第64話【学生時代と親友の嘘と…】
林間学校での注意事項。
引率の校長先生は枯れ木のように細い身体を杖で支えながら、人の良い表情で生徒たちに告げていた。
小規模の旅行のようなもの、と期待に心を膨らませていた高校生諸君を。
一撃で恐怖のどん底に追い込むような注意だったが。
「この丘でキャンプします。山には行かないでください」
「どうしてですかー?」
「熊が出ます」
「ええええーーーー!!?」
皆の心がひとつになった瞬間だった。
冬眠前の熊は、それはそれは凶暴かつ恐ろしい。
確かに秋に林間学校とは珍しい、と気楽に考えていたが、何故考えることを放棄してしまったのだろう。
後で家族側に知られたら大問題になるだろう一言を告げて、校長は去っていった。
「…………」
「……、」
「…………ん」
同じ班に組まれた三人組。
その中の一人、狩谷奈緒は動揺を抑えられずに二人の顔色を伺った。
熊が出るらしい。
高校生の身分で出会ってしまえば、間違いなく冬眠用の栄養とされてしまうに違いない、とカタカタ震えてみる。
「……り、龍斗……いいんちょー……」
不安げに奈緒は言葉を搾り出した。
既にクラスメートのほとんどは即座に危険区域からの脱出を図ったらしい。
林間学校、とは言いつつも山に昇ることをしなければ安全は確保されている……と信じたい。
奈緒の親友、鎖倉龍斗は言う。
「さあ、山に行こうぜ、親友!!」
「やだよ! 何を聞いてたのさ! 熊だよ、熊!」
「一度見てみたかったんだぜ! 絶対、『オオクマさんじゅうごさい』みたいなのが出てくるって!」
「誰!? 誰なの、オオクマさん! そして歳が十五歳なのか、三十五歳なのか分かんないよ!!」
叫び倒す間に、奈緒の小さな身体は拘束されてしまう。
運動不足に加えて小柄な少年たる奈緒では、赤髪の大柄で筋肉質な親友の魔の手からは逃れられない。
いやー、ぎゃー、などと叫び声が虚しく響く。
誰かに助けを求めようとして、奈緒はボンヤリまなこが特徴的なクラス委員長に助けを求めた。
いいんちょーなら、いいんちょーなら、きっと何とかしてくれる。
「いいんちょー、助けて!」
「鎖倉、待て」
「何だよ、いいんちょー」
目論見通り、龍斗の肩に手を置いて蛮行を止めてくれる委員長。
委員長、と言うと眼鏡の真面目そうな少女が頭に思い浮かぶものだが、彼女は一味も二味も違う。
茶色の髪のポニーテールと、健康的な肢体の持ち主だ。
文武両道の秀才だが、いつもボンヤリとしている。ボーっとするのが好きらしい。
そんな彼女は、極めて真面目そうな顔をして、言う。
「その熊は『僕のハチミツ〜』とか言ってくれるか?」
「ああ、きっと言うぜ!」
「毎朝、お腹を空かせるために体操をするか?」
「ああ、きっとするぜ!」
「……分かった。私も付き合おう。是非、仲間に加えてくれ」
「ああ、もう馬鹿!! アニメに影響されすぎだよ、いいんちょー! そんなファンシーな熊、現実にはいないよう!!」
残念ながら味方はいなかった。
奈緒は熊探しの旅に連れて行かれることを恐れて、周囲を更に見回した。
丘ではキャンプの準備が始まっているらしい。
テントを建てる役、炊飯の役、調理班などバタバタと忙しそうに動き回るクラスメートたちを指差して、奈緒は言う。
「いいんちょー! 皆が頑張っているみたいだから、まずは手伝わなきゃ!」
「む。その通りだ。残念ながら熊は諦めよう」
「ええー、つまんねえー」
「自重してよ、龍斗! 明日の朝刊に乗るよ!?」
うんうん、と委員長が頷いた。
相変わらずの寝ぼけまなこのまま、ほんのりと声を出して一言。
「『高校生、熊に襲われる! 熊はその後、学生の晩御飯となった』……見出しは完璧」
「勝ってる! しかも食べられてる!?」
「素晴らしいインパクトにお茶の間が大爆発」
「熊の出る山にキャンプさせた、ってことでPTAの怒りが大爆発だろうねえ!」
ぜーはー、と息を荒く付きながらも何とか沈静化。
未だに残念がる龍斗を宥めながら、奈緒は心の中でそっと息を吐く。
冗談じゃない、と思った。
熊と戦うとか、そういう常識知らずの展開は自分の知らないところでやってほしい、と切に願う。
「奈緒ー、熊でビビるようじゃ、いずれ来るだろう地球への侵略者たちと戦えねえぞ!」
「うん。何ていうか、そんな超展開は僕の出番じゃないよね、絶対」
「そうでもない。狩谷」
委員長は相変わらずの無表情を、僅かに緩ませた。
彼女との付き合いは中学校の頃からで、何気に長い時間を一緒に過ごしている。
そんな彼女は、奈緒の過去を知っている。
かつて神童と呼ばれた狩谷奈緒が、何の神童と呼ばれていたかを知っている。
「狩谷は軍略のプロじゃないか。生まれてくる時代を間違えた、と言われるほど」
「……ああ、いや。まあ、昔のことだけど」
昔のことだ。
将棋、チェス、囲碁が始まりだった。
歴史家の父の影響を受けて、心理学や社会学、政治学に興味を持っていった。
中学生の身分で一般の部での歴史の討論大会に出席したこともあるが……それ以降、奈緒は何も業績を残していない。
趣味が普通じゃなかったのが災いしたのか、嫌がらせを受けてやる気をなくしたのだ。
それ以来、奈緒は目立つことはしなくなった。
「自衛隊から三顧の礼を受け、東南の風を呼び、死んでなおも敵を走らせる稀代の名軍師として、頑張ってほしい」
「来ないよ! 絶対に永久に来ないよ、そんな出来事は! しかも何気に僕が死ぬのが織り込み済みだし!」
「人生は分からない。もしかしたら、ある日、異世界に飛ばされてしまうかも知れない」
「あははっ、いいんちょーの予言とはいえ、さすがにそんな荒唐無稽なことなんて起きないよ」
その一年後。
本当に飛ばされてしまうのだから、世の中というものは分からない。
彼女はノストラダムスの生まれ変わりか何かだろうか、と思い出を語る奈緒はそんな感想を抱くのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
「聞いて驚け、お前ら。材料が足りない」
晩御飯の調理中、唐突に担任の先生はそう言った。
長身痩躯の身体付きが特徴的な先生の名は、天城総一郎と言う。
ざんばら、と刈られた黒髪。眼鏡を掛けている。
引き絞った筋肉の付き方は格闘家のようだが、担当教科は体育ではなく、歴史だという教師だ。
趣味はスポーツ観戦とタバコとタバコとタバコだ。
決して誇張ではない。
「原因は俺が買出しをサボったからだ。残念だったな」
「おいこら」
龍斗が半笑いで文句を口にする。
材料が足りないのは奈緒たちの班だけらしく、周囲はせっせと調理に追われている。
四人グループで構成される班だったが、人数の関係で奈緒たちだけ三人となったのだ。
代わりに配属されたのが担任の先生たる、この天城だったのだが。
「飯しかないんだ」
「肉ー! 肉はー!」
「ほら、そこにあるぞ。たんと食え」
「がぶりっ」
「痛ぁ!? 龍斗、落ち着いて! 人間の肉は筋張っていて美味しくないんだよ! カリバニズム反対!」
じゃれ合う奈緒たちを、委員長は恍惚の表情で見つめている。
彼女は男子の絡みがとてもお好みらしい。
いつものぼんやりとした瞳のまま、頬に手を当て『まあ……』と上品に呟きながら、捕食される少年の姿を眺める。
ぞくぞくっ、と背筋を凍らせるのはまた別の話。
「まあ、冗談は置いといて」
「もっと序盤の時点で置いておいて欲しかったです。夏場の蚊みたいに襲われました」
「本題に入ろう。冬眠前の熊を狙おうじゃないか」
「そっちも冗談であって欲しかった!!」
常識人、奈緒少年の叫びがキャンプ場に木霊する。
天城先生はというと、既にシャドウボクシングの構えに入りながら、対オオクマさん戦を想定していた。
ある程度身体を動かすと、ポケットからタバコをひとつ。
ライターで火をつけると、ニヒルに大人の笑みを浮かべながら一言。
「いいか、狩谷。男には戦わなければならないときがある」
「少なくとも今じゃないよ!」
「安心しろ。俺は必ず帰ってくる。必ずだ……」
「逆に死にそうな台詞! この戦いに命を掛ける価値はあるんだろうか!」
そうこうしている内に、龍斗と委員長の二人はいなくなっていた。
龍斗は女の子の誘いを受けてホイホイ付いていったらしく、委員長は端っこのほうに移動してぼんやりしていた。
意外にも少年漫画とか好きそうな不良教師は、相変わらずの笑みだ。
本気で熊を狩ってくる、とは思えないが。
むしろ思いたくないが。誰が調理する、というのだろうか。寄生虫とかも潜んでいるのだ、獣の体は。
「まあ、実際、熊ぐらいなら拳で十分だけどな」
「人間じゃないですね」
「俺の切り札たる、五つの奥義の力を今こそ見せるときだろう、きっと」
「お願いですから地球に恐怖の大王とかが降りてきたときに、存分に力を発揮してください」
あー、と天城先生は生返事を見せる。
聞き覚えのあるキーワードだが、あまりにもオカルト過ぎて逆に苦笑してしまう風聞だ。
「狩谷。今日は、何年の何日だ?」
「1998年。10月の4日です」
「なるほど。預言者の世界崩壊は、一年後の7月だったなぁ……思い残しのないようにな」
「……信じてるんですか?」
奈緒はあまりにも荒唐無稽な話なので信じていない。
恐怖の大王が降って来るそうだ。
世界はそのときに終わる、と世界で一番有名な預言者が世紀末の予言をしてみせた、らしい。
天城先生は、これまたニヒルな笑みを浮かべて言う。
「信じんよ。ただのネタだ」
「安心しました。龍斗が女好きになった原因って、一年後に世界が滅ぶことを覚悟してのことなんで」
「思い残しのないように、ってのを完璧に実践しているな、鎖倉は」
「悪いことに手を染めなければいいんですけどね」
仕方ないなぁ、という笑み。
幼馴染の親友との関係はこれまでも、そしてこれからも腐れ縁のように続いていくのだろう。
世界で一番、心を許せる親友だ。
兄のような人であり、一番の親友であり、家族と言っても差し支えないほどに。
「出来の悪い兄と、出来の良い弟のようだな……ふーっ」
「わっ。先生、こっちに煙を向けないでください! っていうか、生徒の前で平然とタバコを吸うな!」
「よう、兄弟。一本、どうだ……?」
「なにちょっとハードボイルドな演出と共に未成年者に喫煙勧めてるの!? ほんとに教師なのか疑わしい!」
実は奈緒の全力な反応が楽しすぎて、皆からからかわれていることを少年は知らない。
眼前の教師は学校の中でも様々な都市伝説を持っている。
曰く、ヒマラヤで雪男と三日三晩の死闘を演じてきたとか。
曰く、天城流などという武術を編み出し、今日も謎の組織と抗争を続けているとか。
単純に昨年まで中学生だった少年少女は、規格外の人間を見ると、色々な想像を働かせるものだ。
「ていうか、先生。今からでも食材を買ってきてくださいよ……」
「うん? ああ。熊を狩ってくるつもりだが?」
「熊を心の引き出しに仕舞い込んでください! どんだけ熊をプッシュしたいんですか!」
「いやぁ、あの味は一度食べると中々病みつきにだな……」
「前科持ち!? 既に犠牲者が!?」
驚きに呆然とする奈緒を差し置いて、はっはっは、と天城先生は去っていく。
食材を買いにいったのだと信じたい。
間違っても食材を狩りにいった、とは信じたくない。
後姿をぼんやりと眺めながら、奈緒はひとつ溜息をついて、とりあえず炊飯の用意をするのだった。
今日の夕食は本当にご飯だけかも知れない。
◇ ◇ ◇ ◇
ああ。
懐かしいな。
語れば語るほど思い出が溢れてくる。
昨日は家族の話をした。
今日は学校で友達と先生の話をした。彼女は楽しそうに耳を傾けてくれた。
語れば語るほど、懐かしくて涙が出る。
未練があった。父に逢いたい、母に逢いたい。友達とも逢いたい、と思うと視界が歪んでしまう。
「……どうしたの、ナオ?」
「何でもないよ……なんでも」
遠い思い出のようなものだ。
今の僕には、もう取り戻せないものだ。何しろ、僕は死んでしまったんだから。
悪魔たちに理不尽に殺された。多分、家族も友達も殺されてしまったに違いない。
切ない気持ちになってしまう。
それを振り払って、僕はセリナに思い出の続きを話すことにした。
「楽しかったよ。学校の生活は」
「今は?」
「忙しくて、大変だけど……うん。幸福だと、思ってる」
「……嬉しいわね」
そう、全ては過去のことだ。
二度と取り戻せないものに想いを馳せてもしょうがない、とずっと自分に言い聞かせてきた。
過去の話なのだ。
両親と笑い合いながら、喧嘩しながら、生活していた僕も。
友達と、龍斗と、先生と学校で過ごしていた僕も。
悪魔に襲われ、親友を喪って絶望した僕も。
薄笑いと共に―――――悪魔どもを次々と葬り去った、僕も。
あれ?
いや、待て。
今の言葉は何かがおかしい。
そんな光景を僕は知らない。こんな光景があるはずがない。
「……な、ナオ?」
「あ、れ……?」
灼熱地獄。
燃え盛る学園と穿たれた校庭。
灰となって消滅した親友の身体と、蠢く魔獣兵の群れ。
周囲は悪魔どもの死体が埋め尽くし、その中央に立つ人影に見覚えがある。
僕だ。
僕がそこにいる。
悪魔に殺されたはずの僕が。
逆に悪魔たちを葬りながら、ゆっくりと前進を続けている。
誰だ、あれは。
激昂と哄笑と絶望と歓喜を混ぜ合わせた笑みを浮かべた『僕』を、僕は知らない。
「な、ナオ……!?」
「ナオ殿!」
視界が揺れる。
画面が真っ暗になっていく。
視認できる色が黒と赤の二色に絞られていく。
僕が倒れているのか。地面が起き上がってきたのかも分からない。
「ら、ラピス! リィムを呼んできて、早くっ……! あっ、ぐぅ……!?」
「お嬢様!」
「は、早く……」
「しばらくお待ちを! すぐに……!」
声が遠くなる。
思い出だけが無慈悲に再生されていく。
夢か現実かも分からないまま、僕の知らない『僕』の光景が脳裏に過ぎる。
その姿はまさに『魔王』という言葉が相応しい。
「ナオ……どうしたの、ナオ!」
「違う。僕は、あのとき、殺された。なんで、だって僕はあのとき、絶対に殺されて……ほんとに?」
疑問が湧き上がってくる。
圧倒的な情報が暴力のように精神を苛んでいく。
真実と虚構の違いが分からない。
心細くなって。心の中に待機している親友の名前を呼ぶ。助けを求めるように叫ぶ。
(龍斗……龍斗、龍斗、りゅーと……なに、これ……何だよ、いったい……)
(――――――、)
息を呑まれた、気がした。
心の中の親友は呆然とした様子で苦しむ僕を眺めると。
見たこともないくらい、感情をごっそり削ぎ落とした能面のような表情で告げた。
(忘れちまえ、奈緒)
(ちょっと待ってよ、龍斗……どういう、こと?)
(あれだ、変な記憶が混ざってるみてえだな……混乱してるっぽい)
龍斗の存在を確認した途端、分けの分からない光景が消える。
二人で一人、という規格外の問題の弊害か何かかも知れない、と龍斗は説明した。
(このままじゃ、変な感じになっちまうから……一回、忘れちまえってこった。今はそれどころでもねえしな)
(ああ、うん……そうだね……)
(国のこともあるし、セリナのこともあるだろ。今更、昔の記憶がどうこうって場合じゃねえって)
正論だった。
反論のしようもないので頷いておく。
確かに今は政治とセリナの病気のことで頭がいっぱいなのだ。
僕は首を縦に振ると、何とか前を見据えて見せた。床に倒れてしまった自分の身体を、どうにか起こす。
「な、ナオ?」
「ごめん……ちょっと立ちくらみがしただけだから。心配かけてごめんね」
「……立ちくらみ?」
そんな簡単な様子でもなかったけど、と納得のいかない表情をセリナは見せる。
彼女に曖昧な苦笑いを見せながら、奈緒は思考した。
最初こそ混乱してしまったけど、現実に考えてさっきの記憶で『狩谷奈緒』の本質から外れることはない、と。
戦争を経験したからこそ、白昼夢のような惨劇を見てしまったのだ。
奈緒はそう結論付けることにした。
◇ ◇ ◇ ◇
(悪りぃな、親友……)
苦虫を噛み潰したような表情で、龍斗は心の中で謝罪する。
今頃の奈緒はセリナや治癒隊相手に苦笑気味に言い訳をしている頃だろう。
龍斗は表に出ることなく、奈緒の心の奥底に待機している。
彼は、全てを知っている。
(知らなくていいこと、ってなぁ、あるんだよ……やっぱりさ)
だから、ごめん、と。
親友に嘘を付くことにした。
龍斗は親友の心の中で、ふわふわ、と漂い続ける。
自分の立ち位置すら不安定な状況下で、龍斗は遠い目をしながら独り言を続けた。
(こんな、でっかい爆弾があるんだから、なぁ)
龍斗の視線の先。
奈緒の力の源にして、龍斗曰くの『でっかい爆弾』がそこにある。
大型の魔獣とて一撃で葬るほどの魔力。
説明不可能の『闇』が、くつくつ、と不気味な哄笑を響かせていた。
闇魔法は今か今か、と復活の機会を待ち、龍斗は『闇』を牽制するために睨みを利かせている。
問題は、あまりにも山積みだ。
(今は、セリナの問題に集中しようや……『これ』は、最期まで知らなくていい)
これが、正しいんだ。
今の奈緒にそれ以外のことに目を向ける余裕はない。
勝手なことを、と思われるかも知れない。だけど、奈緒がどうにかできる問題ではない。
(なあ、奈緒……お前、怒るかなぁ……?)
切なげに呟かれる言葉。
その意味を本当の意味で理解することは、まだできない。
親友の少年が浮かべる憂いの表情の意味を、まだ誰も知ることはない。