第65話【悪魔の炎1、急変】
深夜。
真っ赤に染まる三日月は嘲笑のようだった。
日に日に募っていく焦燥感を胸に秘めて、首脳陣は今日も働き続けた。
魔族病の治療法は見つからない。
弱っていく彼女を悔しげに見つめながら励ますことしかできない。
彼女のことを大切に思う者ほど、その事実に打ちひしがれて、酷い形相となっていくのだ。
「…………」
彼女は一番顕著な例だった。
桃色の長い髪を後ろに纏め、袴姿に健康的な肢体を覆う女剣士。
誰よりも病の床にある主の傍に控える、護衛剣士。
先日、エルトリア魔族国の近衛隊長に内定された少女の名は、ラピス・アートレイデと言う。
「……っ……」
長い廊下を歩く彼女の足取りは不安定だった。
疲れ切った表情は幽鬼のよう。元々、生き生きとした表情というわけではないが、今は特に酷かった。
目の下にある黒い痣は寝不足を示し、虚ろすら感じさせる瞳は病人のようだ。
一歩一歩すらが不安定で、今すぐにでも倒れてしまいそうな身体を振り絞り、今日もラピスは主の世話をする。
自分の身体など、どうでもいい。
お嬢様を。お嬢様を、誰か助けてください、と。声にならない悲鳴を心の中で上げ続けている。
(ああ……旦那様、お願いです……お嬢様を連れて行かないでください……)
あまりの疲労に幻覚すら見えるのか。
宙に手を伸ばしながら、親に縋ろうとする子供のような瞳で言葉を紡ぐ。
父親代わりだった魔族公爵の影を掴もうとして、失敗する。
揺ら揺らと揺れる身体はヤジロベエのようで、まるで狂人のような形相を浮かべてラピスは呟く。
「それがしには……お嬢様しか、いないのです……それがしの生き甲斐は。存在価値は……お嬢様、しか」
誰のせいだ。
主が一体、何をしたというのか。
何故、お嬢様が苦しまなければならない。
どうして、従者である自分に罰が降り注がないのだ。
彼女の痛みも苦しみも絶望も、全てはこの身に降り掛かれば良かったのだ。
自虐的な思考とグルグルと回るばかりの悲鳴を心の中に隠しながら、ラピスは歩を進める。
「おっと」
誰かにぶつかった。
温かくて逞しい胸板の感触に、ラピスの目が見開かれる。
黒髪に童顔の顔の男性がいた。
見た目は己が仕える魔王と同じ姿だが、紅蓮色の瞳を見て、ラピスが僅かに溜息をつく。
「……リュートですか……こんばんは……」
「疲れてるみてえだな、ラピス」
生気すら感じられない彼女の鼓動に、龍斗は頭を掻いた。
今のラピスはただの人形のようだった。
龍斗に対して怒鳴り散らしたり、頼もしく刃を翻したり、説教を続けるような少女ではなかった。
魂が吸い取られてしまったのか、とすら思ってしまう。
「親友もそうだったけどさ、少し休めよ。まったく眠ってねえだろ」
セリナが魔族病と診断されて十日間ほどが過ぎたが。
献身的な介護を続けるラピスは、今日に至るまでほとんど眠っていない。
三日に一時間ほど意識を失ったりすることがあるぐらいで、とにかく睡眠を取ろうとしない。
ラピスは弱々しく龍斗を見上げると、力無く首を振った。
「眠れなくて……」
何度も繰り返された言葉に、龍斗の眉根が寄った。
いい加減にしてほしい。心配する相手がこれ以上増えるのはごめんだった。
ラピスまで体調を崩してしまっているし、もしもセリナが助からなかったら……彼女まで後を追ってしまう気がする。
半ば確信にも近かった。嫌な予感がしてしまう。
「お前、いい加減にしろよ……お前まで共倒れしちまう。何の意味もなく、自分を追いこむんじゃねえ……!」
「それがしは別に……」
「自分を追い込んで、苦痛の肩代わりでもしているつもりかよ! 自己満足も大概にしやがれ!」
龍斗が彼女を叱責するのは初めてだった。
この世界に来て、いつもラピスに説教をされた。色々なことを教えてもらった。
自分の生き様から、世界の生き方まで教えてもらった。
そんな彼女が潰れていく様子が、堪らなく嫌だった。初めての叱責に、それでも彼女は首を振るばかりだった。
「寝てしまったら……起きたときにお嬢様がいなくなってしまう気がして……」
「奈緒も同じようなこと言ってたな。今は、無理やり休ませているけどな」
とんとん、と胸を親指で叩く。
いつもの軽薄な笑みを見せてやるが、ラピスからの反応は無かった。
龍斗も虚しくなって、意図して浮かべた笑みを消す。
自分ではどうすることも出来ないことを悟った龍斗は、俯いたままの女剣士に吐き捨てるように言った。
「そんな死にそうな顔で、セリナの世話をするのかよ」
主の名前を出して、ようやく反応らしい反応を返した。
居心地が悪いかのように顔を背けると、悔しそうに唇を噛み締める。それで終わりだった。
ラピスは龍斗の胸板を押して道を空けさせると、そのまま長い廊下の続きを歩き出す。
「……失礼します。お嬢様のために、水風呂のご用意をしなければならないので……」
「…………」
諦めたかのように龍斗は嘆息した。
強引に寝かせてやるつもりだったが、それも無駄だと悟ったからだ。
主からの命令だろうが何だろうが、無駄だろう。ラピスも冷静な思考が出来なくなり始めているのだ。
ラピスの桃色の髪が闇の中に消えていくのを眺めて、龍斗はもう一度、吐き捨てた。
「……ったく。どいつもこいつも、自分をもっと大切にしやがれってんだ」
その呟きも夜の風に流されて消えていく。
お互いを気遣う言葉でさえ、何処までも虚しくなるばかりだった。
◇ ◇ ◇ ◇
「魔族病。とは」
何千もの本を貯蔵する資料室。
すっかり彼女たち二人の部屋になってしまった心持のそれを眺めて、マーニャは頷いた。
眼前ではピリッ、とした服装に身を包んだユーリィ。
学校で言う教諭のような女性。社長秘書のイメージすら漂う眼鏡のユーリィは、講義を始めた。
「身体の中の魔力が。魔力を通す回路を突き破ろうとする症状のことを。指します」
「ふむふむ」
教師、ユーリィは資料室で得た情報を総括して告げる。
生徒のマーニャは机に着席しながら頷いた。豊満な胸部もそれに釣られて揺れる。
相変わらずの胸元を大きく開く、という露出の高い服装のマーニャは、生徒には少し似合わない。
対照的な二人は講義を続けた。
「回路を突き破った魔力は。容易に肉体を破壊していきます」
「具体的には?」
「風の回路ならば内臓が裂かれ。雷の回路ならば身体を動かす電気信号にまで影響を与えるでしょう」
セリナの回路は炎と風の二種類だ。
件の魔族病発症の回路は炎なので、症状もどのようなものかは想像に難くない。
回路を突き破った炎の魔力はセリナの身体を内側から燃やし尽くし、最終的には灰となって消えていく。
「……今のセリナは、まだ回路が破壊されているわけじゃないわよねん?」
「リィムの診察結果では。そうなっています」
何より、とユーリィは治癒隊の診察結果とは別の根拠を持ち出す。
十日間で勉強はしてきた。
セリナの症状について真剣に学んできたし、診断結果には絶対の自信があった。
「もしも回路が壊れているのなら。今頃。セリナの身体の何処かが発火している頃でしょうから」
「だから、間に合うのよねん?」
「そのはずです。症状は末期ではありません。これは現時点。確定的です」
二人の表情が鋭いものになった。
救える。救える可能性はまだ残されていることを再確認する。
ユーリィの表情は険しかった。そしてマーニャの表情は、死地に赴く兵士のように硬いものだった。
その理由を二人は知っている。
誰よりも理解しているからこそ、厳しい表情は変わらない。
「故に。魔族病の治療する方法は三つ」
ユーリィは白い肌の右腕を差し出し、人差し指を一本。
第一の案を示す。
一番期待している案であり、一番楽観的な案であり、一番他力本願な方法だ。
「ひとつ。回路が破壊される前に。魔力の暴走を抑えること。要するに自然治癒に賭けるということです」
「……問題外、よねん?」
「ええ。それが出来れば苦労はしません」
自然治癒による魔族病が、現状でもっとも生存率が高いとされている。
結論は問題外。
もっとも生存率が高い、というよりはそれ以外に魔族病を治療する方法が存在しないことを指している。
致死率は八割に及び、助かる可能性は二割に満たないのだ。
「だからこそ。可能性はふたつにひとつ」
中指と薬指をあげる。
自然治癒という方法以外の可能性。
これまでの魔族医学の中で不可能とされた方法を挙げる。
「回路を強化するか」
魔力回路の強化。
理論上は回路を鍛え上げ、膨大な魔力操作にも耐えられるようにする。
成功すれば暴れる魔力も押さえ込むことが出来る。
「魔力を奪うか」
魔力を奪う、という方法もある。
暴走する危険性の高い魔力をセリナの身体から抜き取ることで、魔族病の根本的原因を排除するのだ。
手術で言う癌細胞を取り除く、のようなイメージを想像するといい。
患部の元凶を直接、排除すれば魔族病を治療することができる、というのがユーリィたちの結論だった。
「回路の強化は不可能でしょう。神秘的な魔術品ならば可能性がありますが。それを探す時間はありません」
魔族病治療の特効薬といえば、未知の魔術品だ。
奈緒たちが方法の手を尽くして探し求めているのが、回路強化の魔術品だ。
砂漠の中から小さな砂粒を探すような行為だ。
故に回路の強化は不可能。残る方法はひとつしか、残っていない。
「そして、魔力を奪うという方法も、存在しない……とされているのよねん?」
「ですが。その手段は脈々とセイレーンの一族に伝わっています。文字通りの秘伝の術ですが」
魔力を奪う。
炎の魔力回路で暴れる魔力を奪う。
病原菌を排除するのと同じようにすれば、魔族病は治療できる。
「それさえ使えば……セリナを、助けられる」
期待に満ちた表情でマーニャは事実を確認した。
助けられるのだ。
絶望に目を閉ざす必要もなく、後悔に胸を掻き毟ることもなく。
魔族病の原因となった自分が、責任を取ることが出来る。友達を救うことが出来るのだ。
「ただし」
希望に満ちた雰囲気を、ユーリィが打ち消した。
厳しい表情。眼鏡の奥の瞳は厳しい面持ちを湛えたまま、眼鏡をくいっ、とあげる。
視線の先には、親友のマーニャ・パルマー。
息を呑む彼女に対し、自分たちの置かれている状況をしっかりと告げるため、ユーリィは口を開いた。
「奪った魔力が消えるわけではありません。そして。わたくしたちは魔力回路をひとつしか持っていない」
魔力回路の数は属性の数で決まる。
二色、三色、というのは魔力回路の数のことであり、不可視にして属性の色を持っている。
マーニャは雷属性がひとつだけ。よって、魔力回路はひとつだけだ。
それはユーリィも同じこと。
「複数の魔法を扱える魔族は。回路が複数。存在します」
風の回路。
炎の回路。
雷の回路。
氷の回路、と。
奈緒を例に挙げれば、五つの魔力回路を持っている計算になるだろう。
「わたくしたちは。ひとつしか回路がない。セリナから奪った魔力を扱いきれない」
「…………」
「行き着く先は。死です」
魔力を奪わなければセリナは助からない。
魔力を奪えば、奪った者が魔力を扱いきれなくなり、暴走して壮絶な死を迎えることになる。
これは単純な話。
暴走した魔力を最終的に受け取った者が、セリナの身代わりになる。
「もう一度。聴きます」
鋭い視線を向ける。
視線の先はもちろん、親友のマーニャだ。
表情は少し硬いが、これまでと変わらないようだった。
「マーニャ。本気で。セリナを助けるために。死ぬつもりですか?」
この講義はつまるところ、マーニャに現状を正しく理解してほしかった。
死ぬのも辞さない、と告げた親友に対し、ユーリィは考え直すように訴えているのだ。
自分だって可能ならばセリナを助けたい。
だがそれは、親友を失ってまで遂行されなければならない使命なのか、とユーリィは己の自問するしかないのだ。
「……それが、お姉さんの出来る償い、なのよ」
意志は変わらなかった。
以前にマーニャが薄笑いと共に告げていた言葉を思い出した。
セリナが死にかけている原因は自分にある。身代わりになれるのなら、代わってあげたいくらい、と。
ユーリィは切なげな顔をするしか、なかった。
「マーニャ……」
「ユーリィに世話はかけないわん。悪魔の炎は、お姉さんが持っていく。絶対にね」
悪魔の炎。
セリナの身体に渦巻く理不尽の具現化。
彼女の身体を燃やし尽くしはしない。そんなことは絶対にさせない。
何故ならば。
「友達だから」
これ以上の理由があるものか。
これ以上の理由など必要なものか。
これ以上の理由を用意する必要もない。
「裏切っても、友達だと言ってくれたから」
嬉しかった。
涙が出るほど嬉しかった。
裏切り、殺そうとした汚い女をまだ、友達と言ってくれた。
命を賭けるのに。それ以上の理由は必要ない。心の底から、そう思えるのだから。
「……分かりました」
納得するしかない。
普通を夢見た親友が、普通の友情のために命を賭ける。
命を賭けることができる。
反論することはできなかった。これ以上、彼女の決意を否定することはどうしても出来なかった。
「…………まったく。仕方のない人です……本当に」
僅かに俯き。
静かに呟いた彼女の口元は。
確かな決意と共に、きゅっ、と結ばれた。
◇ ◇ ◇ ◇
(…………ごめん)
ここ数日の彼女は申し訳なさでいっぱいだった。
一番忙しい時期に倒れ、詳細不明の重病に悩まされる日々。
身体の内側を己の魔力がじわじわと侵していく。
凄まじいほどの苦痛と熱量を受けたセリナは、色々と手を尽くしてくれる人たちに謝ることしかできなかった。
「……セリナ様? どうなさいましたっ?」
「…………ううん、なんでもない。ごめん、リィム……お水、取ってくれる?」
「はいっ、畏まりましたっ!」
元気いっぱいのゴブリン族の治癒隊からコップを受け取り、飲み干した。
服装はいつも通り、何も纏っていない。
十日間も裸で過ごし続けたせいか、何も着ていないことに慣れ始めていた。
もちろん、局部はタオルで隠しているが。
(ナオも、ラピスも無理してる……)
気づかないはずがない。
奈緒は龍斗という目付け役がいるからこそ、睡眠は取っているがラピスは重症だ。
主の命令で休みなさい、と言っても『傍に居させてください』というばかり。
彼女たちがそうなるぐらい、自分は重い病気なのだろう。一分一秒すら惜しむくらいの、重い病気なんだろう。
(死ぬ……のかしらね、私は)
他人事のように呟いた。
まだ死にたくない、と思う心は当然ある。
父の無念を晴らしていないし、リーガル家への復讐もまだこれからだ。
奈緒との想いも通じ合って、ようやくこれから、というところだった。死ぬには未練が残りすぎていた。
「……」
ただ、それ以上に申し訳なかった。
奈緒たちを巻き込んでおきながら勝手に退場する、というのも酷い話だ。
従者があそこまで無理をさせてしまうのも自分のせいだし、会議が思うように進まないのも自分のせいだろう。
足を引っ張ってしまっていることを自覚しているのだ。
「ふう……」
「あっ、セリナ様! もうすぐお風呂の準備が出来ますよっ! 気持ちいいですよっ」
「ええ、ありがとう……楽しみね」
ゆっくりと、セリナは笑みを浮かべた。
彼女の身体は常に体温が高く、四十度を常に越している。
氷水で冷やしてもらうのが一番気持ちいい。
身体はだるくて動かすのも煩わしいぐらいだが、水風呂を楽しみにしていようと心に決めて。
どくんっ、と。
時限爆弾のスイッチが入ったような鼓動がして。
かふっ、と咳き込みながらセリナはその場に倒れた。身を隠すタオルがはらり、と宙を舞う。
身体を隠す余力は無かった。
「ひっ……あああ……!」
熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い。
熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い。
熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い、ただ……熱い。
身体の全てが炎に染まったような苦痛と恐怖に、セリナは自分の身体を抱きしめた。
五感の全てが明滅する。
視界が消え、聴覚が途切れ途切れになり、熱いと告げる感覚だけが悲鳴をあげ続けていた。
「セリナ様っ……!! み、水風呂のご用意を早く!」
リィムは大急ぎでセリナの身体を抱きかかえると、そのまま水場へと走る。
待ち続ける余裕など無かった。
彼女の肌の熱さにゾッとした。まるで炎の塊を抱いているかのような発熱、焼けるような熱量を受けた。
(……ああ……時間切れ、なのね……)
水風呂の中にセリナの身体が漬けられる。
聴こえてはいけない音がした。ジュウッ……という、熱した物体を急に冷やしたときに聴こえる音だ。
瞬く間に水風呂の中の氷が解けていく。
氷使いの魔族を急いで呼び寄せ、氷を投入するが、次々と解けていく。
(ナオ……ラピス……ごめんなさい)
白い肌が真っ赤に染まっていく。
壊れていく身体を他人事のように眺めながら、セリナは静かに目を閉じた。
きっと、もう、目を覚ますことは無いのだ、と悟った。
(ごめん、ね……)
最期に大好きな少年の笑顔が見たかったが。
その願いは叶うことなく、彼女の意識は闇の中へと堕ちていく。
深い深い闇の中へ。
死が口を開けて、彼女を呑みこむのを待っている。
悪魔の炎が。
ケラケラ、と愉快そうに哂いながら燃え盛っていった。