第86話【ラキアス開戦4 更に蠢く影たち】
漆黒の夜の物語はまだ続く。
時間は深夜だ。砂漠は極寒と言えるほど寒く、見回りの兵は体を抱くようにして耐えている。
砦の端のほう、見張りの兵の見えない死角に少女はいた。
黒いドレスをお人形のように着飾った魔導人形。相変わらずの無表情の少女が、静かに佇んでいた。
「マスター……」
彼女の視線の先には男がいた。
白衣を着た中年の人間族。不恰好な姿勢で尊大に笑う、彼女の生みの親。
人形遣い、と称される者。
商人ギルド『ケーニスク』所属のガーディの姿に、エリザは知らず知らずに息を呑んだ。
「しばらく見ないうちに可愛くなったな、エリザよ」
「…………」
「ア、レルヤ! 娘の成長を私は快く思うぞ。内面の美しさというものが出てきたではないか」
「……何を仰っているのか、理解が出来ません。マスター……」
顔を俯かせたエリザは言う。
胸の奥が痛かった。原因不明の痛みにエリザは小さく顔を顰めた。
布に水を染み込ませるように、じわじわと広がっていく痛み。
原因不明、理由不明。
「最近、エルトリアに関する情報が流れてこないな?」
「っ」
「エリザよ、お前への命令を忘却したか? 我が娘は何のためにエルトリアに属しているのだ?」
「……国の機密を……持ち帰って……マスターに、喜んでいただくためです」
満足げにガーディは頷いた。
心なしか俯くエリザの顔を覗き込むようにして、彼女の感じている痛みを楽しんでいるように見える。
責め立てるように男は告げる。
「我が娘は父を喜ばせてくれないのか?」
「申し訳……ありません……今後は、情報をもっと流し、ます……」
「言葉の歯切れが悪いぞ。今までこんなことは一度もなかった。調子が悪そうだが、故障か?」
「いえ。エリザは何処も悪くなど、ありません……」
隠すように身を縮みこませるエリザだが、ガーディはその反応にニヤァ、と張り裂けるような笑みを浮かべた。
「心が痛いか?」
「……エリザに心などありません」
「ふふ」
機械に心などない。
笑うことも泣くこともないし、怒りに我を忘れることもない。
魔導人形であり、人間や魔族ではないのだ。
心なんてない。罪悪感だって感じるはずがない。マスターの命令だけ聞いていればいいのだ。それだけだ。
「この砦には、お前が気に入っているマーニャ・パルマーという女がいたな」
「……っ」
「父への忠誠の証として、殺して来いと命令してみようか。楽しそうだ」
心が凍りつく。
嗜虐的な男の表情に、胸の疼きが大きくなった。
理由も分からず胸を抑えた。
断る理由はない。マスターからも命令だ、殺さねばならない。殺さなくては、ならない。
「殺せるか?」
「……はい」
「ふむ。まあいい、話半分に聞いていろ」
怖い。
生みの親が怖い。
今までこんなことはなかった。
眼前の男は何一つ変わっていないのに、どうしてこんなにも恐ろしく感じるのか。
異常な環境にいたことが当たり前だったのに。
「もういい、戻れ」
「はい……」
父が去っていく。
魔導人形の青年が父の背中を追いかけていく。
彼は過去の自分だ。
追いすがることに何の疑問も持たず、何も考えることなく、命令だけを受理してきた人形だ。
「エリザは……」
魔導人形だ。
命令を遂行するだけの人形だ。
父を満足させることも出来ない道化に何の利用価値があるというのか。
「……殺さなければ」
己の存在価値を示すために。
話半分、と生みの親は言っていたが、そんなことは関係ない。
命令だ。命令なのだ。
忠誠の証を示すためにも、人形は命令を遂行しなければならない。
◇ ◇ ◇ ◇
宰相補佐のマーニャ・パルマーの寝室はエリザの部屋の隣だ。
女性が寝泊りするための施設があるわけではない。
夜這いぐらいなら簡単に出来そうな適当な造りであるが、セイレーン族の彼女を襲う無謀な兵士はいないだろう。
逆に彼女が少年兵を連れ込んでいる可能性は大いにあるが。
「…………」
部屋の扉は開いていた。
拍子抜けするほど簡単に魔導人形は進入を果たす。
標的はすぐに見つかった。
備え付けのベッドに横たわり、悩ましい下着姿を晒している。無用心にも程があった。
(殺さなければ。殺さなければ。殺さなければ)
廊下には見張りの兵もいる。
姿は見られなかったが、魔法を使えば即座に駆けつけられてしまう。
剣や槍があれば簡単だったが、武器庫の居場所は分からなかった。
首を絞めるしかない、と結論を出す。
(殺さなければ……殺さな、ければ……エラー……エラー内容を却下……殺す……コロス……)
無防備なマーニャの身体に馬乗りになる。
戦の疲れか、小柄な彼女が圧し掛かってもマーニャは軽く呻くだけで起きる様子はない。
胸が痛い。頭が痛い。
脳内に設置された擬似的な人格を統括する魔術品が、エラー、エラー、と激しく警鐘を鳴らす。
(殺さなければいけない……違う、マスターは話半分で……思考に混乱が見られ……エラー……)
身体が動かない。
右手も左手もマーニャの細い首を絞めるために動かない。
思考が何一つ働かない。
圧倒的な感情が爆発的に脳裏に炸裂して、エリザは指一本動かすことが出来なかった。
「……なんで」
父は、マスターは忠誠を示せ、と言っていたのに。
意味が分からない。
何故、胸が痛いのだ。どうして頭が痛いのだ。誰か教えてほしい。
「エリザはどうしてしまったのですか……理解不能……理解不能、理解不能、理解不能です……!!」
壊れてしまった。
何かが壊れてしまったのだ。
絶対にそうに違いない。エリザの何処かが故障したのだ。
命令を遂行できない理由はそれしかない。
でなければ――――マスターの命令を聞きたくない、なんて感情が沸いてくるはずがない。
人間じゃない。
エリザは人形なのだ。
命令を拒否する人形に何の意味があるというのか。
存在価値が。存在理由が消えていく。
助けてください。
助けて、と呆然としたまま、壊れた人形そのものとなって何度も何度も繰り返す。
「…………」
「……あっ」
騒ぎすぎてしまったのか。
瞳を開けたマーニャが、静かにエリザを見据えていた。
起き抜けで思考がろくに働いていないのだろう。彼女はエリザがここにいる理由について深く考えなかった。
少女が何処となく悲しそうな顔をしていたのが気になった。
「怖い夢でも見たのかしらん?」
「…………別に」
「そう?」
不機嫌なフリをしてそっぽを向いた。
彼女と目を合わせることもできない。殺そうとしていたのだから。
胸の痛みが少し治まっていた。
居心地の良さすら感じていたのが、不思議でたまらなかった。
「んふふ、ゲットー」
「わふ!?」
「せっかくだから一緒に寝ましょう。怖い夢を見ないように、ね?」
「え、エリザは人形ですから夢など見ません!」
豊満な胸と滑らかな腕に挟まれてしまった。
抵抗して脱出しようとするが、マーニャは抱き枕のようにエリザの身体を抱きしめると、そのまま再び夢の中へ。
寝息が耳元で聞こえてきて、エリザは大きく脱力する。
「……理解、不能なんです……マスター……」
温かい感触に包まれて。
優しい気持ちに包まれて安らいだ。
子供が母の胸の中で安堵してしまうように。
居心地がよくて。胸や頭の痛みはすっかり何処かへと消えてしまっていて。
「……疲れました……機能停止……です……」
休眠状態へと入る。
彼女の言葉ではないが、今ならもしかしたら。
『夢』というものが見れるかもしれない。
馬鹿らしい発想が脳裏に過ぎ去ると同時、ゆっくりとエリザは意識を落としていった。
◇ ◇ ◇ ◇
「殺すなよ、エリザ」
漆黒の闇に包まれた砂漠は極寒、という表現が似合う。
常時着用しているマントだけでは足りず、下に保温性の高い上着を着込んだ科学者は呟いていた。
背後に魔導人形を控えさせ、中空を見上げて。
「殺さなければ、合格だ。騒ぎになってくれるな?」
「…………」
「ん? 疑問か、アルバ。私が炊きつけておきながら『殺すな』という言葉が理解できんか?」
「……はい」
「だからお前はダメなのだ」
長身痩躯の魔導人形に吐き捨てる。
機械の身体に機械の心を宿らせたアルバが、主人の言葉が理解できないのも無理はない。
人形は命令に従って行動するのが存在価値だ。
命令に逆らえ、などという思考回路は最初から存在しない。
存在してはいけない。
「お前にはもう関係ない話だ。忘れるが良い」
「…………」
「ガーディ」
背後から己を呼ぶ声。
ラキアス正規軍の宿舎に客人として迎え入れられているガーディは振り向いた。
己が同僚の竜人族がそこに立っていた。
珍しい、と思う。ニードルードが今更、自分に声を掛けるとは思わなかった。
「どうした、ニードルード。顔色が良くないな?」
「明朝、出撃が決まった」
副官の地位に就いていた男は、静かに語る。
淡々と、訥々と。
絶望的な事実を粛々と受け止めるように。
極寒の風が一際強く吹き荒れ、彼の声を遮っていたが、ガーディの耳には確かに聞こえた。
「……正気か?」
「命令だ」
「無謀としか言いようがないな。実に最低だ、お前はそれを唯々諾々と引き受けてきたというのか?」
「某は志願した」
科学者の眉が一層深く、歪んだ。
正気を疑っているような瞳。狂った科学者にそんな目をされるのは心外だったが、今はどうでもいい。
乾いた砂の一塊を握り、風に乗せてさらさらと飛ばしてみた。
自然に還っていく土の姿は、戦場における人の命に似ている、とニードルートは思った。
「某の……貴殿風に言えば、低俗な願いのためだ」
「そうか」
「明日の出陣の総大将は某だ。副将には抹殺部隊から二人派遣されることになる」
「立身出世になったな。ラキアスの切り札を手駒で使えるほどになるとは」
「……そうだな」
竜人の言葉は寂しげだった。
対して他人の生死などどうでもいいガーディの声に、哀愁の色はない。
苦笑いが出る。
狂った科学者に同情されることのほうが辛い。
今は自分本位に生きるガーディの奔放な言動がありがたかった。
「頼みがある。貴殿の魔導人形を借り受けたい」
「……ほう」
初めて。
科学者の表情が険しくなる。
彼の研究成果を託してくれ、と言っているのだ。
反発は覚悟の上で、ニードルードは言葉を続けた。
「某の願いを果たすために必要だ」
「返ってくるのか?」
「答えを返す必要はあるだろうか?」
如実すぎる答えだった。
男の顔が竜の頭を睨み付け、明らかに不快な表情を見せていた。
首を傾げ、舌打ちをし、不機嫌な様子を何度も見せ付ける。
無理か、と諦めかけたときだった。
己の中で何らかの決着が付いたらしいガーディは、魔導人形アルバの背中を乱暴に押して。
「連れて行け」
「……かたじけない」
「廃棄処分する予定だったのだ。せいぜい、活躍の機会でも与えてやれ」
長身痩躯の人形は何も答えない。
唯々諾々と主変えを承認し、新たなる主人をニードルードに設定した。
人形は科学者の従者ではなくなった。
玩具を取られた子供のようにガーディは悔しげな顔をしてみせたあと、踵を返していく。
「ガーディ、何処に行く」
「もはや用はない。ああ、ないとも。私はもう帰らせてもらう」
「……そうか」
「私の人形を雑に扱うのは許さん。廃棄処分の出来損ないとはいえ、このガーディが手掛けた作品だ」
職人の誇りか。
或いは全く別種の意地というものか。
科学者は吐き捨てるように呟いて、ラキアスの野営地を去っていく。
背中を見送るような真似はしない。
別れの挨拶をする関係でもない。
砦攻略部隊の総大将に任命されたニードルードは、本陣のほうへと歩いていく。
「……ニードルード」
「フォルゴ将軍」
魔導人形アルバは出陣まで姿を消してもらい、再び歩く。
途中でエルトリア魔族国攻略の将軍の地位から下ろされた上司と逢った。
既に全指揮権は軍師のスペルビアという少女が握っている。
三大将軍の一人を冷遇するほどの権力を持った相手だ。どんな命令でも逆らえない。
上司は科学者ガーディとは逆に、同情の視線を送ってくる。
「すまん……ワシが不甲斐無いばかりにな」
「将軍が気に病むことはありません。某が己の意思で志願したのです」
彼の言うことは真実だ。
軍師が下した作戦で、最も無謀な最前線に送られる将が必要だった。
男は自ら死地へと赴くことを願い出たのだ。
己の願いのために。
「何故、志願した。その役目はワシでも良かったのだ」
「……清算するためです」
「清算?」
「某は自分本位の魔族。某は、某のためにしか行動しない。今回の件もそういうことです」
そうか、とフォルゴは寂しそうに頷いた。
敵に対しては勇猛果敢、苛烈に攻め立て容赦なく叩き潰すフォルゴの別の一面だ。
彼は味方と判断した者は徹底的に護る。
懐に入れた人物を放っておけない。そういう実直な男なのだ。
「ワシは、悔しいのである」
血を吐くような声だった。
死地に赴く戦友を見送るような顔だった。
事実、それそのものの光景だ。
「此度の戦で多くの『騎士』を失い、今また失おうとしているのに止められん」
「某も『騎士』ですか? 某は革命軍からの離反者で……」
「信念のために生きる者を『騎士』と呼んで何が悪い。貴族も平民も、離反者も奴隷も、関係ないのである」
実直すぎるな、とニードルードは思った。
理想主義者と呼ばれても仕方がない、が。彼の言葉は不思議と胸の中に残った。
自分本位に動いているだけに過ぎないのに。
買いかぶりだというものだが心地よい。
彼のカリスマの一因を垣間見た気がして、不思議と心が軽くなった気がした。
「短い間でしたが、将軍の下で働けて光栄でした」
「ワシは良い部下を持った」
「ご武運を」
「そちらも、な……」
別れの言葉は終わった。
出陣の準備のために宿舎へと向かうニードルードの背中をフォルゴは見つめる。
惜しい人物だ、と思った。
戦争は容赦なく、前途多望な若者の命を奪っていく。そういう世界だというものを改めて痛感したのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
「イラ、インウィディア」
鈴を転がすような楽しげな声が響く。
将軍フォルゴを追い出した本拠地に複数の影があり、中央には聖歌隊の帽子を被った少女が座る。
水色の髪を弄りながら、機嫌よく彼女は名前を呼んだ。
「…………」
イラ、と呼ばれたのは屈強な身体の持ち主だった。
全身が鎧にも見える頑強な肉体。鋭い眼光と威圧感溢れる佇まいは見る者を圧倒する。
無言のまま、一歩進み出た。
全身に漂う熱気は怒りを内蔵した爆弾のようだ。何かの拍子に爆発しそうな雰囲気が漂う。
「はいはい、なにヨ?」
対してインウィディア、という女は自然体だった。
豪華な装飾の施された服装だ。豊満な胸を大胆に利用し、頭にはラキアスの旗印をあしらった飾り物。
城塞都市メンフィルに潜入し、ゲオルグ傭兵団のオイゲンたちに依頼を持ちかけたのは記憶に新しい。
王子襲撃の首謀者と呼ばれるべき女は、軽い口調で先を促した。
「二人は勇敢なニードルード隊長の援護をお願いするです。敵将の一人くらい斬ってきてください、です」
「げっ、貧乏くじネ……」
「…………喜んで」
露骨に嫌そうな顔をしたインウィディアとは対照的に、イラの表情は歓喜に満ちた。
無愛想、無表情、無口の三拍子が揃った彼が発言するのは珍しい。
敵側に因縁深い相手でもいるのかも知れない。
「イラ、嬉しそうですね?」
「…………」
指摘すると顔を逸らされた。
責務に忠実で質実剛健に任務をこなす姿勢は気に入っていた。
抹殺部隊の面々では扱いやすい。
残りの者たちは癖が強すぎる。油断すれば寝首を掻かれる可能性すらあるのだから恐ろしい。
「では、残りは私と一緒にですよ」
作戦会議は手短に行われた。
軍師スペルビアは個性的な面々のセクハラ発言を受け流し、宿舎へと帰っていく。
最後に何時もの捨て台詞。
「あっ、私はもう寝ますけど、くれぐれも襲わないように、です。夜這いなんかしてきたら……」
仄かに指先が曇る。
漆黒の闇がなお黒く染まっていく。
口元に湛える笑みも、楽しげな瞳も、暗く染まっていく。
「私も操を護るために、全力で抵抗させていただく所存ですよ」
主に乱暴者の傭兵崩れと女好きの騎士崩れに告げておく。
慣れた様子で「へいへいィ」「はいはいー」とあしらう様子を見せる部下二名。
二人とも寝床に侵入して手篭めにしてこようとした経歴があるので、割と本気で脅しておく。
宿舎へと戻り、柔らかいベッドに飛び込んで溜息。
「ううう〜〜、男は狼なのですよ〜、男性恐怖症の私には辛いですー……なんてね」
割と冗談とも本気とも取れない発言を一言。
軍師スペルビアは女官ローシェと姿を変えて、普通の女の子に戻ると、ゆっくりと睡眠を取る。
明日は忙しい。
様々な可能性について思考し、有効な策を練りながらローシェの意識は闇の中へと落ちていった。