっとも、それを許すわけはない。失われた命の重さを全く理解していない藤原泰衡の提案はあまりにも無神経であり、鎌倉方の軍勢の動きは加速こそすれ遅くなることはなかった。

 それに、出羽国比内を指定したことも容認しがたいことがあった。なぜ容認しがたいことととなるのかは後述する。それこそが斬新なアイデアあるがために政治家として許されざる判断だったからである。


 このときの奥州遠征そのものは関東の武士達の間にとって栄光の歴史の再現という側面もあった。関東地方の武士達が思い浮かべる武士の歴史となると、平将門でも、平忠常でもなく、前九年の役であり、後三年の役である。源頼朝はそのことも理解しており、意図して祖先の栄光を蘇らせる動きを見せている。文治五(一一八九)年九月二日、平泉を出発した鎌倉方の軍勢は岩手郡厨川(現在の岩手県盛岡市)に向けて軍勢を進めることとした。厨川は一三七年前、源頼義や源義家といった源氏の祖先が前九年の役において安倍貞任を討ち取った場所であることから、源頼朝をはじめとする鎌倉方の軍勢にとっては祖先の栄光を蘇らせるに十分な場所であった。百年前、源頼朝曾祖父である源義家が戦勝を手にしながらも朝廷に疎まれ、ともに戦った仲間達に自分の所領を分け与えたという故事を知らない武士はいない。ただし、後に述べるように厨川に到着する前にもう一つの目的地に到着することとなる。それも、目的地である厨川よりも、もう一つの目的地のほうが滞在日数が長くなるという結果を伴う場所である。

 一方、前九年の役も後三年の役も関東にとっては栄光の歴史であるが、東北では微妙な歴史である。後三年の役の結果として奥州藤原氏が誕生し東北地方に平和と発展がもたらされたのは事実として受け入れなければならない。また、奥州藤原氏は東北地方の有力氏族である安倍氏と清原氏の双方の血筋を引く上に、藤原北家の血も引くという、東北地方に拠点を置いた在地の有力者たるにはこれ以上無い条件を兼ね揃えた氏族でもある。実際、ここ一〇〇年間の東北地方の歴史は栄光の歴史と言える。だが、突き詰めると東北地方在地の有力者が敗れた末に京都に連なる外部からの有力者がやってきて、平泉に拠点を築いて東北地方を統治するという構図でもあったのだ。

 そもそも平泉の位置も微妙なところであった。奥州藤原氏が平泉に拠点を築く前の東北地方の中心は、行政の上では陸奥国府のある多賀城であるが、経済の上では奥六郡であった。多賀城はあくまでも京都の朝廷の都合で設けられた拠点であり、東北地方在地の有力者にとっては多賀城よりも奥六郡のほうが重要であった。平泉は奥六郡の南端に作られた都市であり、平泉の北から奥六郡がはじまるとも言える。

 藤原泰衡は奥六郡を経由して出羽国比内に向かおうとしていた。源頼朝に宛てて出した書状の返信を出羽国比内で受け取りたいとしていたのもその例である。これを文字通りに捉えるとどうなるか?

 鎌倉方の軍勢が奥六郡を縦断することとなる。

 平泉に中心が移ったとは言え、奥六郡は東北地方において重要な経済拠点であり、奥六郡の産業生産性の高さは他の地域で代替できるものではない。

 つまり、藤原泰衡を追いかけるよりも先に、鎌倉方は豊かな奥六郡の処遇に追われることとなるのだ。奥六郡の所領を巡る争いが鎌倉方の間で繰り広げられることになれば、鎌倉方がそれで自滅するかもしれないし、自滅とまではいかなくてもそれなりの時間を鎌倉方は浪費することになり、藤原泰衡は逃走するための時間を稼ぐことができる。

 藤原泰衡は奥六郡を見捨ててまで命を長らえるための時間稼ぎを選んだのだ。

 しかし、藤原泰衡のこの判断を誰もが黙って受け入れているわけではなかった。

 文治五(一一八九)年九月三日に藤原泰衡が、贄柵(現在の秋田県大館市)において部下の手で殺害されたのだ。

 吾妻鏡は藤原泰衡を殺害した者の名を河田次郎と記している。次郎とあるのは本名ではなく次男という意味であり、本名はわからない。河田家は奥州藤原氏に仕える郎等の氏族であり、贄柵を根拠地としていたと推測されている。その自分のもとを頼ってきた藤原泰衡を河田次郎は迎え入れるのではなく殺害したとするのが吾妻鏡での記載だ。


 文治五(一一八九)年九月四日、源頼朝らは奥六郡のうちの一つである紫波郡に到着した。目的地である厨川までは一日もあれば到着できる地点である。

 紫波郡は奥六郡のほぼ中央に位置しており、紫波郡の中心都市と言うべき比爪(現在の岩手県紫波郡紫波町日詰)は奥六郡の中心都市でもあり、かつ、奥州藤原氏の支配地域においては、平泉、多賀城に次ぐ第三の都市でもあった。軍事的に考えれば厨川よりも比爪のほうが優先すべき制圧地点であるし、軍勢を抱え込んでおくことのできる都市の規模を考えても厨川より比爪のほうが優れている。それに、そもそも厨川の南にあるのが比爪だ。平泉から厨川に向かうとすれば途中で比爪を通るのは自然の流れである。

 この比爪の中心にあった比爪館を藤原泰衡は焼き払っていた。藤原泰衡の親戚でもある僧侶の俊衡法師は、源頼朝に対して、藤原泰衡が平泉から逃れてきて比爪に来たあと、比爪館を焼き払って北へと逃げていったことを伝えた。

 源頼朝は比爪の中央部にあり、基本的に平坦である比爪の市内の中では例外的に小高い丘になっている陣ヶ丘に陣を敷いた。陣ヶ丘には蜂神社が存在しており普段は地域の人に開放された宗教施設となっているが、地形そのものだけで考えると陣ヶ丘は周囲が平坦であるところに存在する小高い丘ということもあり、歴史上何度も重要な軍事拠点となっていた。史書に残るだけで記すと、斉明天皇五(六五九)年に蝦夷討伐に赴いた阿倍比羅夫が陣を築き、天応元(七八一)年には蝦夷討伐に赴いた道嶋嶋足(みちしまのしまたり)が陣を築き、延暦二〇(八〇一)年には蝦夷征討に赴いた坂上田村麻呂が陣を築き、康平五(一〇六二)年には前九年の役なおいて源頼義と源義家の親子が本陣として宿営した。また、発掘調査から後三年の役においても源義家が陣を築いていたことの遺構が発掘されている。

 こうした前九年の役と後三年の役の先例は源氏の栄光の歴史の再現でもあり、陣ヶ丘に陣を築くことは、戦略的効果は無論、心理的効果においても無視できぬものがあった。目的地である厨川に一刻も早く向かいたい気持ちもゼロではないが、比爪に留まることの必要性は誰もが理解できていた。

 この時点では鎌倉方の誰もが、藤原泰衡が部下に殺害されたことを知らないでいる。北へと逃れていった藤原泰衡を捜索するために三浦義澄、三浦義連、三浦義村の三名を中心とする小規模部隊を北へ派遣すると同時に、軍勢の大部分は陣ヶ丘を中心として比爪に留めることにした。

 そしてこれは、疲労と食糧補給を考えてのことであると同時にもう一つの目的もあった。ここで軍勢を結集させるためでもある。

 忘れてはならないのは、鎌倉方は軍勢を三つに分けて東北地方に進軍していたことである。そのうち、太平洋岸を行軍してきた東海道隊との合流は果たせたものの、日本海岸を行軍してきている北陸道軍との合流はまだ実現していない。そして、合流地点として想定したのが比爪である。都市としての歴史の浅い平泉と違い、比爪であれば日本海岸へ向かう道路も整備されている。現在の秋田新幹線の盛岡駅と秋田駅との間を想定していただければ、日本海岸を行軍してきた軍勢が出羽山脈と奥羽山脈をどのように横断してきたか想像いただけるであろう。源頼朝という人は、武人としては三流でも政治家としては一流だ。そして、一流の政治家は情報がやって来るのを待つなんてことはしない。自分から情報を集めようとするし、情報が無いなら情報が無いという情報を得ることも厭わない。

 源頼朝は北陸道軍がいつどこでどの地点を通過していたかを熟知していた。その上での決断が比爪での合流である。

 最初から北陸道軍と比爪で合流することを想定していたのではなく、北陸道軍の行軍路として想定していたのが最初から比爪を経由するルートであり、当初の予定では、北陸軍が比爪経由で平泉を北から攻めることで、南から平泉を攻めることとなる大手軍と歩調を合わせて南北から平泉を攻撃するというものであった。だが、藤原泰衡が早々に脱出してしまったために平泉を大手軍が通過することとなり、比爪で待ち合わせることが合流の最善のルートへと変更になったのである。


 北陸道軍の立場に立つと、長い行軍を経た上で味方と再会できるかどうかわらかないという行軍より、何月何日に比爪で大手軍と合流できるということが事前にわかっている行軍のほうが精神的に楽である。その上で、予定通りの日付に予定通りの場所で合流できれば他に言うことはない。

 比企能員と宇佐美実政の率いる北陸道軍は、予定通り九月四日に比爪で源頼朝率いる大手軍と合流することに成功した。吾妻鏡の伝えるところによると、出羽国の豪族が続々と北陸道軍に降伏し、参戦することとなったため、軍勢が二八万四〇〇〇騎にまで増えていたとある。さすがにこの人数は多すぎるが、出羽国の武士の多くが奥州藤原氏を見限って源頼朝のもとに参陣したことは十分に考えられる。

 そして、二八万という数字が誇張であろうと、また、いかに奥六郡が豊かな土地であろうと、このときの比爪はかなりの数の鎌倉方の軍勢が結集していたであろうことは容易に推測できる。比爪がどんなに歴史のある都市であろうと、大軍をずっと養い続けておけるほどの豊かさを持った都市ではない。そのため、鎌倉方の軍勢は早いタイミングで比爪を出陣しなければならない運命にあったのであるが、その運命は文治五(一一八九)年九月六日に突然終わった。

 この日、河田次郎が藤原泰衡の首を持って比爪の陣ヶ丘にやってきたのだ。

 梶原景時、和田義盛、畠山重忠が首実検をしたのち、捕虜にした赤田次郎を呼び出したところ間違いなく藤原泰衡の首であった。

 ただ、そのあと河田次郎は想像していなかった言葉を耳にした。

 藤原泰衡の首を持っていたのであるから報奨を以て迎え入れられるであろうと考えていた河田次郎であるが、源頼朝からは、既に藤原泰衡の運命は決まっていたとした上で、状況は理解できるが自分の主君を裏切って首を切り落として敵のもとにやって来るとは許されないことであるし、今後の見せしめとして斬首するとしたのだ。

 裏切りに対する源頼朝の姿勢は一貫している。「裏切りは好きだが裏切り者は嫌いだ」とはローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの言葉であるが、それは源頼朝も同じであったのだ。源頼朝は寿永二(一一八三)年九月にも足利俊綱の家臣である桐生六郎が足利俊綱を殺害して足利俊綱の首を持参したとき、敵を倒した桐生六郎を称賛するのではなく、主君を裏切った桐生六郎を許さず斬首を命じたのだ。

 藤原泰衡の首の運命は、前九年の役の再現であった。前九年の役で源頼義は安倍貞任の首を切り落として丸太に釘で打ち付けたが、このときの藤原泰衡も同じように釘で木に打ち付けての晒し首となったのである。吾妻鏡によれば、藤原泰衡の首を打ち付けるのに使った釘は安倍貞任の首を打ち付けるのに使った首と全く同じ大きさと長さの釘であったという。


 さて、藤原泰衡の首を河田次郎が持参したことについて別の視点からアプローチをした研究者がいる。岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンターの羽柴直人博士である。羽柴氏によると時系列的に無理があるという。

 藤原泰衡が平泉を出発したのは八月二一日であり、贄柵で殺害されたのは九月三日である。そして、河田次郎が藤原泰衡の首を持って比爪にやってきたのは九月六日である。贄柵から比爪まで一三六キロメートル離れており、三日で移動するのはギリギリである。吾妻鏡の記述によると藤原泰衡は贄柵に到着してすぐに河田次郎に殺害され、河田次郎は主君の首を討ち取った後に一三六キロメートル離れた場所に三日で移動している。これはかなりの強行軍だ。

 平泉から比爪までの距離はおよそ六〇キロメートルであるから、平泉を八月二一日に出発した藤原泰衡が比爪に到着したのは早ければ八月二三日頃であると推測できる。藤原泰衡が源頼朝に対して書状を送ったタイミングを考えると八月二五日から二六日ごろにはもう比爪を出て贄柵に向けて出発していなければならない。そう考えると、今度は時間が掛かりすぎている。比爪と贄柵とよ往復で、往路が八日で復路は三日というのはおかしな話である。

 しかし、こう考えると辻褄が合う。

 そもそも藤原泰衡が殺害されたのは九月三日ではない、あるいは、藤原泰衡が贄柵に到着してからしばらくして殺害された。

 贄柵が該当するのは現在の地図で考えると秋田県大館市の二井田地区のあたりであろうと推測されている。比爪から日本海岸に出て北へと逃げるとすれば贄柵に向かうのはおかしくない。ただ、贄柵というのは厳密に言うと地名ではない。(にえ)は現在の二井田(にいだ)につながるから実際の地名であったろうが、問題は二文字目の「柵」の文字。この時代の「柵」は、常設ではなく戦時において臨時に設けられる防衛施設のことであり、今まさに鎌倉方が侵略してきているのだから設営したこと自体はおかしくないが、だとすると河田次郎はいったい誰なのかという話になる。河田次郎は贄柵を拠点とする代々の奥州藤原氏の郎従であるというのが吾妻鏡の記す内容であるが、臨時に設けられる防御施設となるとそもそも贄柵を拠点とすることがおかしい。

 しかし、一つだけ納得できる推測がある。

 河田次郎は比爪在駐の武士であり、比爪の武士団の中から藤原泰衡斬首を命じられて贄柵まで同行し、贄柵で藤原泰衡を殺害して比爪に戻ってきた。源頼朝は平泉を脱出した藤原泰衡の消息が掴めており、比爪でいったん軍勢の動きを止めたのも北陸道軍との合流を待つと同時に藤原泰衡の首が持ち込まれるのを比爪で待っていた。

 そして、奥州藤原氏のうち比爪の武士団は源頼朝と内通していた。藤原泰衡は比爪の武士団が処罰する。藤原泰衡を殺害して首を持ってきた河田次郎が報奨を受けるのではなく主君を裏切ったとして斬首となったのも、内通に対する口封じである。なお、河田次郎が自らの死を覚悟して藤原泰衡を殺害したか、あるいは藤原泰衡を殺害すれば何かしらの報奨が得られると唆されて犯行に及んだかはわからない。

 以上が羽柴氏の説である。

 羽柴氏の説のように考えると、無理が減る。そして、この後の鎌倉方の行動にも説明が付くのである。


 文治五(一一八九)年九月八日、源頼朝は書状を安達清恒に託して京都へ戦況を報告させた。なお、このときの書状は源頼朝の直筆ではなく、主計允二階堂行政が代筆して権中納言吉田経房に宛てて出した書状という体裁となっている。

 主計允とは主計寮の上から三番目の職掌を示す役職であり、主計寮とは税収を把握し監査するのを職務とする。特に地方財政の実税収と帳簿との照合を職務とするため数学の知識を必要とするためトップである主計頭と二番目である主計助のどちらか一方は算博士の兼務が求められたことから、主計允は主計寮の上から三番目と記したものの事実上は主計寮のナンバー2の役職である。

 二階堂行政の本名は藤原行政である。ただし、藤原北家の人間ではなく藤原南家出身の人物であり、また、藤原南家でも主流どころではなく、遠江国、三河国、尾張国のあたりを生活の拠点としていた在地の有力者の子孫であったと推測されている。二階堂行政が東海地方の有力者の血を引いていることは父方だけでなく母方でも言え、二階堂行政の母が熱田大宮司藤原季範の妹であることが記録に残っている。藤原季範は源頼朝の実母である由良御前の父であるため、二階堂行政は母系で源頼朝と血縁関係にある人物でもある。ただし、途中まではそのことをキャリア構築時に利用した痕跡はないどころか、京都の下級役人として自らのキャリアをスタートさせて着実に出世していき、治承三年の政変から間もなくの治承四(一一八〇)年一月の除目で主計允へと出世している。おそらくこの段階の二階堂行政は自分が源頼朝と血縁関係にあることを知識としては知っていても広く公表することは無かったであろう。

 二階堂行政が自分の血縁を実感したのは源平合戦勃発後からで、自分が源頼朝と血縁関係にあることを危惧したか、あるいは源頼朝の勝利を考えたか、遅くとも元暦元(一一八四)年八月までには鎌倉に赴いていたことが確認できており、鎌倉方における文人官僚の一人となっていた。源頼朝が反平家で立ち上がった以上、源頼朝と血縁関係にある人間が身の安全を確保するとなると、源頼朝のもとに身を寄せるのが最善の策である。

 源頼朝は文治五(一一八九)年九月時点で無官であるとは言え正二位の位階を得ている。一方、吉田経房は権中納言であるとは言え位階は従二位。このような関係にあるときの書状は、正二位の源頼朝が書き記すのではなく、官僚機構のどこかに位置する第三者が介在する形で記すのが普通である。そうしないと、格上からの書状となるため事実上の命令文書となってしまうのだ。その点、鎌倉に赴いてもなお主計允であり続けている二階堂行政が、議政官の一員である権中納言吉田経房に書状を書き記すという形式であれば純然たる報告書とすることができる。書状の署名は源頼朝であっても、いったん主計允二階堂行政を挟むために、権中納言吉田経房は命令文ではなく格下の官僚からの連絡文書を受け取ったという扱いにある。

 吾妻鏡はこのときに二階堂行政が書き記した書状の写しを記載しているが、実にあっさりとした内容だ。何月何日にどこを通り、何月何日に藤原国衡を倒し、藤原泰衡が逃亡した後に殺害されたこと、また、陸奥国だけでなく出羽国でも戦いがあったことを書き記しているだけであり、いったん二階堂行政が介在するために格下の官僚が格上の貴族に対して送る、簡潔にして単純明快な報告書になっている。


 源頼朝という人は情報の重要性に関係なく情報そのものを定期的に収集し、同時に発信してきていた人である。それはこのときの奥州遠征でも例外ではない。二階堂行政に書き記させた書状を京都に向けて送り出したのが九月八日、一方、翌九月九日に朝廷からの正式な宣旨が陣ヶ丘に届いている。藤原泰衡追討を命じる宣旨であり、発給日は七月一九日、すなわち、鎌倉方の軍勢出発の日になっている。つまり、鎌倉方の軍勢が鎌倉を出発して東北地方に進軍して藤原泰衡を処罰したことは朝廷の命令に基づいての行動であり、後三年の役のときの源義家のように私戦と判断されることはないという朝廷のお墨付きが得られたこととなる。

 さすがに京都に向けて送り出した翌日に宣旨が届いたなどというのは時間軸が怪しく思えるが、京都と前線との定時連絡を欠かさなかった結果であり、翌日というのは偶然、あるいは、源頼朝の演出であろう。

 それにしても、いかに交通事情が現在と比べものにならないほど貧弱なこの時代であろうと、さすがに七月一九日に発給された宣旨が九月九日になってようやく到着するというのは時間が掛かりすぎるが、その回答は既に出ている。発給日のほうを改竄したのだ。一条能保を経由して吉田経房が主導して宣旨を発給したときに、鎌倉方の出発日である七月一九日を発給日とするように改竄したのだ。鎌倉方の出発の連絡が京都に届いたのは七月二四日、同日中に宣旨発給の審議がはじまり、七月二六日に宣旨を発給して七月二八日に京都を出発したというのが実際のところだ。鎌倉からの連絡を受けて後追いで宣旨を発給するときに、発給日を改竄することで源頼朝の行動が国法違反とならないようにすることで、朝廷のほうでも後三年の役の後で起こった源義家私戦問題を呼び起こすことが回避できた。妥協と言われればそれまでであるが、このときの朝廷は、既に始まってしまった戦争、しかも、鎌倉方の勝利の可能性が高い戦争については、事後承諾とするしかなかったのである。

 源頼朝という人の政治家としての能力の高さは、情報のやりとりだけに発揮されるのではない。部下の統率という点においても発揮される。むしろそのほうが政治家としての能力の発揮であるとも言える。

 それが起こったのは文治五(一一八九)年九月九日というから、朝廷からの正式な宣旨が届いたのと同じ日、ただし、時間軸は逆転するが、その出来事が起こったのは朝廷からの正式な宣旨の届く少し前である。

 陣ケ岡の陣に留まっている源頼朝のもとに、近隣の寺院である高水寺から苦情が寄せられた。鎌倉方の御家人を名乗る武士がやってきて寺院の建物の中に乱入し、本堂の壁板を合計一三枚剥ぎ取っていったというのだ。

 高水寺からの訴えを受けて源頼朝は梶原景時に調査を依頼し、その結果、宇佐見実政の下男達の犯行であることが判明した。

 梶原景時は犯人達を高水寺に連行し、犯人達の両手を切断して釘で手を板に打ち付けた。一見すると、この判決はあまりにも残酷で重すぎる刑罰であるかと感じる。たかが壁板を剥ぎ取っていっただけであり、仏像を破壊したわけでも、ましてや誰かを殺害したわけでもないではないかというのがそのときの論拠だ。だが、それは減刑のための言い訳にもならない。押し込み強盗を働いて略奪したことそのものが問題であり、被害の規模は問題ではないのだ。

 さらに源頼朝は比企朝宗を岩手郡へ派遣した。この地には歴代の奥州藤原氏の当主達が建立させた寺院があることから、藤原泰衡の死去と奥州藤原氏の壊滅によって寺院存続の危機ではないかという懸念が渦巻いていたからである。その懸念を払拭するために、源頼朝は比企朝宗を派遣したのであるが、その理由が驚愕だ。各寺院にどれだけの建物がありどれだけの僧侶がいるかを報告させた上で、寺院の規模に応じた田畑を与えるとしたのだ。これまでは奥州藤原氏からの支援で成り立たせていた寺院の経営がこれからは自助努力で経営しなければならなくなるが、そこで得られる資産はこれまでの奥州藤原氏からの支援をはるかに超える資産だ。しかも、鎌倉方の武士が寺院に手出しする心配は無くなった。当然だ。壁板を剥がしただけで両手切断という先例ができたというのに、誰が寺院に手を出そうと考えるのか。

 源頼朝の狡猾なところはこういうところだ。

 このときの軍事侵攻は誰がどう見ても侵略である。それも、最初は源義経を理由とし、源義経が殺害されたら今度は藤原泰衡をターゲットに絞り込む。第三者からすれば源頼朝の主張や行動に正統性はない。しかし、源頼朝は歴史を振り返り、そして、現地の情勢を把握した上で軍事行動を展開したのである。


 どんな国でも侵略を受け入れることはしない。侵略されても降伏すればいいじゃないかという主張をする人もいるが、侵略されたときに待っているのは、通常であれば略奪、殺戮、拉致、そして奴隷生活である。侵略者が支配者として君臨し、侵略された土地に住んでいた人は、解放という名目で奴隷生活を余儀なくなれ、財産という財産を全て奪われ、住んでいた土地から追い出され、抵抗すれば殺される。それが侵略というものであり、侵略された地域に住む人達が侵略者に対して抵抗するのは、崇高な理念のためというよりも生きていくためである。このときの東北地方も鎌倉方の軍勢の侵略を受けて敗者となる未来が待っていてもおかしくなかった。

 ところが、源頼朝はそれを選んでいない。さらに言えば奥州藤原氏を皆殺しにしたわけでもない。それどころか、奥州藤原氏の統治機構を残しつつ、奥州藤原氏以前の東北地方を取り戻す、比喩的な意味でない方の解放者として東北地方に軍勢を展開したのである。地域の寺院勢力に広大な資産をもたらす田畑を与えたのはその一例であるし、解放者であることを忘れた武士、すなわち、寺院に押し込んで強盗を働いた武士を見せしめとして両手切断までさせた。また九月一一日には奥州藤原氏が平泉の寺院に与えていた権利を剥奪することなく守るとした宣言を布告し、戦乱で田畑が荒れてしまっていた場合でも勝手に開墾してはならず土地の所有権は戦乱以前の持ち主に存在することを明言した。

 その上で、鎌倉方の軍勢は比爪を出発して北へと向かった。藤原泰衡は死を迎え、奥州藤原氏の関係者の多くが鎌倉方に降伏したが、まだ鎌倉方に抵抗を見せている者もいる。また、奥州藤原氏の本拠地である平泉を制圧したし、奥六郡の中心部にある比爪も制圧したが、東北地方全体を見渡せば平泉も比爪もまだまだ中央寄りであり、現在の地図で言うと、岩手県北部と秋田県北部、そして、青森県全域がまだ制圧とはなっていない。奥州藤原氏という存在は、良かれ悪しかれ東北地方を統治してきた存在である。その上、以前から住んでいた人達にとって奥州藤原氏はつい最近、つい最近と言っても一〇〇年以上前であるが、近年になって東北地方に新しくやってきた異質な存在であり、その奥州藤原氏がある日突然いなくなってことで奥州藤原氏登場以前の東北に戻る可能性もあった。ここで鎌倉方が手を打たなければ、奥州藤原氏登場以前の混迷の土地に戻ってしまう可能性もあったのだ。

 ただし、あまりにも奥地に軍を進めるわけにはいかない。大軍になってしまっているために兵站の問題がある。解放者として東北地方にやってきたのに現地調達、正確な言い方をすれば現地での略奪で食糧を手に入れようとしたら、待っているのはこの戦いそのものの白紙化、そして、鎌倉方の軍勢全体の壊滅だ。どんなに損害が出ても鎌倉に帰ることだけを考え、源頼朝だけでもなんとか鎌倉に戻ることができたとしても、待っているのはロシア遠征に失敗した後のナポレオンと同じ結末である。行軍すべきは当初のゴールである厨川までとし、厨川に到着した後で地域の有力者と連絡を取り、その回答を経て鎌倉へと戻ることとした。

 文治五(一一八九)年九月一二日、鎌倉方の軍勢は岩手郡厨川に到着した。厨川は比爪から一日で移動できる土地であり、また、平泉を出発した後の最終目的地だ。古来より地域の有力豪族である安倍氏が拠点とした居城である厨川柵が存在し、前九年の役の後は清原氏、そして奥州藤原氏へと居城の所有者が変更になっている。もっとも、実際には奥州藤原氏が直接統治するのではなく、奥州藤原氏の一氏族が統治していた。なお、厨川柵を統治していた奥州藤原氏の一氏族の素性は良くわかっていない。この氏族のことを現在の研究者は樋爪氏として奥州藤原氏と区別しているが、この時代までは奥州藤原氏の一部とみなされていた。

 源頼朝は厨川で陣を敷くことを命じた。土地の収用性という点では比爪に負けるが、前九年の役の最終決戦場であり、源頼義はここの勝利を以て前九年の役の終結としたという歴史がある。源頼朝もその故事に倣ったのであるが、源頼朝は祖先が達成しなかった偉業を達成している。なお、偉業を見せる前に源頼朝は一つの指令を下している。工藤行光の功績を評するとして岩手郡の地頭に任命したのである。工藤行光はさっそく厨川柵を岩手郡統治の拠点とするべく整備をはじめることとした。もっとも、初日にできたのは城主として源頼朝ら鎌倉方の一行を歓待する、という体裁で厨川到着を祝う祝宴を主催することであった。


 厨川で一晩を過ごした翌文治五(一一八九)年九月一三日、源頼朝は厨川で一つの指令を出した。

 この戦乱で損害を被った東北地方の全ての一般庶民に対し、安全の保証と損失の補填、そして、今回の戦いで捕虜となり、鎌倉方に囚われていた奥州藤原氏の関係者全員の赦免を指令した上で、彼らに今までと同じく平泉を軸とする東北地方の統治の継続を命じたのである。工藤行光を平泉ではなく厨川柵に留め置くことにしたのも平泉から少し距離を置いたところに鎌倉方の武装集団がいるものの、基本的にはこれまでと同じく奥州藤原氏の統治を継続するとアピールするためだ。

 さらにその翌日の九月一四日には陸奥国と出羽国の国衙が管理している台帳に基づく土地と年貢の確認を命じた。ここではじめて藤原泰衡が平泉での統治に関する書類関係を焼却処分していたことが判明した。もっとも、それで八方塞がりに陥ったと断念するような源頼朝ではない。たしかに藤原泰衡は行政に必要な書類、特に土地行政に関する書類を焼き捨てたが、土地の権利に関する記録は平泉だけに存在するのではない。もともとの国衙の業務として陸奥国府と出羽国府にも記録は存在するし、もっと大切なこととして、土地の所有権や保有権を持つ個人が土地の権利に関する書類を持っている。平泉の書類が失われても、何の問題は無いとは言えないにせよ、取り返しの付くレベルに押しとどめることは可能であったのだ。

 さらに、土地の保有権を確定させるのに協力する武士は鎌倉方の御家人として受け入れるとも発表した。鎌倉方の一員になれば、今まで自分が保有していた所領を鎌倉方が安堵するだけでなく、奥州藤原氏本家の保有していた所領を自分のものとするチャンスである。実際、九月一四日にはさっそく豊前介実俊とその弟の橘藤五実昌の兄弟が源頼朝に取り立てられることとなった。これには今まで奥州藤原氏の統治下で不遇を(かこ)っていた武士達にとって一発逆転のチャンスとなり、鎌倉方に帰順するかどうかで逡巡していた者の多くが鎌倉方への帰順を選ぶこととした。

 九月一五日には奥州藤原氏の分家で比爪を根拠地としていた藤原俊衡と弟の藤原季衡が、息子達を連れて厨川に赴き、鎌倉方に降伏した。この藤原俊衡と藤原季衡の兄弟は樋爪俊衡と樋爪季衡と記す史料もあり、実際、吾妻鏡では藤原姓ではなく樋爪の苗字を用いている。「樋爪」は比爪の異字表記であり、現在の地名に残る「日詰」もまた比爪の異字表記である。つまり、奥州藤原氏の分家のうち比爪を根拠地としていたから樋爪が苗字となり記録に残るようになったとするべきである。


 さらに注目したいのが、どの史料を探してもこの兄弟、さらにその息子達が記録に登場するのがこのタイミングだということである。考えられるのは、藤原泰衡が平泉を焼き払って北へと逃れていったときに藤原泰衡と同行して北上したか、あるいは、比爪に滞在しているところで藤原泰衡と落ち合い、比爪館を焼いてから藤原泰衡と同行したかである。藤原泰衡が殺害されたのが九月三日であり、それからの一二日間、奥州藤原氏の残党をまとめていたのが彼らであり、その彼らが源頼朝のもとに降って奥州藤原氏の残党全体が鎌倉方に降伏したと言えるのである。

 藤原泰衡の生年は久寿二(一一五五)年前後と推定されるから、殺害されたのも四五歳前後と推定される。正式な記録は存在しないが藤原泰衡には最低でも二人の男児がいたという言い伝えがあるものの、そのうちの兄とされる藤原時衡は父とともに贄柵で殺害されたとされ、弟とされる藤原秀安は元服を迎えたか否かギリギリの年齢であったとされている。そして、藤原秀安は樋爪俊衡のもとに匿われていたとするのが伝承だ。

 つまり、奥州藤原氏の残党のうちリーダーシップを執ることができる集団が揃って源頼朝のもとに降り、伝承を含めて考えればリーダーとして担ぎ出せる人物も一緒に源頼朝のもとに降ったことになる。これで奥州藤原氏の残党のうち未だ鎌倉方に降っていない人物は、奥州藤原氏の後継者の正統性を主張することができない小規模な反抗勢力とならざるをえなくなった。

 それに輪を掛けたのが、翌九月一六日に出した源頼朝からの指令である。比爪の統治権は今まで通り樋爪俊衡のもとにあり、少し離れた厨川に工藤行光がいるものの鎌倉方は東北地方の統治に直接は関与しない。ただ、これまでの奥州藤原氏一〇〇年のように朝廷から距離を置いた独自の地域となるのではなく、東北地方も他の地方と同様に朝廷と、朝廷の一部を形成する鎌倉方の統治下になることを告げたのだ。

 九月一七日にはこれまでと変わらないことを宣言する布告が平泉に対しても下された。平泉にある中尊寺や毛越寺といった寺院が持っていた所領について現状のままとする布告である。岩手郡の寺院に対しては既に九月九日に同様の措置が出ているので、その適用範囲が延長されたということになる。

 そして九月一八日、奥州藤原氏の血筋を引く最後の有力者である藤原高衡が源頼朝に降伏したことで、鎌倉方の奥州遠征は終わりを迎えた。藤原高衡は源義経の首を鎌倉まで運んできた人物であり、その後の藤原高衡の動静は不明である。平泉に戻ったとも、鎌倉方とともに行動したともあるが、後者である場合でも鎌倉方の御家人の一人として行動したのではなく鎌倉方に捉えられた捕虜の一人としての扱いであったろう。そうでなければ降伏することの意味が無い。降伏したときの情景も、下河辺行平のもとに囚われの身となっていたところを源頼朝のもとに連れてこられたとなっているので、鎌倉方の御家人の一人として奥州藤原氏と戦ったとは考えづらい。

 源頼朝は藤原高衡の降伏を以て奥州遠征完了を宣言し、文治五(一一八九)年九月一八日付で朝廷に対して任務完了を告げる書状を送ることにした。


 奥州遠征完了を宣言した鎌倉方の軍勢は、文治五(一一八九)年九月一九日に厨川を出発し、全軍で鎌倉へ向かって凱旋しはじめた。

 途中、平泉で論功行賞を行い、この遠征での最大の功労者として葛西清重を東北地方における鎌倉方の代表者である平泉郡内検非違所長官に任命した。これまでと同様に平泉を中心として東北地方を統治するが、平泉にいるのは奥州藤原氏ではなく鎌倉から派遣された人物であり、奥六郡の中心地である比爪の統治もこれまでとするが、比爪と目と鼻の先にある厨川には工藤行光がいる。つまり、奥州藤原氏は滅ぼしたが奥州藤原氏の作り上げた統治システムはそのまま残して鎌倉方が利用することとしたのだ。

 奥州藤原氏にしてみれば、言いがかりを付けられ続けた後、言いがかりから戦争を回避しようとしても回避できず、ついには滅び去ってしまったのであるから、源頼朝に対しては憎しみ以外の何の感情も抱けないであろう。しかも、奥州藤原氏の中心を担っていた人達は、ことごとく死を迎えたか、あるいは鎌倉方に捕らわれている。こうなると、奥州藤原氏の面々だけでなく、奥州藤原氏のもとに仕えていたことで東北地方において恵まれた暮らしをしていた人達は、それまでの一〇〇年間に亘って当たり前とされていた権勢を僅か二ヶ月で失い、いきなり路頭に迷うことになってしまったのだ。しかも、奥州藤原氏の復活を求められなくなっている状況で。

 さらに問題であったのが、滅ぼされたのは奥州藤原氏だけであり、その他は破壊されていないということである。地域に住む人にとっては統治者が変わったことを認めたとしても他国に侵略されたわけではなく、さらにいえば、ここ一〇〇年ほどの例外期間が終わり、それ以前の東北地方に戻ったと言えばそれまでなのである。無論、奥州藤原氏以前は歴史として知っているだけであって実体験した話ではない。しかし、東北地方が他の地域と違うことは認識していたし、奥州藤原氏が圧倒的存在として君臨していて、そのおかげで豊かで平和な暮らしをしているのは感謝しているが、極論すれば、自分達の自由を認め、誇りを認め、暮らしを保証するのであれば、奥州藤原氏である必要はない。歴史上何度も繰り返されてきた侵略と同列に並べるよりも、現在で言うと県知事が選挙で替わったと同じぐらいのインパクトでしかなかったのである。

 先にナポレオンのロシア遠征と比較して記したが、レフ・トルストイが全四巻に亘る「戦争と平和」のうち第四巻をまるまるナポレオンの敗走に宛てたのと大きく異なり、源頼朝の鎌倉帰還は何も起こっていない。侵略を受けたはずの東北地方の住人が抵抗運動を見せるでなく、行軍というより軍事訓練、あるいは行列を組んでの徒歩旅行と評すことができるほどに安穏としたものとなったのである。途中で安倍時頼の遺跡を訪問し、坂上田村麻呂が陣を築いた岩屋を訪問しているのに至っては、行軍ですらなく観光とすら言える。

 また、囚われの身となっている奥州藤原氏の面々のうち、佐藤庄司、名取郡司、熊野別当の三名を自由の身とし、鎌倉方の配下でそれぞれの所領の統治を認めることとした。なお、佐藤庄司、名取郡司、熊野別当は氏名ではなく役職名である。それぞれ、佐藤庄司は現在の福島県福島市の福島駅のあたりの荘園の統治者、名取郡司は現在の宮城県名取市の一帯あたりの地域の郡司、熊野別当は宮城県名取市にある現在の熊野神社、当時の名称でいう熊野新宮社のトップを意味する役職名である。それまで奥州藤原氏の元で権力を得ていた人達のうち、朝廷の統治システムに基づく権力を得ている人について、奥州藤原氏無しで今までと同じ権力があることを保証したのだ。それまでは朝廷と一歩離れたところにある権力であったのが朝廷直属となり、今までと変わらぬ権力と今までと変わらぬ暮らしがあることを示したのである。


 奥州藤原氏が苦境にあることの知らせが京都に届き、間もなく奥州藤原氏が滅びそうであることは朝廷でも把握できていた。厳密に言えば、源頼朝からもたらされた書状によって、権大納言吉田経房経由で朝廷内に伝わっていた。源頼朝からの書状は、本人直筆であろうと、鎌倉方の文人の記した書状であろうと、嘘偽りない書状であることはこの頃の朝廷では常識となっていたし、断片的であるにせよ源頼朝以外からもたらされる東北地方の情報についても源頼朝の伝える内容と一致していた。

 既に起こってしまっている戦争について朝廷は無力であり、そして無関心であった。関心は後鳥羽天皇の元服に向かっており、いつ、どのように元服を迎えるかに専念していたのである。

 先例重視の時代であることに加え、摂政九条兼実自身が古き良き時代への回帰を掲げて政権運営をしている人である。徹底的に先例を調べ上げ、後鳥羽天皇の元服はこれ以上文句の出ようのない式典とする意気込みであったし、その先例として鳥羽天皇と高倉天皇の例を挙げたことで難癖の付ける余地を可能な限り消すことに成功した。

 ただし、やはり問題はあった。それも二点。

 一点目は、三種の神器を含む御調度が無いこと。三種の神器の無い即位というだけでも先例を探すことのできない帝位であることを宿命づけられた後鳥羽天皇が、ここに来てさらに先例のない事態に直面することとなったのである。平家都落ちのときに三種の神器が持ち去られ、八咫鏡(やたのかがみ)八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を取り戻すことはできても天叢雲剣あまのむらくものつるぎについては壇ノ浦に沈んだままであることは既に著名な事実となっているが、実は、失われた皇室資産は天叢雲剣あまのむらくものつるぎだけではない。平家は安徳天皇を奉じて都落ちしたが、そのときに、天皇の政務に使用する品々も、天皇の儀式に使用する品々も持ち去っていたのである。そして、これらの儀式は元服も含まれる。さらにここに、木曾義仲の上洛時の略奪が加わる。元服の御調度を調べてみたら、めぼしいものは持ち去られ、持ち去られなかったものも破損が激しく、あるのは乱暴狼藉の痕跡だけであったというのが九条兼実の日記による記載だ。結局、修理できるものは修理し、そうでないものは後白河院に頼み込むこととなった。

 二点目は、前例で一律に決まるものではない点である。特に、元服時に読み上げる賀表を誰が書き記すかで議論が紛糾した。賀表とは国家の慶事において臣下が祝いの気持ちを述べて天皇に奉る文であり、賀表の起草者に選ばれることはこの時代の最高の文筆家と評価されると同じであった。もっとも、先例を探すと、多くの場合は朝廷の人事を司る式部省の次官である式部大輔(しきぶのすけ)が起草して奉ることで当代最高の文筆家の称号を巡る争いを防いでいた。式部省は日常の業務で朝廷の名の下に記す正式な文章を書き記すのが仕事であり、トップである式部卿は親王の就く名誉職であるため、組織図上は次官である大輔が事実上のトップになっている。賀表の起草者として式部大輔が選ばれたとしても、それに異議を唱える人は普通であればいない。だが、このときは土御門通親こと権中納言源通親が、式部大輔ではなく公卿が賀表を書き記すことを強く主張した。土御門通親は公卿が書き記すことを主張したのであって具体的に誰が書き記すのかについては強く主張してはいない。しかし、誰の目にも明らかであった。賀表を書き記すべき人物として土御門通親が思い描いているのは土御門通親自身である。

 土御門通親は従二位権中納言であり、九条兼実は従一位摂政であるから、この両者の間には天地の差があると言っても良い。だが、この二人は激しく対立する関係に、それも、対等な立場に立って激しく対立する関係になっていた。


 土御門通親こと源通親は姓を見てわかるとおり、源氏である。ただし、今や時代を手にするまでになっている清和源氏の源頼朝と違い、これまでの歴史において、源氏の中では最大規模の権勢を手にしてきた村上源氏であり、しかもその嫡流である。村上源氏である源通親にしてみれば、いかに戦争を勝ち抜いた人間であると言っても清和源氏の源頼朝など歯牙にもかけない存在でなければならなかった。現実がそうなっていなくても、名門村上源氏のプライドが清和源氏に敗れることなど許さないのだ。

 土御門通親の人生は村上源氏復権に掛けた人生であった。そのためには利用できる要素を何でも利用した。後白河院政に早々に近寄り、平家とも接近し、治承三年の政変の後で成立した高倉院政では真っ先に高倉上皇のもとに仕えるようになり高倉院の院庁別当になった。福原遷都前後の混乱においても高倉上皇のもとに仕え、高倉上皇が亡くなった後は後白河院の側近となり、平家都落ちの後で権力の空白となった京都において、三種の神器無き状態での後鳥羽天皇の即位を実現させたことで後白河法皇の信任を得た。この評価は源頼朝のもとにも届いており、元暦二(一一八五)年一二月六日に源頼朝が後鳥羽天皇への奏上を限るとした一〇名のうちの一人に選ばれている。もっとも、土御門通親にしてみれば源頼朝に選ばれることは誇りとするよりも心外とするところであったろうが。

 それでも土御門通親は、平家のいなくなった京都において自分が中心を為す一人であることは誇りとすることに感じられた。そして、九条兼実の政権の一翼を担う気概も抱いていた。だが、九条兼実は土御門通親の期待に応えることをしなかった。権中納言のままで留まり、従二位のままに留まり続ける日々を過ごさざるを得なくなってしまったのである。それでも他の面々も同様に留まり続けていたのであれば納得していたが、鬱屈した思いが底の方に溜まっていた。その鬱屈は、文治四(一一八八)年一月に九条兼実の息子の九条良経が正二位に昇叙したことで爆発した。九条兼実が息子を贔屓して昇叙させたことに抗議しただけでなく自分も正二位に上がることを要求したが、九条兼実にしてみれば土御門通親からの抗議は青天の霹靂であり、従二位に上げたことを感謝されこそすれ貶される謂われはないと反発した。

 さらにここに、後鳥羽天皇の婚姻問題が関係してくる。九条兼実が自分の娘を嫁がせるつもりであることは周知の事実になっていたが、決定はしていない。土御門通親も自分の娘を嫁がせることを狙っていたのだ。普通に考えれば摂政にして藤氏長者である九条兼実を差し置いて娘を嫁がせるなど無謀な話に感じられるが、このときの土御門通親には自分の娘を嫁がせてもおかしいとは思われない環境が用意されていた。

 土御門通親の婚姻生活は複雑である。正妻は藤原範子であるが、藤原範子は土御門通親と結婚したときに既に二人の子を持つ母であり、三人目の子を妊娠している途中であった。藤原範子の最初の夫であったのは平清盛の義弟にあたる僧侶の能円であり、能円が平家都落ちに同行して西国へ逃れたことをきっかけに、京都に残り続けることを選んだ藤原範子は夫と離縁。その後、藤原範子は土御門通親に言い寄られる形で結婚している。土御門通親が藤原範子に言い寄ったのは、藤原範子がたまたま尊成親王の乳母であったこと、そして、その尊成親王が後鳥羽天皇として即位したからである。しかも、藤原範子はここで女児を産んでいた。土御門通親は妻が産んだ前夫との間の女児を自分の養女として迎え入れて娘として養育した。自分の妻が産んだ女児である以上、周囲からは血のつながりなどないではないかとどんなに揶揄されようと、文句なしに自分の娘だ。それに、心情ではなく打算で考えて行動する人であっても、天皇の乳母の娘となれば天皇のもとに嫁いだとしても何ら不可解に感じない。

 九条兼実にとっては予期せぬライバルの登場である。しかもそのライバルは、もう一つのアプローチを用いて後鳥羽天皇への接近を狙っていた。後白河法皇の愛妾である丹後局こと高階栄子への接近である。後白河法皇の寵愛を受けている丹後局のことを快く思わない貴族は多く、九条兼実も丹後局のことを玄宗皇帝に対する楊貴妃に(なぞら)えて批判している。実際、当時の記録の中に描かれている丹後局は絶世の美女であるという評判に満ちており、後白河法皇は丹後局の美貌を優先させて国政をないがしろにしているという批判も生まれていたのだ。しかし、その丹後局を土御門通親は支持した。そして、そんな丹後局への寵愛を隠せない後白河法皇を支持した。後白河法皇との間に生まれた女児への内親王宣下に賛成したのみならず、ありとあらゆる前例を持ち出し、文治五(一一八九)年時点で九歳である少女への内親王宣下に対する批難を潰して回ったのである。


 奥州遠征を終えて平穏無事に源頼朝らが鎌倉に戻ったのは文治五(一一八九)年一〇月二四日のこと。吾妻鏡によると、鎌倉に到着して間もなく、源頼朝は吉田経房と一条能保の両名に宛てて戦勝報告の書状を出したとある。

 鎌倉では多くの人が戦勝に熱狂していたが、京都ではそうした熱狂が無かった。遠く離れた東北地方で自分達と関係のない戦いがあって、自分達が意識したことのない存在である奥州藤原氏が滅んだことは、知識としては知っていても、どこか自分事とすることができずにいた。

 源頼朝が鎌倉に到着したのは一〇月二四日のことであるが、戦勝と遠征終了のニュースはとっくに京都に送り届けている。いかに京都と鎌倉との間に距離があろうと、書状を発した日付を考えればいくら何でも京都に戦勝報告が届いている。それでも京都で熱狂が生まれることは無かった。

 それに、このときの京都は奥州藤原氏滅亡よりも大きなニュースが蠢いていた。

 後白河法皇の寵愛を受けている丹後局高階栄子の産んだ女児を内親王とすることとなったのであるが、これが大問題となっていたのだ。内親王宣下まではいい。法皇の娘にして、年齢は近いものの後鳥羽天皇にとっては叔母にあたる女性が内親王宣下を受けることは何らおかしなことではない。ところが、単なる内親王宣下だけでなく准三后と院号宣下まで加えるというのだから大問題である。

挿絵(By みてみん)

 これまで院号宣下を受けた女性は一六名いる。もっとも若い郁芳門院媞子内親王は一八歳で院号宣下を受けていたが、院号宣下の時点で既に堀河天皇の准母であり中宮冊立も経験している。皇后も中宮も皇太后も太皇太后でもない院号宣下を受けた女性としては八条院暲子内親王がおり、彼女は生涯を独身で過ごしたが、甥である二条天皇の准母を務めた経歴があることから院号宣下は何の問題も無いとされている。

 翻って丹後局の娘である。まだ独身である、というより、そもそもまだ九歳だ。内親王宣下まではごく普通の皇族の女性が受ける処遇であるが、准三后や院号宣下となると異例の事態となる。准三后までなら何とか妥協できても院号宣下はさすがに妥協できない。

 ここに、後白河法皇と丹後局との間に生まれた娘に対する内親王宣下までで留めようとする九条兼実と、准三后も院号宣下も求める土御門通親との対立が表面化した。

 それにしても、土御門通親も、そして後白河法皇も、まだ九歳の女児を准三后とし、かつ、院号宣下まで考えたのか? 普通に考えればムチャクチャな行動であるし、後白河法皇はこれまでかなり強引なことをしてきた人であることを加味すれば、このときの判断もいつもの強引として捉えることができるが、土御門通親は一廉(ひとかど)の貴族である。内親王宣下だけでなく准三后と院号宣下が何をもたらすか知らないなどありえない。知らなかったとしても一人の人間として考えたとき、一〇歳になるかならないかという年齢で人生を固めてしまうこと決断を許容できるであろうか。院号宣下を受けた女性は八条院暲子内親王を除いて天皇の妻あるいは母であることが根拠となっての院号宣下であり、唯一の例外でもある八条院暲子内親王も二条天皇の准母を務めたことが院号宣下の理由になっている。


 では、唯一の例外が唯一では無くなるとどうなるか?

 丹後局の娘が甥である後鳥羽天皇の准母を務め、准母として後鳥羽天皇の元服に尽力したとあれば、それが評価の材料となり院号宣下までつながることも不可能ではないのだ。

 院号を得た女性は莫大な資産を手にすることとなる。たしかに、建礼門院平徳子という、平家滅亡とともに人目から離れて京都大原の地に住まいを構えて質素な暮らしをしている例があるが、多くの場合は院号に伴う資産をベースとする生活を構築している。丹後局がその女性の母として、そして、後白河法皇がその女性の父として、深く関与することも十分に考えられる。それこそ、九条兼実に対抗しうる、さらには藤原摂関家に対抗しうる巨大勢力とさせることも可能だ。忘れてはならないのは、土御門通親は村上源氏の人間であって藤原氏では無いということだ。ここで藤原摂関家に対抗しうる勢力を作り上げたところで、土御門通親にとっては何ら困ることはなく、願ったり叶ったりである。

 このような意見の対立があったとき、武器を持って戦うと一方の意見が最終意見となるが、武器ではなく言論の戦いとなると、双方の中間地点を探る結果に終わることが多い。九条兼実と土御門通親との対立、立場を変えて言うと藤原摂関家と後白河院との対立は、言論を用いた戦いへと発展していた。

 言論を用いた戦いでは、武器とは違った技術が必要となる。特に中間地点を探る場合、当事者が何としても実現させたい要求と同時に、掲げている当事者が本心から欲しているわけではないが相手が絶対に受け入れることのできない無茶な要求を掲げ、無茶な要求を引き下げる代わりに何としても実現させたい要求を受け入れさせるというテクニックを披露することもある。土御門通親の実践したテクニックはそれだ。賀表の要求を引き下げる代わりに、後白河法皇と丹後局との間に生まれた女児が、ただちにではないにせよ、近い未来に准三后と院号宣下を受けることを検討することを九条兼実は受け入れたのである。決定ではないところが注目ポイントであるが、検討したあとで白紙撤回するのは現実問題として難しい。これでは事実上の決定である。

 それに、九条兼実には時間がなかった。後鳥羽天皇の元服は翌年一月と決まった。その前に九条兼実は太政大臣に就任しなければならない。そうしなければ天皇の加冠役がいないままなのである。

 もっとも、九条兼実とて無条件で土御門通親の意見を受け入れたわけではない。自分の娘を元服後の後鳥羽天皇のもとに入内させることを既定路線とさせたのである。摂政の娘とあれば中宮位や皇后位は夢ではないし、それこと話題になっている准三后と院号宣下を得ることだって不可能ではなくなる。

 そこから先は怒濤の展開である。先例主義の数多くの害悪として、決定するまでが遅いことと、誰もが責任から逃れようとすることがあるが、先例主義というのは、先例に従って行動することが決まったならば後はマニュアルに従えば良いため、動きだしてからは想像以上に早い。また、先例に則ることで誰に責任があるのかが明瞭化されるため、自分に課せられた責任については果たすという、消極的動機ではあるものの怠惰からは無縁な行動をとるようにもなる。

 まず、文治五(一一八九)年一〇月二六日に、後白河法皇と丹後局の間に生まれた女児を内親王とすることが決定した。ただし、この時点ではまだ正式な内親王宣下ではない。

 それからさほど日を置かない文治五(一一八九)年一一月三日、九条兼実の娘が来年一月の後鳥羽天皇の元服後に入内することが決定となり、入内に要する調度品の用意や、仕えることとなる面々の人選が始まった。それから一二日しか経ていない一一月一五日に、後鳥羽天皇の入内される予定の女性が従三位に叙せられたと同時に任子と命名された。こう書くと、承安三(一一七三)年に生まれてからずっと名無しであったかのように思われるかも知れないが、実際にはそのようなことなどない。名はあったが入内を契機として名を変えたということである。

 同じく名前を変えることになったのは後白河法皇と丹後局との間に生まれた女児である。文治五(一一八九)年一二月五日に内親王に冊封されたときに名が改められ覲子内親王となった。さらに同時に准三后ともされた。准三后と院号宣下とはセットではなく、院号宣下は後回しとなったが准三后は押し通したといったところであろう。ただし、ここには九条兼実もさらに対抗策を練っており、覲子内親王の内親王宣下と引き替えに、凡そ一ヶ月前の一一月九日に高倉天皇の第二皇子が親王宣下を受けることとなった。以後、彼は守貞親王と呼ばれることとなる。


 九条兼実は過去の先例に基づいて行動していた。娘の入内についても先例に則っているし、後鳥羽天皇の元服についても先例の通りである。しかし、九条兼実には先例に則ることができない、正確に言えば先例が存在しないために則ることができない問題と直面していた。鎌倉の源頼朝との関係である。奥州藤原氏を滅亡させたことはともかく、東北地方の有力者を制圧したという先例ならば桓武天皇から嵯峨天皇の時代に遡れば存在するが、その者が京都から遠く離れた場所に居続けるというのは先例が無いのだ。

 この難問を、九条兼実は、後鳥羽天皇の元服と、自分の娘の入内と、土御門通親殿対立とを並行して処理していたのである。その中で唯一の救いと言えるのが、源頼朝との関係は特に混乱しておらず、直接対面するわけではなく書状でのやりとりであるということを差し引いても、ついこの間まで戦争をしていた人間とは思えぬほど穏やかなやりとりであったことである。顔を合わせる京都の面々とのやり取りよりも、顔も知らぬ遠く離れた地に住む者との書状のやり取りのほうが穏やかというのは、何とも皮肉なことである。

 やり取りの相手である源頼朝もこの頃は穏やかであった。文治五(一一八九)年一一月七日には、奥州遠征に対する報償を辞退すると報告し、一二月六日にも再び恩賞の話が出たが再度辞退している。その上で、朝廷の元に戻った陸奥国と出羽国の統治についても朝廷の指示を待っている状態であり、源頼朝はその指示に従うとしている。

 だが、文治五(一一八九)年も間もなく暮れようとする頃にとんでもない情報が東北地方から飛び込んできた。鎌倉にその情報が飛び込んできたのは一二月二三日のこと、そして、その出来事が起こったのは一二月九日である。

 何が起こったのか?

 奥州藤原氏の残党が反乱を起こしたのである。

 藤原泰衡は亡くなり、藤原秀衡の子のうち唯一生き残った藤原高衡は鎌倉方の監視下に置かれている。奥州藤原氏の傍流の面々についても鎌倉方の支配を受け入れていた。

 しかし、奥州藤原氏の残党がことごとく鎌倉方の支配を受け入れたわけではない。特に、比企能員らが軍勢を指揮して通過しただけの出羽国は陸奥国ほどの戦禍を被ることが無かったがためにかえって鎌倉方の軍勢がどのような戦果を残したかがイメージできずにいた。

 その結果が反乱勃発である。

 反乱の首謀者の名前は残っている。大河兼任がその名前である。ただし、この反乱ではじめて歴史に名が登場しており、反乱勃発前はどのような立場であったかわからない。経歴のヒントにつながりそうな点として、大河兼任には最低でも二人の弟がいること、その二人のうち下の弟は源頼朝の御家人となったことから、大河兼任は奥州藤原氏の残党のうち一度は源頼朝に臣従したものの、源頼朝を裏切って奥州藤原氏の再興を目論むようになった、あるいは、弟も鎌倉方のもとに降ってしまったために孤独感を伴う絶望感から反乱を決断したと考えられる。

 経歴不明の人物が首謀者となっていきなり反乱を起こしたとしても、その反乱に加わろうとする者は少ない。鎌倉方に対する反発心は隠せないでいたとしても、反乱に参加するのは普通ならば躊躇(ためら)う。

 そのことは大河兼任も考えている。

 大河兼任は、自分が反乱の首謀者ではなく首謀者が他にいるとしたのだ。そして自分は、反乱の首謀者の部下であり、反乱計画の一部を担っているに過ぎないと訴えたのである。このとき大河兼任が主張した反乱の首謀者の名は二人いる。木曾義仲の息子の源義高、そしてもう一人が、源義経である。殺されたはずの二人は実はまだ殺されておらず、出羽国にまで逃れ、ここに反乱を起こすことにしたのだと主張した。

 そしてこの主張が見事に成功してしまったのである。葛西清重が率いる軍勢が反乱軍と対戦したが、情勢は鎌倉方が劣勢となっていた。由利雄平、宇佐美実政、大見家秀、石岡友景といった鎌倉方の武士達が次々と討ち取られるという厳しい情勢に葛西清重は鎌倉へ応援の要請を送った。


 その要請が届いたのが一二月二三日であった。ただし、この段階ではまだ反乱勃発の知らせと反乱首謀者の名前が伝わっただけであり、鎌倉方の被害については伝わっていない。この時代の交通事情に加え、時期は真冬である。書状を持たせた人のやりとりだけでも春から秋にかけての時期の倍以上は時間を要する。つまり、書状を書き記した段階と書状を受け取った段階ではタイムラグがあり、その間に現地の情勢が大きく変化しているであろうことは推測できるが、あくまでも推測であって断定ではない。それでも源頼朝はただちに越後国の御家人に対して出羽国に向かって反乱軍を鎮圧するように命じる書状を送るとともに、鎌倉でも工藤行光をリーダーとする反乱鎮圧軍を結成させた。源頼朝の対処は早かった。書状が届いたのが一二月二三日、そして、反乱鎮圧軍の出陣が翌日の一二月二四日である。不確定な情報であっても、情勢が不明瞭であっても、迅速な行動は何より優先されることであると考えたのである。

 この時点での源頼朝は大河兼任の反乱がただちに鎮静化すると考えていた。その証拠に、一二月二五日に源頼朝は一つの報告を朝廷に向けて送っている。伊豆国と相模国を除く知行国の権利を朝廷に返還し、翌年には上洛するつもりであるとの書状を送ったのである。これまで何度も上洛を要請されながら鎌倉に留まり続けていた源頼朝が公表した上洛についての初の意思表示である。なお、このときの上洛の意思表示に対する朝廷からのリアクションは乏しい。絶無と言って良いほどである。後に記すような反乱の拡大をこのときの源頼朝が考えていたならば、知行国の返還も、上洛宣言もありえない。前者は反乱鎮圧のための資金源、後者は反乱鎮圧のための指揮系統に直結する話だ。

 大河兼任の反乱に対する史料も、これまた乏しい。これは歴史資料全般について言えることであるが、後世まで記録が残るのは数多くの人が記録に残してくれるかどうかに委ねられている。世の東西を問わず上流階級や都市部の知識層の記録が数多く残っているのは、そうした人でなければ後世まで残る記録を残すことができなかったからである。大河兼任の反乱についての記録は同時代の記録の絶対数が乏しいことから、現存する記録も乏しいという結末を迎えることとなる。

 吾妻鏡をはじめとする乏しい記録を辿っていくと、大河兼任の反乱の被害をまともに被ったのは、反乱の発生した地域の住民ともう一つ、鎌倉まで連行されていた奥州藤原氏側の捕虜であることがわかる。藤原高衡のように後に源頼朝に仕える御家人とカウントされるようになった人物もいるが、その藤原高衡とてこの時点ではまだ捕虜であり、法に照らせば国家反逆罪で逮捕された犯罪者である。さらに最悪なことに、朝廷から犯罪者に対する処罰を伝える書状が届く少し前に大河兼任の反乱の知らせが届いたのだ。朝廷からの指令は流罪である。ただし、この時点ではまだ流罪とすることが決まったのみであり、誰をどこに流罪とするかは未定である。タイミングを考えると、あと半月もすれば大河兼任の反乱の知らせが京都に届き、一ヶ月後には反乱勃発に対する怒りの声に押し出されるように、必要以上に重い処分が科せられることとなるであろうし、鎌倉の武士達にもう一度東北地方へ進軍するよう命じる知らせが届くであろう。鎌倉方は武装集団であるものの朝廷の支配下にある面々であり、基本的にはシビリアンコントロールの効く集団である。シビリアンコントロールというものは文人が軍に対する指揮命令権を有する仕組みであるため、軍の独自の行動を抑制することができる反面、軍は戦争に反対であっても戦勝に酔いしれている文人のほうが戦争を求め、しかも、命じる本人は戦争と無関係なところにいることが通常であるために、無駄で無謀な戦争を起こしかねない。

 大河兼任の反乱はその条件を全て満たしている。

 一つ前の戦争は圧勝に終わった。

 戦争の敗者が手中にある。

 その戦争の敗者の残党がもう一回反乱を起こした。

 この三条件が揃えば、犯罪者となった捕虜に対する厳しい処分に加えて、反乱の早期鎮圧を命じるようになる。前回は鎌倉方の暴走を朝廷が事後承諾する形であったのが、今回は朝廷が暴走して戦争を仕掛けるようになり、そして、戦勝の一員に加わろうとする。戦争に何の役も果たしていないのに、自分が戦勝の一翼を担ったと考えるようになってしまう。無謀と思われていたプロジェクトが成功したら、二度目はやたらと関係を持とうとすると人が現れるという、古今東西どこでも目にする話だ。ついでに言えば、関係を持とうとする人間は、何かにつけて口は出し、担当者の時間を奪って平然としている人間であると同時に、カネも物資も人員も用意しない人間でもある。


 鎌倉が大河兼任の反乱の対応に追われていた頃、まだ東北地方での反乱勃発の知らせを受けていない京都では、翌年一月の後鳥羽天皇の元服に向けての準備が着々と進んでいた。文治五(一一八九)年一二月一四日に予定通り九条兼実が太政大臣に就任したことで後鳥羽天皇の元服に必要な役職と人物が全て揃った。

 その半月前、何であれ先例重視である九条兼実は、先例重視であるがために前例のないことをしている。藤原鎌足、藤原不比等、藤原道長という、藤原氏の三人の先祖の墓に娘の入内の成功を祈るための使者を派遣したのだ。このようなことは先例が無かったが、目的は先例の成就である。

 ここでいう先例の成就とは、九条兼実の娘の藤原任子が後鳥羽天皇との間に男児を産み、その男児が次期天皇に就くことである。藤原摂関政治とはいうものの、藤氏長者の実の娘が天皇との間に男児を産んだのは藤原道長が最後で、藤原頼通以後の藤氏長者は誰一人として、実の娘が天皇との間に男児を産んでいない。養女に迎えた女性が次期天皇を産んだことや、娘が天皇の養母になったことがあるだけである。藤原摂関政治の再興を考える九条兼実にとっては、理想とすべき人物である藤原道長、藤原不比等、そして、藤原氏の始祖である藤原鎌足に報告できるだけの未来を構築することを宣言する必要がどうしてもあったのだ。行為そのものは先例踏襲ではないが、行動自体は先例踏襲のためであった。

 それから京都は、延暦寺の衆徒が天台座主である全玄を追い出した以外はこれといった事件もなく、平穏な年末年始を迎えた。

 年が明けた文治六(一一九〇)年。この年の新年はいつもの新年ではない。一月三日に後鳥羽天皇の元服を執り行うことが決まっており、その通りに元服の儀が執り行われた。加冠役は太政大臣九条兼実、理髪が左大臣藤原実定、能冠が内蔵頭藤原範能、式次第の運営と進行は蔵人右少弁左衛門権佐の藤原宗隆と蔵人検非違使左衛門尉の源貞綱が務めた。

 ここまでは何の問題もなかった。三種の神器が揃っていないことは誰もが知っていたが、そのことを指摘する人は誰もいなかった。

 ところが式が始まってすぐに問題が発覚した。

 三種の神器の一つである天叢雲剣あまのむらくものつるぎが壇ノ浦の沈んだまま発見できずにいる。ゆえに、この儀式に天叢雲剣あまのむらくものつるぎは存在しない。だが、元服の儀にはその他にもう一振の御剣が必要であったのだ。

 ここではじめて行き違いが判明した。天叢雲剣あまのむらくものつるぎが無いという意味での剣の無い元服の儀であったはずなのに、御剣が用意されていなかったのである。厳密に言えばやはり必要ではないのかという問い合わせがあり用意していたのだが、頑なに剣の無い元服の儀であることを主張したがために、御剣が無いまま元服の儀が始まってしまい、御剣を用意するまでに時間を要してしまった。結果、本来ならもっと早く終わるべきはずの儀式であったのに、スタート時刻はもう夕方になってしまっており、式の途中で陽が沈んでしまい、太政大臣九条兼実によって後鳥羽天皇の加冠が執り行われたときは灯火のもとでの加冠となってしまった。

 なお、このときに剣無き元服の儀を主張したのは近衛家第三代当主近衛家実である。九条兼実と近衛家との対立がこのような失態を演じるきっかけとなった可能性もあるが、実際のところはそこまで深い問題では無かったであろう。何しろこのときの近衛家実は数えで一二歳、現在の学齢では小学四年生の子供であり、元服をまだ迎えていない。後鳥羽天皇も、九条兼実も、幼さゆえに仕方ないと考えたのか、近衛家実は特に何の処分も受けることなく、あるいは、このときの騒動がこの後の慎重な性格を作ったのか、成長した近衛家実は近衛家の当主として藤原摂関家の中心を担うようになっていく。そして着目すべき点が一つ。この人は承久の乱に反対し、この人が居続けてくれたからこそ、承久の乱の後の朝廷の混迷をできうる限り食い止めることに成功しているのである。


 後鳥羽天皇の元服の儀は文治六(一一九〇)年一月三日に開催され通常の元服の儀としてはその日のうちに終わったが、国家的祝事としての後鳥羽天皇の元服はこの日で終わらなかった。

 この時代には日曜日という概念も無ければ休日という概念も無い。そもそも国民全員が一斉に休むという概念が無い。理論上、毎日が平日である。しかし、理論上は平日でも事実上は休日であるという時期が存在する。その中で今と変わらないのが年末年始だ。

 後鳥羽天皇の元服を一月三日に執り行ったことは、日本中の大部分が祝賀ムードである年末年始の終わりに国家的祝事を執り行うことを意味する。理論上は日本全国、事実上は京都とその近隣に限ったとしても、いつもと違う祝日ムードが続くことは新しい時代を迎えることの高揚感を煽る効果がある。いわゆるイベント効果というものだ。

 さらに、摂政九条兼実の娘の藤原任子が後鳥羽天皇のもとに入内したのが一月四日、そして、後鳥羽天皇の元服の後宴を一月五日に開催するとなったことで、いつもの年より年末年始休暇が二日間延びることとなる。

 一月六日からいつもの日常が始まるかというと、一応はその通りであるが、後鳥羽天皇の元服と藤原任子の入内に伴う祝賀ムードはまだ終わらない。藤原任子の入内そのものは一月四日であるが、この時点ではまだ民間人の女性の一人が後鳥羽天皇の結婚相手候補に選ばれたにすぎず、まだ女御宣下を受けていない。つまり、皇族の一員とカウントされてはいない。藤原任子が正式な女御となったのは一月一一日のことであり、この日もまた、国家的祝事という扱いになったのである。現在でも新年が明けて働きはじめてから少し経つと成人の日を含む三連休があるので感覚としては理解いただけるであろう。

 藤原任子の入内は上東門院藤原彰子の例に則っていた。一条天皇中宮にして後一条天皇と後朱雀天皇の生母である上東門院はまさに九条兼実の理想とする天皇の后の姿であり、かの時代の復活を目的とする九条兼実は様々な形で上東門院藤原彰子に自分の娘が重なるようにした。そのわかりやすい例が、入内に際して作成された中宮入内屏風である。屏風に和歌を書き記したことについては、藤原道長の時代に藤原彰子が一条天皇のもとに入内したときの有名なエピソードがある。藤原道長が貴族達に対して「これから入内する藤原彰子のために和歌を献上しても良い」との知らせを飛ばしたところ、名だたる貴族達がこぞって和歌を送り、その和歌が屏風に記されたというエピソードだ。九条兼実はそのエピソードの再現を狙った。実際に作られた屏風は現存していないが、屏風に書き記された和歌のうちのいくつかは、後に新古今和歌集に載ることとなる。


 京都で後鳥羽天皇が元服を迎え、九条兼実の娘が後鳥羽天皇のもとに入内したことで、古き良き時代への回帰への期待に満ちあふれていた頃、鎌倉は大河兼任の反乱への対処に追われ、現実に反乱の戦地となっていた出羽国では期待どころではない地獄絵図になっていた。

 現在の東北地方は六県からなっているが、明治維新期の令制国分割までは陸奥国と出羽国の二ヶ国しかなかった。この時代に東北地方という地域区分は無いが、陸奥国と出羽国とで一つの文化圏を構成しているという概念はあった。そして、鎌倉方の奥州遠征自体も部隊の一部こそ越後国から日本海岸沿いに北上したが、基本的には陸奥国での軍事行動であり戦闘の多くも陸奥国でのことであり出羽国は通過点であった。陸奥国で戦闘を行い奥州藤原氏を滅ぼしたことで東北地方の平定が完了したと誰もが考えたし、それまで奥州藤原氏の支配を受けていた人達は支配者の交替を受け入れることとなった。出羽国が陸奥国とは別の令制国であるということは知識としては知っていても、認識としては抱いていなかったと言っても良い。これを出羽国の立場で捉えると、それまで奥州藤原氏の支配を受けていた一〇〇年間であったのが、軍隊の通過こそ体験したものの実際の戦闘をほとんど体験することはなく、気が付けば奥州藤原氏がいなくなって権力のエアポケットが生まれてしまったのである。

 無論、源頼朝が出羽国の権力のことを無視したわけではないが、それまでの奥州藤原氏の統治を利用した鎌倉方による東北地方統治の構築はまだ完了していなかった。その隙を狙って大河兼任が反乱を起こしたのである。

 吾妻鏡の文治六(一一九〇)年一月六日の記事によると、大河兼任は既に述べたように、源義経や、木曾義仲の息子の源義高の名を語り、彼らがまだ生きていて鎌倉方に対する反乱を主導しており、大河兼任自身は反乱の指揮官ではなく副官であるとした。これは戦略として賢明な方法である。全くの無名とするしかない地方の一有力者が反乱を起こしたところで同調する人は少ないが、源義経や源義高といった非業の死を遂げた人物の名を前面に掲げれば反乱に同調する人は増える。さらに、反乱の目的として、これまで日本の歴史において家族や恋人の復讐のために立ち上がった者は多いが、主君のために立ち上がった者はおらず、自分は後世にまで残る先例を作り上げるために反乱に参加し、鎌倉へ向けて軍を進めることに同意したというのである。

 大河兼任が反乱の根拠地としたのは、現在の八郎潟から秋田市に掛けての地域であったと推測されている。ここから軍勢を進めて鎌倉まで向かうというのであるから無謀な計画に見えるが、計画の実現性はともかく反乱参加者を集めるという視点に立てば合理的な計画である。スタートアップは非現実的な目標を掲げる方が人を集めやすい。ただし、そこから目標遂行のために必要なのは現実的な積み重ねである。


 反乱軍は日本海岸に沿って南下したのち、現在の酒田市のあたりから内陸に入って、笹谷峠を越えて現在の仙台市に出て、まずは多賀城の陸奥国府を制圧することを考えた。逆説的な話になってしまうが、この行軍がもし成功していたなら大河兼任の乱は長引くことなく短期間で鎮静化したはずである。

 しかし、鎌倉に届いたのは行軍に失敗したという知らせであった。行軍開始の直後、八郎潟東岸で軍勢の多くが溺死したのだ。時期は一月。この時期の秋田県の寒さは普通ならば八郎潟に注ぐ河川が凍るほどだ。そして、例年通りであれば河川が凍るからこそ橋に頼らずに軍勢を対岸に渡らせることが可能となるのである。だが、この年はどういうわけか河川に張った氷が軍勢の渡河に耐えうる固さではなく、氷が割れて多くの兵士が水に沈んでしまったのである。吾妻鏡の伝えるところによると、大河兼任の指揮する七〇〇〇の兵士のうち五〇〇〇もの兵士の命が失われたとある。この知らせを聞いた鎌倉の誰もはこう考えた。反乱が起こったが、軍事力で鎮静化させる前に大河兼任は自滅したと。そのため、大河兼任自身の安否は不明であるが反乱軍の軍事力は弱まっており、前年七月のような軍勢を再結成するまでもないと考えたのである。

 鎌倉のこの判断をさらに強化させたのが、翌一月七日のことである。この日、二つの情報が源頼朝の元に届いたのだ。

 一つは、奥州遠征で捕虜となった者の中に大河兼任の弟である二藤次忠季がいることが判明し、二藤次忠季自身は兄の反乱に同調せず源頼朝に従うことを宣言したのだ。この時代の武士によくあることであるが、渾名としての苗字という概念が現在進行形で形成されている途中であるこの時代、兄弟で苗字を別としていることは珍しくない。二藤次忠季の二藤次という苗字も現在の秋田県鹿角市の地名をそのまま適用した苗字であり、彼がその土地の有力者であったことを意味する。その意味では、鎌倉方においても北条義時が途中まで江間義時と名乗っていたこと、また、三浦一族に含まれるはずの和田義盛が三浦ではなく和田を苗字としていることと等しいと言えよう。

 もう一つであるが、これもまた大河兼任と兄弟関係にある人物である。その人物のことを吾妻鏡は新田三郎入道という名で記していることから、彼は出家して僧体であったことがわかる。兄弟関係で言うと、大河兼任は次兄で新田三郎入道は三兄、二藤次忠季はこの二人の弟であることはわかるが何人兄弟の何番目なのかは不明である。新田三郎入道は奥州遠征によって捕虜となったのではなく、大河兼任が反乱を起こした後で反乱に同調しないことを宣言するために単身鎌倉へとやってきたのである。兄弟間の対立すら発生している反乱であることから、大河兼任の乱はそこまで長期化することないであろうという目測が立ってしまったのだ。

 源頼朝は前年の奥州遠征ほどの軍勢を組織する必要は無いとは考えたが、現時点で派遣している軍勢だけで反乱を完全に抑え込むことはできないとも考えていた。もっとも簡単に反乱を鎮圧する方法を考えるなら鎌倉方で総力を結集させて遠征することであろう。だが、今は真冬だ。そもそも行軍に向いていない。また、兵糧をどうするのかという問題もある。鎌倉方の蓄えの多くを前年の奥州遠征に注ぎ込んでいるため、もう一度遠征をしようとしたら今回は補給に支障を生じる遠征になってしまう。

 文治六(一一九〇)年一月八日、源頼朝は千葉常胤と比企能員の両名に軍勢出陣を命じた。太平洋岸沿い、現在の常磐線に沿って北上する軍勢については千葉常胤が、中通り、現在の東北新幹線に沿って北上する軍勢については比企能員が指揮をする。今回は前回と違って日本海岸への軍勢派遣をしない、しないと言うより、豪雪のためにできない。ゆえに、前回の三方面作戦ではなく二方面作戦となる。その代わり、源頼朝は書状を送った。東北地方在駐の武士のうち、鎌倉方に同調してともに戦うなら参加してもよいという許可を与える書状である。この書状の受取先の多くはかつて奥州藤原氏に仕えていた武士であり、奥州遠征で勢力を失ってしまった武士である。今回の反乱追討において功績を残せば奥州藤原氏の時代に手にしていたような所領の保有権を鎌倉が与えてくれるという期待も抱けただけでなく、失ってしまった所領を取り返すことも不可能では無いという期待を武士達に抱かせてくれた。


 大河兼任の乱は簡単に鎮圧できると誰もが考えていたところでショッキングな内容が飛び込んできた。

 文治六(一一九〇)年一月一八日、熱海の伊豆山権現のもとにいた源頼朝の元へ伝令が到着したのである。ちなみに、京都の皇族や貴族が熊野詣として京都を離れるように、源頼朝が新年には鎌倉を一時的に離れることは珍しくない。ただし、京都と熊野との距離と比べ、鎌倉と熱海との間の距離はそれほどでもない。理論上は一廉(ひとかど)の貴族としての新年の過ごし方を源頼朝もしていたということになるのだが、いざというときに駆けつけることのできる距離に留まるというのは源頼朝なりの配慮であった。

 話をもとに戻すと、伝令から戦況を聞いた源頼朝は耳を疑った。大河兼任率いる軍勢との戦闘で敗れ、鎌倉方に大きな被害が出たというのである。ここではじめて鎌倉方の情勢が不利になっていること、そして、数多くの死者が出ていることが判明した。戦乱そのものは前年に起こったことであり、その間に情勢は激変していたのである。

 氷が割れたことで多くの兵を失った大河兼任は進路を津軽方面に向けて遠回りをすることにした。吾妻鏡の伝える人数が真実であるとは言い切れないものの多くの兵を失ったことは事実であろう大河兼任である。大河兼任は真っ先に減ってしまった戦力を埋めることを考え、反乱に同調する者を現在の青森県のあたりで募ることにした。当初は津軽地方で、それから南部地方や下北半島に向けてアピールすることで鎌倉方の支配からの脱却を求める声を集めることに成功し、失った兵力以上の兵力を集めることに成功した。

 そして鎌倉方との最初の戦闘を迎え、大河兼任の率いる軍勢は鎌倉方に圧倒した。その知らせが一月一八日に届いたのである。ここではじめて由利雄平、宇佐美実政、大見家秀、石岡友景といった鎌倉方の武士達が次々と討ち取られたことが判明した。源頼朝はただちに熱海を発って鎌倉へと戻ることとした。一月二〇日にはもう鎌倉に到着していたというのであるから、新年の保養どころではない。

 鎌倉には既に多くの御家人が詰めかけていた。仲間の(かたき)討ちをするための出陣を求める声である。その中には既に年老いており、さらに病に苦しんでいる小諸光兼の姿もあった。源頼朝は敢えて彼の出陣要望を応えた。武士としての最後の一花と考えたか、あるいは仲間の(かたき)討ちと考えたか、それとも打算の結果かはわからないが、このような武士の参戦は多くの鎌倉武士を感激させたし、源頼朝はその感激に応えつつ戦意高揚に利用した。

 一月二七日、大河兼任に敗れた小鹿嶋公成が鎌倉へと逃れてきた。負け戦となっただけでなく多くの仲間が討ち死にをしたのに自分は逃げて帰ってきたということで小鹿嶋公成自身も恥の気持ちが強かったし、周囲の視線も決して好意的ではなかったが、それでも源頼朝は小鹿嶋公成を受け入れた。何しろ貴重な現地体験者なのである。それに、今ここにいる誰よりも雪辱に対する強い思いを抱いている人物なのである。また、一度は大軍を失った大河兼任がただちに軍勢の勢いを取り戻しただけでなく鎌倉方との戦闘で勝利を手にしたとあっては、今回の反乱は簡単に鎮圧できないことが誰の目にも明らかとなってしまったのだ。戦闘で死を迎えるのは一人の武士の散り際としては美しいかも知れないが、戦争の勝利のための行動としては誉められたものではない。死に場所を求めるのではなく戦争に勝つことを考えるのであれば、恥を受け入れてでも生き延び、挽回し、戦勝を手にすることである。小鹿嶋公成はそれをしたのだ。源頼朝は小鹿嶋公成を許しただけでなく、小鹿嶋公成のような行動こそが戦争で勝利を手にするために必要なことであるとして広く宣伝した。


 大河兼任の乱の続報が鎌倉に到着したのは文治六(一一九〇)年二月六日のことである。その前日に、源頼朝は現地の情勢を査察すべく最低でも三名の者を純粋な調査目的として派遣しているが、さすがに昨日の今日でただちに現地の情報が入ってくるわけはない。源頼朝の目的は報告の届く頻度を増やすことであり、この時点ではまだ一〇日に一度ほどの定時連絡という形になる。

 このときの続報が東北地方を出発したのは一月二三日のことであり、この時点ではまだ鎌倉から派遣された軍勢は東北地方に到着していない。現地では既に大河兼任が大規模勢力となっていて、比爪、平泉、さらには多賀城まで勢力を伸ばしてきていた。ここまで来ると、全盛期とまでは行かないものの奥州藤原氏を彷彿させる勢力だ。吾妻鏡によると多賀城は既に大河兼任の支配下に入り、大河兼任は既に数万騎以上の軍勢を数える勢力になっているという。

 普通に考えれば極めて厳しい情勢だ。

 ところが源頼朝はそうは考えなかった。

 反乱が大規模になったことは認めたが、その反乱がどこまで現地の支持を得ているのかという問題がある。さらに、反乱を起こして多くの支配地を手にしたのは事実でも支配地をどのように統治しているのかという問題がある。そして、当初はリーダーとして掲げたはずの源義経や源義高が実際にはいないという現実がある。この三番目が問題であった。源義経は生きていると考えたからこそ、あるいは源義高は生きていると考えたからこそ今回の反乱に同調したのに、いつまで経ってもリーダーたる源義経や源義高は現れないどころか、副官であるはずの大河兼任がリーダー面して指図している。おまけに、食糧も物資も現地調達だ。現地調達と言えば聞こえは良いが、やっていることは占領地からの略奪である。大河兼任の乱に加わった者の中には、まさに自分達の軍勢が故郷を、さらには自分の家族の住む家に襲い掛かって物資を奪うところを目の当たりにした者もいるし、目の前で家族が犯されたのを目の当たりにした者もいる。反乱軍に加わっている者は反乱の正義に疑問を持つようになり、夜闇に乗じて軍を離れることが続出した。反乱軍に加わっている者ですら逃亡したのであるから、そうでない一般市民に至っては大河兼任の軍勢など反乱軍ではなく強盗集団でしかなく、歓迎ではなく憤怒の対象である。こんな奴らの支配下に入るくらいなら鎌倉方の軍勢のほうがはるかにマシだった。

 源頼朝は大河兼任の率いる軍勢に向けて書状を送った。国法に照らせば反乱に参加した者は死罪であるが、鎌倉方に投降した者は特例として罪を減じるとしたのである。無罪でなければ投降できないという考えの兵もいたであろうが、罪を減じるならば投降することを考える兵も現れたのだ。これは大河兼任にとって痛手であった。


 文治六(一一九〇)年二月一二日、鎌倉方の反撃が始まった。

 記録はその前日に鎌倉方の軍勢が平泉を出発したところから始まる。多くの兵士が大河兼任の率いる反乱軍から離脱したとは言え、それでも大河兼任のもとには一万騎以上の軍勢があった。

 これに対する鎌倉方の軍勢であるが、足利義兼、小山宗政、結城朝光、葛西清重、関次郎政平、小野寺道綱、中条兼綱、中条藤次といった面々が率いており、その軍勢は雲霞のようであったとするのが吾妻鏡の記載だ。ただし、軍勢集結について綿密な計画を立てていなかったらしく、さらに冬という時期の影響もあって、軍勢が揃う頃にはもう完全に陽が沈んでいた。そのため、大河兼任との戦闘は翌日になるとの算段から、戦場となる可能性の高い場所に到着する前に一泊することとした。なお、吾妻鏡によると一迫(いちはさま)、現在の宮城県栗原市の一部をなす地域の少し手前で宿泊することにしたとある。

 鎌倉方との第一戦で勝利した大河兼任であるが、その戦いは前哨戦でしかないこと、これから鎌倉方が本気になって討伐に来ることは理解できていた。また、鎌倉方が平泉の奪還を目指して軍勢を集めていることは理解できていた。そのため大河兼任率いる軍勢にとって都合の良い場所に陣を構えることとしたのだが、鎌倉方の軍勢の規模は大河兼任の想像をはるかに超えていた。これでも源頼朝の率いた奥州遠征のときよりも少ない軍勢であるのだが、大河兼任にとっては一蹴されてしまう規模の軍勢であったのだ。

 おまけに大河兼任の軍勢は世論の支持を得ていなかった。自分達が何をしてきたのかを顧みて、それがいかに正義や独立の名の下で繰り広げられてきたことであろうと、鎌倉方のほうが解放軍で自分達は侵略者であることは誰の目にも明瞭であった。

 さらに大河兼任にとって脅威であったのが、このときの鎌倉方は鎌倉の派遣した軍勢がまだ到着していなかったということ、つまり、その時点の東北地方で用意できた鎌倉方の軍勢だけで大河兼任の軍勢を圧倒していたということである。それだけでも脅威であるのに、夜が明けたときに鎌倉方の派遣した指揮官の一人である千葉胤正の率いる軍勢まで加わったことでもはや太刀打ちできないと判断して、大河兼任は戦闘ではなく逃亡を選んだ。多少の戦闘にはなったものの、反乱軍の大部分は敗走、撤退ではなく文字通りの敗走となり、戦闘ではなく逃げていく反乱軍の軍勢を鎌倉方の軍勢が追いかけるという図式になった。

 一万を誇っていた大河兼任であったが、平泉を超えて北上し、衣川にまでたどり着いた大河兼任と同行できたのは五〇〇騎ほどであったという。数の誇張があるから鵜呑みにはできないが、逃走率九五パーセントというのは敗北以外の何物でもない。それでいて五〇〇騎を率いることができるとあれば、完敗ではなく挽回可能な規模でもある。さらに、大河兼任が多くの人をスカウトした津軽地方、南部地方、下北半島といった現在の青森県のあたりは、大河兼任のもとに軍勢を提供した一方で、大河兼任の軍勢による暴行や略奪の損害を被っていないため、大河兼任に対する支持者も多かった。その支持を土台として大河兼任は現在の青森市の浅虫温泉あたりにある有多宇末井之梯の山頂に城塞を築いて抵抗することにした。ちなみに、有多宇末井之梯はウトウマイノカケハシと読む。無理して漢字を当てはめた地名だと感じるであろうが、実際にその通りで、元来の蝦夷の地名に漢字を当てはめた結果である。

 大河兼任はここまで来ればさすがに鎌倉方の軍勢も来ないであろうと考えたし、来たとしても抵抗できると考えたようであるが、鎌倉武士はそれを許すほど甘くはない。どこへ敗走していったのかを調べて大河兼任のもとまでたどり着いた足利義氏らはただちに城攻めを行い、大河兼任は防戦もむなしく城を捨てて逃走、残された者は、ある者は戦死し、ある者は降伏して投降した。

 文治六(一一九〇)年二月一二日から始まった戦いの様子は、二月二三日にはもう鎌倉の源頼朝のもとへと届いていた。ただし、この時点での大河兼任は行方不明というものであり、派遣された軍勢によって捜索が行われているというのが源頼朝のもとに届いた情勢である。


 吾妻鏡の記載に従うと、大河兼任についての続報が源頼朝のもとに届いたのは文治六(一一九〇)年三月二五日のこととなっている。かなりのタイムラグが生じてしまっているが、源頼朝がどのような人であるかを考えると、タイムラグが生じているのではなく、吾妻鏡に残すまでもない情報が適宜届いており、吾妻鏡編纂時に載録に値すると判断した記録となると三月二五日まで飛ぶこととなったといったところであろう。

 三月二五日に届いた知らせ、それは、大河兼任の死である。それも戦場での死ではなく、逃走に逃走を重ねた末に、地元の人達に惨殺されたというものである。

 大河兼任の死に至るまでの流れを記す吾妻鏡の記述は、反乱を起こした敗北者の逃避行の様子を容赦なく書き記している。

 山の上に城を築いて徹底抗戦を意図したとき、大河兼任は今で言う青森市にいた。そのあと、花山、千福、山本といった土地を経て、亀山を超えて栗原寺に出たところで、地元の人達に見つかってしまい、身につけている装備がいかにも高級品であることから怪しいとみられ、現地の人達に斧で叩き殺されたというのが吾妻鏡での情景だ。

 これを現在の地図で捉えると、花山は現在の宮城県気仙沼市もしくは岩手県気仙郡、千福は秋田県仙北市もしくは岩手県盛岡市の仙北町、山本は宮城県山本町に比類されている。そして、大河兼任が最期を迎えた栗原寺は現在でも宮城県栗原市に現存しており、その前にいた亀山となるとこちらもまた現在の気仙沼市だ。ここまでくると、記した地名そのものが逃避行先としては事実ではなく物語に虚飾をもたらすための無意味な地名の列挙である可能性もあるが、青森市での敗北の結果の逃避行として、東北地方各地を行く当てもなく彷徨った様子としても考えられる。

 確実に言えるのは、青森市で敗北した大河兼任が、現在の宮城県栗原市で惨殺されたということである。これで大河兼任の乱は完全鎮圧したこととなるが、見過ごしてはならないこともある。反乱において多賀城が大河兼任のもとに降ったということである。平泉や比爪のように侵略されただけなら、純粋な復興で戦後対処となる。だが、大河兼任の支配を率先して受け入れた、それも、いかに一〇〇年間に及ぶ奥州藤原氏の支配によって実質的な中心地が平泉に移っていたとは言え、陸奥国を統治する行政の中心は多賀城であったのだ。地域の名目上の中心地が相手の軍門に自ら降ったというのは、大河兼任にとっては最高の、鎌倉方にとっては最悪の事態である。

 源頼朝は大河兼任の乱の完全鎮圧が完了する前の文治六(一一九〇)年三月一五日に、伊沢家景を陸奥国留守職に任命して現地に派遣した。伊沢家景はもともと藤原北家の血を引く貴族であり、本名も藤原家景という。ただ、いかに藤原北家の血筋とは言え中央政界で貴族としてやっていけるほどの価格を得ていなかったこともあって、大納言藤原光頼の家司を務めるようになっていた。それだけであれば歴史の闇に消えてしまっていたであろう人物であるが、文治三(一一八七)年に源頼朝代官として上洛した北条時政が伊沢家景の才能を見いだし、北条時政が推薦したことで、大納言藤原光頼のもとを離れて鎌倉に出向き、源頼朝に仕えるようになった。

 その伊沢家景を、反乱終結後の東北地方の民政責任者に任命したのである。軍事については平泉に残ることとなった葛西清重が受け持つため、伊沢家景は東北地方の非軍事的政務に専念することとなった。なお、伊沢家景はそのまま多賀城とその近郊に居住し続けただけでなく子孫もそのまま東北地方へと残り歴史をつなぎ続けた結果、伊沢家景は、直系の祖先ではないものの戦国時代の伊達政宗のルーツの一つとなることとなった。


 源頼朝が定期的に京都から情報を得ていたことは何度も書いてきたことである。京都から得ている情報が重要な情報なら情報量が多く、重要でない情報のときは些事で分量を埋め尽くした内容であった。

 文治六(一一九〇)年四月二〇日に届いた情報も当初は些事と思われていたが違った。

 一条能保の妻が難産のために亡くなったというのである。

 亡くなったのは四月一三日で、亡くなったことの知らせが届いたのが四月二〇日であったとするのが吾妻鏡での記載であるが、別史料では、四月一三日に亡くなったのではなく四月二〇日に亡くなったと記している。なお、どちらの史料においても、かなり早い段階で源頼朝のもとに彼女が亡くなったという知らせが届いたという点で一致を見ている。

 一条能保の妻は源頼朝の実姉とも実妹ともされる坊門姫であり、源頼朝はこの瞬間に同じ母から生まれたきょうだいを全員無くしたこととなる。なお、坊門姫が源頼朝の姉とする説と妹とする説の双方があるのは彼女の生年について二つの説があるからで、久寿元(一一五四)年生まれとする説を採ると源頼朝の妹、久安元(一一四五)年生まれとする説を採ると源頼朝の姉ということになる。

 源頼朝は坊門姫の死を知った二日後に弔いのための使者として山田重弘を京都へ派遣することとした。

 そしてここで、吾妻鏡の記載に従うと整然としないことが出てくる。

 四月二五日に京都から一つの連絡が来た。四月一一日に改元し、文治六年を建久元年とするという知らせである。

 繰り返すが、四月一一日に改元したという知らせである。そして、坊門姫の亡くなった日付は四月一三日で、その知らせを受け取ったのが四月二〇日とするのが吾妻鏡の記録だ。つまり、坊門姫の死を告げる情報は新しい元号でなければならないのであるが吾妻鏡には新しい元号で知らせを受けたことの記載が無く、四月二五日になってようやく元号が鎌倉に届いたということになる。

 これは整然としない流れである。

 しかし、こう考えると辻褄が合う。

 京都と鎌倉の温度差の違いだ。

 大河兼任の乱は、鎌倉には大きな衝撃をもたらしたが、結果的に鎌倉方による東北地方統治をさらに加速することとなった。一方、京都にはさほどの影響を与えることはなく、何事も無かったかのような平穏が続いていた。鎌倉にとっては奥州藤原氏を滅ぼした後で反乱があったこと、その反乱によって自分達が一度は敗れたことは大きな衝撃であったが、京都にとっては、これまで一〇〇年間に亘って権勢を誇ってきた奥州藤原氏の滅亡ならばインパクトはあっても、その残党の反乱などどうでもいいことだったのである。

 源頼朝という人は、情報の重要性を熟知し、情報の有無ではなく情報の定期収集の重要性を察知し、そして、実践していた人である。その源頼朝のもとに届く京都からの情報は、物の見事に大河兼任の乱を無視した、あるいはそもそも反乱そのものが視界に入っていない情報である。


 文治六(一一九〇)年四月一一日のこととして京都から伝わった、正確に言えば京都から全国に向けて意図的に発出された情報は、京都ではやはり反乱のインパクトが全く生じていないのだと改めて認識させるに十分な情報であった。既に述べたように、それが改元である。この日を以て建久へと改元することが公布されたのだ。

 源頼朝は京都から鎌倉まで七日間で情報を受け取ることの仕組みを構築してきた人である。仕組みに従えば四月一八日には、悪天候などのやむを得ない事情があったとしても坊門姫の死を伝える情報が届いた四月二〇日時点で改元を知っていたはずであり、四月二五日に改元の情報が届いたのは、源頼朝の用意した専用の情報連絡網ではなく、朝廷の従来の情報伝達であったとすれば、四月一一日の情報がおよそ半月で鎌倉に届くことになるわけで不都合ではない。

 実際、改元だけを考えれば納得いく話であった。現在のように新帝即位だけなく、天災や人災、陰陽道によって改元するのは当然のことであり、反乱勃発というかなりの危機的な人災が起こったのだから改元という選択を朝廷が選んだとしてもおかしくはないと源頼朝は、そして、鎌倉の誰もが考えた。だが、文治から建久への理由を知ると、源頼朝は、そして鎌倉の誰もが唖然とした。文治六(一一九〇)年は陰陽道でいう三合の年であり、この年は天才や兵乱が多発することが多いとされることから、そうした災害が起こる前に建久へと改元することで災禍を逃れるというのである。つまり、既に発生した反乱については全く考慮に入っていないのだ。

 大河兼任の乱のことを京都にどれだけ訴えても無駄であった。既に反乱は鎮圧されたではないか、あるいは反乱勃発は昨年のことであり今年はその続きではないかと言われて終わりだ。

 こうした京都と鎌倉の温度差は源頼朝に一つの決断をさせるに十分であった。

 上洛である。

 平治の乱で敗れて流罪となって京都から追放されたのを最後に、源頼朝は京都と接点を持ってはいても、自身は京都まで向かうことが無かった。これまで何度も上洛を促されてきた源頼朝であるが、断固として上洛を受け入れることはなかったのだ。

 それがここに来ての上洛の決意である。武士を率いる身として、また、一人の貴族として京都へ向かい、京都と地方との差を直接埋める必要性を感じていたのだ。

 また、既に正二位の位階を得ていながら議政官の一員に名を連ねているわけでないばかりか、何の役職も得ていない。位階だけあって役職は無いという貴族は珍しくはないが、正二位という高い役職にありながら位階相当の役職を得た経験のない貴族というのは極めて珍しい。位階はあっても役職がないという貴族でもかつては何かしらの役職を手にしていたのであれば相応の発言権も付帯するが、役職経験がなく位階だけあるというのでは発言権も乏しいものとなる。

 役職経験が無いゆえに発言権も制限されているというのならば、何らかの形で役職を得ればいい。役職に就いた経験がない理由が京都にいないからだというのならば京都へと行けばいい。京都に姿を見せて役職経験を得て発言権を獲得し、自らの意思を国政に反映させることが必要な時代を迎えたと源頼朝は考えたのである。

 ここにさらに、源頼朝だからこそ可能なポイントが加わる。それが何であるかは実際に源頼朝が意思を表明したときに記すが、ヒントを二点記すと、後鳥羽天皇の即位の情景と、他の貴族は持っておらず、ただ一人、源頼朝だけが持つ要素である。

 文治から建久へと改元された建久元(一一九〇)年四月一一日時点で、鎌倉から源頼朝が上洛してくるらしいという知らせはまだ京都に届いていない。当然だ。源頼朝が上洛を決意するきっかけとなったのが改元の知らせなのである。


 源平合戦が終わって平家が滅び、奥州藤原氏も滅亡し、唯一の武力集団となった源氏も鎌倉に滞在したまま動かないでいる。京都は目指すべき過去の姿への回帰を求め、摂政九条兼実は藤原摂関政治の全盛期である藤原道長の時代へ、後白河法皇は過去二代の院政期への回帰を求めており、京都における政治対立を突き詰めれば、摂関政治への回帰か院政の復帰のどちらにするかという対立に終始していた。そして、その双方ともが京都とその近郊の民意のみに基づく政治であった。現在の感覚で言うと、国会議事堂のある東京とその近隣の県からの声だけで国政を動かすようなもので、ここに地方からの声が入り込む余地もなかった。この時代に議会制民主主義はないが、現代風に捉えれば京都とその近郊だけしか選挙区がなく、京都とその近隣に住む人達しか選挙権を持っていないようなものである。その他の地域には選挙区もなければ選挙権もないため、その他の地域に分類される鎌倉の声は国政へと反映されないでいる状況だ。

 この状況がおかしいことを、後白河法皇も、摂政九条兼実も、そしてどの貴族も理解することはなかった。京都にいたままでは未来も期待できず時代を掴めないが、京都を離れれば豊かな暮らしや輝ける未来を期待できると考えて実行する貴族もいたが、そして、鎌倉にしても、平泉にしても、そうした貴族を抱え込むことで発展することができたのであるが、それでも京都の朝廷に自らの意見を届けることも、ましてや意見を国政に反映させることも、ありえないことだと思っていた。鎌倉から源頼朝の代理人として京都に行くことがあっても、あるいは平泉から奥州藤原氏の代理人として京都に行くことがあっても、京都において国家運営の中枢に関わることなど考えられなかった。京都を離れることは豊かな暮らしと未来への期待を手にする代わりに中央政界での出世を諦めることであったのだ。

 その見識が常識とされていた時代に、あくまでも鎌倉の立場で中央政界に名を連ね国政に携わろうとする源頼朝のほうが、良く言えば時代を先取りしていた、一般的に考えればあまりにも異例なことをしていたのである。

 ところが、鎌倉が抱いたようなこれまでにない認識をする人物が京都にいた。それも誰も無視できぬ存在として君臨していた。

 後鳥羽天皇だ。

 四月四日と言うから改元前のことである。後鳥羽天皇はこの日、南殿の御後で密々の小弓御会を中山忠季や坊門信清らと開催した。両名とも貴族であると同時に、それが象徴的称号であったとしても武官としての官職を経験してきた貴族であり、天皇が弓矢をともに楽しむという点で誰を選ぶかとなると、選ばれたとしてもおかしくない人物である。特に坊門信清こと藤原信清は後鳥羽天皇の生母である藤原殖子の実弟である。弓矢を楽しむという点に限定するのではなくプライベートの時間という幅広い視点で捉えると、叔父と甥という関係になる。また、木曾義仲の法住寺合戦においては侍従として後鳥羽天皇の身を守ったのが坊門信清である。後鳥羽天皇にとっては頼れる叔父という認識であったろう。

 もっとも、いかに叔父とともにプライベートの時間を楽しむと言っても、天皇が儀式として弓矢を取り扱うならまだしも、趣味として弓矢を扱うのは異例だ。しかし、後鳥羽天皇の立場に立つと二つの側面から意味のある話になる。一つは純粋に趣味として。天皇が私的な趣味を持つこと自体はおかしな話ではない。現在でも皇室の方々がテニスをする姿や生物学や歴史学の研究をする姿を見ることは普通だ。それはこの時代でも同じで、後白河法皇のように今様にのめり込む姿は異例といえば異例であるがおかしな話ではない。後鳥羽天皇はその趣味の対象が弓矢であるというだけである。厳密に言えば和歌の趣味も加わるから、弓矢だけが後鳥羽天皇の趣味というわけではない。

 問題はもう一点。時代が武芸を求めるようになっていると考えたことだ。これは幼さゆえの短絡思考と一刀両断すれば済む話ではない。この時期の後鳥羽天皇自身が一人の武人として戦場を渡り歩くことを想定していたかどうかはわからないが、少なくとも武芸に通じていなければ時流を見誤ることになると察していたことは疑いようがない。源平合戦が終わったとしても、奥州藤原氏が滅んだとしても、遡れば保元の乱からずっと武士が政界の中枢に食い込む時代を迎えており、現在進行形で鎌倉に巨大武装勢力が存在している。この現実を目の当たりにしたならば、文武両道を学んで武芸に対する知識を得なければ執政者たることはできないと考えるほうが正しく、文武両道を捨てて武をないがしろにし、文にこだわるほうがおかしいとすべきであろう。

 後鳥羽天皇は元服しているので理論上こそ大人の仲間入りをしているが、元服前から摂政であった九条兼実は、関白へと転じることなくまだ摂政であり続けていた。元服を迎えたなら摂政は関白へ転じる原則があるが、元服を迎えてもまだ天皇が幼いと判断されたならしばらくの間、それも数ヶ月ではなく年単位で、関白に転じることなく摂政のままであり続けることは珍しくなかった。その意味で九条兼実が摂政のままであることについては誰も何も言わないでいた。ただ、後鳥羽天皇は九条兼実が考えていたような、そして周囲が考えていたような少年ではなかった。時流を完全に読んでいたのである。

 無論、この時点で後鳥羽天皇のもとに源頼朝上洛の知らせが届いているわけはない。いかに情報に秀でた源頼朝とて、ここまで早期に京都まで自身の情報を届けることなどできない。


 建久へと改元してから八日後の建久元(一一九〇)年四月一九日、後鳥羽天皇の元服のために太政大臣に就任していた摂政九条兼実が太政大臣を辞任し、摂政専任となった。

 幼帝の元服自体は藤原摂関政治の歴史において頻繁に見られたことであり、後鳥羽天皇の元服から四ヶ月を経たこの時点で九条兼実が太政大臣を辞職するのも、これまでの藤原摂関政治においてごく普通のことであった。また、天皇が元服しても摂政から関白に転じることはなく摂政であり続けていることも珍しいことではなかった。

 元服を迎えても摂政が存在し続ける限り、基本的には摂政が天皇の内裏としての政務を執る。それは九条兼実が事前から想定していたことである。

 後鳥羽天皇の元服を終え、自らの娘を入内させることに成功した九条兼実はここで、自身と皇室とのつながりをさらに強固なものとすべく策を練った。

 後白河法皇と丹後局との間に産まれた少女への内親王宣下の際に、准三后と院号宣下の双方を用意するか否かで議論が紛糾し、後鳥羽天皇の元服をスムーズに執り行うために将来の院号宣下を考慮することを九条兼実が受け入れたことは既に記した通りである。その結果として覲子内親王は将来の院号が確約された上に准三后も得たこととなったのも既に記した通りだ。

 九条兼実は、組織としての後白河院の後継者となり得る覲子内親王への対抗、より正確に言えば覲子内親王の実母として権勢を振るうことになるであろう丹後局への対抗と、自身の皇室とのつながりをさらに強めること、そして、肝心の皇室の権限強化を図ることとした。

 その第一段として、四月二二日に後鳥羽天皇の生母である藤原殖子への准三后宣下と院号宣下が決まったのである。以後、藤原殖子は七条院の院号を得ることとなった。後鳥羽天皇は平家都落ちの影響で急遽擁立された天皇であり、源平合戦がなければ帝位に就くことはおろか皇位継承権を考慮されることもなかった人である。将来の帝位が期待された状態で生まれた皇族は、その多くが皇后ないしは中宮を母として生まれた男児であるが、後鳥羽天皇の生母である藤原殖子は皇后位を得た経験も無ければ中宮となった経験も無い。藤原殖子の父は坊門信隆こと藤原信隆であるから、藤原北家の人間であるものの、最高位は従三位修理大夫という、藤原摂関家の中でも傍流という経歴の人物である。そうした人物の娘である藤原殖子は高倉天皇の後宮に入るところまではできても、皇后になることもできなければ中宮になることもできないという境遇を余儀なくされていた。

 ところが、その藤原殖子の産んだ男児が帝位に就いたことで藤原殖子の運命は、そして、既に故人となっていた坊門信隆の運命は激変した。後鳥羽天皇の即位から間もなく亡き坊門信隆に対して従一位左大臣が遺贈されたことで、後鳥羽天皇は左大臣の娘から生まれたという扱いになり、生母の地位の低さなど関係なくなった。そして、ここに来て藤原殖子に対する院号宣下である。こうなると、覲子内親王への院号宣下を実現させたところで相対的に覲子内親王に与えられる院号の価値が下がることとなる。丹後局としては愉快な話でなかったろうが、天皇の生母である女性に対する准三后と院号の宣下である以上、文句を言う余地は無い。もっとも九条兼実は、七条院藤原殖子と、その弟である坊門信清のことを一段低く見ていたようで、日記への記述や後の態度などを見る限り、利用する対象ではあっても敬意を払う対象とは捉えていなかったことが窺える。


 そして、九条兼実の打ち出した第二弾が、建久元(一一九〇)年四月二六日の中宮宣下である。後鳥羽天皇のもとに入内した九条兼実の娘の藤原任子が中宮となったことで、九条兼実は藤原摂関家内の争いにおいてゴールまであと一つまで来ることとなった。そのゴールとは、藤原任子が後鳥羽天皇との間に男児を産むこと。その男児はかなり高い可能性で帝位に就く。過去二例の院政を踏まえれば、後鳥羽天皇が退位して上皇となり、産まれて間もない男児に帝位を授けることで院政を敷くことも考えられるが、白河院政も、鳥羽院政も、天皇の生母の父親が藤氏長者であるという例はなかった。それどころか、天皇の生母の実父が藤氏長者であるという例を求めるためには後冷泉天皇まで遡らねばならず、一二二年に亘って藤氏長者は自分の娘の産んだ男児を帝位に就けさせることに失敗し続けていたのである。だからこそ院政が成立していたのであり、ここで藤氏長者たる九条兼実の娘が男児を産むことに成功すれば院政を白紙に戻して摂関政治に回帰することも不可能ではなかったのである。

挿絵(By みてみん)

 それに、そのときに院政が継続するとなっても院政を敷くのは後鳥羽天皇、いや、退位を前提とするのでそのときは後鳥羽上皇と記すべき人物となる。九条兼実と後鳥羽上皇のどちらが政治の実権を手にするかを考えたとき、若さゆえに経験の浅い後鳥羽上皇ではなく、院政時に帝位に就いている男児の摂政となっている九条兼実でなければならない。仮に後鳥羽上皇が飛び抜けて優れた実力を持った政治家であったとしても、法に基づく権限を有さない上皇ではなく、法に基づく権限を有する摂政により強い権限が渡るようでなければならない。

 このときの九条兼実の脳裏に鎌倉における危機感は無かったと言えよう。いや、危機感が無かったのは九条兼実だけではなく、主立った皇族や貴族のほぼ全員が危機感を有していなかったと言える。彼らは一様に同じ考えであった。源平合戦が終わり奥州藤原氏も滅亡したことで、それまでの戦乱の時代が終わって平和が蘇ったと考えた。そこまでは問題ないが、その結果は院政の再復か藤原摂関政治の復活のどちらであって、そのどちらでもない第三の道については何ら考慮していなかったのである。

 ところが、ここで言う「主立った皇族や貴族」に該当しない人物にまで目を向けると鎌倉方の手が伸びていたことがわかる。繰り返し述べているように、源頼朝という人は京都からの情報を定期的に受けていた人だ。そして、情報を遠くまで伝えることができる人となると、現在のようにほぼ全ての人がネットを通じて情報を遠くまで伝えることのできる時代と違い、この時代はごく一部の限られた人でなければ不可能である。つまり、京都から鎌倉まで情報を発することのできる限られた人を鎌倉方としても常置させておかなければならない。発信者自身が交替することがあるし、交替した発信者の個人的資質による情報の質の差異もあるが、それでも源頼朝か京都に誰かしらを滞在させ続けて情報を獲得し続けていた。そして、その「誰かしら」は、京都においてそれなりの社会的地位を獲得している人物でなければならない。つまり、朝廷にしろ、院にしろ、国家組織の中枢に食い込んでいる人物を鎌倉方の人物としてあり続けさせたのである。彼らは例外なく、京都における鎌倉方の代弁者にもなりうる人であった。

 彼らは何も、源義経や北条時政のように明瞭な形で鎌倉の代理人となっていた人物ではない。言わばスパイとして朝廷や院の中に紛れ込んでいた人物である。その人物が鎌倉と接点を持つ人物であったことに周囲が気づくのは、鎌倉のスパイであることの役目を終え、かつ、スパイであったことが明らかとなったとしてもその後の人生に特に影響も無くなったときである。すなわち、スパイを探そうとする側にとってはとっくに手遅れなタイミングである。


 源頼朝が上洛を考えていることが京都に伝わったとき、当初はあくまでも打診であり、実際の上洛はまだまだ先のことであろうとするのが多くの人の考えであったが、日を追う毎に源頼朝の上洛が現実味を帯びるようになった。

 そして多くの人がこう考えるようになった。

 なぜこのタイミングで上洛なのか、と。

 それまで何度も上洛を促されながら上洛することなく、当初は源義経を、次いで北条時政を、そして一条能保を代理人として京都に留め置いたことは記憶に新しいところであるし、初代の代理人とすべき源義経については、その軍事力を後白河法皇が利用しようとしたために源氏内部での争いへと発展し、さらには奥州藤原氏の滅亡へとつながった。

 京都がしきりに源頼朝の上洛を求め続けてきたのは平和の構築のためである。それなのに、戦乱が幕を閉じた今になって源頼朝が京都にやってくるというのである。必要なときに来ないでいながら、用が済んだらやって来るというのは、釈然としないものがある。

 もっとも、源頼朝はかなり異例なことをし続けているのである。何しろ正二位の位階を持っているのだ。これだけ高位の位階を持っている人物が京都にいないというのは例を探すのが難しい話だ。たしかに、熊野詣に出かける、平清盛のように福原に滞在する、あるいは太宰府をはじめとする地方へ赴任するといった事情で京都を離れる貴族はこれまで当たり前のようにいたから、源頼朝とて何も先例の無いことをしているのではない。とは言え、平治の乱で敗れて伊豆に追放となってから現在まで一度も京都に戻ってきていないのである。この年で四四歳である源頼朝は、三一年間もの長きに亘って京都から離れ続け、京都から遠く離れた鎌倉に滞在し続けてリモートコントロールを展開し続けているのである。

 政務のリモートコントロールには先例がある。この時代の人達が何かにつけて理想としていた藤原道長だ。頻繁に病床に伏すことの多かった藤原道長は、病床にありながらも情報を受け取り続け、書状を送り続けてきた。リモートコントロールの頻度で言えば歴代の有力貴族の中で群を抜いていると言えるし、藤原道長を理想とする貴族も多かった。ただ、その理想とする藤原道長もあくまでも京都市中に滞在し続けていたのであり、源頼朝のように京都から遠く離れた場所からリモートコントロールをしていたわけではないのである。源頼朝と藤原道長とは同列に認めるわけにはいかないのだ。たとえそれが実際に同列に値すると本心では認めざるを得ないにしても、いや、同列に値すると本心ではわかっているからこそ認めることは許されないのだ。

 その源頼朝が、リモートを捨てて上洛する。そこには必ず何かしらの意味がある。しかし、その意味は京都の誰もが理解できずにいる。先に、源頼朝は京都から鎌倉への連絡を送る役割を負った人物を京都に滞在させ続けさせていたことを記した。そして、その人物を鎌倉のスパイと記し、その人物がスパイであったことが明らかとなったときにはもう手遅れであるとも記した。手遅れである理由はスパイとなった人物が京都を離れて鎌倉に、あるいは鎌倉以外ではあるが鎌倉方の影響力の強いところに身を置くようになったからでもあるが、その人が仮に京都に滞在し続けたとしてもやはり手遅れなのである。

 なぜか?

 その人物はたしかに鎌倉へ情報を送っているし、鎌倉からその人物へ向けての情報も届いている。ただ、そこにある情報は事実だけであり、真実ではないのだ。源頼朝が奥州藤原氏を討伐すべく軍勢を北へ進めたこと、奥州藤原氏を滅ぼしたこと、奥州藤原氏の残党が反乱を起こしたこと、そして、源頼朝が上洛を考えていること。こうした事実は情報として鎌倉から京都へと送られているが、肝心の目的が送られていないのだ。どういった目的があり、何のためにそのような行動をするのかといった情報が届いていないのに、スパイであるとして捕縛し鎌倉の真意は何かを問い質そうとしても、何の答えも得られない。知らないものを答えようがない以上、スパイを尋問してこれからの鎌倉方の動きを探るなど、どう足掻いても不可能である。


 源頼朝が上洛に向けてどのような行動をとってきたかを時系列で追うと、以下の通りとなる。

 文治四(一一八八)年四月、後白河法皇が院御所としていた六条殿が火災に遭い、後白河法皇が源頼朝に復旧工事の協力を依頼。それに対し源頼朝は予算と人員を提供するも、源頼朝自身は上洛することなく鎌倉に滞在し続けた。

 文治五(一一八九)年五月、駿河国の地頭を罷免した。

 文治五(一一八九)年七月、伊勢国の地頭を罷免した。

 文治五(一一八九)年一一月、奥州合戦の恩賞を辞退した。

 文治五(一一八九)年一二月、奥州合戦の恩賞を再度辞退した。

 ここ二年間で源頼朝はこれだけの譲歩を京都に対して示していたのであるが、それに対する答えは無かった。全く無かった。そもそも源頼朝が示していた行動が譲歩であるとする認識がなく、ただただ院や朝廷の出す命令に従っていただけとする認識であり、源頼朝が独自の政治的見解を示すために譲歩したという概念は無かったのである。

 源頼朝が上洛の意思を最初に示したのは文治五(一一八九)年の年末であるが、そのときはここまで喫緊となっていなかった。源頼朝自身は上洛の必要性は感じていたものの、奥州藤原氏を滅ぼしたことに伴う戦争終結と平和再復が上洛の主目的であった。しかし、その後の京都と鎌倉との温度差、あるいは、首都と地方との温度差が、地方の代弁者たる源頼朝の上洛という形になった。

 そこまでして源頼朝は何を求めたのか。

 法制上で記せば既に記したように正二位の位階に応じた権利と権力の獲得であるが、本心から言えば、京都が全国的対策として打ち出している政策が、地方にとっては過重な負担になっていることへの根本対策である。要は現場を見ることなく打ち立てた机上の空論が地方の暮らしを苦しめているのだ。過剰な負担について、源頼朝の権限で排除できることは可能な限り排除していた。地頭に対する不満の声が挙がっている土地の声に応えるように過剰な年貢徴税を求めた地頭を罷免した。それでも京都が求める地方の負担は限界を超えていた。戦争の悪影響もあるし、飢饉からの回復途上という事情もあるが、それを踏まえても今の地方に京都の需要を満たすだけの税負担はできない話であった。

 源頼朝が文治元(一一八五)年一一月に守護と地頭を全国に設置する権利を得たと吾妻鏡が記した内容は、五畿、山陰道、山陽道、南海道、西海道の諸国に対し田一段あたり兵糧米五升を徴収する権利である。そして、この権利については文治二(一一八六)年二月末にこの権利が白紙化している。厳密に言えば未納分の納税免除である。注目していただきたいのは、権利対象として掲げられた地域から、東海道、東山道、北陸道、すなわち、鎌倉方の勢力の強い地域が除外されていることである。

 法に基づく税の重さで言えば、律令制がもっとも軽く、摂関政治、院政、源平合戦と時代を経るにつれて重くなっている。というより、律令制に記されている税率が現実を無視するレベルでの軽さであり、法の隙間を縫っての徴税となると、律令制のほうが重くなり、摂関政治になると軽くなり、院政でまた重くなって、源平合戦で冗談では済まない重さになった。


 かといって、税を受け取る側が年々豊かになっているかというとそんなことは無い。貴族の豊かさで言ってもやはり藤原摂関政治のほうが豊かであり、院政、源平合戦へと時間を経るに連れて豊かさが失われていった。理由は簡単で、貴族一人あたりの収益が減ったから。かつては荘園そのものが稀少な存在であり荘園を持つ貴族もまた稀少であった。それが、時代とともに荘園が増えたものの、その増加を超えるペースで荘園を有する貴族も増えていったために、貴族一人あたりの豊かさが減っていったのである。公卿補任を見ても、年を経るごとに高い位階の貴族が増えていること、議政官の絶対数が増えていることが読み取れる。そして、そのほぼ全員が藤原北家である。少し前であれば藤原北家に生まれたというだけで絶大な権力と豊かな暮らしが待っていたのに、時代とともに権力と豊かさを失うようになっていた。先祖から伝わった日記を読めば読むほど自らの時代の不遇を嘆くしかなかった。

 この嘆きが広まっている中で保元の乱が起こり、平治の乱が起こって平家が政権を握り、源平合戦で平家が滅んだ。平家政権は藤原北家が政権を握り財力を握っている最中に平家の公達を押し込んでできあがった政権であり、権力と財力を藤原北家から平家が奪ったという構図にもなっている。おまけに、京都は二度も破壊された。福原遷都で建物が破壊され、木曾義仲の劫掠で資産が破壊された。つまり、奪われた権力と資産を取り戻すという動きがあり、復旧のための資産をかつて所有していた荘園からの収入に求めたのである。

 さらに復旧を求める声が強くなっていたのが平安京とその周辺の庶民である。養和の飢饉で多くの人が餓死し、その後の木曾義仲の劫掠で飢饉を乗り越えた多くの人が亡くなり、生き残ることのできた人も家族を失い、財産を失い、住まいを失っていた。首都の庶民にとって京都の復旧は喫緊の話であり、復旧しなければ生きていけないという切実な問題かあった。藤原北家を中心とする貴族達が地方から年貢として取り立てた結果が市場(しじょう)に流れ込んだならば都市住民は生活を建て直すことができるのである。地方の人達に重税を課すこととなってしまうと説得したところで通用しない。古今東西、首都の人達が地方の庶民の暮らしにまで目を向けて自らの生活レベルを削減するという話はない。

 源頼朝のもとには増税に苦しむ庶民の、特に東日本の庶民の声が届いていた。苛烈な取り立てを繰り広げる地頭も見られたが、取り立てに抵抗する地頭はもっと見られた。それでも根本的解決の必要性は感じていた。守護を派遣し、地頭を派遣して個々の取り立てに抵抗するより、源頼朝のもとに届いている地方からの声を国政に反映させる方が根本的解決になる。京都の人達の意識における民意の反映とは平安京とその周辺に住む庶民の声の反映であり、京都から離れた所に住む庶民の声の反映ではない。源頼朝は地方の庶民の声を国政に反映させるために上洛を決意したのである。


 それでは、源頼朝は具体的にどのような形で反映させることを考えたのか?

 自分が正二位の位階を持つ貴族であることを活かして位階相当の役職を獲得し、役職に応じて国政へ関与することを考えた。ただ、そのためには京都に永住しなければならない。

 そうではなく、国家から位階相当の役職を獲得した上で、鎌倉に戻ってもなおその役職を以て権力を行使する方法を考えなければならなかった。

 源頼朝という人は、あるいは、政治家としての能力の高い人は、やたらと新しい役職を作り上げることも、新しい仕組みを作り上げることもしない。既存の仕組みに基づく既存の役職を利用して現状の問題の解決を図るのが普通だ。既存であるためにどんなに前例踏襲を訴える人であろうと文句を言うことができない上に、既存であるために新しい方を創出する必要もない。既存であるのに誰もそのような利用方法に気づかなかったと周囲の人を感歎させるだけである。

 これがもし、六年前以前であれば何の問題もならずに成功していたであろう。しかし、六年前に同じ役職を利用しようとした者がいたために、簡単には成功しないものとなってしまった。もっとも、六年前の記録が源頼朝にとってのヒントとなったとも言えるので、六年前がなければ源頼朝の計画は誕生しなかったとも言える。

 その記録とは何か?

 征夷大将軍である。

挿絵(By みてみん)

 六年前の寿永三(一一八四)年、当時従四位下であった木曾義仲が京都において武力を振るうために必要な朝廷の公的な武官の地位に就くとしたら、武官のトップである左近衛大将も、実務のトップである検非違使別当も不可能であった。必要となる位階が低すぎるのである。そこで従四位下でも就くことのできる武官の地位で、かつ、朝廷の介入を拒否できる職掌となると、その時点で日本史上一五回存在していた職掌となる。天慶三(九四〇)年に藤原忠文が就任した征東大将軍だ。なお、この時点で征東大将軍と征夷大将軍との間に差異はなく、単に呼称の違いであった。そして、職掌に対する名称は統一されていなかった。

 ただし、木曾義仲も先例に含めた日本史上過去一六回の例のうち、木曾義仲を含む八回と、その他の八回との間には大きな違いがある。「将軍」または「大使」と、「大将軍」だ。

 この二つは何が違うのか?

 「将軍」または「大使」は開始から終了までの責任を持つが、その途中でより上位の官職や権威のある者、あるいは朝廷そのものからの干渉を受ける。つまりシビリアンコントロールである。こうしたシビリアンコントロールは、律令制における武官の最上位である左近衛大将に対しても、実務における武力のトップである検非違使別当に対しても適用される。延暦三(七八四)年に持節征東将軍に任命された大伴家持も、二度の征夷将軍を経験した文室綿麻呂も適用対象だ。

 一方、「大将軍」となると、作戦開始から終了までが完全にフリーハンドとなる。軍事作戦の終了まで、より上位の官職にある者であろうと、朝廷そのものであろうと、一切の干渉ができなくなり、途中経過を情報として受け取ることがあっても、途中経過に基づいて何かしらの口出しをすることは許されなくなる。藤原宇合が就いた持節大将軍や、紀古佐美が就任した征東大将軍はその例であるし、木曾義仲も含まれる。

 そして着目すべきは過去一六回のうち、途中までは東北地方の蝦夷を対象とした役職であったが、天慶三(九四〇)年の藤原忠文は平将門討伐を、寿永三(一一八四)年の木曾義仲は源頼朝討伐を対象とした役職になっているという点である。もっとも、藤原忠文の場合は現地に赴任する前に平将門が討ち取られ、木曾義仲の場合は逆に源頼朝の派遣した軍勢に討ち取られたので、役職に応じた責務を果たす前に時間切れを迎えてしまった。手にした権限は大きかったのだが権限を十分に発揮する場面を迎えることがなかったことになるわけで、ここで仮定の話が入り込む余地がある。権限を発揮する場面を源頼朝が手にしたらどうなるか?

 この役職は基本的に朝廷から東において発生している問題を解決するために大きな権限を与えられている。しかも、作戦開始はともかく作戦終了となると明瞭なものとはなっていない。つまり、まだ作戦継続中であると宣言すれば、朝廷からの干渉を得ることなく東国において絶大な権力を行使できることとなるのだ。それこそ鎌倉に留まり続けたままであっても、作戦遂行中であることを理由として上洛要請を堂々と拒否できる。作戦遂行地域の荘園や公領に対する税の負担を求められたとしても、作戦遂行に必要な予算の確保を名目として納税先を朝廷ではなく自分の元に向かわせることもできるし、作戦遂行に必要な対処であるとして年貢の比率を下げることもできる。それこそ、荘園や公領からの年貢が京都に送り届けられないことになっても、少なくとも法的には不都合では無い。

 さらに、これは後述することとなる源頼朝の血統がある。後鳥羽天皇がどのように即位をしたかを考えたとき、源頼朝に流れる血統は藤原氏ですら手出しできない一点がある。その一点を前面に掲げれば、征夷大将軍という官職は、摂政だろうと太政大臣だろうと、おや、皇室ですらどうにもならないアンタッチャブルなものとなる。

 ただし、一点だけ問題がある。源頼朝の位階が高すぎるのだ。過去一六例のうちの最高位は坂上田村麻呂の正三位であり、正二位の位階を得ている源頼朝は過去最高位よりも二つも格上だ。坂上田村麻呂の場合は厳密に言うと征夷大将軍に就任したときは従三位であり征夷大将軍としての職務を遂行している途中で正三位へと昇叙したという経歴であるから、こうなると源頼朝は坂上田村麻呂より三つも上の位階となる。たしかに坂上田村麻呂が征夷大将軍を務めた延暦年間と比べて位階のインフレが起こっているために、延暦年間であれば左右どちらかの大臣であってもおかしくない正二位という位階も、建久元(一一九〇)年時点ではそこまで希少価値のある位階ではない。坂上田村麻呂と源頼朝とでは源頼朝のほうが格上の位階であるが、貴族としての序列でその時代の何番目であるかを考えると、坂上田村麻呂のほうが上になる。

 位階の高さと、時代による位階のインフレとが、このときの議論の一つを成すこととなる。


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