第79話【火種と謎と、そして絆】
既に日付が変わる時刻だった。
情報を集めるため、夜を徹した作業が続けられた。
場所を応接室から奈緒の執務室へと移し、詳しい事情や情報を聞き出すことにした。
情報と交換で、総一郎たちの事件は内々に不問になった。
執務室には奈緒とセリナとラピス、加えて宰相のテセラと、革命軍所属の総一郎とソフィアが集まった。
「情報を総合するわね」
奈緒の隣りに座ったセリナが、幾つかの書類を奈緒に通訳しながら口を開いた。
文官や宰相補佐の面々を叩き起こし、詳しい情報の精度を確かめさせた。
嘘を言っている可能性もあったし、そちらのほうが望ましかったが、楽観視できる余裕は彼らにはなかった。
「ラキアスのヴァン殿下が、式典の帰り道に襲われた……というのが表の話」
「奴らは今回の事件を大きく取り上げて、宣戦布告の大義名分にするつもりだ。誰が犯人なのかを決め付けてな」
「真犯人は?」
「自作自演じゃろう?」
長椅子に座って資料を捲るテセラが、申し訳なさそうな顔で言った。
総一郎は意外そうに振り向き、そして静かに頷いた。
彼女は唇を噛み締めて言う。
「気づいておったよ。御者の者たちがヴァン殿下に向ける殺意をの……妾も彼に忠告はしたんじゃが」
「……僕はその話、初めて知ったけど」
「すまん。今回の件、妾の立場から言えば防ぐことができたはずじゃった……」
詳しい事情を鑑みるなら、テセラを責めることはできない。
護衛を付けることを申し出ることはした。それを断ったのは他でもないヴァン本人だ。
毒矢、という凶器の関連性を聞けば、例の行方不明の傭兵たちが事件に関わっていることも推測できる。
最悪の展開だ。大義名分の材料には十分すぎる。
「元ゲオルグ牛鬼軍の者が、殿下を襲った。奴らはこれも槍玉にあげるに違いない」
「……それがしたちとゲオルグ牛鬼軍は、普通の国家よりも関わりが強い、という事実があります」
「何しろ隊長本人を登用したものね」
「今回のヴァン殿下暗殺事件が、僕たちの仕業とされるのも当然か……」
もしも、これを利用してラキアスが戦争を起こしたらどうなるか。
既に起こされた龍斗が、内緒話をするように奈緒の心の中に語りかけてみた。
(……詳しいことは調べてみないと分からないと思うけど……)
(勝てると思うか?)
(無理だと思う。まだ僕たちはクラナカルタ戦でも傷が癒えているとは言いがたいし……)
戦いの日々は続いている。
悪魔の炎の件で首脳陣の中にも疲れが見えている。
単純な兵力差。兵糧武具などの物資の差。兵の質も勝っているとは言いがたい。
彼らの層の厚さは、マーニャたちセイレーン族が地方の小隊長に留まっていた、という点で証明されている。
「あの。火種はこれだけじゃなくって、ですね」
人狼族の少女、ソフィアが慣れないらしい敬語を使って進言する。
話を聞く限り、彼女は革命軍における首脳陣の一人だ、と彼女の隣りに立つ総一郎は言っていた。
総一郎について詳しい話を聞きたいが、今はそれどころではない。
「エルトリア家……と手を組んで、もう一度『アンドロマリウスの変』を起こそうとしていると、民衆に吹聴されてて」
「ふざけてるっ!!」
執務用の机がバンッ、と大きく叩かれた。
悲鳴を上げながら身体を震わせるソフィアは、若干涙目になりながら机を叩いた人物を見た。
彼女とは別の理由で身体を震わせるセリナは、吐き捨てるように言った。
「私の父を殺して王座に付いた癖にっ……わ、私の全てを奪っておきながら……!!」
「セリナ」
悔し涙を零したセリナの肩を、奈緒はそっと抱きかかえた。
怒りは分かる。全てを自分たちのせいにされたのだ。怒らないはずがない。
荒い息を吐きながら、セリナは唇を噛み締めて声を押し殺した。
涙だけは止まらなかった。
「要するに……向こうはそのつもりなんだ。僕たちを排斥するつもりなんだね」
「はい……」
「狩谷。お前らが原因というわけじゃない。ラキアスの魔王の狙いは、リーグナー地方の全てだ」
地方の覇者では飽き足らない。
魔王の地位では飽き足らない、そういうことか。
大陸の全てに。魔界の全てに覇を唱えるつもりだ、と。総一郎は静かに告げた。
「俺たち、というと語弊はあるが。ソフィアたち革命軍は、ラキアスの毒牙が他国に向けられないために戦っている」
地方全てを巻き込んだ戦争を起こさないために。
何千、何万もの命が消えるだろう大戦争の抑止力となるために。
革命軍は内乱を起こし続ける。
自国のクーデターが原因で、思い切った戦争を彼らが引き起こさないために。
「分かるか、狩谷。俺たちは抑止力なんだ。戦争を起こさないための」
「……なるほど。勘違いって言うのはそこなんだね」
「そうだ」
厳かに頷きながら総一郎はもう一度、口を開く。
革命軍の意味を。存在理由を再確認しながら、彼らの戦いの意義を説く。
「俺たちがいずれ押し切られれば。壊滅すれば……ラキアスは後顧の憂いを断って、遠慮なく牙をむく」
「私たちに援助してください……他ならぬ自国のためにも」
筋は通っている。否定の言葉は誰の口からも出てこなかった。
奈緒は最終的に宰相へと視線を向け、彼女は苦い顔をしながらも何も言わない。
止むを得ない、ということか。
思考を巡らせながら奈緒は顎に手をやって考え、やがて口を開く。
「明日には結論を出すよ。情報の証拠があれば、もっと早いと思うけど」
「暗殺されかかったヴァン殿下は、俺たちが保護している。意識不明だから、顔を確認してもらえれば」
「分かった。こっちから信頼の置ける人を派遣しておく」
「では、早速」
彼らの話では保護されたヴァンは、革命軍の隠れ家のひとつに匿っているらしい。
毒矢は殺傷力が極めて強いらしく、助かるかどうかは分からない、と総一郎は重苦しい表情で告げた。
早速今夜から、ということで人狼族のソフィアが案内をするらしい。
「ラピス。何人か近衛兵を連れてお願いできるかな?」
「分かりました」
公爵家に仕えていた彼女なら、元侯爵家のヴァンの顔は判別できる。
情報の正確性を求めるためにラピスを派遣し、すぐにでも彼女たちは執務室から姿を消した。
大変なことになったな、と奈緒は右手で頭を抱える。
平穏が続くと思っていたのに。こんなことになるなんて思わなかった。
「とりあえず、今回はこれで解散かの?」
「うん、多分。テセラ、明日に備えて休もう。特にラキアスと事を構えることになるなら、情報もね」
「承知した」
宰相も真剣な顔で頷いて、執務室を退出する。
部屋に残ったのは奈緒とセリナ、それに総一郎だ。
彼は腕組みを解くと、ポケットから袋詰めのタバコを取り出した。
怪訝そうな顔をするセリナの前で火をつけようとする教師。生徒に当たる奈緒も同じような顔をして。
「禁煙なんで」
「細かいことは気にするな。大丈夫大丈夫……」
「魔法をぶつけるよ?」
「……ちっ、分かった分かった。どうしてかこの世界では、コレの良さが伝わらんのだよな」
総一郎は諦めてタバコを袋にしまうと、ポケットに入れた。
極めて残念そうな顔をするヘビースモーカーの担任教師に、頭痛がする思いで頭を掻く。
自動販売機などここにはないが、どうやって仕入れているんだ、この男は。
彼から自家製栽培している、と言われても納得はするが。
「さぁて、俺たちの話をしようか、狩谷。そこのお嬢さんは……え、同席させていいのか?」
「何よ。何か問題があるの?」
「いや、ないが……」
冷たい声音で言われて怯む総一郎。
何故、不機嫌な顔で睨み付けられているのかが分からず、視線で奈緒に救いを求めた。
「……何か、空気読めよ、みたいな視線が気になるんだが……」
「い、いや、まあ……ね。先生が知ってるかどうか分からないけど、僕たちは今日、結婚したから」
「……………………」
総一郎の表情が露骨に変化した。
再び腕組みをし、少し険しい表情で奈緒とセリナの顔を交互に見やる。
奈緒は少し緊張した面持ちで、教師の視線に耐えていた。
悪いことをしたような気分になって、視線に耐え切れずに俯いてしまう。
「……まあ、俺ももう教師というわけじゃないから、学生結婚をどうこう言うつもりはないが……」
「いや、そういう意味では僕も学生じゃないけどね……」
「そうだな……まあ、いい。おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
総一郎はセリナのほうに視線を向けた。
邪魔をされたからか、セリナは少し不機嫌な様子で睨み付けた。
嫌われたみたいだなぁ、と僅かに苦笑いを浮かべた総一郎だが、唐突に手を合わせて拝み始めた。
「すまん、お嬢さん。無粋は承知だが、話をさせてくれ。狩谷にとっても重要な話だ」
「……むう」
頭を下げて頼まれては仕方がない、とセリナは内心で諦めた。
奈緒も色々な意味で申し訳ない気持ちでいっぱいになるのだが、今回ばかりは総一郎の話を聞くしかない。
元の世界のことに関する重要な話だ。
最後に奈緒が困った顔をすると、セリナはゆっくりと肩の力を抜いて、呆れ半分で笑った。
「いいわ。ナオを困らせるわけにもいかないし」
「……怒ってない?」
「ないわよ、ない。私もナオの元の世界の話に興味があるもの」
奈緒の語る元の世界。
魔族病で倒れた自分に、色々なことを教えてくれた。
空を飛ぶ鉄の塊や、遠く離れた場所と話せる機械などの話は新鮮で面白かった。
興味があるのは嘘ではない。まして、それが奈緒に関わる重要な話なら。
◇ ◇ ◇ ◇
「まず、無事でよかった……と言っていいものかな……」
微妙な表情を浮かべるだけに留めておく。
彼がここにいるということの意味を考えると、あまり歓迎される話ではないだろう。
炎上する学校、崩れた建物、悪魔の大群がどうしても脳裏に浮かぶ。
「確認しておくが、狩谷。お前は『あの学校』にいたのか?」
「……うん」
「突如として湧いてきた怪物たちに襲われたんだな……?」
「…………うん。龍斗と一緒に」
是非もなし、と総一郎は吐き捨てた。
予想通りの展開にくそったれ、ともう一度、忌々しげに呟く。
日曜日だった。龍斗の宿題のノートを取りにいって、偶然巻き込まれたのだ。
魔界がどういう位置づけかは知らないが。
「やはり、そうか。そうだろうな」
「先生?」
「狩谷。この世界を、お前はどういうものだと位置づける?」
「えっと」
位置づけ、とは何か。
恐らく世界が『どういう存在』なのだろうか、という予測を言えと言っているのだろう。
奈緒も考え続けていた。何度も何度も考えた。
導き出した回答をゆっくりとした口調で答えてみる。
「僕は『走馬灯』のようなものだ、と思ってます。死ぬ前に見る夢なのか、と」
「ナオ……?」
「あ、ごめんね……この世界が夢とは思いたくないんだけど……だけど」
不安げに揺れる瞳を見て、セリナはぐっと唇を噛み締めた。
初めて聞いた。彼がこの世界に不安を抱いていることを知らなかった。そのことに愕然とする。
当然だ。奈緒とて男なのだ、好きな女の前で弱みは見せたくないものだ。
彼女の縋るような視線に気づかない振りをして、奈緒は重ねて言う。
「龍斗は……ここを『地獄』と位置づけました。あるいは『天国』かも知れない、と」
「鎖倉もここにいるのか!?」
「はい」
「ここに呼んでくれ。手がかりは多いほうがいい、あいつを省く理由はないだろう?」
「来てますよ、ここに」
総一郎の顔が怪訝そうなものになる。
周囲を見渡しても奈緒とセリナの二人だけだ。まさか、妻に当たる彼女が龍斗というわけではないだろう。
苦笑いのようなものを浮かべながら、奈緒は心の中で撃鉄を落とす。
人格がかしゃり、と入れ替わる。
「俺だよ、俺。天城せんせー」
「む?」
「奈緒の心の中に魂があってな。現在は居候中ってわけだ」
「…………二重人格?」
「違うって。目を見ろ、目を。赤いほうが俺、緑のほうが奈緒。理屈は分からんから憶えて憶えて」
困惑した様子で顎に手を当てる教師だったが、やがて溜息をついて事実を受け入れる。
魔法の一端か。それとも世界特有の技術か何かか。
魔物が溢れ、魔法が発展し、魔族と呼ばれる神話上の生き物が人間のように暮らしている世界だ。
驚くべきことが多すぎて、むしろ慣れてしまったらしい。
「……分かった。そういうものだ、ということは。お前は鎖倉で、いいんだな?」
「おう。……とはいえ、考え事は奈緒のほうが適任なんで変わるぞ。気づいたことは奈緒に通訳してもらう」
人格が再びかしゃりと入れ替わる。
紅蓮色の瞳が翡翠色になり、野性的な雰囲気が穏やかなものへと変貌していく。
目つきがひとつ変わるだけで、相手に与える雰囲気はこれほどまでに変わるのか、と総一郎は感心した。
「さて。『地獄』に『天国』に『走馬灯』か……」
教師は瞳を鋭くして。
「違うな。お前たちの推測では『死ねばここに来る』という意味になるだろうが、違う。俺の結論はな」
奈緒が驚いたように息を呑む。
前提が覆るような発言だ。総一郎は指を絡ませて長椅子に座り、ゆっくりと語り始める。
「ここが死後の世界なら、先に天寿を全うしたお前らの祖父母やらがいても、おかしくないということになる」
「あっ……」
「俺はこの半年、革命軍に所属して仕事をする傍ら、知り合いを捜した」
結果は皆無だったが、分かったことがひとつだけある、と総一郎は言う。
人間の王国にも出入りし、情報を集めてみた。
半年の時間で得た結論はこうだ。
「『魔法や破剣の術が当たり前』という人物しか、いなかった。俺たちのように『何も知らない』わけじゃない」
「っ……!」
「大体、死後の世界だというのなら……人間は全員、俺たちのように突如として飛ばされたことになるはずだ」
魔界という世界の異常性を知らないはずがない。
死後の世界だというのなら。必ず大多数の人間が『ここは異世界だ、知らない世界だ』と騒いでいるはずなのだ。
魔法にも、魔物にも、破剣の術にも、魔族にも。
全てに違和感を覚える人間が相当数の人数がいて、しかるべきなのだ。
「俺の推測はこうだ。『あの学校で殺された者』だけが、この世界に飛ばされた、と」
突如として現れた悪魔の大群。
当時、あの学校にいた教師や生徒。限られた数の人数がこの世界に飛ばされたのだ、と。
事故死、他殺、自殺、病死、老衰。
元の世界にあった死因ではなく、世界に存在しなかった『悪魔』に殺されることで、輪廻転生から外れたのでは、と。
「……そんなことが」
「俺は間違いないと考えている。ここは地獄でも天国でも、走馬灯でもない。敢えて言うなら『異世界』だが」
「現実に……色々なことが起きてる。それも有り得る……よね」
少なくとも奈緒が考えていたよりは筋が通っている。
異世界か。確かにその表現がしっくりと来る。
総一郎は視線を一度セリナへと向けると、真剣な瞳を奈緒へと向けて言う。
「お前が見た『学校』での光景は、悪魔たちだけだったか?」
「えっ?」
「お前と龍斗を襲った奴らは悪魔しかいなかったか。そう、例えば……悪魔を統率する男には逢えたか?」
悪魔を、統率する者。
全く想定の範囲外の言葉に、奈緒の思考が停止する。
何だ、それは。
学校での事件は悪魔の……魔物の大群が元の世界に、偶然紛れ込んだというわけではないのか。
「なに、それ……」
「俺は見たぞ。確かに見た。奴は悪魔の大群を指揮していた、慇懃無礼な口調でな」
総一郎はゆっくりと語っていく。
悪魔たちの大群は確かに強敵だった。炎を吐く猛獣に匹敵する、と。
元の世界では奈緒と龍斗が協力して一体を撃破することはできたが、大軍の前に力尽きた。
「俺は、そいつに殺された」
教師は違うらしい。悪魔たちを分断し、翻弄して撃破していった。
彼が殺されたのは悪魔ではなく、それを指揮する男だった、と。忌々しげに彼は語って見せたのだ。
「善戦はしたつもりだけどな。奴に近づくこともできなかった。俺は殺されて、目が覚めたら……」
「異世界に、いた?」
頷いて肯定する教師。
在学中に怪物染みた身体能力だ、と聞いていたがそれほどだったとは。
天城流、という武術を編み出した、だの。熊殺しをした、だのといった馬鹿馬鹿しい武勇伝は本物だったらしい。
彼を持ってしても、手も足も出なかった『謎の黒幕』は何者か。
「最初の一週間。俺は魔物に襲われたり、明日の食べ物に事欠いたり、と。苦労ばかりだったよ」
「……僕たちは初日でセリナに拾ってもらえたから、運がよかったんだね……」
「栄養失調と疲労で倒れた俺を拾ったのが、革命軍だ」
現在のパートナーであるソフィアが世話係だったそうだ。
意識を取り戻した総一郎も困惑したのだが、一ヶ月ほど世話になって徐々に世界に慣れていった。
破剣の術、というものも教えてもらい、それを己の古武術に応用して戦う術を得た。
拳から炎や氷を宿すのは、ソフィアの魔法らしい。
「俺は元の世界に戻るために調べた。恩義もあるから、革命軍の任務にも従事したよ」
今では幹部の地位を拝借するほどだ、と総一郎は苦笑する。
革命軍の任務とはゲリラ活動だ。ラキアスの将兵と命がけの戦いも何度も経験したらしい。
仕事をこなして恩義に報いながら、総一郎は元の世界に戻る方法を探し続けた。
半年以上もの時間を使って。
「そして、俺は情報を得た。ラキアスの所蔵する国宝の魔術品の中に、異世界へと旅立つものがある、と」
あっ……と奈緒は思い至ったように声を上げた。
龍斗がテセラやラフェンサと歓談したときに、そんな魔術品の存在があることを聞かされていたのだ。
国の権威を上げるための存在しない魔術品かも知れない、と龍斗たちは言っていたが。
奈緒は振り向いた。彼の隣には王族に最も近い公爵家の令嬢がいる。
「セリナ、本当にそんなものが……?」
「……分からないわ。公爵家といっても、私は政治に関わっていないもの。当主だった父様ぐらいしか……」
「狩谷。それに鎖倉。俺がラキアスと戦い続ける理由が分かるか?」
恩義以外で総一郎が戦い続ける理由。
半年も戦えば恩義は十分に果たしているだろう。それでも戦い続ける理由、命をかける理由は。
息を呑んだ。思い至った。
全ての線が繋がった気がして、奈緒は動揺を隠せなかった。
「ラキアスが……その魔術品を使って、僕たちの世界に手を出したから……?」
異世界をつなぐ魔術品。
可能性はある。彼らが何を求めてそんなことをしたのか分からないが。
魔力を使わなければ使えないのが魔術品だ。
魔族の国の中でも『世界と世界を繋ぐ』魔術品を所有している、と言われたのは……ラキアスの国、ひとつだけ。
「逆に言えば、それを使えば帰れるかも知れん」
「…………」
「俺が戦う理由は、ラキアスの国宝だ。ソフィアに手伝ってもらってな……だが」
総一郎は訝しげに表情を曇らせた。
視線はセリナへと向けられている。困ったような、腑に落ちない顔色だった。
確認するように彼は言う。
「お前は、帰るつもりがないのか?」
「え……?」
「魔王という社会的地位も手に入れた。可愛い魔族のお嬢さんを妻に迎えた。つまり、ここで暮らすつもりだ」
元の世界に帰るということは。
魔王の地位も、セリナという妻も捨てていくということだ、と彼は告げる。
帰るつもりがないのか、と総一郎は問う。
奈緒は顔を俯かせた。答えられなかった。自分は死んだと思っていた。だから第二の人生を歩んでいた。
「…………」
帰れるのなら、帰りたいか。
家族に会いたいか。友人に会いたいか。
戦争すら身近で起こる物騒な世界と、平和を享受できる元の世界か。
帰りたい、とは言えなかった。
帰りたくない、とも言えなかった。
「……すまん、忘れてくれ。不躾な質問だったな」
総一郎はばつの悪そうな顔で席を立った。
話は終わりだ。総一郎の意図は全て伝えた。最終的な合意はできたのだ。
互いの最終目的地はラキアス。
彼らの目的の違いはあっても、全ての鍵は覇者の国が握っている。
「俺は休ませてもらう。しばらくは滞在させてもらうつもりだ、よろしく頼む」
教師はそんなことを言うと、執務室の扉を開けて退出していった。
残されたのは奈緒とセリナの二人だけ。気まずい沈黙が続き、最初と同じような寂滅が広がっていく。
言えなかった。はっきりできなかった。
帰りたいのか。帰りたくないのか。すぐに結論を出すこともできない自分が、歯痒かった。
◇ ◇ ◇ ◇
「しくじったな……」
総一郎は廊下に背を預け、険しい表情で窓に映る赤い月を眺めていた。
脳裏に浮かぶのは奈緒の顔だ。
元の世界に戻る気がないのか、と問われた時の彼は……酷く傷ついた顔をしていた。
教師失格だ。悔しげに彼はタバコを咥える。
「いくらなんでも、馬鹿なことを聞いた……ああ、畜生。すまんな、狩谷……」
悩まないはずがない。
元の世界と今の世界、どちらを選ぶかの選択を選ばせることはなかった。
両親や友人を捨てるのか。
魔王の地位と最愛の妻を捨てるのか、と尋ねてしまったのだ。本当に愚かなことをした。
「焦って、いるんだろうな」
教師はタバコを吹かしながら、廊下を再び歩き始めた。
脳裏に浮かぶのは元の世界で己を殺した、正体不明の男の顔だ。
慇懃無礼な口調。金色の髪だった。それなりに長身で、外国人だと最初は思ったものだ。
今にして思えば魔族だったのかも知れない。
「奴は……ラキアスに必ずいる。奴をこのままにしておけば、きっと……」
何者かは分からない。
革命軍に所属して半年。それなりにラキアスの上層部とも激突した。
彼らの切り札たる戦闘集団とも拳を交えたこともある。
見つからない。まだ、彼の影すら掴めない。奴の真の目的は何なのか、総一郎には想像もつかないが。
「必ず尻尾を掴んでやる。必ずな」
吐き捨てるように教師は誓った。
世界を守るため、だなどと大それたことを言うつもりはない。
元の世界には少なからず世話になった人や、守りたいと思える人々がいる。
教師が拳を握る理由はそれだけで十分だった。
◇ ◇ ◇ ◇
執務室から奈緒の私室へ。
再び訪れた二人きりだが、重い空気が二人の間に漂っていた。
龍斗は再び眠りについた。奈緒の選択を邪魔はしないつもりで、もう一度休眠をしたのだ。
選択を迫られている。それは奈緒にも分かっていた。
「……セリナ」
「うん?」
「即答できなくて、ごめん……」
情けない、と自分でも思う。
彼の優柔不断さは彼女を不安にさせたに違いない。
気にしてないように振舞うセリナだが、注意深く見れば不安げに瞳が揺れているのが分かった。
奈緒の言葉の一言一句を聞き取るために、物静かに耳を傾けている。
「ちゃんと即答しなくちゃいけなかった。僕は帰らないって、言わなくちゃいけなかったのに」
「……それは違うわよ、ナオ」
「え……?」
予想外の答えに顔を上げた。
愛しの彼女はベッドの上に腰掛けると、右足を両腕で抱える体勢になって笑いかけた。
不安なくせに、強がって。
「私から見れば父様の仇を取るか、ナオとの生活を取るか……そういう選択だもの。迷うのも当たり前よ」
「あ、いや。それは……」
「迷って当然だし、帰りたい気持ちがあるのも当たり前じゃない……強がっちゃダメよ……」
強がり、そうなのだろうか。
奈緒は唇を噛んでもう一度俯いた。そうかも知れない、と思う。
彼女の前では強い自分でありたい。男としては当然の強がりだ。誰でも持ってる矜持でもある。
微笑むセリナの隣に座る奈緒。その肩をセリナは優しく擦る。
「何のための妻よ? 夫を支えるための妻でしょ?」
「そう、だけど」
「不安も不満も教えてくれないと。言葉にしてもらわないと、何もできないわよ……助けてあげられない」
「……うん」
彼女は『妻』であろうとしてくれている。
悩みを共有してくれる存在でありたい、と言ってくれた。
汝悩めるときも健やかなときも、この女性と共にあることを誓いますか。
元の世界での結婚式の祝詞だ。
「悩んでた。色々と考えすぎてたかも知れない。いつも……」
「ナオの悪い癖よね」
「そうかもね」
笑みが零れた。
苦笑いだけど、それで心の中が楽になった。
気持ちを共有しているのだ、と思うと胸の中心がぽかぽかと温かくなった。
悩むのが馬鹿らしいと思うほどに。
「ごめん。今なら即答できるかも」
「ん?」
「この世界にいたい。セリナと離れたくない……うん、ずっと一緒だって誓ったんだ、僕たちは」
「……ん」
情けないな、と思う。
彼女に支えてもらってばかりだ。しっかりしなければ。
何度も同じことを繰り返してはいけない。
慰めてもらうのは何度目になるか。これが最後だ。もう、これで最後にしよう。
「それじゃ、もう一回誓って」
両手を広げる姿勢でセリナは言う。
言葉だけの誓いではなく、行動という意味での誓いを求めて。
今度は自然な動作だった、と思う。冷静と情熱、という相反する感覚が同居していたのかも知れない。
二人は互いを慈しむように抱き合うと、そのまま白いシーツの上に倒れた。
数時間前のやり直しを。今度は前以上に相手を愛しく思う気持ちに突き動かされながら。