第62話【ほほをつたう】
静寂が世界を支配していた。
虫の音も聞こえないし、魔物の雄たけびも聞こえない。
人の生活の音どころか、この世の全ての音が消失してしまったのではないか、と奈緒はぼんやりと考えた。
奈緒は自分の部屋のベッドの上に腰掛けて、さっきまでの会話を思い出す。
診断結果を受けた宰相の表情が、厳しい現実を弾き出す。
『結論から言うぞ、ナオよ』
『……』
『セリナは助からん。今のままでは、いずれ身体が内側から炙られ、やがて肉体は灰に変わる』
残酷なまでの通告。
良くも悪くも『人の死』を見慣れているテセラの言葉は、重く圧し掛かっていた。
魔族病、セリナの身体の魔力が暴走している、らしい。
原因は枯渇した魔力を急激に蓄えた反動と、それに加えて精神的なストレスによるもの、という診断だった。
『妾たちも最善を尽くすが、生存率は二割と心得ておくことじゃ』
『……テセラは、冷静だね……』
『…………うむ』
『僕は、何も考えられない。分けが分からないよ……なんで、どうして、って言葉ばっかり、浮かんでくる……』
嫌味にも聴こえたに違いない。
頼りない主君だと、愛想をつかされるかも知れないが、弱音を吐いてしまった。
生気が失われた瞳を、テセラは真っ直ぐに見つめ返した。
魔王を叱咤するように彼女は言う。
『それが人の上に立つ者の心得よ』
突き放すような言葉が、奈緒の胸を貫いた。
好きな人が苦しんでいるのに。
王は悲しむことも、悩むことも、してはならないというのか。
魔王とは人の心を捨てなければならないほど、重いのか。ふつふつ、と理不尽に対する怒りが胸に渦巻く。
『魔王よ。部下にそのような顔を見せるな』
『……』
『お主を信じて、命を懸けて付き従ってきた者たちが、路頭を迷うことになるぞ』
厳しい。
重すぎる。
辛辣な正論が奈緒の心を抉る。
何一つ反論できず、ギリ、と唇を噛み締めた。
噛み締めすぎて唇を切り、鮮血が口元を伝って顎へと流れていく。
『安心しろ、死なせるものか』
力強い宰相の言葉に、奈緒が顔を上げた。
四方八方に手を尽くす考えか、テセラは魔族病の治療のために最善を尽くす、と約束した。
医学が発達している、とは言えない魔族社会では虚しい約束だった。
そんな事実を前にしても、テセラは断言してくれた。
『ああ、死なせるものか。死ぬには若すぎる……妾は、絶対にこんな理不尽を認めんぞ……』
『……テセラ』
『ナオよ。お主は少し休め。今のお主は気持ちを整理する時間が必要じゃ』
逆に言えば、今の自分は本当に役立たずらしい。
自慢の思考も停止してしまっている。確かに今の奈緒では何も出来ないことは明白だった。
自分の部下に弱音を吐いてしまうような魔王は、身体と精神を休ませるべきだ。
ふらりふらり、とおぼつかない足取りで、奈緒は自分の部屋へと向かう。
その途中、テセラの小さな呟きが耳に届いた。
『神よ……』
それは祈りだった。
それは八つ当たりだった。
それは弾劾であり、懇願でもあった。
中空を見据えたまま、ゴブリンの姫は切なそうに声の音量を下げて。
『奪うなら、この老いぼれの命を奪え……』
一気に冷や水を浴びせられたような衝撃を受けたが、部屋へと向かう足は止まらなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
こんな理不尽なことはない。
さっきまで、あんなに楽しくて、甘酸っぱくて、照れくさくて……それでも、幸福の絶頂にいたのに。
こんなことって、ない。
不条理、という言葉が脳裏によぎる。
理不尽、という言葉が心の中に木霊する。
それでも現実の冷たさは容赦なく、セリナの身体を燃やし尽くしていく。
びっしょりと掻いた寝汗。
身体の内側から炙られる感覚に苦しめられて歪む少女の顔。
助けて、とすら叫ぶことのできない苦痛の中に少女がいて、何も出来ない自分が本当に無様だった。
(奈緒……)
(なんだよ、これって……魔王になって、五色の異端とか言われてるのに、何もできないなんて……)
魔族病が判明したときから、各々が自分に出来ることを始めた。
テセラは大号令をかけて魔族病の治療法を捜しだし、ラフェンサも祖国に情報提供を求めている。
ラピスはセリナの身の回りの世話をしているし、ゲオルグも傭兵たちから情報を聞き出しているらしい。
奈緒だけが、暗い部屋の中で、真っ青な顔色のまま蹲っている。
「僕は……ああ、違う……意味もなく悩んでばっかりで……くそ……っ……!!」
情けない。
一体、何をしているのか。
急激に喉を掻き毟りたくなり、獣のような絶叫をあげたくなる。
「っ……!!」
ばちぃんっ、と両手で頬を思い切り叩いた。
脳が揺れて、じんじんと頬が痛む。目尻に涙を浮かべたまま、奈緒は腰掛けていたベッドから立ち上がった。
己の部屋を飛び出し、そのまま洗面所のほうへと走る。
水魔法を応用した施設から冷水を取り出すと、思い切り顔にぶち当てた。
(お、おい、奈緒……!?)
「はあ……はあ……は、ぁ……はあー……」
荒い息を吐きながら、奈緒は心の中で大丈夫、と伝えた。
冷たい水はむしろ痛いぐらいだったが、おかげで空元気のような小さな冷静さが戻ってきた。
昔の自分なら、うじうじ悩んだまま、何も出来なかった。
誰かに手を引っ張ってもらうのを待つばかりの、脆弱な子供のままだったに違いないし、今でもそうだと思ってる。
だけど。
今は、どんな極限状態でも思考できるようにならなくてはならない。
認めろ、狩谷奈緒。
お前に彼女の命を救うことなんて、できない。
どんなに理不尽を相手に吼えても、事態は何も変わらない。セリナの命を奈緒の手で救うことなんて、できない。
(……だから、考えろ)
考えよう。何が出来るのか、を。
命を救えないというのなら、奈緒が精一杯できることは何かを自問しろ。
答えは、案外すぐに見つかった。
魔王として、人の上に立つ者としては、とてもではないけど認められないような答えだったけど。
(……行くよ)
(ど、何処に行くんだよ、奈緒)
(……セリナの、ところに)
伝えなくちゃいけない言葉がある。
支えなくてはいけない人が、そこにいる。
力強い足取りは自棄にも見えるが、奈緒はしっかりと翡翠の瞳に力強い意思を宿した。
遅すぎるかも知れない。
遅すぎたから、こんなにも後悔しているんだと、思う。
「時間の許す限り、セリナのところにいる。僕の力が必要になるときが来るって、信じてる」
無駄かもしれないけど。
意味がないかもしれないけど。
自惚れだ、と。無様だと言われるかも知れないけど。
それでもやっぱり、狩谷奈緒だって、誰よりも彼女を失いたくないと思ってるから。
気持ちの整理をつけた少年は、そのまま少女の部屋へと歩いていく。
口を真一文字に引き締め、不安な心を隠しながら。
◇ ◇ ◇ ◇
コン、コン、とノックの音が響く。
中から『どちら様ですか』と硬い声で尋ねてきた。この声はラピスのものだっただろう。
自分の名前を言うと、慌ててラピスは扉を開けて出迎えてくれる。
奈緒は『お邪魔します』と神妙な顔つきで言いながら、セリナの部屋へと入っていった。
「セリナは……?」
「今は症状が落ち着いていらっしゃいます。リィムの処置のおかげでしょう」
ラピスの視線の先に、白いシーツを敷いたそれなりに大きな中世風のベッド。
彼女は衣服のすべてを下着にいたるまで一切、身に纏っていない状態でゆっくりと息を紡いでいる。
高熱が続き、発汗作用を継続しているため、着替えてもすぐに寝汗で湿ってしまうのだ。
セリナの白い肌を覆い隠しているのは、胸と下半身に申し訳程度に置かれている白いタオルのみだった。
「定期的に体温が上がって、下がってを繰り返しています」
「今は?」
「心配はなさそうです。水分を多く取られているので、体重は大丈夫かしら、と口にしていました」
「そっか……本人はまだ、余裕がありそうだね……ほんとに、良かった」
セリナのベッドまで歩いていく。
虚ろな瞳と上気した頬、端整な顔立ちが物憂げな表情を浮かべていた。
焦点が自分を見上げる奈緒を捉えたのか、柔らかに微笑む。
儚げな、笑みだった。
本当に消えてしまいそうなほど、痛々しい微笑だった。
「……おはよう、ナオ」
「うん……おはよ、セリナ」
「ええと……恥ずかしいから、あんまり見ないで……こんな格好だし……」
「っ……ん、ごめん」
恥じらいを見せる少女の頭に手を置く。
金色のきめ細かな髪を、何度も何度も撫で続ける。そうすることしか、奈緒にはできない。
セリナは気持ちよさそうに目を細めるが、むむっ、と何かを唸ったかと思うと、口を尖らせた。
「……子ども扱いは嫌。レディーの頭を撫でるなんて、何事?」
「あ、ごめん。つい……」
「……そりゃあ、気持ちよかったんだけどね……でも、うーん……なんだか複雑ね……」
「あははっ」
むう、と頬を膨らませる病床の少女が愛しくなる。
身体の中から炙られている影響なのか。ぜい、ぜい、と荒い息を吐くことが多い。
冷たい水で冷やしたタオルが、彼女の額と両脇、両膝裏に巻き付けられている。
熱中症に対する処置と同じだな、と何となく思う。
少しでも力になりたくて、奈緒は氷が入れられた水に手を漬け、冷やした掌で彼女の手を包み込む。
彼女の儚い笑みが一層、柔らかいものになっていく。
「冷たい……気持ちいい……」
「ん……」
細くて白い、彼女の掌。
女の子特有のきめ細かな柔肌の感触と、彼女の温かさを感じた。
これが失われてしまうのか。
彼女の温かさも、この笑顔も、炎によって奪われてしまうのかと思うと、涙がこぼれそうになる。
「……? ナオ、どうしたの?」
「…………ううん、ごめん。何でもないよ。寝不足だから、ちょっとぼーっとしちゃったんだ」
「政務、大変ね。私も手伝えればいいんだけど」
「ごめんごめん。セリナはまず、身体を治さないとね。大丈夫、すぐに治るよ」
「……ええ」
魔族病のことは、セリナに知らせていない。
だけど、彼女の身体のことだ。一番、自分が分かっているだろう。
詳しい病名は知らなくても、自分が命の危機に瀕している可能性があることは、聡明な彼女は気づいている。
だけど、お互いを傷つけないために。二人とも、互いに悟らせない演技をする。
お互いがそれを望んでいるのだから。
「ねえ……セリナ」
何度も何度も、氷に浸した水と彼女の手を往復させながら奈緒は切り出した。
自分たちにはたくさんの時間がある、と思っていた。
急ぐ必要ないと思っていたし、ずっと一緒にいられると信じていたし、失うことがこんなにも怖いことなんて知らなかった。
でも、時間は無限じゃないと思い知らされた。
だから今なら、言える気がした。
「建国式を、行うんだって。僕とセリナの国……僕たちの国の、建国の儀を」
「……そっか……やっとね。ここまででも、長かった気がしたわ……」
砂漠で出会ってから、何ヶ月が経過しただろうか。
日常が不条理に破壊され、知らない土地に送り込まれてから、どれだけの時間が流れただろうか。
動機は不純と言われるかもしれないが、結果的に戦争で多くの命と関わってきた。
救った命もあれば、奪った命もある。
流星のようにずっと歩みを止めることなく、戦い続けてきた。その第一目標が、やっと達成されることになる。
「セリナ、覚えてる? 僕になんて言って、誘ってきたか」
「ええ……『私の夫になりなさい』、でしょ?」
「うん……」
部屋の雰囲気が、張り詰めていく。
敵意を前にした緊迫感、というわけではない。妙に気恥ずかしくて、どうしようもない感覚だ。
龍斗は心の中で鍵を閉めることで席を外し、ラピスは水を取り替えてきます、と桶を持って部屋を出て行った。
正真正銘の二人きり。お膳立ては、整った。
「えっと……その」
正直なところ、奈緒は自分が気の利いたことを言えるとは思えなかった。
雰囲気を感じ取ったのか、セリナは紅潮した頬を隠さずに、奈緒の次の言葉をじっと待っている。
潤んだ瞳は、熱病による症状だけが紅潮の原因ではないと告げていた。
勇気を、振り絞れ。
心臓が早鐘のように鳴り続ける。
冷静であろうとしているのに頭がぐらぐら、と泥酔しているように動かない。
荒い息が彼と彼女、二人の口から漏れていく。
頭の中に浮かんでいた百の言葉、千の言葉が消え失せ……残ったのは、いかにも自分らしい、素朴な言葉。
「あのときの言葉、まだ……有効かな」
ぎゅっ、と掌を握り締めた。
爆発したかのように顔が真っ赤になり、心臓がばくばくっ、と悲鳴を上げる。
恥ずかしくて目を逸らしたかったが、それでも彼女の潤む瞳を見つめ続けた。
息を呑む音がした。
彼女の細かな反応に全神経を集中したまま、返事を待ち続ける。痛いほどの沈黙が下りていく。
「それって……つまり……?」
「うん。その、建国式と同時に……結婚式をあげることになってる。僕は、セリナと一緒に歩きたい」
噛まずに言えた。
逆に声に涙声のようなものが混じってしまった気がする。
そうだ。一緒に歩いていきたい。彼女と一緒に、ずっと一緒に、いたい。
だから自分を置いていかないでほしい。生きてほしい。頑張ってほしいと思ったら、目頭が熱くなってしまった。
「……ナオ……」
きゅっ、と同じように手を握り返された。
潤む瞳から、はらり、と雫が一筋、零れ落ちた。
奈緒が今まで見てきたなかで、一番綺麗な涙だった。
気づいたら、自分の瞳にも涙がこぼれていた。
流してはいけないものだったけど、彼女の手の感触を放り出してまで拭いたくはなかった。
「セリナ……返事は……?」
「ええ……ええ……」
万感の思いが胸から溢れてくる。
嬉しさと、悲しさと、温かさと、切なさと、言葉では形容できないほどの巨大な感情が。
愛しい、と思う。ただ純粋に愛しい、と思える。
熱に浮かされる思考、心地よい空気に満たされる心を感じながら、彼女の言葉を聴いた。
「私の、魔王様に。成り上がってくれるのよね、ナオ……?」
返事は言うまでもなかった。
これ以上の言葉は本当に無粋以外の何物でもなかった。
少年は首を一度縦に振ると、タオルで少女の額の汗を拭い、そのまま顔を彼女の唇へと近づけていく。
少女は身じろぎひとつ、しない。
ゆっくりと瞳を閉じて、唇に重ねられた万感の思いの感触に身を委ねた。
命の危機すら危ぶまれるほど不安定で、傷だらけの、愛情を……大切な思い出として、胸の奥にしまった。
嬉しくて涙が出た。
切なくて胸が張り裂けそうだった。
心臓が二重の意味でばくん、ばくん、と跳ね上がった。
生きる力を、頑張りたいと思える力を、確かに貰った。受け取ることができた。
「一緒に生きよう……セリナ。だから……」
「だから……ええ。分かってる。私は、ずっとあなたと一緒にいる。魔王の傍に、ずっといる」
誓いは、ここに。
傷だらけの罪人たちが告げよう。
不条理が相手でも理不尽が相手でも、絶対に奪わせてなどやらない、と。
支え合うことで、必ず、この困難も打ち破ってみせる、と。
「ずっとだよ……セリナ」
奪わせるものか。
失ってなどなるものか。
悲劇だろうが、冷たい現実だろうが、関係ない。
初めて本気で好きになった女の子一人も救えないようで、どうして彼女の魔王になれるだろうか。
絶対に彼女を守ると誓った。
一人の男として、彼女の魔王として、この手の温もりを守ってみせる、と。
誰に言うでもなく、己の心の中で確かに宣誓した。
この日、狩谷奈緒とセリナ・アンドロマリウス・エルトリアは。
心許せる仲間たちに祝福され、婚約した。
PVが1,000,000人を突破しました。
まさかここまで来れるとは夢にも……読者の皆様には感謝感激です。
これからもご愛読、宜しくお願い致します♪
ありがとうございました!




