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第四部 奥州合戦勃発

 トップですら従五位上という特筆することのない位階である奥州藤原氏は、いかに財力を有していても朝廷とまともな交渉をすることもできないのが現状なのだ。位階を得て貴族に列せられている藤原秀衡が直接交渉に臨むなら貴族の一人として相手にしてもらえることもあるが、何度も言うように、その藤原秀衡とて京都の視点では数多くの貴族の一人でしかない。藤原秀衡の生年は不明であるが、文治三(一一八七)年時点ではおそらく六五歳近くになっていたはずであるから、そろそろ後継者問題を真剣に考えなければならない頃に来ている。だが、藤原秀衡の後継者となると、無位無冠である長男の藤原国衡と、陸奥出羽押領使の役職は得ているもののお世辞にも高い位階を得ているとは言えない次男の藤原泰衡しかいない。しかし、源義経がいるとなれば話は別だ。位階こそ従五位下であるが、名目上でしかなかったとは言え伊予国司になった経歴があるのが源義経である。国司を務めたことのある貴族であれば中央政界での発言権も無視できぬものがあるが、同じ国司でも差異はあり、小さな国の国司と大かな国の国司とでは扱いも異なる。伊予国の国司は全国の国司の中でも、美濃国、越前国、播磨国と並ぶ、あるいはそれら以上の発言権を生み出すことのできる、最上級の国司経験だ。年齢を考えても後継者を考えなければならない時期を迎えている藤原秀衡にとっては、それが正式な後継者ではなく一時的な中継ぎであったとしても、源義経は計算ができるのである。

 いかに剥奪されたとは言え、従五位下の位階を得て官職も獲得し、最後は伊予守まで出世していた源義経は平泉において突出した官職経験である。剥奪された位階と経歴は復活することもあるだけでなく、復活と同時にさらに上の位階へと進ませることも可能だ。他ならぬ源頼朝がその例である。討伐対象となったために位階も官暦も失ったままであるとしても、源義経には今なお消えることのない京都における名声がある。平家討伐における源義経の活躍を知らぬ者などいないし、今は朝敵として討伐対象になってはいるものの、それでも源義経は京都ではヒーローであったし、公表できないものの源義経をサポートしている人だっていたのだ。ここで奥州藤原氏が源義経を後継者として推戴したとあれば、奥州藤原氏は無視できぬ存在でなくなるし、粗雑に扱うべき存在でもなくなるのである。


 さらに源義経には奥州藤原氏が欲していたもう一つの弱点である軍勢指揮能力が存在する。源義経は軍勢を率いて平泉に戻ってきたのではなく、単身とまでは言えないにしてもごく少数の人員で平泉に戻ってきている。つまり、源義経が平泉で軍勢を指揮するとなった場合、源義経は自身に仕える軍勢を率いるのではなく、見ず知らずではないとはいえ一緒に戦ってきたわけではない軍勢を率いることとなる。普通に考えれば簡単にはいかない話であるが、源義経が積み上げてきた源平合戦での名声が存在すれば話は別だ。平泉の多くの兵士は、源義経が戦場に至るまでに繰り広げてきた拉致も略奪も知らないし、戦場での卑怯千万も知らないが、その代わりに、一ノ谷での、屋島での、そして壇ノ浦での名声を知っている。

 奥州藤原氏は東北地方では群を抜く軍事力を持った集団であるが、日本全体で見ると最強というわけではない。おまけに藤原秀衡の長男の藤原国衡は正妻の子ではなく何の公的地位も得ていない一方で、次男の藤原泰衡は正妻の子である上に公的地位も得ている。こうなると後継者争いも現実なものとなるし、軍勢を指揮するとしても兄弟揃って動くのではなく一方が相手のことを気にせずに各個に動くようになってしまう。こうなると待っているのは奥州藤原氏の中での後継者争いに始まる内紛だ。そうなってしまった場合、ようやく東北の地で構築することに成功した勢力そのものが物の見事に瓦解して、この一〇〇年間が完全に無に帰すこととなってしまう。だが、源義経が軍勢を指揮するとなれば話は別だ。源義経が中継ぎの後継者であることを認めた上で軍勢を託せば組織の瓦解は防ぐことができるし、上手くいけば鎌倉方の軍勢と対等に渡り合うこともできる。

 これでは良いことばかりではないかとなるが、一点大きな問題がある。源義経は朝廷から討伐対象とされている人物なのだ。いかにメリットがあろうと、匿うこと自体が朝廷への翻意となってしまうのである。

 匿えば朝廷への叛旗。

 突き放せば自身の未来の崩壊。

 奥州藤原氏は、第三代当主の藤原秀衡を中心に、この不安定な状況をいかにして克服するかを検討した。ただ、そこで明瞭な方針を打ち出すことはできなかった。源義経の身の安全を保証しつつ、鎌倉とも朝廷とも敵対関係とならないよう務めねばならないのである。そのために、源義経が奥州平泉にいることを誰もが知っていながら、公的には源義経が平泉にいることを認めない、あくまでも、平泉に源義経はいないと宣言するのではなく、源義経が平泉にいるかどうかの質問に対する黙秘を続けるのである。この難しい芸当を、文治三(一一八七)年時点ではおそらく六五歳近くになっていた藤原秀衡が一手にこなさねばならなくなっていたのである。


 藤原秀衡が公的に認めているわけではないが、奥州藤原氏の根拠地である平泉に源義経がいるらしいことは確実である。

 ならば平泉まで誰かを派遣して源義経を連れ戻せば済むだろうと考えるのは浅慮に過ぎる。この時の源義経の行動は、現在でいう政治亡命なのだ。

 国交の存在しない国に逃れたわけでも、ましてや交戦国に向けて亡命したのではない人物に対する扱いは難しい。身柄を引き渡すよう要請しようと断られたらどうにもならない一方で、強引に身柄を引き渡すよう実力行使に訴え出ようものなら関係は悪化し最悪の場合は戦争に至ってしまう。このときの鎌倉と平泉との関係で考えると、源義経を強引に連れ戻すには、スパイを送り込むか、あるいは軍勢を送り込むかという話になる。こうなると前者は関係悪化、後者に至っては全面戦争となる。この時代最大の軍事力を持つ源頼朝と言えど、奥州藤原氏と全面対決となっては無傷では済まない。

 それに、平泉のもたらす富がある。文治三(一一八七)年時点の産業生産性で、東北は関東を圧倒していた。コメをはじめとする食糧生産だけでなく、武具にしても、軍馬にしても、関東の武士達の生活は東北での生産が供給されることが前提となっていた。いや、東北からの供給を前提としていたのは関東だけではなく日本全体がそうであった。京都でも、コメをはじめとする生活必需品は東北がなくてもどうにかやっていけるが、そうではない日用品となると見渡すところに平泉からもたらされた物品があり、奥州藤原氏が北海道や樺太、日本海対岸の金帝国との交易で手にした物品があり、そして何より、この時代の主要な通貨の一つでもある砂金がある。平泉と全面対決となったなら、こうした物品が日常生活から完全に消えるのだ。

 先に平泉の立場に立って源義経を鎌倉に引き渡すわけにはいかない事情を記したが、鎌倉の立場に立ってもやはり、源義経を強引に鎌倉へと連行する、あるいは、平泉の地で亡きものとさせるわけにはいかない事情があったのである。源頼朝も、平泉との経済的な関係は現在と変わらぬまま、源義経についてだけは妥協を許さないという交渉を続けるしかなかったのである。

 そのあたりの交渉の一例が文治三(一一八七)年三月八日のこととして吾妻鏡に記載されている。この日、興福寺の周防得業である聖弘に対する尋問が始まったのである。興福寺で源義経を匿っていたとして聖弘が鎌倉に呼び出されたのは文治二(一一八六)年二月一八日であるから、鎌倉と奈良との移動時間を考えても聖弘は一年近く鎌倉に滞在していたこととなる。なお、鎌倉では小山朝光のもとに預けられていたという。

 一年に亘って鎌倉に滞在し続けてきたのは、聖弘が源義経を匿っていたことを隠しもせず、悪びれもせずにいたからである。異なる政治信条の人間を連れてきて一年に亘って身柄を拘束しておきながら、聖弘にしてみれば一年に亘って拉致監禁も同然の中で周囲が全て源義経を敵とする風潮のある中で生活していながら、聖弘は自らの意見を変えることなく源義経を擁護し続けていたのである。この環境で洗脳されなかったのであるから聖弘の意思はそれほどに強固なものであったのか、それとも洗脳工作自体が稚拙であったか。

 ただし、洗脳工作に失敗して聖弘が源義経を支援する姿勢を崩さないでいることと、今後も聖弘が源義経を支援できることとは同じことを意味するわけではない。このあたりのことを源頼朝が理解していないわけはない。


 以下、吾妻鏡に記している面会の様子である。尋問ではなく源頼朝と聖弘との一対一の会談の様子である。

 まずは源頼朝。

 「源義経は日本を破滅させようとしているテロリストだからこそ、行方をくらませてしまった後、日本各地で捜し回り処罰するよう何度も宣旨が下されたのだし、この国の誰もが源義経に反発を見せている。それなのに、貴房ただ一人は源義経のために祈祷しているだけでなく、源義経に味方をしている。これは何かを企んでいるからではないのか?」

 これに対する聖弘の返答はこうである。

 「源義経は貴方の代理として平家を討伐する間、戦いが無事に終わるよう祈祷をしてもらいたいと丁寧に頼んできたのであり、その思いに応え続けてきたのです。これは報国の気持ちではないですか。源義経が関東から叱責を受け、逐電するときに仏門での師匠と檀家との関係を頼りに奈良へ来たときに、まずはいったん被害を逃れるために退いた後に源頼朝様のもとに出向いて誤り申し上げるよう説得し、伊賀国へとお送りしただけです。だいいち、関東の安全をも源義経の功績ではないですか。それなのに告げ口を真に受けて、それまでの功績を無かったことにし、恩賞の地を没収するというのですから、誰であろうと反発するに決まっています。早く今の怒りを捨てて、仲直りするように源義経を呼び戻して、兄弟仲良くしようと思うのがこの国を治める人のするべきことではないですか。私は源義経の味方をしているのではなく、この国を平和にするためなのです」。

 聖弘のこの返答に対する源頼朝からの反応の言葉は吾妻鏡に記録されていない。

 しかし、源頼朝からの答えは吾妻鏡に残されている。

 聖弘、勝長寿院の供僧職に就任。以後、鎌倉の地で関東の平和安泰を祈祷することとなる。吾妻鏡は感動のあまりに勝長寿院の供僧職を聖弘に与えたとあり、勝長寿院の供僧職とすること自体も僧侶としてのかなりの厚遇を示すことを意味するが、実際には、自分の理念に基づいて源義経への手助けをしている者を鎌倉に留めておかなければ危険であると判断したからである。聖弘が鎌倉にいて僧侶としての日々を過ごしているのであれば、少なくとも聖弘と源義経との連絡を監視できるのだ。


 平泉に源義経がいることを奥州藤原氏は隠しきれなくなっているものの、あくまでも公的には認めていない。鎌倉にしても、平泉に源義経がいることを把握していながらも、奥州藤原氏に対して源義経の引き渡しを要求せずにいる、いや、源義経の身柄の引き渡しを要求できずにいる。

 何しろ鎌倉と平泉との関係は今までと同じであろうとしているのだ。これが平凡な政治家であればただちに敵対関係となり軍事的緊張を生み出すものであるが、藤原秀衡も、源頼朝も、断じて平凡ではない。双方とも緊張の理由が存在することを理解していながら、そんな理由など無かったことにして今まで通りであることを継続させている。今まで通りを継続させることのメリットとデメリット、現状を破壊することのメリットとデメリットを考えれば、優秀な政治家はメリットの大きい現状維持の方を選ぶものだ。

 その上で、原理原則を前面に掲げて対抗している。今まで通りであることを継続させるものの緊張の原因は消えていないことを再確認するために、原理原則を前面に掲げて相手を攻撃し、攻撃された側もまた原理原則を掲げて防戦に努める。第三者から観れば何でそんな些事にこだわるのかという争いを見せることがあるが、それは、些事の解決ではなく相手に非を認めさせることが目的なのである。

 鎌倉と平泉の対立における主導権は源頼朝のもとにあった。何と言っても源義経は朝廷が認めた国家反逆者であり、源義経を匿うことは国家反逆罪に該当する行為だ。しかし、藤原秀衡はあくまでも源義経が自分のもとにいることを認めずにいた。源義経を鎌倉に引き渡すように求めたところで、奥州藤原氏から何かしらの回答が返ってくることは無い。そのため、源頼朝が藤原秀衡に対して平泉でも認めざるを得ないポイントを突いて攻撃し、奥州藤原氏が源頼朝の攻撃を正論で返すというやりとりになる。

 源頼朝が奥州藤原氏に対する攻撃材料は二点あった。

 一点目は中原基兼の身柄拘束を解くこと。

 もう一点目は、奈良の大仏の再建工事に使用する金三万両の貢納がまだであること。

 ともに奥州藤原氏も認めねばならない点であり、源頼朝にとっては絶好の攻撃材料、奥州藤原氏にとっては痛恨の一撃になる点である。


 まず中原基兼についてであるが、この人が奥州藤原氏のもとにいたのは、鹿ヶ谷の陰謀の際に平清盛によって陸奥国への配流となったことが理由である。しかし、源平合戦によって源氏が勝利し平家が滅亡したことは、平家政権の下した処分が白紙撤回されることも意味する。

 源頼朝は源平合戦の途中で、平治の乱の敗者に課された処分の白紙撤回を求めて実現させている。他ならぬ源頼朝自身が白紙撤回の適用を受ける例であり、歴史的記録としては平治の乱の敗者である源頼朝は伊豆国に配流となったという記録になるものの、法的記録では源頼朝の伊豆国への配流処分が誤りであり、源頼朝キャリアにおいて伊豆国への配流は無かったこととして扱わねばならないのである。

 この白紙撤回処分は源頼朝一人が適用対象となったのではない。平治の乱以降の平家政権が命じた処分の全てが白紙撤回されたのであり、その中に中原基兼が含まれていたのである。ゆえに、中原基兼は陸奥国への配流が白紙撤回されたこととなったのであるが、問題はその後だ。陸奥国への配流が終わったことで京都への帰還が許可されたが、京都に戻らなければならないわけではなく、京都に戻るかどうかは本人の自由意志なのである。そして、中原基兼は京都に戻らなかった。

 源頼朝は平泉で身柄が拘束されているとして中原基兼を解放するよう訴え、藤原秀衡は源頼朝に対し、中原基兼は京都の圧政から逃れてきた亡命者であり、平泉で手厚く保護しているのだと反論している。

 中原基兼がどのような理由で京都に戻らなかったのかを記す資料は無い。源頼朝の主張するように本当に身柄が拘束されていたのかもしれないし、藤原秀衡の反論したように亡命者として平泉で保護を受けていたのかもしれない。なお、記録に残る中原基兼の動静はここで終わる。彼がこの後どのような運命を迎えたのか、二一世紀に住む我々は知ることができない。

 源頼朝からの攻撃材料の二点目である奈良の大仏の再建工事に使用する金三万両であるが、これについて藤原秀衡は法外な要求であるとして一蹴している。現在の貨幣価値に直すと九〇億円というとてつもない金額だ。この年の一月に源頼朝が伊勢神宮に奉納したのは、馬八頭と太刀二腰を加えたにせよ、金二〇両である。奥州藤原氏の財力がいかにこの時代に置いて突出していたとしても簡単に払えるような金額では無い。さらに、ここで黄金の貢納を要求したのは単に金銭の提供を求めたのではないという点も無視できない。貨幣としての黄金の供出ではなく、再建した大仏にメッキをするための黄金の供出である。大仏再建は国家的事業であり、日本中の誰もが各々の役割を果たすという形で再建工事に関与しており、鎌倉方は大仏再建工事に用いる木材を、平泉は再建した大仏にほどこすメッキ用の黄金の供出が求められたのである。そして、源頼朝は自発的に木材を提供して東大寺に送り届けている。後にこの材木提供が大きな意味を持つが、この時点では鎌倉方に課されたノルマを果たしたという扱いになっているだけである。それでも、ノルマを果たしたのは鎌倉であって、ノルマを果たしていないのは奥州藤原氏の方であるという構図ならば成立していた。

 とは言え、藤原秀衡にしてみれば、いかに国家的事業であるとは言え、自分の与り知らぬところで勝手に決められた税を払えと言われているに等しい。しかも、京都に直接納めるのではなく、東日本の納税の管理監督は鎌倉の自分のもとにあるという名目で、平泉からの納税はいったん源頼朝のもとに納め、平泉を含めた東日本全体の貢納を源頼朝がまとめて京都に届けるという仕組みだという。これは二重の意味で承諾しがたい話である。中原基兼の処遇については源頼朝に反論を示すことができた藤原秀衡も、金三万両の件については、貢納そのものの正統性を訴えるところまではできても、国家行事に逆らう意思を見せることは厳しい話であった。


 京都では、摂政九条兼実が主軸となった政治の立て直しが進みつつあった。源頼朝の推薦した一〇名の貴族を中心に、それまでの後白河院政から、藤原道長の時代を理想型とする院政以前の政治形態への回帰が図られていたのである。既に述べた記録所がその例の一つであるが、その他にも天皇の食事を司る役所である御厨子所(みずしどころ)を復活させるなど、いつの間にか歴史の闇に消えてしまっていた組織や形骸化してしまった制度の復旧を図る一方、平家政権下で増大化した議政官の削減にも意欲を見せていた。目標とするところは、この時代の人達が理想としていた藤原道長の時代の日本国への回帰であり、そのための復興である。

 ところが、九条兼実のこうした意欲は、他ならぬ後白河法皇の手によって形骸化させられていた。その最大の理由は後白河法皇が朝廷の人事について強い発言権を持っていたからである。いかに九条兼実が摂政であるとは言え、白河院政から鳥羽院政を経て後白河院政と続いてきたことにより院政が日本の国政に深く根付いてしまった結果、法皇の意向と摂政の意思とでは法皇の意向のほうが高い発言権を持つに至ってしまったのだ。

 さらに厄介なのが、後鳥羽天皇がまだ幼帝であり、現状ではまだ政務を執るわけにはいかない、すなわち、摂政九条兼実が天皇の職務の代行とならねばならないという点である。院政の最たるメリットは、帝位を退いた上皇や法皇は天皇としての職務から解放されるという点である。摂関政治において摂政や関白が権力を持つことができたのは、摂政や関白が天皇の代理として権力を行使できるという理論上の権力、すなわち、現実的に行使することはないが行使することが法的に許されている権力が存在しているからであり、その権力を背景として自身の意思を権威へと昇華させ、合法的に国家の法として成立させるシステムが成立していたからである。具体的には、議政官の議決において権威を行使して自らの意思を議政官の議決とさせることに成功したからである。

 日本国における法とは天皇の名で発せられるものであるが、天皇自身の意思でゼロから法を作り上げて発するのではない。請願はまず議政官に上げられ、貴族達の合議によって上奏された法案に天皇の御名御璽が加わって正式な法となって日本国全体に発令される。天皇が幼少期である、あるいは病床にあるなどの理由で摂政が置かれている場合は、摂政の署名捺印があれば天皇の御名御璽があったとみなされ、正式な法となって日本国全体に発令される。つまり、法案成立の過程で摂政は個人の意見を表明することはできず、議政官から上奏された法案にそのまま署名捺印するしかない。

 なお、同じことは関白でも言えるが、関白は摂政より職掌が狭く、関白の署名捺印が天皇の御名御璽と同じとみなされることは無い。つまり、法案成立までの過程に何ら関与することはできず、自らの意思に関係なく法案が法として成立するのを黙って見ているしかない。理論上は。

 また、律令の制度としては、天皇に上奏する前に太政大臣が拒否権を発動して法案を議政官に差し戻して再審議させることはできるが、文治三(一一八七)年時点に太政大臣はおらず、太政大臣からの法案差し戻しは存在しない。ちなみに、太政大臣に法案差し戻しの権利はあるものの、その例はほとんど無い。やはり、太政大臣もまた、法案が議政官においていかなる議論がなされるかを待つしかなく、自分の意見と関係なく法案が法として成立するのを見過ごすしかない。理論上は。

 そして、院政における上皇や法皇も摂関政治における摂政や関白と同じ構図である。院がどのような意思や意見を持とうと、議政官の議決によって法案が法となるのをだまって見ているしかない。理論上は。


 だからこそ、歴代の摂政や関白、そして院は、自らの意見の代弁者となり人物を、最低でも議政官の過半数を占めることができるだけの規模で用意している。これを貴族の立場から眺めると、摂政や関白、そして院の代弁者たる人物になることができれば、議政官の一員という高い地位と位階を手に入れることに成功することを意味する。そこから後は自身の栄達と豊かな暮らしだ。そして、こうした人物を抱え込むという点で、院は摂政や関白より大きなリードがある。日々の政務に負われる摂政や関白と違い、日々の政務から解消され多少の余裕がある院は、人材を集めるという点で大きな優位点があるのだ。また、摂政や関白は藤原氏の生まれであることが中央政界に名を連ねるための必要条件であるが、院の場合は藤原氏でなくとも中央政界に身を置くことが可能となるという優位点を有していた。

 貴族の持つ本音に従えば、求めているのは日本国の再興ではなく自身の栄達であり、そのために、より高い役職、そして、より高い位階を求める貴族が多い。位階や役職を求めようとしないようでは貴族ではないと言えるほどだ。これが通常態であるところなのに、平家政権は貴族達を退け平家の面々を貴族社会に送り込んだ。結果として、議政官をはじめとする貴族の役職の空席が減り、残り少ない空席を平家に取り入ることで奪い合うか、貴族としてのプライドを保つために武士である平家に取り入るなどせず、代償として、官職無し、あるいは低い官職のままの日々を過ごすことを余儀なくされた。ただでさえ平家政権下で押しとどめられ続けてきた役職や位階への渇望は、平家滅亡と同時に噴出してもおかしくなかったのである。九条兼実に対しては、貴族達の出世欲をここまで食い止めることができたことを評価するならまだしも、食い止めることができなかったことを咎めるなど筋違いですらあったのである。あるいは、貴族達の出世欲を煽ることで人事に口出しをし、結局は人事権を手にすることで貴族達を操ることに成功した後白河法皇の老獪さを称賛すべきか。

 仮に後鳥羽天皇が元服して天皇親政が実現できていたら九条兼実もどうにかなったのである。だが、後鳥羽天皇はまだ幼く摂政を必要としている。何しろ文治三(一一八七)年時点の後鳥羽天皇は現在の学齢で言えば小学一年生だ。そして、摂政である九条兼実は他の役職を兼任していない、と言うより、兼職していられる余裕など存在しないのが摂政という役職だ。つまり、九条兼実は自分自身を議政官の一員とすることができず、議政官の議決を自らの意思の通りにするには九条兼実の意志の代弁者を用意して議政官に送り込まねばならなかったのである。少し前であれば、内側では分裂はしていても外に対しては一枚岩となるのが藤原氏というものであったが、今の藤原氏にそのような一枚岩は期待できない。近衛家と九条家との争いがあり、その他の藤原氏も各々の家で分裂して勢力争いを繰り広げているのがこのときの藤原氏である。この状況下で九条兼実が議政官を通じた政務を行うのは困難とするしか形容できなかった。九条兼実にできたのは、文治三(一一八七)年五月八日に九条兼実の政策に賛成する貴族達の意見をまとめて意見封事一七通として後白河法皇に奏上することだけであった。奏上の意欲は立派であるが、それがどこまでの実効性を持っていたのかは怪しい。少なくとも意思表示にはなったが、貴族達の中での多数意見を占めるまでには至らなかったのである。

 九条兼実自身が執政者としての能力の低い人物であったとは言わない。ただ、九条兼実の政策は理想としては妥当であるものの貴族達の求める現実とは咬み合っていなかったのだ。

 個々の貴族一人一人は九条兼実の政策で大きな打撃を受けるわけではないだけでなく、所有している権利が公的に認められ、収入についても所有権に応じた収入が法的根拠を伴って認められるようになったのであるし、貴族以外の人間も現時点で保持している権利が奪われるわけではないのであるから、これまでの平家政権や木曾義仲の蛮行で失われてしまった権利や収入を取り戻せるようになっている。藤原道長の時代への回帰は短絡に見えるが、掲げた政策自体は理論的なものであり客観的には同意できるものである。

 ここまではいい。


 ここまではいいのだが、政権にかかわる人物が九条兼実の政策に同意するかどうかではなく、後白河法皇にとりいって役職と位階を求めることを優先させる人物だらけであるため、九条兼実の政策を遂行するのに協力的ではないのが問題となっていたのだ。それに、現時点で生き残っている貴族はその全員が、平家政権の被害者であり、木曾義仲の被害者であり、源平合戦の勝者なのである。被害者としての償いと勝者としての権利を求めているのに、九条兼実が掲げているのは平家政権の前に持っていた権利の保障であって、平家政権の前よりも権利が増えるわけではないのである。それならば、世情の評判を求めて九条兼実に従うよりも、後白河法皇に取り入って位階や役職を手に入れる方が、平家政権前よりも多くの権利と収入を獲得できることとなる。実際、九条兼実が摂政となってからというもの、毎年のように位階のインフレが発生することとなる。

 おまけに、位階や役職を手に入れた貴族が、新しく手にした権利や権力で何をするかと言われても、その答えは、無。権利や権力、そしてさらなる収入を手に入れることには執心しても、その成果の社会貢献はゼロである。源平合戦からの復興を図らねばならない状況下で、復興を考えている九条兼実に同調することなく自己の権利回復と拡張には熱心でも社会に全く還元しないとなると、いかに正統な政権であると言っても政権そのものに対する支持率は断じて高いものとならない。

 それに、支持率を取り戻そうとしても政権の政策遂行能力は低い。九条兼実の掲げる政策が、京都復興の、そして日本復興のために有効であるとどんなに頭の中では認めていても、自身の栄達の資産回復を後回しにするような貴族はそう多くはない。かつてであれば国家予算と朝廷の用意できる人員ではどうにもならない事業でも藤原摂関家の資産と人員を用意することでどうにかなったが、今の九条兼実にそこまでの余裕はない。

 ところが、日本全体を見渡すとどうにかなるまでの資産と人員について、かつての藤原摂関家のように用意できる集団がある。

 鎌倉だ。

 資産だけで言えば奥州藤原氏のほうが凌駕しているが、人員まで含めて考えると鎌倉の源頼朝ならどうにかなるのだ。

 その顕著の例が、里内裏である閑院である。直近で言えば福原遷都を断念した後で安徳天皇が京都に還幸したときから閑院が里内裏となっていたが、遡ると平治の乱における大内裏での戦闘がある。保元の乱の後で大内裏を復活させようとし、実際に後白河天皇を大内裏に住まわせることに成功した信西であるが、その試みは平治の乱で終焉を迎え、二条天皇も六条天皇も大内裏ではなく里内裏を転々とするようになり、高倉天皇になってようやく閑院を里内裏とすることで落ち着きを見せていた。

 ところが、福原遷都で閑院は崩壊した。福原に首都機能を移すという平清盛の野心は平安京を荒廃させるに十分であった。福原に遷都すると言っても福原に新しく建物を建てるのではなく、平安京の建造物をいったん解体して福原まで運び、福原で組み立て直すのである。里内裏となっていた閑院もこうした被害と無縁というわけにはいかず、他の建造物よりはマシであったとは言え、福原遷都とその失敗による平安京帰還は建物としての閑院に大ダメージを与えるに十分であった。そして迎えた養和の飢饉と木曾義仲の京都劫掠、そして、元暦二(一一八五)年七月九日に発生した巨大地震でダメージを受けたままである閑院を修繕することもできず、閑院は安徳天皇と後鳥羽天皇の里内裏であり続けていたのである。


 この里内裏である閑院の復旧工事を、源頼朝が資材を投入し、人員も用意して再建すると発表したのだ。源頼朝は既に東大寺再建工事について木材を提供すると公表しており、これで源頼朝が私的に手がける国家施設の復旧工事については二例目となる。

 いかに源頼朝が権力を手にしたと言っても、普通の貴族と比べて突出した資産を持つわけではない。源頼朝の自由に操ることのできる資産となると従二位の位階を持つ貴族としては平凡とするしかない。源頼朝個人に仕える御家人の多さ、すなわち、動員できる人数となると突出しているが、それとて近衛家と九条家が手を取り合い、徳大寺家をはじめとする他の藤原氏の家が束になれば、源頼朝の出せる以上の人数を動員することは不可能ではない。つまり、源頼朝は、藤原氏がその気になればやってやれなくはないことを代わりに遂行したのである。

 国家予算でどうにかするには時間を要することを私財を投じて遂行することは珍しくない。藤原良房まで遡ることのできる藤原氏の伝統と言ってもよいし、藤原氏が専横を極めているという批判を受けていようと政権を握り続けることができたのは、皇室とつながりを持ち続けたことよりも、その瞬間に起こった問題を、国政に図るのでは時間が掛かってしまうと判断して私的に解決してきたからである。それが政治の有様として正しいかと言われると、原理原則としては正しくないが、政治の目的である庶民生活の向上という価値基準で考えれば、正しい。

 その正しいことを、藤原氏ではなく遠く離れた鎌倉にいる源頼朝がやった。たしかに再建の陣頭指揮を執るとして中原広元が上洛しているが、中原広元は源頼朝の代理でしかなく、京都にいても工事責任者として職務を果たしているだけである。

 このときの京都の庶民感情は相反するものがあった。平家都落ちの前から源頼朝は京都の希望であり、木曾義仲に侵略されていたときは源頼朝が京都を助けに来てくれるという期待もあった。その源頼朝がまさに今、京都を復興させるために私財を投じているのである。その一方で、実際に木曾義仲から京都を解放したのは源頼朝ではなく、源頼朝の代理人という扱いであったにせよ源義経である。また、京都の人達の認識の中では平家討伐における最大の功労者であるのも源義経である。源頼朝という人は、その、京都のヒーローである源義経を破滅に導いた悪役である。結局はデマだと判明したが、文治三(一一八七)年五月三日には、源義経が先月三〇日に美作国で殺害されたという話が伝わり、多くの人が自分達のヒーローである源義経が亡くなったことを嘆き苦しんだことの記録も残っている。このようなデマが受け入れられたのも、源頼朝をどこかで受け入れられないという京都での世論があったからである。その中には、名目上は遠く安全なところにいて命令だけしていた人間が今更恩着せがましく何かしようとしていることへの義憤、本音を言えば首都の人間が地方の田舎者に助けられたという屈辱感がある。いかに源頼朝が一三歳まで京都で過ごし、伊豆に配流となっても京都の貴族としての矜持を持った生活をしていても、また、現時点で従二位の貴族としての自己を成立させていても、源頼朝は京都の人間とはみなされなくなっているのだ。


 もっとも、鎌倉側のほうにも京都から見下されるに値する理由がある。源平合戦の勝者となった鎌倉の御家人達がやらかしていたのである。

 文治三(一一八七)年五月二六日、安田義定の代官が伊勢国の斎宮寮田を横領したことが発覚した。伊勢神宮に関連する田畑であるが、所有権となると朝廷直轄の領地である式田であるため、平家没官領だとか、木曾義仲や源義経といった国家反逆者の所領を没取したのではない。これは冗談では済まされない不祥事だ。安田義定の代官の所業であって安田義定自身の犯罪ではないが管理監督者責任になる。

 この知らせが鎌倉に届いたときに安田義定は鎌倉におり、ただちに源頼朝の尋問が始まった。安田義定にしてみれば何の知らせもないときにいきなり飛び込んできた部下の不祥事であり、どういうことかと問われても答えようがない。自分は鎌倉にいて現地で何が起こっているかなどわからず、現地からの情報があり次第責任をとると安田義定が答えたものの、それは源頼朝が納得できる答えにはならない。

 源頼朝が安田義定に下した、そして、朝廷に届くように発した宣告は、安田義定に与えた平家没官領の没収である。安田義定にしてみれば部下の勝手なやらかしでの連帯責任であるが、だからと言って異議を唱えることはできない。安田義定にできるのは源頼朝の裁決に従うことだけである。

 安田義定は鎌倉方の武士の一員であるが、そのスタートは甲斐源氏であり、富士川の戦いの後に遠江国を本拠地とするようになり、木曾義仲とともに上洛して途中までは木曾義仲の軍勢の一員であった。だが、最後は木曽義仲と袂を分かって源義経の率いる軍勢に加わり木曾義仲を殲滅させ、その後の一ノ谷の戦いにおいても鎌倉方の軍勢の一員として参戦し、平家を討ち破るのに協力している。

 その後の安田義定は文治三(一一八七)年まで遠江国に住まいを置きつつ、鎌倉と遠江国とを往復する暮らしをしていたようである。甲斐源氏の一翼を担っているはずの安田義定が武田信義から独立した一つの勢力を築くこととなった上に、木曾義仲と行動を共にしたことがあるなどの問題もあったが、基本的には甲斐源氏の参加ではなく源頼朝に従う御家人であり、かつ、鎌倉と京都を結ぶ中間地点にあたる遠江国を根拠地としていることは、源頼朝にとって好都合な存在であった。また、源義経が行方不明となったという第一報を聞きつけて直ちに遠江国内での源義経捜索を命じるなど、源頼朝への忠誠という点でも疑いようのない人物であった。もっとも、悪く考えれば、源頼朝に忠誠を誓うことが武人としての自身を存続させるための唯一の手段であったとも言える。何しろこの人は甲斐源氏でありながら甲斐国と袂を分かち、遠江国にてゼロから自分の軍団を作っているのだ。ルーツを辿れば長元三(一〇三〇)年まで遡ることができる甲斐源氏という歴史と伝統を持つ巨大組織から独立して遠江国に新たな軍事集団を作り上げるのだから、源頼朝に逆らうなどという選択は到底許される話ではない。

 なお、責任を取らせるために源頼朝は安田義定に与えた所領を没収したが、それで自動的に伊勢国の斎宮寮田の横領問題が解決することは無い。というより、安田義定については源頼朝も知っているが、安田義定に仕えている武士の一人一人のことまで源頼朝まで把握しているわけではない。極論を言えば、悪事に手を染めても源頼朝の元に知らせが届く前にどうにか対処すれば無かったことにすることもできる。理論上は。

 それを許すような源頼朝ではない。後述するが、安田義定に対して下した処分が早すぎるのだ。これは、かなり早い段階から源頼朝が安田義定の家臣についての情報を集めており、情報が届き次第処分を下す準備を整えていたからとするしかないのだ。

 源頼朝は第二弾として、文治三(一一八七)年六月二〇日に、伊勢神宮の領地を不法占拠している地頭に対して直ちに不法占拠した土地から出ていくことを命令しているが、その中の文面で、退去しないなら不法占拠している者の名を鎌倉に届けることとなると記している。不法占拠している武士の立場に立てば一縷の望みに思えるが、このままでは名を鎌倉に届けるという脅しは不法占拠している武士の名が源頼朝の元に届いてまだいないことを意味するわけではない。もう名前が届いているが現時点ではまだ知らないとということにしているという脅しである。ここでもし、本当に名前が届いてしまったら、その後で待っているのは鎌倉から送り込まれる刺客との、負けるとわかっている対決である。


 鎌倉武士のやらかしの第二弾の記録として他に残っているのは、文治三(一一八七)年六月二九日の出来事である。

 このときに責任を追及されたのは、畠山重忠。ただし、事件の構図は安田義定のときと同じで、畠山重忠本人が他者の所領を勝手に奪ったのではなく、伊勢国沼田御厨で畠山重忠の代官が不法占拠したことが発覚したのだ。なお、このときは事件そのものの連絡が来たのみであり、畠山重忠に対する処罰ではなく事件の詳細な調査を命令している。

 安田義定のときと違って調査指令が出たのは、畠山重忠のこれまでの功績がある。畠山重忠は、源頼朝の挙兵当初は平家方であり、石橋山の戦いの後で三浦一族の本拠地である衣笠城を落として三浦義明を討ち取っているなど、畠山重忠は挙兵直後の源頼朝にとって手強い存在であったろう。その畠山重忠であるが、房総半島で勢力を盛り返し武蔵国へと進軍してきた源頼朝の前に降伏したことで、それからは一貫して源頼朝の忠実な御家人であり続けていた。

 当初は源頼朝に刃向かい、それからは源頼朝の忠実な御家人となった治承四(一一八〇)年時点の畠山重忠は一七歳という若さであった。そして、この一七歳の若者が畠山一族のリーダーとなって源頼朝に仕えることとなり、畠山一族はこの一七歳の若者をトップとすることを選んだのである。畠山重忠の父の畠山重能が大番役として京都にいたため、源平合戦勃発時は惣領たる畠山重忠が一七歳という若さで畠山一族を指揮することとなったという事情があるものの、そこには源氏を選ぶか平家を選ぶかという葛藤もあった。畠山重能は息子と違って平家方を選び、あくまでも平家物語における伝承であるが平家都落ちの段階まで平家とともに行動していたという。一方、父の不在中に一族を仕切るようになった畠山重忠は今や忠実な源氏方の武士だ。確実な資料に残る範囲を探しても息子の活躍と反比例するかのように畠山重能についての記載は消えている。平家とともに運命をともにしたか、息子に家督を譲って隠居したかであろう。

 源平合戦勃発から七年、平家滅亡から二年を迎えた文治三(一一八七)年時点の畠山重忠は二四歳の若き武将であり、かつ、既に七年間に亘って源頼朝に仕えてきた有能な武人である。また、鶴岡八幡宮での静御前が白拍子の舞を披露したときに銅拍子をつとめるなど、この時代の上流階級の嗜みの一つであった音楽にも通じていた。あるいは、一七歳にして最前線に立たねばならなくなったことに対する数少ない心の慰みが音楽であったというところか。

 若くして活躍するということはその人を英雄視させやすくする。平家についた父と一七歳にして決別し、それから畠山一族をその手で率い、源氏の武士として各地の戦いで奮闘した。そうした日々の中での数少ない慰みが音楽を奏でることだというのだから、悲劇性も手伝ってこの若き武人は鎌倉方を彩るヒーローの一人でもあったのだが、それに加えてもう一つ、この人には評判を得ているものがあった。

 清廉潔白な人柄である。

 若さから来る非現実的な思考と行動とも言えるが、この人はこの時代の武士にしては珍しく、何事においても潔い人であったのだ。だからこそ、父の不在においても畠山一族のトップとして部下達を率いることができたのだし、父の不在を感じさせぬほどの成果を残せたのだと言えるし、源義経の舅である河越重頼が連座して誅殺されたとき、河越重頼の持っていた武蔵留守所惣検校職の後任として畠山重忠が選ばれたのも、畠山一族が武蔵国に本拠地を持つ武士団であったからというのは理由の一部でしか無い。畠山重忠のこれまでの功績と評判が、畠山重忠を武蔵留守所惣検校職とさせたのである。

 そんな畠山重忠が、自分の部下のしたこととは言え、伊勢国において他者の所領を不法占拠している。これは大スキャンダルとなるはずであった。


 結論から言うと、畠山重忠に対する処罰は九月まで引き延ばされた。安田義定のときと違い、畠山重忠の家臣についての実情を調べなければならなかったことに加え、他の問題も源頼朝に課されていたのである。その問題の解決策として畠山重忠は計算できる人物であったのだ。

 このときの源頼朝に課されていた問題は四つ。

 一つは、壇ノ浦に沈みながら未だ見つからぬ三種の神器の一つである天叢雲剣あまのむらくものつるぎ

 二つ目は、いつ対決することとなってもおかしくない奥州藤原氏との関係。

 三つ目は、美作国で発生した領地争いである。

 この三番目であるが、梶原景時と原宗行能が最勝寺や尊勝寺といった寺院の領地を勝手に横領しているという訴えがあり、それに対し梶原景時と原行能の両名がそれぞれ弁明としての陳状を提出したのである。厳密に言えば梶原景時からの書状の日付は文治三(一一八七)年八月五日、原宗行能からの書状は同年八月八日である。

 吾妻鏡によると両者からの弁明は以下の通りである。

 まずは梶原景時からの書状であるが、尊勝寺が保有する荘園のうち美作国の林野(現在の岡山県美作市栄町)と英多保(現在の岡山県美作市英多)の二箇所について、梶原景時の家臣が地頭として派遣され、年貢徴収をはじめとする実務に携わっていることを認め、何ら違法な点はないとして尊勝寺が要求する地頭の交替については拒否している。なお、この書状を作成する前に何度か尋問があったようで、既に詳細は述べているために新たな弁明を書状に記すことはないとしている。

 原宗行能からの書状は、最勝寺が若狭国今重(現在の福井県美浜町)に所有している荘園を原宗行能が横領しようとしているという訴えに対し、自分はそもそも横領しようなどという意思はないと否定している。原宗行能の名を語って勝手に土地を横領しようとしている不届き者がいることは認め、そうした不届き者直ちに逮捕され処罰されるべきとしている。

 ちなみに、この両名を梶原景時と原宗行能と記したが、梶原も原宗も苗字であって姓ではない。両名とも正式な姓を持っており、書状には平景時と惟宗行能という正式な姓名を自身の署名として用いている。


 四つと記しておきながら三つしか記していないと思うかもしれないが、四番目はしっかりと存在する。それも、何よりも最優先で対応しなければならないこととして存在している。

 京都の急速な治安悪化がそれだ。

 源義経がいた頃は検非違使としての源義経が警察権力を働かせることができた。

 北条時政が京都に派遣されていたときは、強引ではあるが強盗を許可無く殺害したことで治安の回復の第一歩を記せた。

 しかし、北条時政に代わって京都に派遣された一条能保は、貴族に対しては源頼朝の期待に応える対応はしても、治安維持と治安回復については役割を果たさなかった、いや、果たせなかった。源義経は朝廷から正当な権利を与えられた検非違使であり、北条時政は正当な権利を有さないながらも独自の軍事力を行使できた。それに対し、一条能保は検非違使でもないし独自の軍事力も持ち合わせていない。一条能保の他には中原広元も京都に滞在しているが、中原広元は京都復興の責任者であって武力行使のために派遣された人物ではない。そもそも中原広元も一条能保と同様に文人官僚であって、武力とは無縁の人物である。

 文治三(一一八七)年八月一二日、後白河法皇から一条能保に対し、武士を動員して治安維持に当たらせるよう依頼が来たという正式な情報が源頼朝の元に届いたのだ。

 源頼朝はかなり早い段階から京都の治安悪化を危惧していたが、その一方で、後白河法皇や朝廷との駆け引きもしていた。

 たしかに自分の代理として一条能保を派遣しているが、一条能保はあくまでも貴族であり武力行使ができる人間ではない。京都の貴族相手であれば一条能保は源頼朝の代理を問題なく務められるが、前述のように一条能保が独自の軍事力を行使することはない。軍事力を行使する意思がないのではなく、軍事力そのものが絶無なのである。

 ベストは朝廷が、セカンドベストは後白河院が、何らかの形で合法的に源頼朝の指揮下にある軍勢を京都に招き入れることであり、そのために京都に派遣する人員として畠山重忠は計算できる人物であった。しかし、家臣が土地を横領したというスキャンダルに見舞われてしまっては畠山重忠を京都に送り出すことはできない。少なくとも現地調査をするという名目で時間を稼ぎ、その上で根も葉もない噂であったとする結論を出したならば畠山重忠は無罪放免となって京都に送り出すこともできる。

 無罪放免の前例は梶原景時と原宗行能が作ってくれた。梶原景時は事実を認めた上で自分の行動が何ら問題のない正当なものであったとし、原宗行能は自分の(あずか)り知らぬところで問題が起こっているので容赦なく容疑者を処罰してくれと願い出ている。畠山重忠も梶原景時や原宗行能のような態度を示せば問題なく京都へ送り込めるのだ。

 治安悪化という一刻の猶予もならない事態であることを踏まえても、このときの源頼朝の決断は遅かった。しかし、決断した結果、京都の想定を超える答えを出すことに成功した。

 畠山重忠を選ぶことはできなかったが、千葉介常胤と下河辺行平の両名を送り出したのである。なお、後白河法皇が一条能保に私的に依頼したのみで朝廷からの正式な依頼でないため、源頼朝も一条能保を通じて、旧知の仲である権中納言吉田経房に向けて千葉介常胤と下河辺行平の両名と、軍勢の使用する馬を送り届けたという体裁になっている。


 京都は治安悪化についての対処を一通り終えた源頼朝のもとに東北地方から不穏な知らせが飛び込んできたのは文治三(一一八七)年九月四日のことである。

 源頼朝は源義経の所在を探るために平泉に雑色を派遣した。その雑色から源義経の所在が確認できたという答えが返ってきたのである。

 雑色(ぞうしき)とは、本来であれば天皇の側に侍り秘書として仕える職務である蔵人の見習いであり、天皇の側に仕えながら昇殿を許されない職務の人のことであったが、時代とともに貴族の周囲に侍り秘書的な職務を果たす人のことを雑色と呼ぶことが増えてきていた。従二位の位階を持つ源頼朝も当然のように雑色を抱えており、安達清経のように現在にも名を残す雑色が存在していたことが確認できている。このときに奥州に派遣された雑色が安達清経であるどうかははわからないが源義経の捜索のために鎌倉と京都を行き来してきた安達清経が奥州に派遣された可能性は否定できない。

 名が記録に残っていない源頼朝の派遣した雑色は、平泉に観光に出かけたわけでも、人目につかぬよう隠密行動で平泉にまで向かったのではない。後白河法皇の出した院宣を平泉に届ける公的な使者として平泉に向かったのである。

 吾妻鏡の記述に従うと、平泉に源義経がいるらしいという未確認情報を受け、鎌倉から京都へと使者を派遣し、京都で後白河法皇の院宣を受けて鎌倉に戻った後で平泉に向かい、平泉から帰ってきたのが九月四日であるという。

 院宣の内容は、二年前に出ている源義経討伐を再確認する院宣である。朝敵となった源義経を匿うことは国家反逆罪であることを藤原秀衡に伝える内容であり、その院宣を受けた藤原秀衡からの回答を雑色は持ち帰ってきた。

 藤原秀衡からの回答は、自分は国家反逆者ではないというものである。単純に考えればその通りで、好き好んで国家反逆者になると答える者など、ゼロとは言えないが普通ならばいない。ただし、源義経が自分のもとにいることを正確に否定してはいない。回答を避けているのだ。

 そして、源頼朝が平泉に派遣した雑色は、はっきりとその目で源義経の姿を確認しているだけでなく、奥州藤原氏の軍備強化が着々と進んでいるところも確認している。ただし、源義経と直接会って話をしたかどうかは吾妻鏡には記されていない。もしかしたら、雑色は源義経の姿を見たが、源義経は雑色から隠れることに成功したと考えたのかもしれない。

 何のための軍備強化かと問われれば、その答えは自衛であろう。奥州藤原氏は他の有力武士団と違い、一つだけ大きな例外を持っている。それは、国外からの侵略がありえるという土地だということ。北海道や樺太、千島だけでなく、日本海の対岸にある金帝国や朝鮮半島の高麗も交易圏としているのが奥州藤原氏だ。国際交易というものは必ずしも平和のままに完了するとは限らない。場合によっては戦乱の火蓋が切って落とされる可能性が存在するのが国際交易というものだ。特に、一方が豊かでもう一方が貧しいとき、貧しさから脱却する手段として交易相手に侵略することは人類史上何度も見られたことである。国際交易路があるということは富の源泉となる一方、国外からの侵略者が通ってくるルートが完備されているということでもある。たとえこちらに侵略の意図がなくとも、向こうから侵略してくるようなことがあったならば、抵抗した末に死を迎えるか、侵略を受け入れた末に虐殺されるかだ。そこに平和という未来はない。ただし、侵略を断念させる方法が一つだけ存在する。どんなに話し合いの通じない野蛮な人間でも、殴り合いで勝てるかどうかならば理解する。そして、殴り合いで負けるとわかっている相手に殴りかかっていくような人間は、破滅を求めている人間以外にはありえない。ゆえに、奥州藤原氏が軍備を拡張することは、仮に侵略してくる動きを見せようものなら打って出るという意思表示を内外に示すことを意味する。

 もっとも、こんな見えすいた言い訳を文字通りに受け入れることはない。奥州藤原氏にとっての最大の脅威は、東北地方の南、関東地方に勢力を築き上げることに成功した鎌倉方である。この時代の日本国内最大の軍事組織と南で接していることを考えたとき、軍備拡張を図るのは当然の帰結といえよう。いかに国外情勢を踏まえてのことであるという公式見解を発表しようと、それは見え透いた言い訳でしかない。

 軍備拡張の必要性があったのに、その軍勢を指揮する指揮官がいないと嘆いていたのが奥州藤原氏である。そんなところに、源義経というこれ以上考えられない人材がやってきたのだ。国家反逆者とみなされると言われようと、源義経を手放すなど奥州藤原氏の選択肢の中にはない。

 奥州藤原氏からの返答は直ちに京都へと送られ、次の対策が練られることとなった。


 奥州藤原氏のもとに源義経がいるという話を、藤原秀衡が公的に認めたわけではない。鎌倉では源義経が平泉にいるのは既定路線となっていたが、京都ではまだ源義経が平泉にいることを知らない、あるいは平泉という話を聞いてはいても受け入れることのできない人もいた。

 源頼朝はこの空気を利用した。源義経は確かに奥州藤原氏のもとにいるが、源義経と行動を共にしてきた全ての人が平泉にいるわけではない。源行家のように既に討ち取られた人もいるが、戦場から離脱して身を隠している人もいる。

 また、身を隠しているのは源義経の関係者だけではない。壇ノ浦の戦い以後、いや、平家都落ち以後に各地に散らばることとなった平家の残党もいるのだ。

 源義経の残党や平家の残党、そして、源義経の捜索のためとして、この時点での鎌倉方の九州における指揮官である宇都宮信房と、朝廷より九州総追捕使の役職を拝命している天野遠景の両名に命じて、鬼界ヶ島までの捜索を命令したのである。鬼界ヶ島はこの時代の日本国の南端とされている島であり、それより南の島々にも日本人が住んでおり日本語が公用語である社会であることは知っているものの、日本国の統治圏の範囲ではないとされていた。ちなみに同じことは北海道や樺太や千島にも言え、日本語が通じる日本人が住んでいることは知識としては知っていても、統治園の範囲外となっている。この時代のアイヌ語と日本語の関係は、現在におけるアイヌ語と日本語の関係よりももっと近い。言語学的に論じるならば、アイヌ語と日本語というより、日本語の北海道方言と本州方言というべきであろう。

 話をもとに戻すと、鬼界ヶ島まで使者を派遣するということは鎌倉方が日本国の南端まで勢力圏を広げることを意味する。名目は源義経や平家の残党の捜索であろうと、鎌倉方が勢力を伸ばすことに利用できるのであれば利用しない手はない。

 また、この捜索命令によって一時的にではあるが、奥州藤原氏から鎌倉に向けられる視線が弱まったとも言える。奥州藤原氏のもとに源義経がいることを公的に認めたわけではなく、雑色が源義経の姿を確認したことも知らない。ここで源頼朝の視線が北方ではなく西や南に向かうのであれば、奥州藤原氏としては願ったり叶ったりである。

 さらに奥州藤原氏には、視線を東北に向かわせない追い風が吹いた。

 文治三(一一八七)年九月二七日に、厳島神社の神主である佐伯景弘から神器宝剣の捜索失敗が正式に報告されたのである。壇ノ浦の戦いで海に沈んだ天叢雲剣あまのむらくものつるぎは、これで正式に京都に戻ることはなくなった。後に伊勢神宮より献上された剣を形代(かたしろ)とすることで三種の神器を復活させることとなるが、それは後鳥羽天皇より二代後の順徳天皇の時代になってからである。どうして伊勢神宮から献上された刀を形代(かたしろ)とすることになるのかの理由は本作の終わりに知ることとなるはずである。


 奥州藤原氏に対するさらなる追い風が吹いたのが文治三(一一八七)年九月二七日のことである。この日、畠山重忠の所領四ヶ所が没収となり、千葉常胤の長男である千葉胤正のもとに預けられることとなったのだ。東北地方に鎌倉方が軍勢を出動させるとなった際には鎌倉方の軍勢を率いることになるであろう指揮官の一人と目される人物が軟禁状態になったわけであるから、奥州藤原氏にとっては危機が減ることとなる。

 奥州藤原氏にとって追い風であることは、鎌倉方の立場に立つと向かい風である。何しろ優秀な武人が一人減るのだ。しかも、誰かが責任を取らねばならない悪事があったのは事実でも、畠山重忠本人が他者の所領を没収したわけではないので、この判断は不当と言えば不当である。いかに部下の責任は上司にもあるとしても、このときの判断は厳しいとするしかない。

 畠山重忠もそのことを訴えていて、千葉胤正のもとに預けられることとなったその瞬間から一切の飲食を絶つハンガーストライキを始めたのである。

 現在でも政治運動の一環としてハンガーストライキが繰り広げられることがあるが、実はハンガーストライキというものはやっている人の自己満足でしかなく、たった二つの例外を除いて、ハンガーストライキによって政権の政策が大きく動くことはない。

 ところが、このときの畠山重忠はハンガーストライキにおける二つの例外の双方もとに該当したのである。

 ハンガーストライキが意味を持つ例の一つは、実際に絶食する人が権力の一翼を担っている人物でいること。日本での成功例だと、東京佐川急便事件で金丸信を略式起訴で済まそうとしたことに抗議するとしてハンガーストライキに打って出た青島幸男参議院議員の例がある。比例代表で一三二万票もの票を集めた政党の党首が国会議事堂の前でハンガーストライキを繰り広げたことで、金丸信は略式起訴ではなく逮捕され起訴されることとなった。ただ、これは背景に一〇〇万票を超える有権者がいる国会議員がやったから意味があるのであり、いかに将来有望な政治家になると予期される人であっても、現時点ではまだ無名である人物が学生運動の延長上でハンガーストライキを決行したところで意味は無い。意味があるのは、その人物の後ろに一〇〇万人レベルの支持者がいるときである。

 ハンガーストライキが意味を持つもう一つの例が、その人物が権力の監視下に置かれて軟禁状態にあること。権力によって監視下に置かれた場合は、その人物の保護が権力者に求められることとなる。監視下に置かれた人が死を迎えるようなことがあったら権力者の責任問題に発展するのだ。このときの畠山重忠の場合で考えると、畠山重忠の部下が他者の領地を不正に手に入れたところまでは畠山重忠の責任問題であるが、畠山重忠が軟禁下に置かれることとなってからは、畠山重忠の身に何かあった瞬間に源頼朝の責任となるのである。いかに千葉胤正のもとに預けられたと言っても、千葉胤正は源頼朝の命令で畠山重忠を預かっただけである。また、畠山重忠は源頼朝の判決に抗議するとして絶食しているので、千葉胤正がどうにか食事をするように勧めたとしても、源頼朝が判決を覆さない限りハンガーストライキは続き、責任は源頼朝のもとに向かうのである。


 鎌倉で畠山重忠がハンガーストライキに突入していた頃、京都では摂政九条兼実が憂鬱に襲われていた。この頃の九条兼実の日記を読むと、自らの思い描いている政務を執り行えないことへの苦悩が読み取れる。

 ただ、九条兼実という人は本質的に裏表のある人である。生真面目な人であり、また、常識人でもあるのだが、日記に書き記している内容はお世辞にも上品とは言えないところがある。あるいは、日記だから安心して書き記しているというべきか、九条兼実の日記には他者への、それも権力者への悪口がこれでもかと出てくる。いかに政敵であるとは言え、先代の摂政であり、また、自分の実の甥でもある近衛基通のことを後白河法皇の男色相手と貶したのはその嚆矢であろう。

 文治三(一一八七)年九月二七日の九条兼実の日記を読むと、頭中将である源兼忠のことを出仕しても人数に入らぬ人形のような人間だと記し、同じく頭中将である藤原実教については漢字を知らぬ人と貶している。その上で、その他の五位の蔵人たちの勤怠もあまりにも悪いことを嘆き、相応の能力を持った人材がいないために望み通りの政治を執り行えないと憂鬱に陥っているのである。

 ちなみに他者の悪口を平然と書き記した九条兼実が漢字の書けない人間と揶揄した藤原実教であるが、この人は本当に漢字を書けなかったようで、九条兼実の他にも、藤原定家が藤原実教のことを漢字が書けない人と日記に書き記している。その代わり、管弦の道に秀でていること、人とのつきあいが巧みであること、そして、抜群の記憶力で何を聞かれても口頭で返す人であるとも記している。つまり、九条兼実は藤原実教のことを嘆いているが、藤原定家は藤原実教の能力を認め、藤原実教が漢字を書けないというのは弱点の一つであるものの、その弱点を埋めるに十分な才能があるというのが藤原定家の記す藤原実教への評価だ。

 考えるに、九条兼実自身は有能な人であったろうが、他者を使いこなす能力が高いとは言えなかったのではないだろうか。有能な人によくあることであるが、自分であれもこれもとできてしまうために、誰かに仕事を任せるより自分でやってしまった方が早く済んでしまい、結果として自分がいないとどうにもならない組織を作り上げてしまうことがある。そして、他者に仕事を任せようとしても、命じられた他者が命じた本人よりも品質の悪い結果を残すと、どうしてこんなこともできないのかと落胆する。

 従来の藤原摂関家であればこれでもどうにかなった。藤原氏の内部で十分に人材を抱えているので、藤原氏内部の対立は存在していても、上役の求める成果を出すことのできる優秀な人材は内部で用意できていた。しかし、今や藤原氏の結束は過去のものとなり、同じ藤原氏であることよりも、近衛家であるか、九条家であるか、あるいは藤原氏の中の別の家であるかが問われるようになってしまったのだ。さらに藤原氏内部の対立を無視したとしても、平家政権と源平合戦の余波で藤原氏内部の人材教育が停滞してしまった。藤原氏が締めていた役職に平家が入り込んでしまったために経験を積むことができなくなったというタイミングで、平家が短期間で一掃されて空席が大量に生じ、結果、経験の無いままに藤原氏を主とする貴族が空席を埋めることとなったのである。

 このような危機を乗り越えることができるほど九条兼実のマネジメント能力は高くは無かったのが、九条兼実を襲うこととなった憂鬱の原因であると言えよう。


 文治三(一一八七)年一〇月四日、源頼朝は一つの決断をした。畠山重忠の軟禁状態を終了させ、武蔵国の所領へ戻ることを許したのである。ただし、没収した所領についてはそのままである。

 このとき畠山重忠は、所領を拝領するときにはまず代官の器量を求めなければならないと述べ、その上で、自分は清廉潔白だと思っていても、そしてそれを自慢に思っていても、代官によって恥辱を受けてしまったと述べてから武蔵国に戻っている。これが一ヶ月後に一つの騒動を生む。なお、没収された所領については、文治三(一一八七)年一〇月一三日に伊勢国沼田御厨の地頭である吉見頼綱の所領へとなった。

 軟禁状態を解除したと言っても畠山重忠は不在である。奥州藤原氏の問題を考えると、いざというときに軍勢を率いることのできる武人が一人いないという状況に違いは無いため、源頼朝の平泉への対応については大きな違いはない。

 しかし、畠山重忠不在の穴を埋める報告が文治三(一一八七)年一〇月八日に届いた。京中の群盗逮捕のため京都に派遣していた千葉常胤と下河辺行平の両名が、京都で暴れ回っていた強盗集団を征伐したという報告とともに鎌倉に戻ってきたのである。これで、いざ奥州藤原氏と全面対決となった場合に軍勢指揮を執ることができる人物が二名、鎌倉に戻ってきたこととなる。畠山重忠不在の穴を埋めるに十分であるが、この二名の帰還はプラスアルファのメリットも鎌倉方にもたらした。

 京都の強盗集団を鎌倉方の勢力で鎮圧したことは京都における鎌倉方の評価を上げる効果を持っていたのである。今なお源義経に対する親近感を隠せぬ者は多かったが、それでも強盗退治というわかりやすい形で鎌倉方が功績を果たしたことを示したことは、京都における鎌倉方への好感度を上げるに十分であったのだ。

 さらにここに、京都復旧に鎌倉方がもたらした功績が加わる。後鳥羽天皇の里内裏である閑院内裏の修復工事が鎌倉より派遣された中原広元の指揮下で完成したことで鎌倉方への評判が高まったが、源頼朝はここでさらなる上積みをする。工事完成が文治三(一一八七)年一〇月二五日であり、翌月初頭には後鳥羽天皇の遷幸となることが決まったのであるが、後鳥羽天皇の遷幸に要する調度類一式を鎌倉方で用意して後白河法皇の元に届けたのである。なお、後鳥羽天皇の遷幸に要する調度類一式の用意については八月末の段階で既に源頼朝から指令が出ており、中原広元はタイミングを合わせて後白河法皇の元に届けたこととなる。京都の人達は鎌倉方の手際の良さに感歎するしかなく、後白河法皇は時代の趨勢が自分のもとから離れてしまっていることを痛感させられることとなった。

 こうした鎌倉方の勢力の安定化と京都からの支持の取り付けは奥州藤原氏の立場では大きなマイナス要素であったが、一〇月末、そのようなマイナス要素など微々たるものでしかないと感じさせる出来事が平泉で発生した。

 文治三(一一八七)年一〇月二九日、奥州藤原氏第三代当主藤原秀衡、死去。


 藤原秀衡死去の様子を、吾妻鏡の文治三(一一八七)年一〇月二九日の記事はあっさりとした記載で済ませている。藤原秀衡が陸奥国平泉で亡くなったこと、そして、既に病状が悪化していたことから、息子の藤原泰衡達に対して源義経を大将軍として迎えて平泉の統治をするように命じたことを記すのみである。

 朝廷の官職を基準にして考えると、藤原秀衡の死は従五位上陸奥守の貴族が亡くなったというだけであり、公卿補任のどこを見ても藤原秀衡のことを記す段はない。他の貴族との違いを挙げるとしても京都ではなく陸奥国平泉に住んでいるということぐらいである。鎮守府将軍を務め、陸奥守を務めてきた人物であるから赴任先で亡くなったといってしまえばその通りとなってしまうのが、朝廷基準での藤原秀衡の死である。

 しかし、誰がその言葉を信じるというのか。

 東北地方で圧倒的な勢力を築き上げ、源平合戦の渦中においても、また、その中での最大の悲劇とすべき養和の飢饉においても、東北地方だけは平穏無事であった。奥州藤原氏は基本的には源氏に荷担していたが、越後国の城一族から侵略を受けたことを除いては戦乱とは無縁であった。鬼頭宏氏が一九九六年に論文にまとめ上智大学の紀要に発表した内容に従えば、一一五〇年時点の日本国の推計人口は六八四万人、うち、東北地方の人口は六一万人ほどであるから日本国全体の一〇分の一にも満たない。しかし、人口こそ一〇分の一未満であっても、平和であったこともあって産業を破壊されずに済んだことと、北海道、千島、樺太、さらには日本海の対岸の国々も対象とする広大な交易網を築いていたことから、奥州藤原氏の支配する東北地方の生産性は他の地域よりも高く、そのために、平泉はこの時代の日本でトップレベルの裕福さを誇る都市であり、平泉を統べる奥州藤原氏、そして、奥州藤原氏の当主である藤原秀衡は日本有数の資産を持つ存在であったのだ。

 その人物が亡くなったのである。

 これだけでも平穏無事では済まないのに、藤原秀衡の死はさらなる問題を抱えていた。

 後継者争いだ。

 藤原秀衡には二人の後継者候補がいた。長男の藤原国衡と次男の藤原泰衡である。

 藤原国衡の母の素性ははっきりとしない。公的には藤原秀衡の側室の生んだ女性とされている。生年もはっきりしない。確実に言えるのは、藤原秀衡が正妻を迎え入れたときにはもう藤原国衡が生まれていたことである。藤原国衡は父の正式な妻から生まれたわけではないことを自覚しており、早々に後継者候補から外されていることを自覚する人生を歩んできた。しかし、藤原国衡は武勇に優れた人であるとの評判が以前から高く、正式な妻から生まれた子ではなくとも奥州藤原氏四代目当主に藤原国衡を推す声は以前から強かった。

 藤原泰衡の母の素性は記録に残っている。藤原基成の娘が藤原泰衡の母である。藤原基成はかつて陸奥守を務めてきた人物であり、いったん京都に戻った後、平治の乱で敗れ陸奥国に流されたという経歴を持っている。藤原基成自身が平治の乱で大きな役割を果たしたわけではないが、藤原基成の弟の一人に平治の乱の首謀者である藤原信頼がおり、その連座として陸奥国に流されたという経緯がある。ちなみに、藤原秀衡の死去の時点で藤原基成は平泉にいたことは判明している。

 また、藤原基成の父の従兄弟が一条長成である。一条長成は源義経の実母である常盤御前の再婚相手であり、源義経は鞍馬寺に預けられるまで一条長成のもとで育てられてきた。源義経が鞍馬寺を脱して平泉に向かったのは育ての父の近親者が平泉にいるという要素もあった。

 つまり、藤原泰衡は奥州藤原氏の次期当主として文句ない血縁を持っていたのである。ただ、この人は兄ほどの才覚は無かった。


 能力は問題なくとも血縁に問題のある兄の藤原国衡。

 血縁は問題なくとも能力に問題のある弟の藤原泰衡。

 この二人のどちらを後継者に指名しても問題が起こることは目に見えている。

 このことを考えた藤原秀衡は、死の間際に信じられない遺言を残した。

 藤原国衡に対し、藤原基成の娘と結婚せよと命じたのである。血のつながりは無いとは言え藤原国衡にとっては義理の母にあたる女性との結婚だ。藤原国衡は血縁の低さを補うことができ、藤原泰衡は優秀な兄を義理の父とすることができるのだから、かなり優れたアイデアであるとは理解できる。ただし、同意はできない。考えていただきたい。当事者はどう考えるかを。藤原国衡にとっては昨日まで母であった女性が妻となり、藤原泰衡にとっては昨日まで兄であった人が義父となるのだ。

 それでも事情が事情であるから兄弟とも父の遺言を受け入れている。また、自分の娘が自分の義理の孫である男性と結婚することを、藤原基成も受け入れている。ここで兄弟間で対立しようものなら待っているのは平泉の壊滅であることは平泉に全ての人が理解していたのだ。

 平泉には藤原国衡と藤原泰衡の兄弟の上に源義経というスーパーヒーローが君臨している。五位の貴族であった父と違って兄弟とも朝廷内の公的地位となると無位無冠だ。過去形になってしまったとは言え五位の貴族であった源義経を推戴する組織にしなければ朝廷に認められる組織ではなくなってしまう。また、いかに藤原国衡が武勇に優れた人物であるとの評判を得ていようと、軍勢指揮官として源義経に勝てるわけではない。鎌倉方との全面対決を考えたとき、藤原国衡が指揮するのと、源義経が指揮するのとでは、比べものにならないレベルでの大きな違いがある。藤原国衡が劣っているのではない。源義経があまりにも優れているのだ。源義経がいるからこそ奥州藤原氏は軍事的に鎌倉方とは対峙できているのである。

 ところが、奥州藤原氏が鎌倉と対峙している理由がまさに源義経なのだ。

 これで奥州藤原氏は完全に固まってしまった。

 藤原国衡と藤原泰衡は平泉の存続のために兄弟間で対立したりしないこと、そして、源義経に軍事を託すことで同意した。そのために、藤原国衡は義母を妻とすることまで同意した。とは言え、源義経がいる限り鎌倉との軍事的対立は避けられず、いかに平泉が裕福であると言っても永遠に軍事的緊張を続けることができるわけはなく、産業向上を考えても、民心回復を考えても、やがていつかは軍事的緊張を解消するための方法を選ばねばならない。それは平泉から源義経がいなくなることを意味し、源義経がいなくなることは藤原国衡と藤原泰衡の兄弟間で奥州藤原氏当主の地位を巡る争いが現実味を帯びることを意味してしまう。


 奥州藤原氏の当主交代があったという知らせが京都に届いたであろう頃、京都では摂政九条兼実の主導する時代の復旧が進んでいた。平家政権も、源平合戦も無かったことであるかのようにして、かつての時代に戻ろうとしていたのである。

 とは言え、かつての時代に戻るということは天皇に課される行事が復旧することを意味する。これを幼い後鳥羽天皇がこなすのだから、やってやれないことはないとは言え、かなり荷の重い日々だ。石清水八幡宮への行幸の際には後鳥羽天皇が途中で小便を漏らしてしまって装束を汚してしまったというハプニングも起きている。

 また、院政以前の時代に戻ることを理想としているとは言え、実の祖父である後白河法皇が存命ということもあり、孫が祖父の元を訪ねるという図式での朝覲行幸(ちょうきんぎょうこう)は欠かすこともできないのだが、後鳥羽天皇は即位からずっと朝覲行幸ができずにいた。それどころではなかったからというのが実際のところで誰もが理解できることであったが、九条兼実にしてみれば、実の祖父が存命であるのに即位してから朝覲行幸ができずにいるというのはありえないことであり、先ほどのハプニングのあった石清水八幡宮への行幸の後に鳥羽殿に滞在する後白河法皇のもとを行幸することで朝覲行幸を果たすことに成功した。後鳥羽天皇にしてみれば、いろいろと引き回された末に祖父の元まで連れて行かれてさぞかし疲れたことであったろう。

 後鳥羽天皇のそうした疲労も、文治三(一一八七)年一一月一三日に一区切りを迎えることとなった。この日ついに、復旧工事を終えた閑院内裏に戻ることができたのである。鎌倉方の尽力がこれでもかと示された復旧工事であったが、里内裏とはいえ天皇が内裏に戻ったことは、あるべき時代の復旧が成し遂げられつつあることを広くアピールする効果もあった。

 なお、後鳥羽天皇は閑院内裏に戻ったと言っても、その翌日にはさっそく賀茂社行幸が行われ、一条室町の桟敷で見物する後白河法皇の前を通り、下鴨神社、上賀茂神社の順に参詣したのである。こうした神道の儀式をこなすのが天皇としての責務であると言えばそれまでであるが、こうした儀式に負われる日々をこなさねばならないことを考えると、帝位を退くことで儀式に負われる日々から解放された上皇が院政として政務を司る仕組みが成立した理由も理解できてしまう。

 しかし、それでは困るのだ。話を時代の復旧に戻すと、九条兼実が目指しているのは院政前の時代であり、天皇の実の祖父であるゆえに朝覲行幸をすることまでは当然として受け入れてはいても、後白河法皇の手に権力が渡るのは同意できないのだ。退位して、出家して、かつての花山法皇のように個人的に隠居生活を過ごすのは構わない。周囲に迷惑を掛けると言っても、邸宅の周囲に弓矢で攻撃を仕掛けるという程度であれば、迷惑極まりないのは事実であるが国を戦争に巻き込むなんてことには至らない。しかし、後白河法皇は、保元の乱、平治の乱、そして源平合戦とこの国に戦乱を巻き起こした人物であり、かつ、現時点でもなお院政として一定の権力を持っているという存在だ。おまけに、現行法で後白河法皇から権力を取り上げる方法は存在しない。

 九条兼実に残されている手段は、院政そのものを否定することである。そうしなければ後白河法皇が権力に介在させることを止めることができない。閑院内裏の復旧に鎌倉方が深く関わったのは、鎌倉方の京都復興のアピールでもあるし、そのような時代を迎えたことを印象づける効果も持っていたが、九条兼実が院政と対峙するために鎌倉方と手を組んだというアピールにもなっていたのだ。


 平泉で藤原秀衡が亡くなってからおよそ半月、畠山重忠の釈放から一ヶ月以上を経た文治三(一一八七)年一一月一五日の夜、鎌倉で騒動が起こった。

 畠山重忠に謀叛の疑いがあるというのだ。

 事件の発端は梶原景時から報告である。梶原景時は源頼朝に、畠山重忠が武蔵国で、重大な失敗があったわけでもないのに犯罪者扱いされたのはこれまでの自分の功績が取り消されたと同然であると言ったと告げた上で、畠山一族が武蔵国に軍勢を結集させていると報告したのだ。そして、武蔵国で挙兵して鎌倉に叛逆するつもりであるとしたのである。

 源頼朝は夜が明けてすぐに、小山朝政、下河辺行平、小山朝光、三浦義澄、和田義盛などの御家人を招集し畠山重忠の謀叛計画について相談した。ここで御家人達から挙がったのは、畠山重忠にそのような意思があったとは思えず、不興を買ったのも畠山重忠の代官の不祥事に対する責任であって畠山重忠個人の問題ではないことは、鎌倉にいる誰もが知っているし、畠山重忠自身も理解しているとした上で、畠山重忠と同世代でともに武芸鍛練を積むこと多い下河辺行平を畠山重忠のもとに派遣することを決めた。

 下河辺行平が鎌倉に戻ってきたのは一一月二一日のことである。下河辺行平は畠山重忠とともに鎌倉に戻り、畠山重忠は侍所に赴いて、侍所所司である梶原景時に対して反逆の意思などないことを弁明した。

 梶原景時からは、謀叛の意思が無いというなら起請文を書いて提出するよう求めたが、畠山重忠はその申し出を拒否。畠山重忠がその武芸を活かして各地で略奪を働いているという噂が立つなら屈辱でしかないが、謀叛計画などという噂が広まるのは周囲が畠山重忠という武人を高く買っている証拠であり面目も立つとした上で、今の関東はその畠山重忠ですら感服するしかない源頼朝を頂点とする社会であり、自分は源頼朝に仕える忠実な武人であると宣言。そもそも起請文を書かねばならぬというのは言っていることとやっていることが違う人間がすることで、自分は言動一致の人間であり起請文を書く必要は無いと拒否したのである。

 侍所からの報告を受けた源頼朝は、下河辺行平とともに畠山重忠を招き、下河辺行平が武蔵国に出向いてからこれまでの間に何があったのかを訊ねた。

 二人の話した内容は以下の通りである。

 畠山重忠のもとに下河辺行平が到着したのは一一月一七日のこと。自分が反逆者扱いされていると聞いた畠山重忠は激高し、死を以て抗議すると刀に手を掛けたが、下河辺行平は畠山重忠の手を押さえて、畠山重忠は平良文の子孫にして藤原秀郷の子孫であるという関東地方の武士にとってのトップエリートであり、その人間が認めた源頼朝に仕えている身であるとした上で、ここで鎌倉に出向いて源頼朝に会うべきと告げて鎌倉へと連れてくることにしたというものであった。吾妻鏡の記載はもっと美文に満ちた勇ましいものであるが、一箇所だけ美文ではない箇所がある。

 梶原景時に対する二人の言葉だ。

 そもそも畠山重忠謀叛説を述べたのは梶原景時ただ一人であり、怒りは梶原景時に集中している。その梶原景時のことを二人が述べたときの言葉として吾妻鏡には「讒者」と書いてあるが、当時はどのような言葉で話したのを無理に漢文にしたのかわからないし、実際に言ったと推測される言葉も、推測はできても、古語のそのままの単語も、現代語に訳した単語も、記すのは難しい、というか、記したくないし訳したくもない。あまりにも下品な単語になるからだ。

 結論から言うと、文治三(一一八七)年時点における畠山重忠謀叛の話はこれで終わりである。しかし、御家人達の間に燻り続ける火種は残ったままである。


 九条兼実は鎌倉方の力を利用して後白河院を牽制しつつ、院政前の時代を取り戻そうとしていた。しかし、全てが鎌倉方の言いなりというわけではなく、九条兼実は源頼朝の意に沿わない政務に着手している。また、理想とする政治の遂行ためには後白河院に譲歩することも厭わないでいる。

 そのわかりやすい例が、平業忠の例である。

 姓からすると平家の一員と思われるかも知れないが、この人は平を姓としてはいても平家の一員ではなく父が後白河院の近臣であったことから父と同じ道を選んで出世への道を手にし、父が院の近臣であるという威光を利用して若くして国司に就くなど、藤原氏ではない者が自身の出世のために院に近づくという、院政期の典型的な下級貴族であった。平業忠は当然ながら後白河法皇に忠実に仕える、あるいは、後白河法皇しか頼れる人がいない状況下で朝廷内の日々を過ごしていたのであるが、源平合戦期に大博打にチャレンジし、成功したのである。

 それが源義経への接近であった。平家物語では、木曾義仲軍によって幽閉されていた後白河法皇の御所の塀にのぼって情勢を伺い、途中で転びながらも後白河法皇のもとに源義経の軍勢が近づいてきていることを伝えた人物として名が残っているが、物語としては面白いエピソードと言えても、本当にあったことかどうかはわからない。しかし、この人は源義経への接近を利用して自らの地位を掴んだことは間違いなく、それだけが理由ではないにせよ、従四位下まで位階を上げることができたことの背景には源義経への接近もあったであろうとは容易に考えることができる。

 ただ、源義経への接近はこの人のキャリアを大きく裏切ることにもなった。源義経の失脚と同時に官職を失うこととなったのである。

 その平業忠を、九条兼実は文治四(一一八八)年一月二四日に大膳大夫として任命したのである。大膳職と言えば宮中の食事一切を司る職務であり、大膳大夫となるとその職務のトップである。後鳥羽天皇だけで無く宮中で働く全ての人の食事nについて責任を持って担当するのであるが、その職掌の中には儀式における饗膳も含まれる。天皇臨席の宮中行事において出される食事には決まりがあり、大膳大夫はそのための食材や調味料の調達についても責任を負う職務である。忘れてはならないのは、文治四(一一八八)年という年は、養和の飢饉が最悪期を脱してからまだ四年しか経過しておらず、さすがに宮中で餓死者が出るというところまでには至らないものの食材の調達は容易ではないという点だ。

 さらにもう一点、食材の調達が容易でない理由があった。奥州藤原氏からの交易が乏しくなっているのだ。平安時代の食糧供給源は現在と比べものにならない狭さであるが、想像よりは広い。特に宮中における食事となると、京都近郊だけでなく日本全国、さらには国境の外から輸入された食材を膳に並べることも珍しくない。従来であればそうした食材の調達源として奥州藤原氏が計算できていたのであるが、源義経が平泉にいて、平泉では軍勢の強化を図っていること、そして、鎌倉との軍事的対立も見られるとなると、奥州藤原氏からの食材調達が難しくなる。

 九条兼実は院政以前の政治への回帰を訴えており、その中には宮中儀式の復活も含まれている。それが、食材が無いからという理由でかつての通りにはできないとなったら、九条兼実の面目が潰れるだけで無く、奥州藤原氏と朝廷との関係にも波及する話になるのだ。

 ここで平業忠を復帰させただけでなく大膳大夫に任命したことは、九条兼実なりの三つのメッセージが存在した。一つは、後白河院の近臣である人物に役職を与えることで後白河院との関係改善の窓口を開くこと、二つ目は、九条兼実は必ずしも鎌倉方の操り人形ではないと内外に知らしめること、そして三つ目が、奥州藤原氏や奥州藤原氏のもとにいる源義経との関係改善の糸口を朝廷サイドが保持しておくことである。

 源義経は、鎌倉方にとっては反逆者であり、源平合戦期で源義経率いる軍勢の略奪や拉致の損害を被った地方にとっては憎しみの存在であるが、京都における源義経は英雄である。そして、ここでいう京都には朝廷も含まれる。


 九条兼実はさらに鎌倉方の影響縮小を図る道を選んだ。

 鎌倉方における地方統治の要となっている地頭について、朝廷の名で鎌倉に対処を求めたのである。

 文治四(一一八八)年二月二日、源頼朝は鎌倉滞在中である検非違使の大江公朝に対し、京都へと戻る大江公朝に託すとして鎌倉からの返信を預けた。大江公朝は三年前の八月に源義朝の首を鎌倉まで運んできた人物であり、それ以降、京都と鎌倉との間を何度も往復し、源頼朝と後白河法皇とのあいだを取り持つ人物である。

 吾妻鏡に同日付の記録として残っているのは以下の通りである。

 元摂政近衛基実の次男で前摂政近衛基通の弟である粟田口忠良こと藤原忠良に対して、越後国奥山庄(現在の新潟県胎内市のJR中条駅のあたり)の荘園の地頭がやらかしたことを認めた。なお、具体的に何をしたのかも、やらかした地頭の名前も吾妻鏡には記されていない。

 修理大夫二条定輔こと藤原定輔に対して、尾張国津島社(現在の愛知県津島市にある津島神社)の地頭である板垣兼信が年貢を弁済していないこと認めた。尾張国津島社は神社そのものが荘園という扱いを受けている土地である。

 右衛門佐御局に対して、信濃国四宮庄(現在の長野県長野市篠ノ井)の地頭が年貢と所領の取り分の双方を納付していないことを認めた。右衛門佐御局とだけあり氏名不詳。同じく地頭の名は記録に残されていない。

 大宮御局に対し、伊勢国志礼石御厨字輪田(現在の三重県いなべ市藤原町)において右馬允が不当なことをしたことを認めた。こちらもなお、役職名のみが残っており具体的な氏名はない。

 賀茂神社の神主に対し、高雄文覚上人が宣旨を無視して賀茂神社の領地を横取りしたことを認めた。賀茂神社の神主の具体的な名は記されていないが、吾妻鏡では源義経の捜索にあたっている人物であるとは記している。このように記したほうが鎌倉方からの評判を得やすいと考えたのかもしない。

 松殿基房の次男の藤原家房に対して、伊賀国若林御園(現在の三重県伊賀市にある近鉄青山町駅のあたり)の七町九反が横領されたことを認めた。横領したのは、佐々木定綱の家臣の地頭が五町四反、三浦義村の家臣の地頭が一町五反、氏名は不詳だが若林御園に隣接する荘園である阿保別府の地頭が一町で、合計すると七町九反となる。

 以上の確認に加え、備前国津宮(現在の岡山県岡山市)と西野田保(現在の大阪市福島区)の二箇所の所領問題で地頭職の貞光と争っていることについて、これまでの通り被告人の供述を退け、以前の通り大江公朝の所領とすることも返信とした。

 ただし、ここで源頼朝はプラスアルファを付け加えている。

 あくまでも問題があったことを認めただけであり、所領の権利を鎌倉として明言したのではないという点だ。こうした訴えは後白河法皇から命じられたものであるために鎌倉で応対したが、あくまでも問題があることを認めたのみであり、源頼朝個人の縁故を頼って訴えを起こしてきたとしても鎌倉では対処しきれないと断言したのだ。

 理屈から言えば源頼朝は正しい。大江公朝のこのときの公的地位は左衛門少尉兼検非違使であるから、司法権について鎌倉ではなく大江公朝にあるとするのは法的にはその通りである。ただ、このときの訴えのスタートは京都の摂政九条兼実であり、その目的は鎌倉方の持つ権利の削減を狙ったものである。原理原則に従えば九条兼実も源頼朝も正しい。正しいからこそ、九条兼実は現状を変えることができなくなり、源頼朝は現状維持とすることに成功したのである。


 源義経が奥州平泉にいることは周知の事実になっていたが、京都に住む人の中にはもっと別の場所、具体的には京都にもっと違い場所にいるはずという思いもあったようで、平泉以外の場所にいるはずという噂が現れては消えていた。

 その噂が正式に否定された、すなわち、源義経は奥州藤原氏のもとにいると朝廷が正式に発したのは、文治四(一一八八)年二月八日のことである。それも、源義経が単に平泉にいると伝えたのではない。出羽国に遣わされた法師昌尊が、現地での戦いに敗れて鎌倉へと帰還したという知らせが鎌倉から正式に届いたのだ。そして、法師昌尊と戦場で戦った相手こそ源義経だ。

 法師昌尊とは、後に南北朝時代の武将として名を馳せることとなる新田義貞の祖先にして、新田家の創始者である、新田義重こと源義重の息子である。新田家は必ずしも源頼朝に協力的とは言えなかったものの、関東地方における鎌倉方の勢力拡大を前に現実路線を歩み、新田家の中からは源頼朝の御家人となる者が出ていた。法師昌尊はそうした新田家の御家人の一人である。ただし、この人の素性ははっきりしていない。新田家の苗字の由来ともなった新田荘(現在の群馬県太田市)にある長楽寺に伝わる系図によると、新田義重の子であるのは間違いないのだが、誰を母として生まれたのか、出家する前はどのような名前であったのかまでの記録は残っていない。新田義重の四男の新田義佐が、出家することで新田家と決別して源頼朝のもとに仕える御家人となったとする説もあるが、新田義佐は治承五(一一八一)年に討たれたとされている。もっとも、法師昌尊が新田義佐であるとする説によると討たれたのではなくその年に出家したということとなっている。

 そして、鎌倉から届いたこの知らせは、京都の人達の背筋を凍らせる知らせでもあった。鎌倉が出羽国、すなわち日本海岸にまで勢力を伸ばしていること、そして、自活できない都市であるために各地からの物資搬入によって成り立っている京都にとって物流の根幹である日本海沿岸航路について、奥州藤原氏と鎌倉方とが出羽国で戦闘状態に陥ったということは、日本海沿岸からの物資流入のうち東方からの物資流入が停まることを意味する。養和の飢饉の記憶もまだ薄れていない時期に届いた日本海沿岸航路の停止は、戦場から遠いところにいる人も恐懼するに十分であった。

 この恐懼は文治四(一一八八)年二月一三日にさらに高まった。源頼朝から、亡き母のため五重塔を造営すること、また、自身が重厄の年齢であるために一年間の殺生を禁断することを宣言したのである。五重塔の造営はともかく、殺生禁断となると一年間に亘って戦争をしないことを意味する。つまり、奥州藤原氏が日本海沿岸航路を閉ざすことに対する軍事行動を、少なくとも一年間は鎌倉から起こさないと宣言したのだ。戦争は間違いなく経済を悪化させるが、閉ざされてしまっている流通路が戦争によって復活するという期待があるなら、それが悲劇を伴うにしても戦争を待ち望む声は挙がる。その声を源頼朝は消してしまったのだ。

 源頼朝からの一年間の戦争停止宣言に対し、翌二月一四日に朝廷から藤原泰衡に対して源義経追討の宣旨を発給している。なお、源頼朝からは源義経追討の宣旨を奥州藤原氏に発給するのではなく、源義経と藤原泰衡の両名とも追討するべきであるとし、同時に、二回に亘って改名を命じられている源義経については改名を白紙撤回して源義経の名に戻すよう奏上している。


 本来なら源義経追討の宣旨は摂政九条兼実が主導して発給するところであった。実際、文治四(一一八八)年二月一四日に発給した宣旨については摂政九条兼実が主導している。

 ところが九条兼実のもとに予期せぬ悲劇が舞い込んでしまった。

 文治四(一一八八)年二月二〇日、内大臣兼左近衛大将九条良通が突然亡くなってしまった。九条良通は摂政九条兼実の長男であり、九条兼実の後継者と目されていた。

 九条兼実の日記によると、九条良通はこの数日ほど具合が悪いと言っていたものの、気にするほどでもないとも言っており、たしかに二月初頭は病気で横になっていたものの一八日には回復し、亡き藤原忠通の命日である二月一九日には九条堂で開催された恒例舎利講を親子揃って聴聞していた。元気溌剌とまでは言えないにせよ、命にかかわる病気に苦しんでいるようには、父も、本人も、その他の誰もが考えもせずにいた。

 その後、息子と同じ牛車に乗った九条兼実は、息子にとっては祖父、自分にとっては父である亡き藤原忠通を弔うために法華経を唱えているのを聞きながら九条兼実の住まいである冷泉万里小路第に到着し、しばらく自宅で今後の政務について話をしていたとある。息子が自宅へ戻ったのは子刻、現在の時制で直すと午前〇時頃である。

 息子の帰宅後に眠りについた九条兼実は、朝を迎える前に予期せぬ知らせを受けて飛び起きた。九条良通が息を引き取ったというのだ。突然の知らせを聞きつけて慌てて息子の元に駆けつけた九条兼実は、横たわったまま目を覚ますことのない息子の遺体を眺めるしかできなかった。

 九条兼実は息子の死のショックから放心状態となり、出家することも考えたという。出家は取りやめ、九条兼実は次男の九条良経を自分の跡継ぎとすることまではできても、ここから先、心の平穏を取り戻すことはできずにいた。若くして出世街道を歩み、二一歳にして内大臣にまでなった九条良通と、従二位までの位階を得て左近衛中将ではあるものの非参議である九条良経とでは、二年の年齢差しかないとは言え宮中における立ち位置が大きく違う。

 九条兼実は後白河院への牽制として鎌倉方を利用しながらも言いなりになっていたわけではなく、鎌倉方の影響力が強くなりすぎていると考えたときは後白河法皇と妥協する姿勢もみせていた。しかし、その中間にいる九条兼実がいなくなるとどうなるか?

 鎌倉方の影響が強くなる。

 九条兼実によって抑えつけることに成功していた鎌倉方の圧力に抗しきれなくなったのか、あるいは、九条兼実不在の隙を突いたとすべきか、文治四(一一八八)年二月二一日に朝廷は、奥州藤原氏第四代当主と目されるようになっていた藤原泰衡と、平泉にいる藤原基成の両名に対し、源義経を捉えて京都へと連れてくるよう宣旨を下した。七日前は藤原泰衡だけが宣旨の宛名であったが、今回は藤原基成も宛名に加わっている。命令としてより強いものになったといえよう。

 自分が出家を考えなければならないほどに落ち込んでいること、その間を縫って鎌倉方が勢力を伸ばしていることは理解していても、今の九条兼実に苦境に立ち向かう意志も意欲も湧き上がらず、時代の移り変わりをただただ黙って受け入れるしかできなくなってしまった。

 九条兼実は、息子を亡くした父として四十九日の法要を執り行うことまではできたが、その四十九日の法要においても九条兼実は始終放心していた。亡き息子の思い出の残る冷泉万里小路第に住むこともができなくなり、閑院内裏から遠い九条富小路殿に籠もるようになってしまった。後白河法皇は摂政がそのような場所に住むのでは政務に支障が出るとして、事実上の政務離脱状態にある左大臣藤原経宗の邸宅である大炊御門殿に移り住むように命じた。大炊御門殿であれば閑院内裏との距離だけを考えれば摂政の住まいとしてはおかしくない。しかし、移り住むことはできても、移り住んだ先での九条兼実は呆けている様子であり続けていた。

 朝廷は摂政九条兼実不在となってしまったのだ。


 摂政九条兼実不在の間も、朝廷は最低限の政務を取り仕切ることが可能とはなっていた。ただし、それは九条兼実の望んだ形での政務遂行ではなく、従来の後白河院政に鎌倉方の勢力が複雑に絡み合うという、異様な光景での政務遂行であった。

 既に源頼朝は一年間の軍事停止を宣言している。ゆえに、仕掛けられない限り、鎌倉方が大規模な戦闘を起こすことはない。それ以前に今の日本国に鎌倉方に対して戦争を仕掛けようなどという勢力は考えられない。せいぜい犯罪集団が暴れ回るぐらいである。そして、文治四(一一八八)年だけでなくここ数年で鎌倉方の側からが軍事行動を起こすことがあるとすれば、それは奥州藤原氏を相手としたものしかありえない。それも源義経が絡んだ形での戦争以外に考えられない。

 奥州藤原氏としてみれば、源義経を鎌倉方に差し出せば、あるいは京都へと連れて来れば、戦乱を避けることができる。既に朝廷からは源義経を差し出すように命令が出ているのだから、命令に従うという大義名分で源義経を差し出して戦争を回避することも可能だ。

 しかし、奥州藤原氏の立場で考えると、源義経を差し出すという選択肢は現実的な回答ではなくなる。藤原秀衡が亡くなって藤原泰衡が当主の座に着いたが、藤原泰衡には父ほどのカリスマ性はなく、武勇に優れていると評判も得ている兄の藤原国衡が、弟の実母にして自分の義母との結婚を受け入れるまでして弟の全面支援をするとしたことで落ち着きを見せてはいるものの、奥州藤原氏内部の勢力争いの芽が消失したわけではない。それに、いかに藤原国衡が武勇優れた人物であるとの評判を得ていても、藤原国衡には鎌倉方の軍勢に正面からぶつかって勝てるほどの能力はない。仮に源義経を差し出したところで鎌倉方が東北地方に軍勢を向けなくなるという保証はどこにもなく、平泉は鎌倉と対峙するための軍備を保持し続けなければならない宿命を持っている。

 どうあろうと鎌倉方と対抗しなければならないのなら、平泉に源義経が留まり続け、奥州藤原氏の軍勢を源義経が指揮し続けるのが、奥州藤原氏が鎌倉方に対抗するための最善の策だ。それがいかに朝廷からの命令に叛くものであろうと、自分達が生き残るためには源義経に対して平泉に残ってもらうよう頭を下げるのが最善なのである。

 後白河院と鎌倉方とが複雑に絡み合った結果、平泉には源義経を差し出すようにという院宣が届き、宣旨が届き、源義経を連れ戻すための朝廷からの使者が平泉に頻繁にやってくるようになっていた。藤原泰衡はその全てに応対することとなったが、亡き父のように微妙な距離を置いてのらりくらりと交わすのは困難であったようで、次第に追い詰められるようになっていた。いっそのこと源義経を差し出してしまったほうが楽になるとまで考えるようになってしまったのだ。


 鎌倉方と後白河法皇との奇妙な絡み合いは、相互の利益を得るための妥協の産物であったと捉えることができる。後白河法皇は鎌倉方に対抗しうる存在として源義経に目を向けた末に、源義経を破滅へと追いやってしまったという過去がある。同じような接触を京都に出向いていた北条時政に対して試みたが、簡単に一蹴されている。後白河法皇は鎌倉方に対抗する存在を自身の手で握ることは諦めたと考えるべきであろう。

 ただし、自身の手からありとあらゆる権威や権勢が失われるのまでは是としていない。そのために選んだ方法が、鎌倉方と手を結ぶことであった。より厳密に言えば、鎌倉方を利用することであった。鎌倉方の求めのうち、後白河院の利益と相反しないことについては同意することで、鎌倉方に恩を売り、鎌倉方の権勢を利用して後白河院の勢力を取り戻すのである。

 そのために後白河法皇が選んだのが、源義経討伐の全面支援である。九条兼実不在の朝廷であれば、鎌倉方の望むような源義経討伐の院宣を出すことだけでなく、朝廷の名での宣旨を出すことも可能だ。院宣については鎌倉方の要望のままに出したし、宣旨についても鎌倉方の要望に応じる結果になるよう、鎌倉方の支持を鮮明にした。ついこの間まで自分で利用していた人間を破滅に追い込むような命令を支持するというのはどうかと思う声があろうとも、そのような声は後白河法皇のもとには届かない。後白河法皇はそのような声に反応するような人間ではない。

 文治四(一一八八)年二月二六日、この時点の日本国における最強レベルの院宣を出した。

 院宣は、後白河法皇の名ではなく、あくまでも後白河院の院庁からの要望書である。また、宛先も陸奥国と出羽国の両国の国司となっている。個人に書状を送るのではなく役職に対して送ることで、奥州藤原氏がどのような対応に出ようと朝廷の意思が継続されると明言されたのである。

 院宣は、前民部少輔藤原基成と、藤原秀衡の息子藤原泰衡達が二点の問題を起こしていることを懸念点として挙げている。一つは源義経を匿っていること、もう一つは国司や荘園の使者を受け入れないでいることである。

 院宣では、源義経ら一行が宣旨に背いて陸奥国と出羽国に勝手に赴いただけでなく、東北地方に入ったときに既に無効になっている宣旨を現在もまだ有効であると主張しているとし、藤原基成や藤原泰衡らに対して、既に無効になっている宣旨を有効と考えて源義経を受け入れていることは違法であるとするだけでなく、陸奥国と出羽国に入ろうとする朝廷の役人を受け入れないでいることは国家反逆罪に相当するとし、藤原基成や藤原泰衡らに対して、ただちに源義経を差し出すこと、二月二一日に出された宣旨に従わない場合は国家反逆罪として朝廷から軍勢を差し向けることを伝えている。

 ここまでであれば院宣の内容として最強レベルとは言えないが、問題はここから先、院宣に署名した面々である。この時代の主たる貴族がことごとく名を連ねているのだ。

 ただし、吾妻鏡に記されている院宣の写しには、当時の書類に則って役職と姓しか記されていないため、院宣作成時点の役職から該当する人物を推測するしかない。そうして推測した人物を補記したのが次の表である。

挿絵(By みてみん)

 この時代の主たる貴族のうち、九条兼実と源頼朝以外のほぼ全員が名を連ねている。後白河法皇が源頼朝の要請に基づいて院宣を出すとすれば、文面はともかく名を連ねている面々を見ればそれだけで圧倒させられる。

 一方で、鎌倉方が後白河院の求めに応じたのは、後白河院の権勢誇示への支援である。

 京都の復興において、鎌倉方の存在価値は日に日に高まっていた。というより、鎌倉方以外に京都の復興にまともに取り組める存在が無かった。国家予算は人件費の捻出が限度であり、この時代に赤字国債という概念はない以上、税収以上の支出は許されない。もっとも、平家政権誕生以前から国家予算の乏しい状態は通例化しており、国家予算の不足を補っていたのが貴族の私財供出であり、白河院政以降は院による私財供出である。その流れていくと後白河院もまた私財供出による国家予算の不足を補うところであったのだが、源平合戦は院や貴族の私財供出でどうにかなるレベルでは済まない破壊を招いてしまっており、後白河法皇も無い袖は振れないという状況であったのだ。

 源平合戦終了後の日本国で復興のためにどうにかできるだけの資産を持っている存在は二つしかない。奥州藤原氏と鎌倉方だ。そして、源義経が絡んでいることもあって、この両者は対立するようになっている。資産だけで言えば奥州藤原氏のほうが上だが、朝廷がどうにかできる側となると鎌倉方となる。その結果、朝廷は奥州藤原氏の資産を頼れなくなっている。

 最初に鎌倉方の支援を仰いだのは東大寺であった。東大寺の大仏を復活させるというのは、世間に与えるインパクトも強いことから後白河法皇が率先して協力した。しゃしゃり出たと言ってもいいだろう。大仏開眼の筆を後白河法皇が握ったのもその一環であるし、その舞台も京都から歩いて行くことは不可能ではない、それでいて日帰りは困難であるから泊まりがけとなる奈良の地である。つまり、この時代の京都の人達にとって滅多に体験することのできない一大イベントを催すことで、お祭り気分を高めることに後白河法皇は成功していたのである。だが、後白河法皇の支援は大仏開眼を最後に止まってしまった。しかし、東大寺はまだまだ復興途中である。そのため、東大寺再建の協力を源頼朝に頼むこととしたのである。

 鎌倉方の東大寺復興支援は、大仏開眼供養ほどのインパクトは生まないが、鎌倉方の名声を積み上げるには役に立った。


 そんな最中の文治四(一一八八)年四月一三日、後白河法皇が院御所としていた六条殿が火災に遭った。後白河法皇は一時的に白河押小路を法皇御所とすることとして六条殿の再建に取りかかることとしたのであるが、この再建において後白河法皇が源頼朝の協力を仰いだのである。焼けてしまった寺院の復旧という点では東大寺と並列の扱いであるが、奈良時代に国家事業として建立された東大寺と、後白河院が私的な邸宅として利用していた六条殿とでは、実情がまるっきり異なる。

 それでも源頼朝は率先して六条殿復旧に力を貸したのである。

 このあたりは後白河法皇の狡賢さも背後にあると言えるが、後白河法皇は六条殿の復旧を源頼朝に頼んだが、源頼朝一人に頼んだわけではない。住まいとしている後白河院自身も私財を出すし、貴族達にも復旧を依頼した上で、プラスして源頼朝にも依頼したのだ。六条殿はもともと平業忠の邸宅であり、立地はともかく、敷地面積となると南北半町、東西半町と、藤原摂関家の貴族達の持つ邸宅の四分の一の敷地面積しかない。法住寺合戦で法住寺が焼けてしまったために後白河法皇は法住寺の代わりに摂政近衛基通の五条東洞院亭に入った後、後白河法皇は六条殿を接収して後白河院政の舞台として利用していたのであるが、さすがに手狭である。そこで、南北一町、東西一町となるように敷地面積を四倍に拡大し、院政が滞りなく執り行われるようにしたのである。その上で、建物の建設を分担作業とさせたのだ。

 かつては貴族の住まいと言えば四条より北と相場が決まっていたが、院政期に入るとそうした概念は乏しくなって庶民街とされていた平安京東南部に住まいを構える皇族や貴族も増えてきた。六条殿の周囲を見ても、近衛基通の所有している猪熊殿や、清和源氏が京中の居所としてきた源氏六条堀川亭跡地、六条殿の真北に後白河法皇の寵姫である丹後局の演者を妻とする源仲国亭が確認できる。ちなみに、源氏六条堀川亭跡地と記したのは、源義経が京都を脱出したときに建物を焼いたまま放置されて、邸宅ではなく跡地となっているためである。

 それでいて、これらの建物の全てが平安京の庶民の中心地である東市のすぐ近くだ。そして、後白河法皇という人は庶民の娯楽に強い関心を示す人でもある。政治家としては信頼置けない人ではあっても、娯楽の世界に限定してならば庶民の趣味を理解してくれる貴重な人でもある。そんな庶民街のまっただ中で発生した火災の後、後白河法皇の新しい邸宅ができあがっていくのである。

 こうなると、衆人環視の元での意地の見せ合いになる。

 この状況を誰よりも深く理解していたのが源頼朝であった。しつこいようだが、源頼朝という人は、武将としては三流でも政治家としては超一流である。

 六条殿の復興工事はただ単に建物を建て直すことを意味するのではない。建て直す人を雇って建て直させるのである。調度品を作る人に仕事を依頼し調度品を揃えさせるのである。建物そのものが壮麗なものとして完成していくだけでなく、目に見えて京都内外の失業者が減っていくのだ。養和の飢饉で食糧が手に入らなかった日々を忘れさせてくれるだけの生活のゆとりが生まれ、その上で自分達の成果が目に見えて現れる。六条殿の復興工事に要する予算は気軽に捻出できているものではないが、苦労して捻出したのに見合うだけの成果が得られる出費になった。

 源頼朝はたしかに後白河法皇に接近したということになる。しかし、後白河法皇に接近したことが主目的なのではなかった。京都における源頼朝は、京都のヒーローである源義経を破滅に導いた大悪人であったのに、京都で生活に困っている人達に職業を用意してくれる人へと良い方向へ変貌したのだ。


 政治家としての評価はただ一つ、庶民生活が以前と比べてどれだけ良くなったかだけで決まる。これはどんな時代であってもどんな世界であっても例外はない。

 庶民生活の向上はともかく、悪化となると政治家個人の資質とは無関係な理由で発生してしまうことがある。自然災害であったり、異常気象であったり、大規模な感染症の流行や、国外からの侵略となると、政治家個人の資質よりも時代の不運も関連する。しかし、それでも政治家の能力で乗り越えられる余地はある。自然災害や異常気象に備えて食糧の備蓄をしておく、感染症の流行を食い止めるために衛生状態を向上させる、国外からの侵略に備えて一定の軍事力を維持しておく、そして、国内を平和にすることで物流の流れを維持し、モノの不足が起こったなら余裕のある場所から物資を搬入する。不運に見舞われた時代であっても政治家の能力でどうにかなる余地はあるのだ。

 源平合戦を終結させてから三年。源頼朝が大きな権力を握るようになったことの成果は明らかにこの時代の人達の生活水準を向上させていた。たしかに文治四(一一八八)年は近年に無い豊作だったと九条兼実は日記に記しているが、それだけが生活水準の向上を生み出すわけではない。そもそも豊作であると言っても収穫まではまだまだ時間がある。それでも文治四(一一八八)年の収穫前の段階で生活の改善が見られたのは源頼朝が取り戻した平和がある。

 何と言っても物流が蘇ったことが大きい。源義経捜索という名目で各地に守護と地頭を設置する権利を得たことは、源頼朝を頂点とする軍事組織が日本全国に展開されて各地の治安維持と物流の復活を生み出すことにつながった。わかりやすい例の一つが鎌倉と京都との移動だ。これまでは通常ならば片道半月、往復で一ヶ月であった。急いでも片道一〇日を要するのが通例であったのに、この頃になると陸路でも片道七日、往復半月で移動できるようになった。京都から関東地方に向かうときに海路を選び、勝つ、紀伊半島から黒潮に乗ることができれば、一方通行であるにせよ最短三日で移動できたが、これはギャンブルの要素も強い。上手くいけば短時間で移動できるが、下手すれば太平洋のまっただ中に漂流することとなってしまう。危険性を考えると、七日で鎌倉から京都へ、また、京都から鎌倉へ移動できるようになったことが生み出すメリットは大きい。

 しかし、ただ一つ閉ざされたままの物流路があった。奥州藤原氏との物流路だ。

 東北地方から関東地方へ向かう陸路は細々としたものとなり、出羽国を港口とする日本海沿岸航路も閉ざされている。どんなに政治に興味がなく、ただ日常生活を受動的に過ごしている人であっても、市場に行けば、養和の飢饉の前までは東北地方の生み出す物品が市場(いちば)に行けば手に入っていたのに、今は市場(いちば)に並ばないでいることを否応なく理解する。東北地方の物品が京都に届かないままになってしまっていることの理由を探し求めると奥州藤原氏と鎌倉方との対立に行き着くが、ここで鎌倉方を悪と断じて糾弾したときに待っているのは、思い出したくもない悪夢、すなわち、養和の飢饉の再現だ。誰があんなものをもう一度繰り返そうと願うのか。

 源頼朝を優秀な政治家と評価するのはこの点だ。現在と比べれば言論の自由は低い時代であっても、鎌倉方の一員である御家人であるならばともかく、貴族や一般庶民が源頼朝に反発したところで、鎌倉方から何かしらの処罰を受けることはない。京都で源義経はヒーローとされ源頼朝が悪役とされていても、源頼朝は自身に向けられている悪意に苦言を呈するのではなく、生活水準を向上させることで源頼朝に対する反発を減らし、支持を集めることに成功している。そして、源頼朝に集まっている支持を源頼朝の敵に対する反発へと(いざな)うことに成功している。


 源頼朝が殺生禁止を名目に軍事行動を止めたことは平泉の藤原泰衡のもとにも届いている。当然ながら、それで鎌倉との間の軍事衝突は永遠に回避できると考えるわけはない。かといって、藤原泰衡は軍事衝突をそのまま受け入れるほど統治者として無神経ではない。そこで藤原泰衡は、朝廷や鎌倉方との関係改善を図ることにしたのである。

 藤原泰衡が選んだのは交易路の復活だ。交易路は軍事侵攻路と重なることが珍しくないために、自分達の平和を考えれば交易が止まってしまっても交易路を閉ざす方が安全性が高まる。ただし、交易路が止まると相手方だけでなく自分達にも経済的なダメージが生じる。源頼朝によって経済復興が進んでいることは東北地方にも情報として届いており、これは平泉にとって絶好のチャンスでもあった。源平合戦の戦乱と一線を画す代わりに平和を維持して経済的繁栄を獲得していた平泉にとって、平和の回復はさらなる経済発展を生み出す要素にもなっていたのである。また、京都との交易路が閉ざされているせいで京都における奥州藤原氏の評判が下がっているのは平泉にとって痛手である。ここで交易路を復活させるのは、一瞬で評価を取り戻すとまでは言わないにせよ、これ以上の評判悪化を食い止めることになる。

 藤原泰衡は交易路復活の第一段として、中断していた京都への献上を再開させた。献上するのは、馬、砂金、そして生糸である。さらにここで藤原泰衡は一つの選択をした。海路ではなく陸路を通るのだ。陸路は海路よりも商品あたりのコストが高くなるため、運搬する商品が高値でなければ採算がとれないが、このときの京都への献上に選んだ馬も生糸もこの時代の最上級品であり、この時代の砂金の生産は東北地方が群を抜いており、砂金の価値そのものが東北地方より京都のほうが高いものがある。つまり、一つ一つの商品は小さくても価格が高いので一度の交易で得られる利益はかなりのものとなる。現在でも商品の輸出入で海路を選ぶか空路を選ぶかの選択肢は、コストがかさむ空路を選んでもなお採算がとれるならば空路、そうでなければ海路というのが一般的であるが、空路ではなく馬での輸送である陸路と読み替えても、輸送に対するコストを考えた交易という視点で現在に通じるものがある。

 そして、東北地方から陸路を選ぶとなると、東北地方から関東地方に入った後で二つの選択肢が生まれる。東山道か東海道かという選択肢である。以前であれば東山道を選ぶことも珍しくなかったが、他ならぬ源頼朝の平和再構築のおかげで東海道の整備が進み、関東地方と京都とを結ぶルートは東海道が主流になっていた。このときの奥州藤原氏からの使者も東海道を選んでいる。

 さて、東海道を進むということは、相模国で鎌倉の目と鼻の先を通るということを意味する。厄介なのは、都市としての鎌倉は東海道に近いところに位置していても、鎌倉自体は東海道沿線の都市ではなく、京都から鎌倉に向かうためには東海道から途中で離れて鎌倉方面へ向かわねばならないということである。これは東海道を東から西に向かうときも同じで、目的地が京都である場合に鎌倉を通るとなると、東海道からいったん離れなければ、つまり、遠回りしなければ鎌倉へとたどり着かない。これは奥州藤原氏が派遣した使節も例外ではなく、鎌倉方の本拠地の近くを通りはするものの、鎌倉まで向かうことはなく、鎌倉方の監視を横切って京都へと向かうこととなるのだ。

 吾妻鏡によると、文治四(一一八八)年六月一一日に奥州藤原氏の派遣した使節が大磯まで到着したとある。源頼朝にとっては下手に手出しできない存在がやってきたといったところか。いかに奥州藤原氏と対立関係にあろうと、大磯に到着した使者は奥州藤原氏から京都に向けて派遣された使者であり、鎌倉方がどうのこうの口出しできる(たぐい)の使者ではないのである。仮にここで捕縛しようものなら、奥州藤原氏との対立から武力衝突へと発展するのみならず、京都との関係を破壊することにもなるのだ。

 源頼朝は奥州藤原氏からの使者が通り過ぎるのを黙って見過ごすしかできなかった。

 と同時に、一つのことも理解していた。先に、交易路は軍事侵攻路でもあると記した。東北地方から鎌倉に軍勢を進めるとなった場合の最新のルートが平泉に伝わったということである。源義経が行方をくらませてから三年が経つ。その三年間で源頼朝は東北地方との関係を除く日本全体で交易路を整備し、また、都市鎌倉の防御を固めてきている。奥州藤原氏の派遣した軍勢が鎌倉めがけて進軍することを考えると、ここで情報が平泉に漏れてしまったのは痛手ではある。

 それでも、交易路の整備を優先させなければならない。なぜなら、平和の達成、交易路の整備をはじめとする経済の活性化、それによる庶民生活の向上こそが鎌倉方という新たな権力集団の存在価値であるからだ。


 平和の達成と書くと壮大な理想の実現のように感じるが、実際のところは武力で犯罪を押さえつけることである。犯罪者ではないごく普通の一般人にとっては特に何の問題も無い日常であるが、犯罪者にとっては迷惑極まりない日常を強要されていることとなる。

 一般的に、犯罪者相手に話し合いは通用しない。しかし、話し合いは通用しなくても殴り合いなら通用するし、どんなに極悪な犯罪者であっても殴り合いで勝てるかどうかぐらいはわかる。この時代で行くと、鎌倉方の軍勢相手に殴り合いをして勝てると考える犯罪者はそう多くはない。だからこそ治安を回復できたとも言えるが、それとて完全に治安を回復することを意味するわけではない。

 バレなければいいと考える犯罪者、破れかぶれになってしまってどうなってもいいと考える犯罪者、そして、徒党を組んで殴り合いに勝とうとする犯罪者は、いつの時代にもどの世界にもいる。治安維持を担当するということは、こうした犯罪者達と向かい合い続けなければならない宿命も持っているのだ。

 文治四(一一八八)年七月に入ると物騒な記録が登場してくる。

 吾妻鏡によると前年に京都在駐の御家人と石清水八幡宮の神人達との間で乱闘となりケガ人が出たとある。それが一年を経て後白河法皇から処分を求める書状が届いたのである。藤原泰衡に向けて出されたのよりは規模が小さいとはいえ、これは正式な院宣である。しかし、一〇〇年前の白河法皇が嘆いたように宗教が主導する武装デモに悩まされ続けてきたのがここ一世紀間の京都であり、武家の時代を迎えることを京都の人達が許容したのも武装デモを強引にねじ伏せたことに由来する。ここで後白河法皇の院宣を受け入れることは、ようやく鎮めることのできた寺社の武装デモを再発させることにもつながるのだ。

 これに対する源頼朝からの回答を吾妻鏡は記していない。院宣が届いたという記録が残されているだけである。

 しかし、源頼朝からの回答はこうであったと推測される記録が八月になると出てくる。

 京都に群盗が多発していることを嘆き、比叡山延暦寺が源義経を匿ったことに対する処分が遅いことに苦情を述べている。そして、その群盗の首領の一人が比叡山の僧侶である千光坊七郎と呼ばれる僧侶だというのだ。源頼朝はこの事態を注視し、朝廷から比叡山延暦寺に対して何らかのアクションを起こすことを要請した。

 朝廷からのアクションがあったのか、比叡山延暦寺からは八月四日にその僧侶を捕らえて突き出すという誓約を獲得できた。その代償と言うべきか、前年に石清水八幡宮の神人達と乱闘を起こした御家人である藤原宗長が土佐国に流罪となることを受け入れることとなった。石清水八幡宮と比叡山延暦寺とは直接の関係性を持った寺院ではないが、ここで宗教界に妥協の意思を見せることは鎌倉方の敗北を印象づけることとなる。しかし、石清水八幡宮は上皇宣下後の最初の社参社と選ばれることもある朝廷と密接につながった由緒ある神社であるだけでなく、石清水八幡宮と鶴岡八幡宮とが強いつながりを持っている。そもそも石清水八幡宮から分祀して建立されたのが鶴岡八幡宮であり、八幡宮自体が源氏の氏神である。ここで石清水八幡宮の訴えに従うこと自体は源氏である以上おかしなことではない。

 さらにここにもう一つの裏が加わる。土佐国への流罪が決まった藤原宗長はたしかに源氏の御家人ではあるのだが、この人はそもそも武士では無い。父は刑部卿を務めた難波頼経、祖父は現役の修理権大夫である難波頼輔であり、紛うことなき藤原北家の人間、ただし、大臣を輩出するような家系ではなく国司を歴任した後に朝廷の何かしらの官職に就く者が多いというレベルの貴族である。そのような人物も今や源頼朝の御家人となっているのであるが、問題は父の難波頼経である。この人は源義経への接近を隠さずにいた人物であり、文治元(一一八五)年一二月にはそのために安房国に流罪となった人物なのだ。父は父、子は子という考えは当たり前であるが、今回問われているのは父が源義経への接近を隠せずにいたことではなく藤原宗長が石清水八幡宮の神人達と争ってケガをさせたことなのである。刑罰として流罪は重いかもしれないが、朝廷とのつながり、そして、源氏の氏神であることを考えれば流罪は受け入れるべき処分と言える。そしてこれは、流罪から三ヶ月後に赦免されて翌年三月には早々に京都に戻り、京都における源義経支持の急先鋒でもあった難波頼経に対する大きなダメージを与える判断でもあったのだ。


 文治四(一一八八)年九月一二日、九条兼実が本格的に政務に復帰した。

 息子を亡くした父の哀しみは誰もが理解できることであったが、時代はもう、藤原氏という巨大氏族が結束する時代ではなく、藤原氏内部で近衛家と九条家とが対立する時代になっている。九条兼実は藤氏長者としてだけでなく、九条家の当主として行動しなければならなくなっていたのである。

 これまでの藤原摂関家の常道は、自分の娘を天皇に嫁がせ、娘の産んだ男児が天皇となり、自身は天皇の祖父として摂政に就く、天皇の元服後は関白に就くというシステムである。これを九条兼実は復活させることを目論んだ。

 後鳥羽天皇はまだ独身である。というより、そもそも後鳥羽天皇は治承四(一一八〇)年生まれであり、いかに天皇とは言えこの年齢の男児が結婚しているということは普通に考えればありえない。そして、九条兼実には後鳥羽天皇に嫁がせることのできる女児がいる。承安三(一一七三)年生まれの九条任子だ。七歳の年齢差があるがこれぐらいの年齢差は藤原摂関政治における婚姻戦略では珍しくも何ともない。

 もっとも、いかに九条兼実が現役の摂政であろうと、そう易々と自分の娘を天皇のもとに入内させることができるほど甘い話は存在しない。藤原道長の頃であればどうにかなった可能性もあるが、白河法皇ほどの圧倒的専制権力ではないにせよ、この時代には後白河院という存在がいる。後白河法皇の許可無しに後鳥羽天皇のもとに自分の娘を入内させることはできない。それに、九条兼実がいかに院政を否定したところで、後白河法皇は後鳥羽天皇の実の祖父でもある。このときの後鳥羽天皇の年齢を現在の学齢で考えると小学三年生だ。実父を亡くした小学三年生の男児の将来に関する話でその男児の実の祖父が出てくるのは、院政の存在をいかに否定しようと食い止めることができる話ではない。

 これは後白河法皇にしてみれば絶好球が自分の元にやってきたこととなる。院政の有無に関係なく、天皇の祖父としての権力を駆使して政治面での強い発言権を手にできるのだ。九条兼実の求めに応じて九条兼実の娘を入内させれば、完全に操れるとまでは言えないにせよ摂政九条兼実を後白河法皇の強い影響下に置くことができる。また、九条兼実以外の貴族に対しても門戸を開けば、それだけでその貴族からの強い支持を獲得できる。その中には従二位の位階を得ている源頼朝もいる。源頼朝には後鳥羽天皇のもとに入内してもおかしくない年齢の女児がいる。その女児の母、すなわち北条政子の身分の低さが難点ではあるが、源頼朝だけを考えれば、藤原氏を差し置いて女児を入内させてもおかしくないだけの権威と権力を手にしている。平家の先例がある以上、藤原氏の面々が先例が無いと言って反対してくることもない。

 そして後鳥羽天皇の婚姻問題は九条兼実以外の藤原氏にとっても新たなチャンスなのである。ここで後白河法皇に取り入って自分の娘を後鳥羽天皇のもとに入内させることに成功すれば、摂政九条兼実を差し置いて自分が一気に天下国家を握るチャンスになるのだ。いかに武士が権力を手にするようになったとは言え、権謀術数を巡らせる平安貴族の時代まで終わったわけではないのである。


 では、源頼朝は自分の娘を本当に後鳥羽天皇のもとに入内させようとしていたのか?

 源頼朝の長女である大姫はもともと木曾義仲の息子である源義高と結婚する予定であった。源義高は木曾義仲が鎌倉に送り届けた人質であり、大姫との婚姻も木曾方と鎌倉方との関係を悪化させぬための政略結婚となる予定であったが、吾妻鏡の伝えるところによるとこの二人の関係は(すこぶ)る良好であったという。源義高が殺害されるまでは。

 源義高の死とともに床に伏すようになった大姫は、元暦元(一一八四)年八月に、当時の摂政である近衛基通のもとに嫁がせるという話があったと九条兼実は日記に書き記しているが、京都まで向かわせて嫁がせるどころか床に伏せたまま動けずにいる少女を京都に連れていくこともできないという現実的な答えに加え、九条兼実を摂政に推している源頼朝にとっては、娘を近衛基通のもとに嫁がせること自体が選択肢に含まれていないのだ。

 そのあとで源頼朝の求めが成就したのか、九条兼実が摂政となり、源頼朝の意向も汲み取った政権運営が始まり、大姫の結婚については後回しになった。自分の娘の結婚のことでもあるため、源頼朝よりも北条政子のほうがより強い関心を示していたとすべきか、あるいは、源頼朝が何を言おうと北条政子の意見のほうが勝つとすべきか。

 文治四(一一八八)年九月時点で源頼朝の脳裏から娘の大姫のことが抜け落ちていたとは言わない。ただ、このときの源義経の脳裏の多くを占めていたのは、前月二三日に発生した訴訟問題であったとするしかない。これまで築き上げてきた鎌倉方の御家人たちの連帯を破壊しかねない大問題であったのだ。

 相模国波多野本庄(現在の神奈川県秦野市)の北側の土地は波多野義景が先祖代々受け継いできた土地であったのだが、波多野義景が京都に滞在している隙にその土地を岡崎義実が乗っ取ってしまったのである。京都から戻ってきてみれば自分の土地が岡崎義実のものとされていたということで源頼朝に訴え出たのだ。土地の保有権について波多野義景が示した根拠は正当なものがある。保延三(一一三七)年一月二〇日祖父の波多野遠義から次男の、波多野義景にとっては父の波多野義通へと譲与され、嘉応元(一一六九)年六月一七日に波多野義通から息子の波多野義景に譲与されたものであるというのが波多野義景の主張だ。

 岡崎義実としても何の根拠も無しに土地を奪ったのではない。波多野義景が記した孫の先法師冠者に相続するという書状があるというのだ。ただ、これはあまりに根拠として薄すぎた。相続予定の土地を代わりに管理しただけであると言っても、そもそも波多野義景が孫に相続すると記した書状であってここに岡崎義実が出てくる謂われはない。それ以前に自分が生きているのに何で孫に相続させるのかという話になる。

 文治四(一一八八)年八月二三日に、源頼朝は岡崎義実の主張を退けて所領の保有権は波多野義景のもとにあると確認し、岡崎義実には鶴岡八幡宮と勝長寿院の夜間警備を一〇〇日間に亘って奉仕するようにとの処分を下した。処分としては穏当なものであったと考えるべきである。

 ただ、この処分はどうしても源頼朝の脳裏から消えることは無かった。一〇〇日どころか一ヶ月も経過していない文治四(一一八八)年九月二一日、岡崎義実の郎従が箱根で山賊を捉えたことの報奨として、岡崎義実に課していた処罰の撤回を命じたのである。波多野義景にしてみれば自分の訴えが受け入れられ、岡崎義実にしてみれば一ヶ月も経ずに許されたという、御家人の間の対立を考えた上で鎌倉方を組織として維持させるための苦肉の策であったと言えよう。


 文治四(一一八八)年の秋を迎えたが、平泉からはこれといったアクションは起こっていない。

 奥州藤原氏のもとにいる源義経を差し出すように命じる宣旨が平泉に届いていないという言い逃れは通用しないでいる。朝廷から派遣された使者が平泉に赴いて宣旨を届けたことは周知の事実となっており、藤原泰衡がどんなに「そんな宣旨は届いていない」「自分は朝廷の命令に背くつもりはない」と訴えようと通用しない状況となっている。

 それでも藤原泰衡は朝廷の命令に従わないでいる。このままやり過ごすしか奥州藤原氏の存続はありえないのだからやむをえないと言えばそれまでであるが、このままやりすごした場合に待っている運命もわかっている。

 源頼朝は今年の軍事行動を慎むと言っているのであり、未来永劫軍事行動を起こさないと言っているわけではない。それどころか、年が明けたらただちに鎌倉方と戦端の幕が切って落とされることが目に見えている。時間が経つことはタイムリミットに近づくことを意味するのだ。

 これは何も奥州藤原氏の藤原泰衡や藤原国衡に限ったことでなく、平泉で生活する人、そして、奥州藤原氏の勢力下に生活する全ての人に関係する話であった。そして、その人達の感想は、何はなくとも戦争だけは止めてくれというものであった。奥州藤原氏は東北地方の事実上の支配者になってはいるものの、奥州藤原氏はあくまでも朝廷の統治下における現地の統治者であって、自分達の君主ではない。安倍氏や清原氏といった現地の豪族が跋扈していた東北地方を平定し、東北地方に平和と豊かな暮らしをもたらしてくれたことには感謝しているが、そうした歴史と、これから起こることが予想される戦争を受け入れることとは別の話なのだ。

 奥州藤原氏がどうにかできる可能性があるとすれば地域アイデンティティを民族アイデンティティへと昇華させ、蝦夷(えみし)民族として日本からの独立を訴えて抵抗することであるが、これは奥州藤原氏以外の人にとっては迷惑な話である。いかに蝦夷(えみし)の民族意識を訴えて日本からの独立を前面に掲げて戦おうとしても、東北地方の人達に東北人意識はあっても蝦夷(えみし)の民族意識は無い。その民族意識を抱く人達がいるとすればそれは北海道以北に住んでいる人達である。ここで蝦夷(えみし)の民族意識を掲げて京都の朝廷や鎌倉方に対して抵抗しようと訴えるのであれば、東北地方に住む人達にとっては無意味な鼓舞であり、北海道以北に住む人達にとっては無礼な僭称である。

 この時代の東北地方に住む人達にとって、東北地方は日本であり、住んでいる人も日本人であるという意識がある一方、北海道以北となると、広義では日本民族の一員ではあっても、日本国に組み込まれているとは考えていない。たしかに奥州藤原氏の影響下に置かれているようになっているのであるが、これを現在ではアイヌあるいはウタリと呼ばれる人達の視点に立つと南からやってきた侵略者となる。それがここにきて蝦夷(えみし)を民族アイデンティティに掲げて危機を訴えたとしても、東北地方に住む人達にとっては無関係の民族アイデンティティであるし、北海道以北の人達にしてみれば勝手にやってきた侵略者の勝手な都合だ。


 安倍氏や清原氏と言った面々が支配してきた東北地方の混迷を平穏にし、前九年の役から続いてきた戦乱に終止符を打って平和な日常を作り上げたのが奥州藤原氏である。初代藤原清衡以降の政策の巧妙さもあって東北地方は平和で豊かな社会となっていたし、北海道より北の地域も交易によってこれまでに無い暮らしを手に入れていたが、あくまで京都の朝廷の統治下における平和と豊かさであり、奥州藤原氏が介在していることは認めても、奥州藤原氏に義理立てして朝廷に刃向かうつもりはない。他国が侵略してくるのではなく国内問題であり、現在の日本で考えると選挙で県知事が変わるぐらいの認識なのである。現在の感覚で行くと選挙の事前予測で劣勢にある現職の知事が何とか次の選挙でも再選しようと躍起になっているが、有権者の多くは、現職の知事の父親で先代の知事である人物については敬意を払うことができても、現職の知事は別に選挙で負けたって構わないと思っているという図式といったところか。

 しかも、この時代に選挙はなく、地域を統べるのは朝廷から派遣された人物か、あるいは戦乱を勝ち抜いた武人である。ゆえに朝廷の命令に逆らったら待っているのは戦争ということになるのだが、ここで戦争となって困るのは地域住民であり、戦争を避けるためならば奥州藤原氏が朝廷に屈することになっても構わないと考える人が多いのだ。奥州藤原氏に対する恩も義理も無いのかと言われても、選挙のある時代であれば先代の知事の息子で現職の知事に対する一票を入れるぐらいの考慮はできても、戦争に巻き込まれるのを受け入れるほどの恩でもないし、付き合う義理など無い。勝手にやってきたのだからそちらで勝手にやってくれ、戦争をするなら迷惑の掛からないよう他のところでやってくれというのが正直なところだ。

 鎌倉方にしても、朝廷にしても、敵は奥州藤原氏であるとしている。奥州藤原氏が生き残るために地元世論の支持を得られなくなってしまっているのだ。

 朝廷はこの動きをさらに加速させる行動に出た。文治四(一一八八)年一〇月一二日に源義経追討の宣旨を再び発したのである。今回の宣旨は、従わない場合、藤原泰衡に対して朝廷の軍勢を差し向けることを明言している。それも単に書状を書いて送るのではなく日本全国に向けて公表している。日本中の視線が藤原泰衡に向けられることとなったのだ。吾妻鏡によると一〇月一二日に発せられた宣旨が鎌倉に到着したのは一〇月二五日のことであったという。京都と鎌倉との間を最短七日で移動できるようにしたにしては時間が掛かっているが、源頼朝の整備した七日という移動時間のほうがこの時代では異例なスピードであり、一三日で京都からの書状が鎌倉まで届いたというのはむしろ早い方である。


 京都でも奥州藤原氏に対する処罰は不可避と考えられるようになってきていた。

 源義経を匿っていることは特に問題とならない。それどころか同情の対象である。

 しかし、京都との物流を断ち切ること、そして、忘れることのできない養和の飢饉を思い起こさせる行動を選んだことは断じて許されないことであった。京都を復興させている源頼朝が敵と断じている奥州藤原氏が鎌倉方の勢力によって討伐されようとしていることは、不幸なことだと考えられる一方、やむをえぬこととして受け入れられるようになっていた。

 この流れは鎌倉方の能力を見せつけた六条殿復旧工事が完了したことでさらに加速することとなった。上棟が文治四(一一八八)年一〇月二六日であり、後白河法皇が遷ったのが一二月一九日である。間が空いているように見えるが、上棟とはあくまでも建物の骨組みが完成した状態であり建設工事はまだまだ続く。ただし、上棟から先は細部の工事になるため、塀の外からはよく見えない。そのため、上棟から先も工事は続いていることはわかるが、具体的にどのようなことをしているかはわからない。源頼朝の実力を京都の人達に見せつける時期は、一〇月二六日で完了したと言えよう。

 この空気は冬になるとさらに強まり、一一月になると完全に世論として固まった。この世論を源頼朝は最大限利用する。発令されている宣旨をさらに強固にするための院宣を発令させることに成功したのである。二月末に出された院宣と同様に当時の貴族のオールスターが署名を書き記した院宣である。ただし、一〇ヶ月前に署名を記した貴族は必ずしも一致しない。右大臣徳大寺実定は病床にあるため出仕できず、大納言源定房は八月に亡くなっているため不在である。一方で、実務を担当する右中弁藤原親雅、左少弁平棟範、右少弁藤原宗経の署名が記されているため、院宣の内容に背く場合はより実務的な行動を実行することが明示されている。

 年が変わろうとする頃になると源頼朝からの要求も高まり、源義経に同調する比叡山の僧侶に対する処罰を求めるようになる。源頼朝は一〇月一七日に、源義経を庇護して東北地方へと送り届けるのに協力した僧侶の俊章を捕らえるよう御家人を比叡山延暦寺に遣わせていたが、一二月一六日になると源頼朝から比叡山延暦寺に対する要求へと発展する。ただし、源頼朝からの要求に対する比叡山延暦寺からの回答は無く、僧侶の俊章の所在についても明確な回答はない。

 延暦寺に対する源頼朝の強硬な姿勢はさらに源頼朝に対する支持を高める効果を呼び込んだ。白河法皇が、賀茂川の水、賽の目に並んで制御不能と嘆いた比叡山延暦寺に対し、源頼朝が武士として強硬姿勢を打ち出すことは、寺院勢力の武装デモに対する恐怖に対する手段が京都にあるのだという安心感を植えるのに役立った。

 さらに年が明けた文治五(一一八九)年一月五日には源頼朝が正二位へと昇叙することとなった。位階のトップは正一位であるが、正一位に就くことができるのは故人だけであるため、存命中の貴族が手にすることのできる位階となると従一位が最上位であり、正二位となると上から二番目の位階だ。役職は付加されていないもののかなりの高さの位階であることは誰の目にも明白で、比叡山延暦寺としても、それまでの源頼朝からの要望、位階で言うと従二位の貴族からの要望ですら拒否するとなると多少の問題があったのに、正二位の貴族からの要望となるとさすがに無視することも許されなくなる。

 もっとも、九条兼実が摂政となってからは毎年のように位階のインフレが進行しており、源頼朝が正二位に昇叙したときは既に一八名の正二位の貴族が誕生していて源頼朝は一九番目の正二位であった。藤原道長の全盛期の頃は正二位の貴族となると藤原道長自身を含めても五名しかおらず、従一位の位階を得ている貴族はゼロ。二〇〇年前は正二位の位階を得ればそれだけで最低でも大納言の役職が確約されていたのに、今や従一位が複数名いて正二位は四捨五入すると二〇名を数えるという時代だ。大納言も権大納言も中納言も席が埋まってしまい、権中納言に空席があれば役職に就けるかどうか怪しく、正二位でも役職に就けない貴族が出ても珍しくないという時代になったのである。そして、その中には源頼朝も含まれる。とは言え、鎌倉に滞在し続け京都に姿を見せない源頼朝に朝廷の役職をこなすことはできない以上、無役職で位階のみあるという境遇はやむをえない。


 京都における源頼朝の評判の向上は比叡山にも届いていた。

 ここで源頼朝に逆らうことは得策ではない。かといって、比叡山延暦寺の内部に鎌倉方の勢力が深く入り込むことは到底容認できる話ではない。法住寺の戦いで天台座主明雲が討ち取られたことも、その後の天台座主の地位が木曾義仲によって強引に俊堯とさせられたことも、たった五年前の出来事である。ここで源頼朝に逆らおうものなら、待っているのは五年前と同じ悲劇だ。いや、五年前は京都の民衆の支持を得ていない木曾義仲らの暴挙と断じることができたが、今回の場合は京都の民衆の支持も存在してしまっている。

 とは言え、比叡実延暦寺に回避策はまだまだ存在した。

 源頼朝は比叡山延暦寺そのものに対して攻撃を仕掛けようとしているのではない。比叡山延暦寺の中にいる源義経関係者を差し出すように求めているのであるのと同時に、千光坊七郎と呼ばれる比叡山延暦寺の僧侶が群盗の頭領となって暴れているのだ。源頼朝が比叡山延暦寺に訴え出ていたのはこの二点の問題を解決することであり、千光坊七郎については前年八月四日に比叡山延暦寺から千光坊七郎を捕らえて突き出すことを誓約するようになっていた。そして、千光坊七郎を捕らえて突き出す誓約については守られずにいた。

 つまり、比叡山延暦寺はここで千光坊七郎を差し出せば、源頼朝からの二つの要求のうちの一つを叶えることとなる。今なお源義経に対する同情が完全に消滅したわけではないため、源義経を東北地方に逃すことに協力した僧侶の俊章を差し出した場合は世論の童謡を生むが、犯罪者以外の何物でもない千光坊七郎については差し出したところで特に問題はない。とは言え、それでもそれまで比叡山延暦寺で匿っていたのかという批難は生じてしまう。

 そこで、文治五(一一八九)年一月一三日に一つの答えを示すこととした。京都在駐の北条時定に千光坊七郎を逮捕させたのである。北条時定は文治二(一一八六)年の七月に左兵衛尉に就任し、その前後に検非違使にもなっていたため、犯罪者として千光坊七郎を逮捕することは何ら問題が無かった。周囲においても、比叡山延暦寺でもどうにもならなかった極悪犯罪者を検非違使でもある北条時定がようやく逮捕できたのかという安堵感が漂うだけであった。

 しかし、千光坊七郎の逮捕はもう一つの問題の解決にもつながったのである。千光坊七郎は源義経が京都に戻る意思を示した書状を持っていたのである。このことは秘密裏に解決させようとしたが無駄であった。

 比叡山延暦寺は千光坊七郎を逮捕しようとしたのではなく放置していた。

 その理由は源義経が比叡山延暦寺とつながっているから。

 単に延暦寺と源義経とがつながっているだけであれば何の問題も無いが、つながりである千光坊七郎が強盗集団の頭領となって各地の暴虐の限りを尽くしているとなれば話は別だ。源義経が命じたか、あるいは延暦寺が勝手に行動したかはわからないが、源義経のために犯罪の損害を被る謂われはないのだ。

 京都のヒーローであったはずの源義経を忘れない人は延暦寺の勝手な暴走と考え、源義経を見捨てた人は源義経の悪辣な企みと考える。そして、その双方ともが源頼朝を支持し、延暦寺を見捨て、源義経が東北地方から罪人として召還されることを認めるようになったのだ。


 源頼朝が戦闘停止を宣言したのが文治四(一一八八)年二月一三日のこと。それが、一年間の戦闘停止なのか、それとも文治四(一一八八)年末までの戦闘停止なのかは不明瞭であったが、年が変わって文治五(一一八九)年となり、一月を終え、二月に入っても戦闘停止状態が続いている。

 不明瞭が明瞭へと変わったのは一年を過ぎた文治五(一一八九)年二月二二日である。その五日前に源頼朝は一つの院宣を受け取った。六条殿の復旧工事の実績を買い、次は内裏の復旧工事をするよう院宣が下ったのである。現在であれば国家予算から建設予算を出して復旧工事をさせるところであるが、このときの院宣は予算も源頼朝が負担しての復旧工事である。普通に考えれば到底許されない命令であるが、源頼朝はこの命令を受け入れている。

 理由は簡単だ。後白河院からの最終宣告を引き出す代わりに内裏の復旧を受け入れるのである。

 何の最終宣告か?

 源義経と、源義経を匿っている奥州藤原氏と、この双方ともに軍事討伐することを認めるという最終宣告である。

 繰り返すが、この時代は現在のように遠隔地でも情報がリアルタイムで伝わる時代ではない。京都に自分の代官を常駐させて鎌倉との間の情報連携を欠かさないでいた、それも、情報発生の有無に関係なく定期的に情報連携を続けていた源頼朝のほうが異例であり、普通は何かしらの情報があり次第、それなりの時間を経て現地に届くというものであった。

 京都から発せられた情報が平泉に届くとしたら、普通は一ヶ月は要する。源頼朝が整備したおかげで京都から鎌倉まで七日間で情報連携ができるようになったが、京都から鎌倉まで七日でも、鎌倉から平泉までは半月を要する。この時代に週間という概念は無いが、現在の感覚でいくと京都から平泉まで三週間は要すると考えればいい。

 源頼朝が宣言した一年間の戦闘停止は最長でも文治五(一一八九)年二月で切れることは平泉でも理解できている。ただし、この時点の平泉で奥州藤原氏の面々がどのようなことを検討していたのか、そして実行していたのかを伝える記録はほとんど無い。「全く無い」ではなく「ほとんど無い」と記したからには、僅かではあるが記録があるということになる。そして、その僅かの記録というのが、文治五(一一八九)年二月一五日に発生したとされている出来事である。この日、藤原泰衡が末弟の藤原頼衡を討ったのだ。

 末弟を抹殺したのだからこのときの奥州藤原氏には何かが起こっていたのであろうし、藤原泰衡にも何かが起こっていたのだろう。しかし、現在に生きる我々はその「何か」を知ることができない。尊卑分脈において藤原秀衡の末子である藤原頼衡が文治五(一一八九)年二月一五日に藤原泰衡によって殺害されたという記録があるだけで、その他の同時代史料のどこを探しても、後世の資料を検索しても、さらには遺跡を探したとしても、藤原頼衡のことは全くわからない。歴史家の中には藤原頼衡が実在しなかった、あるいは、実在した人物ではあるがこのときに殺害されたというのは虚構であるという人もいる。

 それでも、それが事実ではなく伝聞であろうと、藤原泰衡が末弟をこのときに殺害したという出来事が人口に膾炙されているのは、このときの藤原泰衡に置かれた状況について誰もが同一の認識を抱いたからであろう。


 この頃、一つの時代の終わりを告げる知らせが次々と飛び込んできた。

 まず、文治五(一一八九)年二月二四日に、平時忠が配流先の能登国で亡くなった。源義経に縋って生き延びようとした平時忠も時流には勝てず、流罪先で命を落とすこととなった。「平家ニ非ズンバ人ニ非ズ」という伝承まで生みだした人物にしては寂しいというしかない最期である。

 それでも平時忠の最期は他の面々に比べればマシであったと言えよう。平時忠自身は流罪の身となっても能登国では厚遇を受けていたし、京都に残った平時忠の家族も、平家全盛期の頃の豊かな暮らしとまではいかないにせよ、貴族の一員と列せられるに値するだけの暮らしぶりは確保できていた。平家の面々の土地は平家没官領として没収される運命であり、その中には荘園だけでなく平安京内外の邸宅も含まれていたために平時忠の邸宅も例外ではなかったのであるが、邸宅については早急に平時忠の家族のもとへと返却され、平時忠の家族がこれまでと同じく住み続けることができた。また、平時忠死去の知らせを受けてからしばらくして、上総国へ配流されたていた平時忠の長男の平時実は赦免され、京都へと戻ることとなった。平時実は帰京したのち、公卿へと復帰している。

 また、文治五(一一八九)年二月二八日には左大臣藤原経宗が七一年の人生を終えた。左大臣にあり続けること二四年間という藤原道長をも超える記録を残し、ピーク時は議政官を実質的に取り仕切るほどの権勢を手にし、「朝の宿老」とも「国の重臣」とも呼ばれるまでになった藤原経宗であるが、その上、平家政権や源平合戦といった動乱の最中にあっても左大臣として朝廷を支え続けてきた藤原経宗であるが、最後の最後で源義経の求めに応じて源頼朝追討の宣旨を出すのを促したために権勢を失い、晩年は政務における発言権をも失って、ただ院宣を飾るために署名するだけの左大臣となっていた。なお、藤原経宗は自らの死を予期したのか、死を迎える半月前に官職を辞して出家し、僧体となったのちに死を迎えている。ゆえに、公卿補任における藤原経宗の記録は、その死ではなく、官職を辞して出家したことをもって終わりを迎えている。

 源義経に近いために運命を迎えてしまったのが難波頼経こと藤原頼経である。なお、後の鎌倉幕府第四代将軍と同姓同名であるが、同一人物では無い。混乱を回避するため以降は難波頼経と記すが、難波頼経は源義経の協力者であった。それも、京都における最大級の協力者であった。既に源義経は国家反逆者と固定されたために、源義経に協力すること自体が有罪となる環境ができあがり、文治五(一一八九)年三月一一日、難波頼経は二度目の流罪が決まった。また、このときの流罪は本人だけでは済まされず、息子の難波宗長も解官処分となっている。

 もはや源義経を匿うこと、源義経に協力することは許されなくなる時代になったのだと誰もが理解するようになっていた。

 その時代の流れは奥州平泉にも届いていた。


 文治五(一一八九)年三月二二日、奥州藤原氏第四代当主藤原泰衡から、鎌倉の源頼朝を経由して朝廷に届ける請文が届いた。現実はそうでなくとも、朝廷の職制上、源頼朝は藤原泰衡の上司である。これが私信であれば勝手に書状を開封して読むのであるから普通であれば許されないことであるが、公的な書類提出という体裁であるため、この時代の職制に従えば違法ではないどころか部下が提出する書類を上司がチェックするという図式になるため、源頼朝が藤原泰衡の出した書状を読むのは業務遂行の一環となる。

 書状には、三月九日の日付で、藤原泰衡が源義経の身柄を引き渡すことを確約する文面が記されていた。

 部下の書状を京都に送り届けることも上司ということになる源頼朝の業務であるが、源頼朝はたしかに書状を京都に送り届けたものの、合わせて自分の意見も付加して京都に送り届けている。

 藤原泰衡を討伐すべきという宣旨を発給してほしいという意見である。

 もはや事態はここまで来てしまったのだ。源義経をどうにかするのではなく、奥州藤原氏という組織を処分するという決断をしたのである。

 藤原泰衡にしてみれば、源義経を差し出すことで、平泉を、そして奥州藤原氏の安泰を期待できたであろう。武将としての源義経がいなくなることは痛事であるが、鎌倉方が攻め込んでくることに比べればまだマシである。それに、宣旨も院宣も出てしまっている。鎌倉方は、関東の武装集団が東北地方にまで手を伸ばすという図式で攻め込んでくるのではない。官軍として、すなわち、日本国の正式な軍勢が内乱を鎮圧するという図式で東北地方へと攻め込んで来るのである。

 こうなってしまった以上、藤原泰衡に残されているのは、そして、奥州藤原氏にどうにかできるのは、源義経を差し出すことである。そうすれば戦争を回避できる可能性があるのだ。

 何度も繰り返すが、この時代の情報通信技術は、平泉から鎌倉を経て京都に書状を届け、京都で検討し、京都で記された返信を平泉で受け取るまでに、どんなに短期間でも一ヶ月半は要する。三月九日に書状を記した藤原泰衡が奥州平泉の地で京都からの返信を受け取ることができるのは、早くても四月末、一般的にはその翌月の初頭である。なお、文治五(一一八九)年という年は閏月がある年であり、四月の次は閏四月である。

 吾妻鏡に従えば、京都からの返信がまずは鎌倉まで届いたのが四月一二日である。なお、このときの返信の内容は、必ずしも奥州藤原氏の討伐を許容するものではなかった。かといって、奥州藤原氏の討伐を拒否したわけではない。正しい情報が伝わっていないために朝廷としては判断できないという内容である。

 この書状を藤原泰衡は受け取った。

 そして、藤原泰衡は決断した。


 平泉が存亡の危機に直面していた頃、京都では平泉とは対比を為すかのような平穏な話題にあふれていた。

 後鳥羽天皇の元服だ。

 後鳥羽天皇は文治五(一一八九)年時点で数えで一〇歳、まだ三月であるから現在の学齢で考えると小学三年生であるが、この時代の考えでいくと、元服を検討するには早いは早いが異例な早さというほどではない。それに、ただでさえ天皇の元服については早い段階で検討しておかなければならない事項もある上、藤原摂関政治の時代への回帰を目標とする九条兼実にとっては、理想の時代においては珍しくなかったことを完璧に再現することは何よりも重要なことである。早めの準備は準備のしすぎを笑われるだけで済むが、準備不足は政治生命にかかわる大問題なのだ。

 皇族の元服は天皇が加冠役を務める。天皇が冠を被らせることでその皇族は大人の仲間入りをすることとなる。しかし、全ての皇族の中でただ一人、天皇から冠を被らせてもらえことのできない皇族がいる。

 他ならぬ天皇自身だ。

 皇族に冠を授ける側である天皇は、自分で自分に冠を授けることができない。では、どうするのか?

 元服前に帝位に就いた天皇は多い。この時点から遡ると一八年前の嘉応三(一一七一)年一月三日に高倉天皇が元服したのが最近の例として見つかる。一八年前のことであれば当時を覚えている人もいるし、そもそも記録が存在する。何かにつけて先例重視のこの時代、天皇の元服をいかにすべきかは、先例を調べれば簡単に出てくる。

 天皇の元服において、誰が天皇に冠を授けるか?

 その答えは、太政大臣である。

 本来は太政大臣が天皇の母系の近親者でもあるために元服を迎える天皇の加冠役を務めるという図式であったが、時代とともに因果関係が逆転し、天皇の母系の近親者であるか否かに関係なく太政大臣が天皇の加冠役を務めることとし、天皇の元服時に太政大臣がいないときは人臣最高位者を太政大臣に任命して天皇の加冠役を務めさせるという慣例ができあがっていた。なお、天皇の元服を前提とした太政大臣就任である場合、任期は短期間とすること、天皇の元服の少し前に太政大臣に就任し、天皇が元服して少し後に太政大臣を辞任することも慣例となっていた。

 この時点で太政大臣に就く資格を有するとなると、摂政九条兼実となる。厳密には他にも有資格者がいるが、その有資格者を九条兼実は拒絶している。

 もう一人の有資格者、それは、一八年前の高倉天皇の元服時に太政大臣を務めた松殿基房であり、木曾義仲の失脚とともに政界を引退した松殿基房を担ぎ出すのは九条兼実には許されなかったのだ。近衛家と九条家との争いが顕在化する一方、本来ならこの両家に並ぶ、いや、この両家を上回る勢力になりえた松殿家がここで復活することは、九条兼実の考えでは許されないことであった。

 記録もあれば記憶もある。太政大臣を務めた当事者は不在であるが、九条兼実は後鳥羽天皇の元服に向けて着実に動き始めていた。

 文治五(一一八九)年三月二三日、高倉天皇の元服の先例に基づいて、伊勢神宮へ向けて公卿勅使を派遣することが決まった。源平合戦終結後の国家の安寧を感謝するとともに、後鳥羽天皇の元服を神に伝える勅使である。

 公卿勅使には権大納言藤原実家が選ばれ、権大納言藤原実家は二日後の三月二五日に伊勢国に向けて出発した。

 京都では奥州藤原氏に突きつけられている状況から目を背けるように、ただただ後鳥羽天皇の元服のみが検討されていたのである。


 藤原泰衡は追い詰められていた。

 日本中の視線が奥州平泉に向かっているならまだいい。無視されていたのだ。

 このときは奥州平泉に対して源義経を差し出すように命令が出ており、差し出さない場合は鎌倉方が軍勢を結集させて東北地方へ進軍してくるということになっていた。その後で迎える運命はもはや明白だ。奥州藤原氏という存在が歴史から消え失せるのだ。しかも、奥州藤原氏の消滅を気にしている人は少ないのだ。

 平家滅亡のときは朝廷の中枢に食い込んでいた氏族の滅亡ということで多くの人の注目を集めていたが、奥州藤原氏の消滅については、京都から遠く離れた、朝廷の中枢に食い込んでいるわけでもない地方豪族の消滅なのである。朝廷は奥州藤原氏に冷淡であり、戦争を止めることを訴える者は少ない。

 奥州藤原氏が戦争を食い止めるためには、奥州藤原氏自身がどうにかするしかない。

 どうにかするとはどういうことか?

 源義経をどうにかすることである。

 その出来事を吾妻鏡は簡潔に記している。

 文治五(一一八九)年閏四月三〇日、藤原泰衡が率いる五〇〇騎からなる軍勢が源義経の住まいであった衣川館に夜襲を仕掛け、源義経は二二歳の妻と四歳の娘を殺害した後、自ら死を選んだ。

 たったこれだけだ。

 平泉から正式な知らせが鎌倉にやってきたのは五月二二日のこと。藤原泰衡から源頼朝のもとへ、先月三〇日に源義経を討ち取ったこと、源義経の首は後ほど鎌倉へと送ること、源義経を討ち取るという穢れをしてしまったため平泉の藤原泰衡は仏事を延期することとしたという知らせである。この知らせに隠れてしまって、源頼朝がこの日に、現在の静岡県島田市にあった駿河国大津御厨の地頭職にあった板垣兼信が解職となったことは大きなニュースとならなくなった。板垣兼信が甲斐源氏の武田信義の三男であることも、駿河国大津御厨が太皇太后の所有する荘園であることも、そして、このときから地頭の解任が頻発するようになることも、本来であれば大ニュースであったはずなのに、そして、後に向けての大きな布石であったはずなのに、源義経の死はそれらのニュースはかき消すこととなった。

 源義経が討ち取られたという知らせが京都に届いたのは五月二九日、源頼朝の東海道整備により鎌倉と京都との間は最短七日で情報のやりとりが可能になったことが如実に示された結果でもある。源義経が亡くなったことを知った後白河法皇は、これで鎌倉方には軍勢を東北地方に出撃させる必要が無くなったとして、源頼朝に対して戦争を止めるように伝えた。摂政九条兼実も、伊勢神宮および東大寺の造営を理由に軍勢進行を制止する御教書(みぎょうしょ)を記した。後白河法皇からの言葉は院宣ではなく私的な書状であるが、九条兼実からの御教書は公的な文書である。御教書を書き記すことができるのは三位以上の貴族であり、御教書を発行したことは公表される。

 後白河院も摂政も戦争中止を訴えているのであるから、普通に考えれば源頼朝は京都からの言葉を受け入れるところである。しかし、源頼朝は鎌倉の地で朝廷の制止を無視する行動に出たのである。源義経を匿っただけでなく殺害したことは容認できないとし、軍勢を組織しはじめたのだ。

 源頼朝自身は戦争を止めるよう訴える言葉を聞き入れることは無かったが、弟の死については受け入れた。文治五(一一八九)年六月に予定していた行事を、喪に服すとして欠席したのだ。仏事欠席は藤原泰衡と同じように見えるが、穢れゆえに仏事を避ける藤原泰衡と、弟の死に直面した源頼朝とは同一視できない。それは、六月一三日に源義経の首が鎌倉まで運ばれてきたときの源頼朝の姿を見るだけで誰もが理解できることであった。

 源義経の首は、藤原秀衡の四男で藤原泰衡の弟の一人である藤原高衡が持参した。黒い漆細工が施された円筒形の(ひつ)に入れられ、中を酒で満たしていた。源義経であることを確認したのは侍所別当の和田義盛と侍所所司の梶原景時の両名である。この両者によって(ひつ)の中の首が間違いなく源義経であると確認されると、(ひつ)のまま源頼朝の元に手渡された。

 これがもし、源頼朝が源義経の死に喜んだというのならば平泉の藤原泰衡も落ち着きを取り戻せたであろう。だが、首だけとなってしまった源義経と対面した源頼朝の姿は、敵の首に対する戦勝者ではなく、弟の死に悲しむ兄であった。そして、後白河法皇の言葉も、藤原泰衡の希望も打ち砕くように、源頼朝は平泉への軍事侵攻を諦めない姿勢を続けたのである。

 鎌倉での源頼朝の光景が伝わった平泉の藤原泰衡は絶望の淵に立たされた。

 これではいったい何のために藤原泰衡は源義経を死に追いやったのか。

 武将として鎌倉方に向かい合える可能性のある人物を殺害した末に待っていたのが、戦争回避どころか、戦争勃発なのだ。


 京都では後鳥羽天皇のもとに摂政九条兼実が娘を入内させるかどうか、入内させるならいつ頃が最善かという議論が繰り広げられていた頃、平泉では絶望が悲劇を生み出していた。

 文治五(一一八九)年六月二六日、藤原忠衡が亡くなった。二三歳での死である。

 藤原忠衡は藤原秀衡の三男で藤原泰衡の弟である。藤原忠衡は源義経の殺害に反対していたとされ、源義経から二ヶ月と経たずに殺害されたのだ。さらに尊卑分脈に従えば、確実に殺害されたことが確認できる藤原忠衡に加え、藤原秀衡の五男である藤原通衡も同時期に殺害されたとある。後世の歴史書には、暗殺ではなく平泉に戦乱が起こった末に討たれたとある。

 藤原秀衡は平泉の存続を次男に託した上で、妻を長男のもとに再婚させてまで奥州藤原氏が一丸となって存続することを意図していた。それなのに、亡くなってから二年と経たずに奥州藤原氏はこの様相である。武勇に優れていると評判の長男の藤原国衡は弟たちが亡くなっていくのを黙って見ているしかできず、奥州藤原氏の当主となった藤原泰衡は一丸となるどころか弟たちを殺している。藤原秀衡の六人の息子の中で、文治五(一一八九)年六月末の時点で生き残っているのは長男の藤原国衡、当主となった次男の藤原泰衡、そして、源義経を鎌倉に運んでからまだ平泉に戻らずにいる四男の藤原高衡の三人だけである。

 奥州藤原氏が破滅を覚悟していた頃、鎌倉では東北地方に進める軍勢の編成を進めていた。六月二七日に既に交名(きょうみょう)、すなわち、軍勢に参加すべき者の名簿を作成し、その中には一〇〇〇名を越える名が記されていたとあるから、平家討伐時の軍勢に匹敵する、あるいはその時代を超える軍勢規模であったと言える。何しろかつては平家の軍勢の一翼を担っていたが今では源頼朝のもとに仕えるようになった武士もいるし、源平のどちらでもなく中立を保っていた地方武士団の首領もこのときの交名(きょうみょう)に名が存在していた。

 交名(きょうみょう)に名が記されていなくとも、源頼朝の元に率先して馳せ参じる武士もいた。これから攻め込もうとしている東北地方、特に平泉はこの時代でもトップクラスの裕福さを持つ地域である。奥州藤原氏を倒すのに貢献したら東北に所領を手に入れることもできるのだ。摂政九条兼実を通じて宣旨を出させることは無論、後白河法皇からの院宣を手に入れることも失敗していたが、それでも源頼朝は軍勢を指揮した。

 文治五(一一八九)年六月三〇日、源頼朝は大庭景能に先例を調査させた結果を受け取った。そして、後三年の役の先例が源頼朝のもとに届いた。源頼朝の曾祖父でもある源義家は後三年の役において陸奥守として清原氏の内紛に介入し、清原家衡と清原武衡を討ち取って東北地方を平定したものの、私戦として朝廷からの恩賞を得られずに終わったという先例である。

 後三年の役当時の源義家はそのとき陸奥守であった。一方、文治五(一一八九)年時点の源頼朝は後三年の役時点の源義家よりはるかに高い地位を獲得している。また、朝廷の開戦許可がないという一点を除いては法的に問題が無い。さらに言えば、源頼朝は開戦を告げる知らせを朝廷に送っているので全くの事前通知なしに戦争を開始するわけではない。そして、朝廷内の上下関係で考えると源頼朝は藤原泰衡の上司にあたるため、不出来を叱責する上司という体裁を取ることも可能である。危険な先例踏襲ではあったが、前代未聞の出来事にチャレンジするわけではないのだ。

 東北地方に軍勢を進めることを本心では躊躇っている御家人もいたであろう。だが、誰もが源頼朝に従って軍勢を進めることに同意し、自らも武装して馬に乗って軍勢に加わった。源頼朝への忠誠心が欠けている武士であっても、既に述べたように東北地方の所領を手に入れるチャンスであるため率先して武装して軍勢に参加した。


 それでも源頼朝はギリギリまで粘っていた。朝廷が鎌倉方の軍事行動にお墨付きを与えてくれれば、この戦いは私戦ではなく朝廷が認める内乱鎮圧となる。朝廷への譲歩の意味もあり伊勢国にある沼田御厨の地頭として評判が低かった吉見頼綱を罷免することもした。後にこの罷免は意味を持つことになるが、朝廷はその真意を汲み取ることなく、あるいは真意を感じる必要の無い些事とでも考えたか、何のリアクションを起こさなかった。

 朝廷からのリアクションがあることを期待していた源頼朝であるが、この望みに対する回答は文治五(一一八九)年七月一六日に判明した。この日に鎌倉に到着した朝廷からの使者は、源頼朝の軍勢出動を認める朝廷からの許可をもたらす使者ではなく、軍事行動を止めるよう伝える使者であったのだ。

 源頼朝は朝廷からの要求を無視し、同日、東北地方への正式な進軍を決定した。

 翌七月一七日、源頼朝は全軍を三つに分けてそれぞれの行軍路を示した。千葉常胤と八田知家の両名が率いる東海道軍は下総国から常陸国を経て太平洋岸に沿って北上、比企能員と宇佐美実政が率いる北陸道軍は上野国から信濃国と越後国を経て日本海岸に沿って北上、残りが本隊である大手軍となり、大手軍は源頼朝自身が率いて下野国から北上する。行軍路はそれぞれ、東海道軍が現在で言う常磐線、北陸道軍が北陸新幹線と信越本線と羽越本線、大手軍が東北新幹線のルートにだいたい合致する。なお、全部隊が鎌倉に結集してから東北地方に向かうのではなく、鎌倉から出発する部隊に適宜合流することとなる。そのため、七月一九日に鎌倉を出発した段階での軍勢は、これまでにない多さであるとは言え東北地方全体を制圧できるほどの規模とは感じられなかったのに、行軍すればするほど軍勢が膨れ上がり、日本国内最大の軍勢とはこのことなのかと見せつける規模へと発展していった。

 ここで源頼朝の率いる大手軍の面々を整理すると、先陣を畠山重忠とその直属の部下が務め、その後を源頼朝が馬上で進み、源頼朝の後ろを鎌倉方の御家人達が付き従う。その面々を吾妻鏡は以下のように記している。

挿絵(By みてみん)

 鎌倉方の軍勢としてこれ以上は考えられないと言えるが、実はこれで終わりではない。さらにここに源平合戦時には鎌倉方の軍勢ではなかった武士も加わるのだ。七月二六日には常陸国の佐竹秀義が軍勢に加わったことで関東地方での最後の平家方の武士団も鎌倉方の一員となり、同日、越後国で平家方の出先的存在ですらあった城一族の城長茂も鎌倉方の一員となることが認められ、これで鎌倉方に逆らう武装集団は事実上奥州藤原氏だけになったのである。

 文治五(一一八九)年七月二九日、源頼朝率いる大手軍が白河関を越えて陸奥国に入り白河関明神社へ奉幣した。これからの戦いに向けての戦勝を祈願してのことであると同時に、これから先は敵地であること、残された道は勝って凱旋することだけであることを示す目的があった。

 何度も記してきたことであるが、源頼朝という人は、政治家としてならば超一流でも、武人としては虚弱である。軍勢の指揮をすることも、一人の武士として弓や馬を扱うことも、お世辞にも一流とは言えない。訓練を積んでいないわけではないからできないというわけではないが、戦場の矢面に立たされようものなら指揮どころか狼狽するのみである。

 ならば、平家討伐のときのように源頼朝は鎌倉に留まり、軍勢の指揮は誰か別の人、例えば源範頼に指揮をさせるという方法もあったのだが、この奥州遠征は源頼朝が陣頭指揮を執り続けた。平治の乱の敗者として一三歳で伊豆国に流罪となってから、平家打倒で立ち上がった後で石橋山で敗れて安房国、上総国、下総国、武蔵国を経て相模国へと移動したことがあるものの、鎌倉に居を構えるようになってからの源頼朝の移動は伊豆国と駿河国を除いてほとんど無かった。現在の感覚でいくと通勤圏内だ。その源頼朝が、現在の感覚でも通勤圏内とは断じて言えない白河関を越えて東北地方に向かった。それも大手軍を指揮して北上したのである。

 鎌倉方の軍勢は源頼朝が指揮することについて不安を抱かなかったのか?

 その答えは文治五(一一八九)年八月に判明する。

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