第66話【悪魔の炎2、最低限の犠牲】
セリナの容態が急変した。
定期的だったはずの熱病の症状が治まらず、徐々に体温が上昇していくのだ。
氷を大量に入れた水風呂に入れることで応急処置は施したが、未だ危険な状態にあるらしい。
身体の内側にある魔力が、宿主を燃やし尽くそうとしているのだ。
「……容態は?」
「芳しく、ありませんっ……」
深夜、という時間帯。
それにも関わらず、城の中は蜂の巣を突付いたような騒ぎとなった。
首脳陣は当然のように集結していた。
誰もが表情に焦燥感を感じさせ、無力に打ちひしがれて俯くばかりだった。
「今夜が、山になるかもしれません、お覚悟をっ……」
残酷な現実。
告げられたのは限り無くゼロに近くなった制限時間。
一人の少女が現在進行形で悶え苦しんでいる。
制御しきれない魔力が彼女の身体を炙り、熱し、溶かし、犯していく。
灼熱の地獄の癖に、苛立たしいほどの冷たい現実が力無く項垂れる首脳陣たちを包んでいく。
「最善は尽くしますっ、絶対に諦めませんっ……だから、希望を強く持ってくださいっ」
切羽詰った治癒隊の言葉に、表面上は力強く頷いた。
だが、あまりにも絶望的な状態だ。
手は尽くした。
資料室を漁り、他国や民衆たちに情報提供を求め、様々な魔術品の可能性も当たった。
オリヴァースの魔王カリアスも最大限の支援をしてくれた。
最善は尽くした。ただ、単純に打つ手が無かった。
「…………」
「……、」
無言が続く。
地獄のような沈黙が続く。
寂滅が世界を支配しているような錯覚に陥る。
奈緒は力無く俯いたまま、いるかどうかも分からない神様に祈りを捧げるしかできない。
「どうして、こんなことになってしまったのかな……」
小さく呟かれた言葉があまりにも虚しい。
苦しんでいるセリナの隣りに控えることも許されず、こうして部屋の前の廊下に立ち尽くしていた。
虚ろな瞳は奈緒だけではない。
彼女を守ることを至上としていた護衛剣士は、疲れ果てた表情で目じりの涙を拭った。
「悔しいです……」
「ラピスよ、少し休め。お主といい、ナオといい、根を詰めすぎじゃ」
分かっている。
そうしたほうがいい、ということも分かっている。
だが、二人とも小さく首を振るだけだった。
大切な人が苦しんでいるのに、安眠を貪るような真似はできなかった。
テセラもそれを理解している以上、それ以上のことは言えない。蔓延した虚無感が絶望を漂わせる。
その時だった。
かつ、かつ、と足音。
誰もが自然と顔を上げた。
兵士たちには首脳陣以外、ここは通すな、と命令している。
この場にいる首脳陣。奈緒、ラピス、テセラ、ラフェンサ、ゲオルグの全員が揃っている。
報告の兵士か、と思考したが、すぐに違うと断定した。
奈緒の視線は彼女たちの足元に。挑発的な服装と規律正しい衣服という、相反した格好の二人がそこにいた。
「道を。開けてください」
彼女は恐れ多くも、そんなことを口にした。
長い青髪と眼鏡が特徴的な女性。裏切り者の名を冠す、直接的な元凶の一人。
ユーリィ、と誰かが呟いた。
背後には、セリナが魔族病に感染した元凶の一人であるマーニャが、唇を引き締めて追従している。
「よくも……」
ぽつり、と呟かれる声。
怒りすら内包した怨嗟が震える声色に込められる。
桃色の髪が般若のように乱れ、袴姿の剣士は今にも斬り捨てんばかりの眼光を向ける。
この場に奈緒たちがいなければ、問答無用だったかも知れない。
「よくも、それがしたちの前に姿を現せましたね。誰のせいで、お嬢様が苦しんでおられると思っているのですか……」
激情を抑えて、抑揚のない声で糾弾する。
本来なら恨み言の類は禁止されていたが、誰もラピスを咎めることは出来なかった。
彼女の言葉が、自分たちの言葉と同じことだと知っていたから。セリナの窮地に怒りが抑えられなくなっている。
ギリッ、と歯を噛み締め、そのまま砕いてしまいそうなほどの悔恨の表情を浮かべて、ラピスは叫ぶ。
「答えて……答えなさいッ!!」
彼女たちは何も答えられない。
反論する材料など、何一つなかった。全部が自分たちのせいだった。
本来なら生きていることすら、おかしい。ラピスは言葉にしなかったが、裏に秘められた意味は感じられた。
従者の表情が悔しそうに、親を亡くした子供のように歪む。
「いやだ……お嬢様まで喪うなんて、嫌だ……それがしには、もう……お嬢様しか、いないのに……」
それが、ラピス・アートレイデの本音。
己の存在理由すら、主に依存していた剣士は悔しそうに言葉を搾り出した。
護る、と決めたのに何も出来ない。
マーニャたちを怨みたいのではない。ただ、単純に……護りたいのに、何も出来ない己の力量の無さに腹が立つ。
「親に捨てられ、拾ってくれた旦那様を内乱で亡くし……この上、お嬢様まで奪われるなんて、嫌だぁ……」
悲痛な叫びが廊下に響く。
弾劾は既に形を成していなかった。
元より、ラピスも彼女たちを責めたいわけではないのだ。
ただ悔しくて。ただ哀しくて。ただ苛立たしくて。ただ腹立たしくて、子供のように泣き叫んでいるだけ。
「助けて……神様……誰か、お嬢様を救ってください……っ……」
我慢の限界だった。
十八歳の少女には重過ぎる別れの数々。
彼女にとってセリナという主は最後の希望だったのだろう。
詳しい経緯なども知らない者たちでも、ラピスの悲痛な祈りの意味を知った。
ユーリィは。そしてマーニャは、彼女の悲哀を深く、深く胸に刻み込んで。
「救わせて。ください」
冷静沈着な彼女が。
力強く。頼もしいほどに決意のこもった言葉で。
「方法があります。魔族病に対する特効薬。セイレーン族に脈々と伝わる。秘術が」
ざわざわ、と一気に周囲がどよめいた。
絶望に浸っていた周囲の面々が、最初に何を言われたのか分からないかのように目を瞬かせ。
意味を理解し始めると同時に、虚ろな瞳に生気が宿り始め。
奈緒は唇を真一文字に結んだまま、決死の表情で。
「救える……の?」
「ボウヤとお姉さん。それと、ユーリィの魔力。三人分の力があれば……」
引き継ぐようにマーニャが言う。
気楽でもなく、おちゃらけているわけでもなく。
むしろ、死刑執行を前にした罪人のような覚悟と決意と不安を混ぜ合わせた表情で。
「セリナは救える。『最低限の犠牲』でねん」
◇ ◇ ◇ ◇
部屋は熱気に包まれていた。
急患の熱病を何とか冷ますために、リィムを始めとした治癒隊が水魔法や氷魔法を行使する。
ベッドに横たわった彼女は痛々しいほど荒い息を吐く。
白いはずの柔肌が朱に染まっていて、一刻の猶予もないことを純然たる事実として告げていた。
「ま、魔王様!? まだ容態が落ち着いておりませんっ、外でお待ちを……!」
「リィム、ちょっとごめんね」
「わっ、わわわっ、マーニャ様!? どーして治療の邪魔をするのですかっ! はーなーしーてーっ!」
「ごめんなさい。リィム。魔族病の治療法が見つかったんです」
ユーリィの一言で同じように場が騒然となった。
リィムはマーニャに抱きしめられるような形で、ぽかん、とした表情になりながら首を傾げる。
背後の奈緒に目配せをすると、困惑した表情で奈緒も頷いた。
真実かどうかは分からない。
ただ、他に打つ手はない。藁にも縋る思いで奈緒は治癒隊のメンバーに退出するように求めた。
「この術式はセイレーンの秘術らしいから。門外不出……だから、退席してほしい」
「……ほ、本当に助かるのですかっ?」
「…………」
リィムの疑問はもっともだ。
奈緒も全く同じ言葉をユーリィたちに投げかけたい。
詳しい原理などは時間がないから、という理由で説明を断られている。
「ああ。リィムだけならいいわよん。その子は私たちにとっても友達みたいなものだしね」
「確かに門外不出ですが。成功したかどうかの正確な判断は。本業のリィムをお願いしたいです」
「わ、分かりましたっ……」
「ええと……」
奈緒は頬を人差し指で掻きながら首をかしげた。
首脳陣の中で部屋に入ることを許可されたのは、奈緒とラピスの両名だけだった。
奈緒は当然、これから始める儀式か何かで魔力を装填するために必要だということらしい。
唯一、この場に関係ない女剣士は鋭い瞳で裏切り者たちの動向を探っている。
「二人とも。分かっているとは思いますが、もしも妙な真似をすれば……」
「分かっていますが。妙な真似の判断は。実質的な危害が加えられる場合のみにお願いします」
「儀式はちょーっとだけ、『妙な真似』に抵触しそうなのよねん」
「…………」
ラピスの役割は裏切り者二人への警戒だ。
逃亡するために一計を案じた可能性もあるため、セイレーン族に相性の良いラピスが控えている。
セリナと最も親しい人間としても、ラピスがこの場に立ち会うことに問題はない。
こうして、この場には奈緒とラピス、ユーリィとマーニャ。それに患者のセリナと医者のリィムを加えた六人が残った。
「それで、僕は何をすればいいの? 魔力を使うって聞いたけど……」
「はい。まずはわたくしとマーニャ、それにナオ殿の三人の間に連結を繋がなければなりません」
「連結……?」
「魔力を受け渡しが出来るように、ってことよん。一番簡単な方法はぁ……」
マーニャが素早く動き、奈緒の右腕を両手で包み込む。
女性らしい柔らかさと接近することで感じる香水の匂い、更には至近距離に広がる豊かな胸部に身体が固まった。
えっ、ええっ、と焦り始める奈緒に対し、マーニャはくすくすと笑う。
「手を繋ぐこと。これでの受け渡しは微弱なものだけど、お姉さんたちの連結についてはこれで十分ね」
「な、なるほど……それじゃ、ユーリィとも手を繋ぐんだね?」
「いいえ」
ユーリィは相変わらずの無表情のまま、首を振ると。
つかつか、と熱病に魘されるセリナに近寄り、紅潮した彼女の肌を何度か撫でて感度を確かめる。
一瞬の思考の後、何を思ったのか、ユーリィはセリナの肢体を隠すタオルを剥ぎ始めた。
ぶはっ……と突然の奇行に噴出す奈緒を尻目に、あっと言う間にセリナの身体は一糸纏わぬ姿となる。
「な、なにやってるの!?」
「必要なことです。彼女とは既に身体を重ねているのでしょう? いい加減に免疫くらい……」
そこまで言って、言葉が途切れた。
奈緒が凄まじく気まずそうな表情で目を逸らしている姿を目撃したからだ。
数秒の無言で、この場にいる全員が魔王と皇后予定の少女の間に肉体関係がないことを悟る。
ずり下がった眼鏡を改めて上げ直し、ユーリィはこほん、と場を仕切りなおす。
「わたくしとマーニャ。それにナオ殿の間の連結は手を繋ぐ程度の面積。肌に触れていれば結構です」
「う、うん……」
「ただし。誰か一人が患者にも連結しなければなりません。この場合の誰かはわたくしになります」
「ユーリィは氷使いだからねん。炎と相殺させて体調をコントロールしてもらうの」
なるほど、と説明を受けた奈緒は唇に指を当てて情報を整理した。
患者のセリナを中心として、三人の医者が魔力の回路を繋げてお互いをフォローできるようにする。
その後、何をすればいいのかは分からないが概要はそんなところだろう。
と、そこで部屋の中の熱気に当てられたのか、ユーリィがピリッ、としたスーツを脱ぎながら説明を続ける。
「それともうひとつ。直接。患者と連結する者はもっと広い面積。触れ合わなければなりません」
「……広い面積? 手を繋ぐよりも、ということですか?」
「正解よん、ラピス。一番重要なのは、セリナとユーリィの直接的な繋がりなの。お姉さんたちはそれを補助するってわけ」
マーニャの補足を受けて奈緒はそういうものか、という感想を受けた。
教師服のようなスーツをだるそうに放り投げる。
僅かに奈緒の顔を嫣然と眺めて、ユーリィは更に薄い藍色のスカートに手をかけた。
呆然としたまま動けない唯一の男性、奈緒が止める間もなく、そのままスカートが引き下ろされた。
セリナに負けないぐらい白い肌。
まだ少女らしさが残っているセリナとは違い、大人の色気を漂わせる眩しい太股とは正反対の黒い下着が眼に映る。
「え、ちょ、ちょっと……!?」
「ななな……!?」
「うふふ。ボウヤもラピスも固まらないの。これはぁ、必要なことなんだからねん?」
ユーリィは足に引っかかっていたスカートをもどかしそうに脱ぎ捨てると、更に黒いシャツにも手を伸ばす。
この場に男性がいるにも関わらず、相変わらずの無表情も変わらない。
あっと言う間に上下の黒い下着姿になった蒼髪の美女は、マーニャとは違って細身でスレンダーな体型だった。
悩ましそうに一度、ふう、と息をつくと、驚くべきことに黒のブラジャーまで手をかける。
「ちょっと待って! それ以上の必要はないんじゃないかな!?」
「成功率は一割でも一分でも一厘でも高いほうがいい。下着一枚に泣くようなことがあれば。泣くに泣けません」
「む、むう……」
「ご安心を。わたくしは気にしません。今はセリナの命を救うことだけを考えてください」
窘められてしまっては何も言い返せない。
急激に居心地が悪くなっていくが、彼女の言うとおり何を差し置いてもセリナの命を救わなければならない。
決して大きくない胸部を隠す黒い障害物が取り払われ、眩しい肢体がさらに白く光っていく。
奈緒は武士の情け、とばかりに全力で目を逸らした。
恥ずかしがる純情少年の反応を知ってか知らずか。
ついには最後の一枚を脱ぎ捨てたユーリィが局部を手で隠して告げる。
「接触の面積は可能な限り。これでセリナの魔力を制御できます」
「ただし、セイレーン族並みの魔力がこの儀式には必要なの。もちろん、患者のほうも同じだけ、ねん」
「な、なるほど……二人はセイレーン族だし、セリナも魔族病の影響で魔力が昂ぶってる」
「ナオ殿……魔王様も、常識はずれの魔力を持っている」
さすがに一糸纏わぬ姿は羞恥心をくすぐるのか、ユーリィの頬にも朱が見える。
わたわた、と若干慌てた様子でリィムが毛布を取ってきた。
儀式が終わった後の用意らしい。
部屋には全裸の女性が二人。露出の高い女性が一人。加えて、女性が二人。
ただ一人男性の奈緒は誰にも負けないくらい顔を真っ赤にしながらも、今はセリナを救うことだけを考えることにする。
「では。始めましょう」
「ボウヤ。あなたは片方の手でお姉さんの手を。もう片方の手はユーリィの身体に触って」
「え、やっぱり触るの……?」
「触るのは何処でも構いません。連結していただければ。後はわたくしがナオ殿の魔力も操作します」
何処でもいい、と言われて困るのは十六歳の少年のほうだ。
眼が自然に白い裸体へと向かってしまうのだが、石のような精神を持っている、と思い込むことでやり過ごす。
結局は彼女の肩を掴むことにする。
ある程度の打ち合わせが終わり、ユーリィが万感の思いと共に告げた。
「術式を。開始します」
その言葉を合図にして。
ユーリィはベッドに横たわるセリナを押し倒し。
二人の艶やかな肢体が密着され、奈緒とマーニャが連結のためにユーリィの肩を掴んだ。
◇ ◇ ◇ ◇
まずは上がり続ける体温の調節だった。
身体を触れ合わせ、そこから氷の魔力を注入する。
用途は単純に冷却。悪魔の炎を鎮火するまでには至らないが、高熱を沈めることができる。
今のユーリィの身体は人間大の氷枕のようなもので、冷たさが触れている肩から伝わってくる。
苦しげに荒い息を続けていたセリナの表情が、徐々に和らいでいく。
「あ……ん……」
「<氷結。凍結。安らぎの薄氷。包み込む氷の牢獄よ>」
「ぐっ……」
途端に違和感を感じた。
奈緒の身体から力が抜けていくのだ。
採血される感覚と良く似ていた。これが魔力を吸い取られていく感覚だ。
奈緒とマーニャ、二人の魔力を行使して術式を組み立て、セリナの熱された身体が癒されていく。
「……セリナ」
「まだ応急処置の段階です。油断なさらぬよう」
「うん……」
厳しい口調で諭され、奈緒も魔力供給に力を注いでいく。
単純な魔力の量はマーニャから。氷という方向性は奈緒の魔力回路からユーリィへと流れていく。
一番重労働なのは全員の魔力を総括するユーリィだが、マーニャも辛そうだった。
マーニャの場合は雷の属性が混じらないように、無色の純然な魔力を供給しなければならないのだ。
雷の因子がユーリィへと流れれば、たちまち儀式は失敗に終わってしまう。
奈緒の場合は氷の魔力だけを放出し続ければいいので、そういった細かい魔力操作は不要だった。
(悪魔の炎は、ユーリィの身体を通って……お姉さんの元に流れる)
親友の処置を見ながら漠然とマーニャは考え事をしていた。
今後の展開の確認だ。
魔族病の元凶を『悪魔の炎』と名付けていた。
セイレーンの秘術によって吸い取られた悪魔の炎は、マーニャが引き受けることになっている。
(未練は、ない。後悔はたくさんあるけど、ね)
自分の目では見られない幸せを幻想した。
走馬灯のように流れる人生の思い出。辛いことが大半を占めていた。
石を投げられた子供時代。生きるために何でもした少女時代。軍の歯車となって復讐に生きた現在。
楽しくない過去がほとんどだったけど、この一ヶ月は本当に楽しかった。
今までの人生とこれからの人生の総てを投げ打ってでも取り戻したいぐらい、暖かい思い出だった。
(だから、未練はない。友達がいたし、ユーリィがいた。最後は本当に満足な日々だった)
眼下では遠慮なく魔力を吸っていく裸体の親友。
術式は順調に作動した。
朱に染まっていたセリナの肌が、ゆっくりと元の白さに戻っていく。
辛そうに顰めていた表情が、いまや安らぎすら感じられるくらいの穏やかな表情へと戻っていく。
「凄いっ……凄い凄いっ!」
「あと少し……!」
「魔力を逆算。探索を開始……元凶を発見。コード『悪魔の炎』を発見。搾取します」
奈緒やリィムの希望に満ちた声。
固唾を呑んで見守るラピスの表情からは険しさが鳴りを潜め、両手を組んで祈りを捧げている。
苦しげに呻くユーリィの様子を感じ、いよいよか、とマーニャは身構えた。
連結したユーリィとマーニャの回路を通じ、悪魔の炎はケラケラと哂いながら自分の身体を燃やし尽くすだろう。
「搾取―――――うぐっ。完了……!」
入った。
悪魔の炎の摘出に成功した。
苦しげに呻くユーリィの反応からマーニャは悟る。
頑張れ、ユーリィ。苦しいのは自分へとバトンを繋ぐ一瞬だけ、と。
そう、思っていたのだ。
間も無くくるだろう衝撃に備え、身体を硬直させていたマーニャが違和感に気づく。
「…………、」
「……え?」
反応がない。
予想されていた衝撃が来ない。
連結が遮断されていることに気づくまで数秒の時間が掛かった。
たった数秒間が全てを分けた。
「っ……っ……!!」
「わっ……!」
「きゃあっ!」
ユーリィの白い身体が突如として動いた。
素早い動きでセリナから起き上がり、猛然とリィムの毛布を奪い取る。
当然、彼女の身体から手を離したマーニャは悪魔の炎を受け取ることができない。
困惑したマーニャを尻目に、ユーリィは変わらぬ無表情で言う。
「これで。セリナの命は。助かるはずです」
「ど、どういうことなの、ユーリィ……!?」
ずっと望んでいた言葉が告げられたにも関わらず、場は騒然とした。
悪魔の炎は今もなおユーリィの魔力回路の中に渦巻き、誰かを燃やし尽くそうとしている。
状況を把握できない奈緒たちを置いてきぼりにして、二人のセイレーン族が火花を散らす。
「その『最低限の犠牲』はお姉さんが引き受けるって言ったでしょう!?」
「ええ。マーニャは」
彼女は薄茶色の毛布を器用に巻いてローブのようにしながら、微笑んだ。
無表情がほとんどだった彼女にしては珍しい感情の変化。
慈しみの表情にも見えた。
死を前にしてなお微笑む聖女のようにも、見えた。
「そういうことにしないと。納得しないでしょうから。この方法を。迷ったでしょうから」
「ユーリィ、なんで……!?」
「分かりませんか?」
その会話の意味を奈緒たちは理解できなかった。
最低限の犠牲、とマーニャは言っていた。その意味を深く考えるだけの余裕はなかった。
彼女たちは何を巡って争っているのか。
どうしてユーリィの表情がこんなにも優しげなものになっているのか。
「何故かと言うとですね……」
悪戯が成功した子供のように。
死を目前に控えた病人のように。
額から玉のような汗を流し、肩をがくがくと震わせながらユーリィは笑う。
痛々しい笑みで、親友に語りかける。
「マーニャがセリナという友達に死んでほしくないと。そう思っているのと同じように」
歌うような口調のユーリィが歩を進める。
目的は部屋に取り付けられていた窓。赤い三日月が哂うように上空に鎮座する。
マーニャは彼女を追いかけようとして、がくり、と膝を突いた。
想像以上の魔力を消費していたのだろう。満足にユーリィを追い縋ることもできず、その言葉を聴くことになる。
「わたくしも。マーニャに死んでほしくない」
簡単な話だった。
単純な物語に過ぎなかった。
想いは同じだったのだ。友達を救いたいという想いは。
ただ、その対象がお互いに違っていた。
二人の友達を救うためには、文字通り誰か一人が犠牲にならなければならないのだ、と。
その一人は、自分でなければならないのだ、と。
「待ちなさい……ユーリィ、あなた何を!?」
「普通の幸せを。普通の生涯を。復讐ではなくて。マーニャが笑っていられる未来を。期待してます」
別れの言葉だった。
臨終の間際。悪魔の炎を抱えた女が優しく微笑み続けた。
親友の幸せは『復讐』ではなく、『普通の幸せ』にあると悟ったから。
復讐に囚われている自分は親友にとって邪魔な存在だと、思い至ってしまったから。
「さよならです。マーニャ。わたくしにとって。あなたはお姉さんのようで頼もしかった」
遠い光景を見るような瞳。
心の中に残ったユーリィの中の『普通の憧憬』に残る記憶。
歌を歌い続けていた少女時代。
困った顔をしながらも、いつも頭を撫でてくれた、一番大好きな家族の笑顔が脳裏を過ぎった。
「あの日に喪った……大好きな姉さんのようで……とても。嬉しかった」
ユーリィは窓を破ると、そのまま魔法で氷の階段を作り出す。
特性が『牢獄』なので不恰好な階段になったが、四階という二十メートル以上の高さを飛び降りた。
手を伸ばしたマーニャは、彼女の影すら掴めない。
最期に残された言葉が彼女の胸の中に去来し、初めて人前でマーニャは涙を流した。
彼女は。
罪人の代わりに死ぬつもりなのだ。
恐らくは自分と同じ思い。友達を救いたいという願いを叶えるために。
「なんて馬鹿なことを……ユーリィ……!!」
悪魔の炎を摘出した。
誰もが救いたいと願った少女の命を救うために。
犠牲になろうとした友達の命を救うために。最低限の犠牲、という役割は誰にも渡さない。
女の嗚咽が響き渡る中、ユーリィ・クールーンの覚悟が示された。