第7話【私の夫になりなさい!】
「何となく、統合性は取れたかしら」
「うん。僕が起きて、歓迎の証として食事をご馳走になったところまで振り返る必要はないよね」
奈緒とセリナは向かい合う形で苦笑するように笑いあった。
がちゃり、とセリナの背後からドアのノブを回す音がして、桃色の髪の女性が奈緒たちがいる部屋へと入ってきた。
今まで席を外していたのは、主の命令で必要物資を買い求めに行っていたからだった。
護衛剣士と名乗ったラピスは見ず知らずの男とセリナの二人きりにすることを危惧していたが、主命令で撃沈した。
「早かったわね」
「主命ゆえ、急ぎました」
そんなことを当然の如く口にするラピスだったが、じろりと奈緒を睨むように視界の端に捉える。
明らかに二人きりになる時間を少しでも縮めるために奮闘したことは間違いない。
最初はどうしてそんなに嫌われているのか分からなかった奈緒だが、今の話まで訊けば理由など楽に知れる。
美しく、長い髪を少し撫でながらラピスはセリナの背後へと控えて、言う。
「お話はお済みになりましたか?」
「そうね。お互いの立場というものは理解しあったわ。後は交渉する段階というところかしらね」
「……そうですか」
ラピスは必要物資が入っていると思しき袋の中から、黄土色の巻物を取り出した。
それを恭しく机の上へと広げると、奈緒の座っている椅子の向かい側をそっと引く。
セリナはベッドから立ち上がると、そこに座る。
一連の動作が奈緒の中にある『お嬢様と執事』の関係のように見えるほど、その動作は洗練されていた。
奈緒とセリナを挟んで机があり、その机の上には広げられた巻物がある。
「……地図?」
「そうよ。このリーグナー地方の地図……ああ、ナオはリーグナー地方から説明するべきかしら?」
首肯すると、セリナはストレートに降ろした髪をそっと撫でながら頷く。
彼女の背後に控えるラピスは怪訝そうな顔をした。これは奈緒たちが別世界から来た、などの事情を知らないためだ。
セリナは人に教えるということに少し得意そうにしながら、ひとつひとつ説明をしていった。
「この魔界はね、人間と魔族の二大勢力に分かれて覇権を争っているの。東側が魔族、西側が人間ね」
「えっと、それはこの地図の東と西ってこと?」
「違うわ、まずは話を最後まで訊きなさい。質問はそのあとのほうがいいわよ?」
「むう」
窘められてしまったので、大人しく話を訊くことにする。
口を挟んで恥をかくこともないだろう、と思った奈緒は護衛剣士のあからさまな敵意に震えながらも清聴する。
誰だってあの悪魔をたった一撃でぶった切った人から敵意を向けられたら、震え上がるしかない。
「私たちがいるところが、この地図全部……リーグナー地方よ」
「リーグナー地方……」
「世界地図から言えば、魔族の領土で人間領土の前線に近いわ」
「地図全体で言えば、中央よりやや東側ということです」
「ほんとはたくさんの地方があるんだけど、そこを説明しても仕方ないから。私たちが今いる地方を説明するわね」
とん、と白くて綺麗な指を地図の上へと落とす。
リーグナー地方全体を記した地図の、更に西側の下。つまり方角的には西南の場所になる。
指は三つに分断された線引きの最も近い点をとん、とん、と叩いた。
「私たちが今いる国境の町よ」
「随分、端っこのほうなんだね……ということが、僕たちが今までいた砂漠はこの黄色い場所かな?」
「そうよ。西北の方角、荒れた大地のクラナカルタ」
セリナの言葉に申し訳ないと思いつつも、疑問をぶつける。
異世界の奈緒たちにも分かるように教えてくれているのだが、時折出てくる専門用語には首をかしげてしまうのだ。
奈緒は顎に手を当てると、男子にしては可愛らしい顔つきを少し歪めて言う。
「クラナカルタ……?」
「ああ、ごめんなさい。それは国の名前よ、このリーグナー地方には三つの国があるの。クラナカルタはその中のひとつ」
「それがしたちがいた砂漠の国が、蛮族国と呼ばれるクラナカルタでございます」
「あなた、蛮族どもと戦ったんでしょう? 分かると思うけど」
ああー、と奈緒だけでなく心中の龍斗も納得した顔を見せた。
出会い頭に追い剥ぎのようなことをしてきたゴブリンたち。あれも魔族の一員だとセリナは言う。
魔族の中では低級であるため、魔物と同じように扱う者たちもいるのだそうだ。
何より許せないのは彼らの生活習慣だという。魔族は誇り高き者として生きるのがセリナの心情なんだとか。
自らで生産するようなことはせず、他者から奪うことで生計を立てるというのだ。
(なあ、魔王ってそもそも、周りから搾取しそうなイメージがあるけど)
(固定概念、固定概念。魔族の中でそれが許せないっていうくらいだから、ちゃんとした国なんだと思うよ)
(魔王さまって名称の、俺たちの知っている殿様と同じか?)
(多分)
それを改めて訊くと、烈火のごとく怒られそうなので口にはできない。
セリナを怒らせてしまうと、控えている怖い人が今度こそ刀を閃かせてくるかも知れない。
たった一度の蹴りで五メートル以上もノーバウンドで吹っ飛ばされた経験のある奈緒としては、全力で穏便に進めたい。
「国の説明をするわね。まず、私たちのいるオリヴァースって国」
「地図の西南にあるやつだよね。何だか一番小さい国に見えるけど」
「ご名答。この国は残り二国と比べて力関係が弱い、辺境の小国なの。簡単に言えば弱い国よ」
「リーグナー地方では珍しく森が多いため、野生の魔物が暴れまわるのでございます。内には魔物、外には強国」
「なんという詰みゲー……」
内憂外患、という今にも傾きそうな国がオリヴァースだと言う。
セリナは護衛の買ってきた袋の中から、十円玉サイズの黒い塊を取り出すと奈緒たちに差し出した。
受け取って触ってみると、硬い。見た目にはチョコレートのようにも見える。
「これは?」
「魔界の嗜好品よ。甘くて美味しいからおひとつどうぞ?」
ふむ、と奈緒はいただいた黒い物体について考えてみた。
振り返るのは今日、ご馳走してもらった食事だ。宿の料理の中でも最高のものを取り寄せたらしい。
豚肉みたいな見た目に反して柔らかい肉質だったステーキがメインディッシュ。
草花の彩りが目新しいサラダと赤色のスープ。
海の幸を思わせる貝を蒸したものや、白くて丸いゆで卵のような前菜もあった。
お米がないのはまあ、当たり前かも知れない。予想よりもずっと美味しかったのだが、メニューの名前が。
『トロールの炙り肉・シャンパーユ風味』
『オルヴァース風・薬草のサラダ』
『悪魔の生き血』
『リング貝の蒸し焼き』
『コカトリス・ボールエッグ』
名前を知らなければ良かった、と溜息をついたのは別の話である。
悪魔の生き血なんて洒落が効いているが、実際にその悪魔を討伐してきたばかりである。マジで生き血だろうか。
トロールの炙り肉は上質で柔らかな味わいだったが、思いっきり砂漠で凍らせた豚の巨人の肉と見える。
リング貝やコカトリスは何の名称か知らないが、恐らくは魔物なのだろう。
魔族は魔物を食物として考えているらしいのが良く分かったが、この黒い物体はいったい何なのかを聞くべきか否か。
「……あ、ほんとにチョコレートみたいだ」
勇気を出して食べてみると、口の中に甘味が広がった。
こりこり、とした感触はアーモンドチョコレートを思い出す。これは黒い物体全体が甘い木の実のようだった。
セリナは満足そうに顔を綻ばせると、お気に入りの嗜好品を同じく口の中に入れる。
「コーマの実よ。木全体が甘くて食べられるのだけど、木の実はたくさん付いてるから量産されるの」
「……木、全部食べられるんだ」
「そちらの世界にひとつくらいなかったの? 他にも刺激的な味のするアギラの木とか、色々とあるのだけど」
「うん、食べられる木なんて訊いたことない。実なら食べられるものはあるけど」
そのうち、ヘンゼルとグレーテルみたいにお菓子の家が作れるかも。と少し平和な方向に頭が飛ぶ。
箸休めもそこそこにすると、セリナは続いて白い人差し指を地図の上に滑らせ、オリヴァースの上へと移動させる。
リーグナー地方全体では西北に領土を持つ砂漠の国へと。
「説明を続けるわね。ここが私たちがさっきまでいたクラナカルタ。私たちは専ら蛮族国と呼んでいるの」
「蛮族たちの王国、か」
「そう。他者から奪うことで生計を立てている国。オリヴァースもよく襲撃を受けてるわ。国境のこの町もね」
「隣国ふたつも、かの王国の横暴には頭を痛めているのですが……手を出せない状態が続いています」
ラピスの補足説明を受け、奈緒は何か引っかかりを感じた。
小国のオリヴァースが自国のことで手一杯なのは分かるが、最後の一国は違うはずだ。
リーグナー地方の国土の半分を占める最後の一国。国力も十分に余裕があるに違いない。
「セリナ、この国はどうしてクラナカルタの討伐に乗り出さないの?」
「…………」
奈緒の何気ない質問に返ってきたのは、苦々しい沈黙だった。
セリナだけでなく、ラピスまでもが沈痛な面持ちでしばらく言葉を発しようとはしなかった。
まずいことを言ってしまったか、と奈緒は顔を青くして冷や汗を流す。
ようやく何かの葛藤から回復したセリナが口を開いた。
「ラキアス」
「え?」
「ラキアス、その国の名前。私の故郷で、エルトリア家はその国の公爵だった」
「あっ……」
その瞬間、奈緒は彼女の言葉の裏にあるものを全て理解した。
没落貴族となったエルトリア家。王族への反乱の嫌疑を掛けられ、一族郎党が処刑された。
セリナはエルトリア家の生き残りであり、そしてラキアスを現在支配しているのは宿敵のリーガル家ということだ。
つまり、セリナにとって今のラキアスは復讐の最終目的地なのだ。
「私はね、ナオ」
「……うん」
「父様を殺したラキアスを許さない。みんなを殺したリーガル家を許さない」
奈緒は彼女の独白に対して静かに頷くしかなかった。
父を殺された彼女の憎悪が理解できる、だなんてことは言えない。それはセリナだけの憎しみだ。
安易な同意や慰めは許されない。それが空気で何となくわかった。
セリナは俯いたまま、しばらく動かなかった。何かを堪えるように肩を震わせ、ラピスはただ口元を噛み締めるばかり。
奈緒は机の上に置かれたコーマの実が入った袋に手をやると、それをセリナへと差し出してぎこちなく笑う。
「……食べよう?」
「…………ええ、ありがとう」
元はセリナが持ってきた嗜好品だったのだが、それぐらいしか思いつけなかった。
それでも彼女は目じりを拭く仕草をすると、無理にでも微笑んでコーマの実を口の中に放り込んだ。
しばらくの無言は苦痛だったけど、向こうが何かを言うまでは奈緒も黙っていることにした。
ようやくセリナがきゅっと唇を噛み締めると、奈緒の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「ラキアスは大国よ。父様とリーガル家がそれぞれのやり方で国を大きくした。リーグナー地方の覇者と言っていいわ」
「……それなのに、クラナカルタは放置しているの?」
「今はエルトリア家とリーガル家の混乱が続いているのです。ラキアスとて、自国のことで精一杯と言ってよいでしょう」
「まあ、一軍ぐらいの余裕はあるんでしょうけど。それぐらいじゃ、クラナカルタを本気で落とすまでには至らないわね」
なるほど、内乱の影響か、と奈緒が心の中で考える。
それに触発されたのか、今まで沈黙を保っていた龍斗が奈緒に向かって語りかけた。
(奈緒……正直、言っていいか?)
(なに?)
(この女、お前を利用する気満々だぞ。隠す素振りすら見せやしねえ)
(…………うん、そうだね)
それは奈緒も当然の如く感じていた。
セリナが祖国を復興させたい、エルトリア家を立て直したいという想いが伝わってくる。
何しろまったく隠そうともしていない。そのために体を捧げるとすら言ってのけている。
私怨のために行われる戦い、復讐という大義の元に行われようとしている戦乱の香りは奈緒だって感じ取っていた。
(逆に言えば、隠し事はしていないよ)
(む、そりゃそうだが)
(まあ、そうする余裕もないってことにもなるよね。とにかく、話は最後まで聞かないと)
(……そうだな。助けてもらったのはお互い様だし、飯も食わせてもらったし、裸も見せてもらったもんな?)
(……………………)
(ぎゃあああああああ、本日三回目の牢獄キャンペーン!)
不埒なことを言い出す罪人は、再び牢屋の中へと閉じ込められる。
奈緒は一仕事終わらせたかのように、ふう、と息を吐く。
「それで……リーグナー地方のことは分かったよ。僕は何をすればいいの?」
話を進めるため、奈緒は勇気を振り絞ってその言葉を口にする。
セリナは僅かに赤くなった目元を鋭くし、挑戦的な意思をもって奈緒の疑問に答えた。
それは気絶から目を覚ました僕に対して、開口一番言った言葉の焼き増しにも見えた。
「私の夫になって。一緒に国を作って、あなたはその国の王となってほしい」
プロポーズの言葉としてはあまりにも荒唐無稽な言葉だ。
奈緒はまだ十七歳で結婚できる歳じゃないと言いたいのだが、魔界においてそんな法律は存在しない。
しかも形だけの夫婦になれ、という生易しいごっこ遊びではない。
共に戦乱の渦の中へと飛び込み、力づくで王国を打ち建てて王となり、最終的には子を為していくまでに至る。
「私は手始めに小国のオリヴァースを落とし、その兵力を持ってクラナカルタを打ち破り、最終的にはラキアスを倒す」
決意と覚悟がそこにある。
弱い国を倒して力を得ていき、順当にクラナカルタを落とせば国土の面ではラキアスと互角になれるだろう。
そのために奈緒の力を貸して欲しい、というのだ。
奈緒の力。五色の魔法を操る異端としての能力をもって、セリナ・アンドロマリウス・エルトリアを押し上げて欲しい。
「資金ならある。父様が私に持たせてくれた五万セルパ……傭兵や兵を雇えるほどのお金もあるの!」
セルパがいくらほどの単位になるのか、奈緒には分からなかった。
だから質問をするという意味で挙手した。
「一セルパってどれくらいのお金なのかな。えーと……缶ジュース、じゃ分からないだろうから……」
ううむ、とちょうどいい例をあげたい奈緒は唸る。
やがて眼前にあったコーマの実を拾い上げた。これがチョコレートのようなもの、と考えて。
「コーマの実を買うにはいくら必要なの?」
「お二人が食べているコーマの実は十二個入りで三百イルサです。一セルパで払えば、七百イルサが返ってきます」
「ええと、セルパとイルサ……うん、なるほど。人が一日で生きていくにはどれくらい使うのかな?」
「個人差はありますが、農民が一日に生活するためには……三人家族が、五セルパといったところでありましょうな」
納得する奈緒だったが、そこで心の牢獄から悲鳴のような声が聞こえた。
誰かの声など考えるまでもなく、龍斗のものだ。
(奈緒ー、奈緒先生ー! 俺、分かりません!)
(えっとね……要するに、この世界にはセルパとイルサってお金の単位があるんだよ。僕たちで言えば円だよね)
(ふむふむ)
(で、これは何となくの感覚なんだけど。イルサを小銭、セルパをお札と考えてみて)
三百イルサが三百円。一セルパが千円。
三人家族が一日に生活していくには五セルパだから、五千円といったところだろう。
つまりセリナの所持金である五万セルパ……日本円に直せば五千万円もの大金になるのだ。
(そういや、ここの宿って最高級で三十セルパだぜ……?)
(一泊三万円か……人数じゃなくて、部屋ひとつってことだからね。まあ、高いか安いかで言えば高いよね)
(え、じゃあコーマの実って三百円? やっぱ高いぜ物価。つーても確かにこれだけあればいけるのか……?)
(………………)
龍斗の問いかけに奈緒は答えなかった。
ただセリナの言葉を聴き、それを情報として取りまとめ、吟味することに終始していた。
椅子に座ったまま腕組みをし、眉を寄せながらセリナの言葉を受け止め、それもまた判断材料としていく。
「あなたが承諾してくれるなら、成功報酬はリーグナー地方の全て。魔王の覇者としての地位よ」
魔王としての地位。
国と富と地位と名誉、およそリーグナー地方の全てを手に入れる。
それがどれほど魅力的なことかまでは奈緒には分からない。
彼女が欲しいのはリーガル家の首級と、そしてエルトリア家の名誉だけということになる。
「生憎、今の私で前払いできるものは少ないわ。だけど必要というなら何でもする、私だけでできることなら何でも!」
それは体を捧げるという意味だ。
彼女の目には五色の魔法というものは本当に魅力的に映るらしい。
奈緒は知らず知らずのうちに生唾を飲み込んでいた。
言葉の意味を咀嚼するうちに、顔が赤くなっていく。冷静に考えれば考えるほど身体が熱くなっていく。
「お願い、あなたの力を貸して。私にはあなたが必要なの……絶対に叶えたい願いが、あるの」
立ち上がったセリナが奈緒に向かって白い手を伸ばす。
その手を取れば、奈緒は戦乱へと巻き込まれていくだろう。戦場へと、殺し合いへと連れて行かれることになる。
死ぬことにもなるに違いない。普通の生活なんて到底望めないだろう。
だが、それを許容しても十分すぎるほどの報酬の数々。奈緒の欲望にも似た感情が刺激されるのも無理はない。
天秤は確かに揺れていた。奈緒は悩むことさえ愚かしいことだと気づきつつも、確かに迷っていた。
「お願い、ナオ。私の夫になりなさい!」
告げられる宣告のような懇願。
それは命令のようにも見えて、慈悲を求める嘆願にも見える。
一切の音が奈緒の中で掻き消えた。
決死の表情のセリナも、険しい表情のラピスも、そして心の牢獄の中に幽閉された龍斗も何も言わない。
全員が狩谷奈緒の決断を待っていた。彼の選択を待っていた。
彼は今までのことを十分に吟味し。
己の願望と欲望と切望を確かに確認し。
やがて決断したかのように翡翠色の瞳をセリナの赤い瞳へと重ねて。
狩谷奈緒が出した答えを口にした。