神隠し。桜の樹の下で、
商家の屋敷。
表には糸桜の。裏には山桜の樹がある。
はにかむ様な枝垂れ桜は座敷前の表の庭に。嫋々と柔らかく赤い葉と共に開く山桜は蔵の側。今は亡き先代の隠居道楽、山から居抜きで運ばれ植えられたそれぞれ。
――、ぷちり。ぷちり……。裏庭。
指先で柔らかな草をちぎる、振り袖姿の娘。袂を膝の上に絡げしゃがみ込んでいる。
ぽとぱた。足元に染みを作る彼女の涙。上からハラハラと落ちる花弁は、白く地面にへばりつく……。
「どうして!こんな事も出来ない!姉様と同じにならねば駄目と言っているのに!」
生さぬ仲の母親の声がジンジンと、うつむく彼女の頭に流れている。
「お華の代わりに、お前はお大尽様の家に嫁ぐ事は来た折に、きちんと話をしたはず、忘れたとは言わせない」
ある日は師匠を呼び、翌日は通い習う物の出来が悪いと、殊更キツく叱られる彼女は、商家の入り婿が外で作った娘。
妾の母と囲われ町中で暮していた。
幼い頃はちびた下駄を鳴らして風呂敷包みをかかえ、寺子屋で学び終えた後は、近所の子らと路地裏を駆け回って遊んでいた娘。
ひと通り手習いを終えると、共に遊んだ子らが奉公に出る中で、彼女は生みの母親と共に縫い物の内職をしながら、こじんまりとした小綺麗な家に、時折、訪ねてくる父親と過ごすのを楽しみにし、八百八町の市井で慎ましく過ごしていた。
そんな彼女の小春日和の様な穏やかな日々が、バリンと音立て割れたのは、流行病が町をべろりとひとなめして去った後。幸いにして、彼女達が住む場には、気まぐれな疫病神は舞い降りはしなかった。
突如現れたソレは、まず父親の死を伝えた。
突如現れたソレは、彼女を舐めるように見た。
「旦那様が!流行病で?亡くなった!」
ああ……、と泣き伏す妾。
そう……、と冷たく言う正妻。
「あのひとが入り婿だったのは、ご存知だったでしょう?お前さん達の暮らし向きに金を使っていた事も。死んだ今、私はビタ一文!払う気はない!この借家からも出てってもらう!」
突っ伏したまま、ただ泣くばかりの母親の背を抱える彼女。キッと睨みつけてくる顔を、臆することなく真正面から受けた。役者さんのよう、お内裏様のようと称されていた、見目麗しい父親の血を濃く引いた彼女。
再び舐めるように、緊張と困惑を浮かべていても、歪む事なく、張り詰めた美しさを宿す彼女の顔を見る正妻。キツイ顔を少しばかり緩めて微笑み頷く。
「目鼻立ちの通ったところは、あのひととそっくり。小町娘と呼ばれた華にもよう似て……、お前さん、名前は?」
テキパキと彼女に聞く正妻。
「春といいます」
「春、お春。どや?私の事を母と呼び、娘として本家に来ない?来たら母親の暮らしの面倒は、この先もみることを約束する」
安心をし、でもお春が来なかったら……。
「明日にでも出て行け!」
言い切るとにっこり微笑み、話を閉じた正妻。
その笑みを受け取りながら、これから先を考えた春。
……、昔遊んだ皆は奉公に出た。それなりにしっかりと外でやっている。この前出会った幼馴染のかよは、下働きから女中に上がったと嬉しそうに話した。母親と共に、縫い物の内職をしていたけれど、所詮、小遣い稼ぎ程度。ここを出て長屋に移り、イチから鍋釜揃えて……、二人の稼ぎで暮らしていく……。
「お春、なんとかなるから……、ここにいたらいい」
弱々しく、しなだれかかる様な妾の声。
「暮らすのは物入り、ああ!でも別嬪さんやから大丈夫。そう、行き詰まったらお決まりの、花街に行けばいい事」
どのような時も独りで強く立つ、刺すような正妻の声。春が運んだ茶を手に取り喉を潤した正妻は、薄らと剃刀のように光を宿した目を細め、寄り添う二人を眺めた。
――、そうして私はここに来た。まさかお姉さんの身代わりになる様、言われるなんて知らなかった……。神様は意地悪。なんで私はお姉さまと良く似てるのかしら、似てなかったら、きっとこんな目にあってなかったかも。
「駄目駄目、こんな事考えちゃ。良いことだってある。日髪日化粧、お姉さんが置いて行かれたお着物もかんざしも、選びたい放題、広いお部屋でお布団は真綿、そりゃ、お義母さんは厳しいし出来が悪いと、飯抜きにするけど……、我慢がまん。」
流行病で命が助かったのと引き換えに、美しい顔に朱色の痘痕が残り、世を儚み尼寺へと向かった姉、華の身代わりになる様、来るなり命じられた彼女。嗜みを身に付ける為、お稽古事に忙しい日々を過ごしていた。
出来が悪いと厳しく叱責をされ、身に着けている、お下がりの高価な着物の上から、細い竹で打たれる日には、満足な食事を出してもらえない。
琴、三味、舞、裁縫、手習い……、春の終わりには、全てきちんと出来る様になれと命じられている。
「なんでと思ったら……、桜が緑の葉になった頃に婚礼だって。だから大急ぎで覚えろだって。毎日毎日叱られて、飯抜きになって、また叱られて、お姉さんのお手本と同じ様に書けと、出来るまで寝たら駄目だ!お稽古しろと怒られて」
独り呟くと上を見る。来た時には固く礫の木の芽だったソレが、春の知らぬ間に膨らみ花開いている。ハラハラと風が吹かぬとも落ちてくる花びら。くるくると舞い、ひらひらと飛び落ちてくる。
「綺麗、小さい頃は手籠に沢山集めて、家に持って帰って、半端な糸に通して遊んだ……」
立ち上がる。ここ数日、ろくに食事を取っていないせいでフラフラとする足元。山桜に近づいた彼女。苔むした樹皮に手を当て身を寄せる。
「良い香り、好き、門前の桜餅食べたいなぁ」
薄ら甘く涼しい香りが春を包む。
「小さい頃、鎮守さんの桜の樹の下で遊んだ。茶屋の縁台に赤い毛氈、唐傘が有って。その下で桜餅とお茶をお母さんと飲んで」
小さく淡い風が吹き春を包む。
「楽しかった。そしてここにも桜の樹があって、嬉しかった」
音なく花弁が落ち春に降り注ぐ
「遊女になっても変わらないかもしれない。だってお義母さん、言ってたし。この縁談が破談になれば、このお家は無くなるって、借銭の形代に取られるって、それって一緒。あっちで暮らしに困って女衒に買われるのも、借銭の肩代りに嫁に行くのも……、同じ気がする」
ピピピ、ゆっさと枝を揺らして目白が飛んでいく。
「ふぅ。鳥は飛んで逃げれて良いなぁ……、私も何処かにに行ってしまいたい……、ね、聞いて欲しい。この前ね、どうしても家に帰りたくなって、お稽古の帰りに家に行ったら……、もぬけの殻だったの」
さわさわ、サワサワ。それから?と、まるで春に問う様な微かな花ずれの音。
「聞いてくれる?嬉しい……。引っ越したって、人にそう聞いたの。ここに戻ってお義母さんに聞いたら、新しい旦那さんの家に行ったって。そんなの知らない。私、何にもお母さんから教えてもらって無い……、酷い。私棄てられた!」
ポロポロと涙が溢れる春。
「ひとうつ、ふたあつ、花びらがどんどん無くなる、全部無くなったら……、お稽古事が、全部出来る様になったら……、帰りたい、帰りたい。でも出来ない。家には別の人がいたし、お母さんは居ない。ね、私はもう、このままここでもう……、暮らしたくない」
ひんやりと苔むす幹に頬を当てた彼女。コポコポと耳に音が入る。
『そやなぁ……、好きやぁって言ってくれたし、別嬪さん可哀想やしな、こっちに来るか?』
「はい?あんた誰?」
驚き身を引こうとすると、アカンアカン、一度離れたら二度と縁は結べんで、と声が引き留める。
「縁?樹から離れたら駄目?もしかして……、神様?」
恐る恐る再び身を寄せた春。
『そや、何かずうっと立っとる内に、そういうもんの端くれになったみたいや。で、どないする?』
優しい声がコポコポと混ざり、彼女に流れ入る。
「そっちに行ったら……、どうなる?」
死ぬのかな?と春。
『こっちに来たら、そやなぁ。広い庭があるだけで、他にはなんにもあらへんから、花びら拾って、泥団子作ってままごとして遊ぶか?』
のんびりと話す声は好々爺の様。
「子供みたい、ご飯とかどうなるの?」
「それはこっちに来てからのお楽しみや」
ええもん食わせたる。饅頭でも餅でも、果物野菜、海の幸山の幸、お神酒、神社仏閣の供物が集まっとるからな。と好々爺は誘う。
「私が居なくなったら……」
誰もが困るかもしれない。春はぽそりと呟く。
『そやなぁ。でも別嬪さん、ええんとちゃうか?実の親もどっかに消えたんやし、ええ男と暮らしとるんなら、ほっとき』
好々爺は意地悪く言う。誰かここに来たらお終いや。はよ決めてんか?と急がす。
コポコポと柔らかい水の音。サワサワさわさわと花ずれの音は冷たく柔らかく、薄ら甘い香りは色濃くなって行く。
とろりと包まれ、たちまち虜になった春。
「うん、わかった。そっちに行く」
答えを返した。
『鉄気の物は棄ててな』
好々爺の声。
わかったと、結い上げた髪からかんざしを抜くと、ポトリポトリと地面に落とした。
風が吹き枝がしなり、一度に多くの花弁が雪の様に空に舞う。ゆるゆると、地面に落ち張り付き模様を描いた時には……。
かんざしが数本。桜の樹の下に残されていた。
――、裏庭に山桜の樹がある。それは蔵の側で大きく枝を張り、日当たりが悪くとも時が来れば、赤い葉を伸ばし、五弁の花を咲かしている。
樹は春の嘆きに深く惹かれ、助けを求める彼女に救いの手を差し出した。
「おじいちゃんやと思ったら、違う、お兄さんみたい」
薄紅を混ぜた青い空が何処までも高く広がり、この世の全ての木々が生えてる世界。花の木、果物の木、とんがった木、色づく木……。
咲く、実る、芽吹く、山笑う様に膨らむ木々。
「こっちでは、まだまだ若いんや。そやなぁ、どや?ワシの嫁さんにならへんか?この手を取ったらあっちの事は、みいんな忘れてしまうけどな」
「みんな?」
春は少しばかり考え、それもいいか、と心を決めた。
甘く香る風が唆したのかもしれない。
薫る風がそうしろと背を押したのかもしれない。
身勝手な生母も、欲深く厳しい義母の事も忘れたら、子供の時に戻り、ただ笑って暮らせるかもしれない。
「まっ、嫁さんにならんでもここで暮らせるけどな、独りでやりたい事を探したらええ、どうするんや?」
差し出された、薄ら甘く涼やかに香る手。
「そうね、あっちでも直に嫁に行くみたいだったから、構わないわ」
少しばかりつっけんどんに話しつつ、はにかみながら手を取った春。悲しい事も、悔やむ事も思い出も何もかも、皆々春の心から、あちらの世界の事がザラリと消えて無くなった。
――、裏庭に年老いた山桜の樹がある。それは蔵の側で大きく枝を張り、日当たりが悪くとも時が来れば、赤い葉を伸ばし、五弁の花を咲かす。
「誰か!逃げた!探せ!あの子が居なかったら!家が潰れる!」
稽古の時間になっても来ない春を探し、裏庭に来た義母の声が響く。蜂の巣を突いた様な騒ぎになる。
ソレは生母の新しい住まいにも飛んで行く。突然の事を聞き、気を失う春の母、そしてそれを甲斐甲斐しく支えた、娘が知らぬ恰幅の良い年配の男。
彼女を知る者は皆、探し回る。四方八方手を尽くし……。
だけとその姿は町からすっぽりと。
消えてしまった。そう、まるで。
神隠しの様に。
散り染めの桜の花弁が、気まぐれな軽い風に混じり、空を飛ぶ季節の事。
終。