第54話【クラナカルタ決戦10、蛮族王(前編)】
「ふざけてやがる」
吐き捨てるように龍斗は言った。
単純な感想が思わず悪態として口に出てしまった。
眼前には十数年という生涯の中でも、最強の存在。狂戦士、ギレン・コルボルト。
元の世界に彼が存在していれば、百年は名を残すだろうほどの戦闘能力の持ち主だ。
「ふざけて、やがる……」
ごうごう、と燃える紅蓮の剣。
これまで通りの無表情の中に、強敵を前にした甘美の表情を浮かべた魔王。
どちらも龍斗にとっては恐怖すべき存在だ。
肉弾戦で、接近戦で。考えうる限りの最善の手を尽くして、龍斗はギレンと渡り合ってきたつもりだ。
「どうした。どうした、リュート・サグラ。もっとだ、もっと愉しませろ」
「畜生が……!」
だが、隙が全く見つからない。
どんな起死回生の策が用意されようとも、そこに至るまでの道筋が見つけられない。
単純に大剣と紅蓮剣が打ち合い、火の粉が鉄の音に紛れて降り注ぐ。
龍斗の息が荒い。隙を見つけるだけで消耗しすぎた。
「歯ごたえがあるのは、お前とゲオルグの二人だけか? 総司令のナオという男はどうなのだ?」
「……さあな。実際に確かめてみればいいんじゃねえの?」
「そうさせてもらうが」
ギレンは億劫そうに焔の剣を掲げる。
打ち合いはこれで六度目だろうか。未だに付け入る隙がない。
基礎が奈緒の身体であり、鍛えられているとは言いがたい。親友の身体を傷つけるわけにはいかない。
思い切った行動ができない。捨て身で隙を見つける、ということもできない。
「まずは、お前との勝負を愉しもう。以前のナザック砦よりも強くなった。いいぞ、面白い」
「そればっかりだな、てめえ。殺し合いしか頭にはねえのか?」
「ああ、ないな」
「……本当にふざけてやがるよ」
恐怖はないのだろうか。
困惑はないのだろうか。
龍斗はこうした認識の違いが、きっと別世界としての区切りではないかと思ってしまう。
高校生の少年はいつも思っている。殺すのも、殺されるのも怖い、と。
「試しに聞くけど。城塞都市はもうすぐ陥落しそうだが、いいのか?」
「…………ああ」
「嘘っぽいな。家族かなんかが城の中にいる。そうだよな?」
城砦都市メンフィル。
その中央に位置するギレンの居住区。メンフィル城が攻め込まれている。
兵力のほぼ全てを野戦に注ぎ込んだため、守りはあっという間に崩されたのだ。
今すぐにでも立て直さなければ、たとえギレンが龍斗に勝ったとしても、帰るべき城を失ってしまう。
「家族はいない。奴隷が一人、いるだけだ」
「女か」
「前王の娘だった者だ。それ以外には家族らしい者もいないし、奴隷も我の死を願っている」
「……だから、奴隷が死んでも構わねえって?」
「いや」
ギレンは珍しく言いよどむような声で頭を振った。
奴隷、という言葉が龍斗は気に入らなかった。現実感が沸かないファンタジーな世界の裏側を見た気がした。
魔法、という不思議な力に心を躍らせた日々が懐かしい。
女の奴隷。嫌な言葉だ。龍斗は、そういう話があまり好きではない。
「我としても死んでほしいとは思わん。だが、そんな瑣末なことよりも、戦いたいのだ」
瑣末なこと、と言った。
いくら奴隷とは言え、人の生死を。戦争という殺し合いも、王の号令で死んでいく兵士たちも。
狂人だ。どうしようもないほどの戦闘狂なのだ。
自分本位で自己中心的。ただ、戦いたいがために、それだけの理由で。
(殺しを、肯定しやがった……)
(……龍斗)
(ふざけてやがる……ああ、本当にふざけてやがる。この世界の価値観は、ほんとに狂ってる……!)
己が握る剣を怖いと思ったことがある。
人殺しすら容易に達成することがでるほどの力を手に入れたからだ。
魔法が主の奈緒と違って、龍斗は人を傷つけた感触が手に残る。ただの高校生に突きつけていいものではない。
龍斗は明るく振舞う裏側で、傷つけることに苦しんでいたというのに。
「がっ、ぁぁぁああああああ!!!」
「ははっ!」
地面を蹴って一気に距離を詰めた。
ガギィリ、と刃が軋む音が響く。炎が龍斗の視界を埋め尽くし、彼の精神を蝕んでいく。
炎は怖い。思い出すだけで身体が熱くなって、反比例するように精神が磨耗していくのだ。
今すぐにでも吐瀉物を吐き出してしまいたい衝動に駆られながら、龍斗は叫んだ。
「ふざけんじゃねえよ! 殺し合いを愉しんでんじゃねえ!」
「む……?」
「傷つくことも、傷つけることも『怖い』ってことを知らなきゃいけねえんだよ……! そうじゃなきゃ、いけねえんだ!」
届かぬ説得と知りながらも、一度口に出た絶叫は止まらない。
一合、二合、三合とお互いの得物を打ち合いながら、龍斗は歯を食いしばって叫んだ。
「人を傷つけることを平然に思うな! 人を殺すことに麻痺してんじゃねえ!!」
「……それが戦争で、殺し合いだろう?」
「そうだな! 矛盾してるのも分かってんだよ! だけど、だからと言って忘れちゃならねえことだって、あんだよ!」
基本的な概念だ。
他人を傷つけてはいけない、他人を害してはいけない。
生きるためなら何でもしてきた民族を相手にするには、あまりにも稚拙で幼稚な言葉だろう。
だが、絶対の真実だ。それはいけないことだと、知らなければならないのだ。
「だから、俺は言うぞ? 無謀と知りつつも、言うぞ! よぉく聞きやがれ、クソ野郎!」
これは、高校生の少年が告げる絶対の宣誓。
平穏を生きてきた男が叫ぶ信念。
あまりにも脆弱で、甘くて、馬鹿馬鹿しくて、愚かで……それでいて、絶対的に正しい理想論を。
「俺は、テメエを殺さねえ!!」
ギレンの動きが空気が停止したかのように固まった。
表情は珍しく無表情から驚愕へ。
言葉そのものが予想外すぎたのか、ギレンは呆けたかのように動きを止めた。
残念ながら隙ではない。龍斗が求めているのは、そういった簡単な隙ではない。
「いいか! これが戦争で、殺し合いだとしても! 俺は人殺しを肯定しない! ラピスには悪いけどな!」
桃色の髪の女の決意を思い出す。
主を護るためなら誰でも殺してみせる、という絶対の覚悟。
ああ、この世界の住人ならそれが当たり前なのかも知れない。修羅の道は厳しく、そして尊いのだろう。
龍斗だって親友のためなら、人殺しだって許容してやりたい。
もしも、龍斗が奈緒の肉体を使っているのでなければ、だが。
「何故なら、俺の身体は借り物だからだ!
俺の勝手で、親友に人殺しの業を背負わせるわけにはいかねえからだ!
親友の手を汚させるようなことは、できねえ! こんなふざけた想いをあいつにはしてほしくねえ!!」
ああ、詭弁だということは分かっている。
奈緒は直接ではなくとも、間接的に何十人も何百人も殺してしまった。
戦争の責任者。総司令という立場は、奈緒の精神を蝕んでいる。親友が『死』に慣れようとしている。
それは、だめだ。人を殺すことに慣れちゃいけない。
本当の意味で奈緒が魔王になってしまう。そんなのは嫌だ、許せない。だから龍斗は剣を払いながら叫ぶ。
「何度でも言うぞ、おい! 人殺しに慣れるな! 罪悪感を忘れるな! それは、目を逸らしちゃいけねえもんなんだ!」
それは、心の中で待機している奈緒に向けて発せられた言葉だった。
心中の奈緒はハッとする。
冷静沈着に物事を見ていた。策略を考えていたが、人が死ぬことの罪悪感を忘れようと勤めてきた。
そうでなければ壊れてしまいそうな気がしたからだ。
「突き進むのが羅刹の道だってんなら、せめて心に留めておけ! テメエも、奈緒もだ!」
「…………?」
その言葉の意味をギレンは解することができない。
彼の常識は殺さなければ殺される過酷な世界で培われてきたものだ。
届かない。そんなことは分かっている。
だが、平穏な世界で一緒に過ごしてきた親友になら、きっと伝わってくれる言葉だ。
「逃げんな! 目を逸らすな! 忘れようとするな! 人の上に立つなら命を背負え!」
ひとつひとつの言葉が突き刺さる。
奈緒という親友の心に深く、深く刻まれていく。
ずっと悩んでいたのは奈緒だけではなかった。龍斗も飄々とした態度の裏で悩んでいた。
(背負うのをやめようとするな。そんで、背負えない荷物は皆と一緒に抱えろよ……)
(……!)
(いいな、奈緒。俺もセリナも、他にもたくさんの奴らがいる。だから頼れ……そんでもって、その代わりに助けりゃいい)
ああ、説教くせえなぁ、と自分でも思う。
それでも魂だけの存在はこれまでどおり、奈緒の親友であり続ける。
少しだけ年上の幼馴染として。弟を諭す兄のように。親友を助けるのに何の理由も必要ない。
それは奈緒も同じのはずだ。心の中でそっと頷く気配があった。
「……確かに」
ぽつり、と言葉を発したのは意外にもギレンだった。
戦う手を止め、真っ直ぐに龍斗を見据え、自嘲気味な笑みを一瞬だけ見せた。
人間臭い顔つきだ。能面のような無表情の魔王が、急に身近なものへと見えてしまう。
魔王は表情を改めて無に戻すと、言う。
「我は王としては失格だ。それは貴様の言うとおりに違いない。……だが」
紅蓮の剣が火力をあげた。
ごおおお、と勢いよく噴出する魔力と、それに比例して巨大化していく魔王の得物。
両手持ちの大剣は灼熱の断罪道具と成り立つ。
「だが、それがどうした。我は最初から戦場で死ぬために戦い続けた。その結果、王になっていた。それだけだ」
「その結果、政治に省みなくなって、たくさんの奴らが苦しんだ」
「それに文句があるのなら、我を殺して王座を奪え。貴様の望む世の中にでもしてみるがいい」
それが魔王の望みでもある。
壮絶な殺し合いをしたい。もっと、もっと、もっと戦いたい。
ギレンの欲求はそれだけだ。この渇きを癒してくれれば、それでいい。
―――――死ねばいいのに。
不意に奴隷の女の声が、ギレンの脳裏に浮かんだ。
違う。あの女のことなどどうでもいい。望むのは熾烈な戦い、苛烈な戦場、甘美なる死だ。
あんな女のことなど、関係ない。
関係ない、関係ない、関係ない、関係ない!
「分からねえ奴だな、行くぞ!」
「っ……がぁぁあああ!!!」
らしくない咆哮で雑念を弾き飛ばす。
思い出すのは奴隷との日々。決して温かくもなかった荒廃の生活。
出逢いはクラナカルタの魔王となった、数年前のことだった。
◇ ◇ ◇ ◇
『人殺し』
少女にそんな言葉を投げつけられた。
男が魔王へと成り上がったとき、前魔王の娘からの言葉だった。
悪政を敷いていた暴君は男によって殺害され、娘は男の慰み者として捕らえられた。
絶望的な未来を前にした少女はしかし、無機質な声で言う。
『人殺しは大嫌い。父様も、父様の側近も、兵士たちも、あなたも』
『良く分からん』
男は首をかしげた。
奪うことで生きていく世界では、他者を殺すことすら常識だった。
男がおかしいのではなく、真実としてそれが『クラナカルタの常識』だった。
少女は今まで己の部屋だった幽閉場所のベッドの上に座り込みながら、糾弾するように言う。
己の運命を受け入れたうえで。
『人を殺すのが好きなんでしょ?』
『良く分からん。戦うのは好きだ。だからきっと、殺すのも好きなのだろうな』
『最低ね。死ねばいいのに』
少女は笑わない。
少女は悲しまない。
少女は怒ることもせず、一切の感情を廃して吐き捨てる。
『父様を殺してくれてありがとう。おかげで父様はこれ以上、手を血で染めることはなくなったわ』
『…………』
『ついでにあなたも人殺し。同じように死んでくれないかしら』
『なら、貴様が我を殺して見せればいい』
『いやよ。人殺しになんてなりたくないもの。あなた、ちゃんと人の話を聞いていたのかしら?』
ある程度の悪態をついて気が済んだのか。
少女は男を見上げたまま、力無くベッドの上に座り込んだ状態で口を開く。
『私の言いたいことは終わり。好きにしていいわ。王になった以上、跡継ぎが必要なんでしょう?』
『ああ。周りからもよく言われる。今日はその用件で来た』
『文句は言わないわ。せいぜい、敗者から何もかもを奪いなさい。それが父様が決めた法律でもあるものね』
強い者が弱者から全てを奪う。
自然の摂理にして、絶対の法律だ。少女はそれを強く理解していた。
少女の父は弱かった。目の前の男は強かった。だからこそ、少女はこうして望みもしない男に身体を捧げることになる。
彼女の中にあるのは無気力な諦観。
別に殺されようが、穢されようが、本当に心の底からどうでもよかった。
『それで、どうすればいいのだ?』
『は?』
『どうすれば子供が作れる? ああ、安心した。我は戦いしか知らんのでな、貴様が知っているなら……』
話が早い、と告げようとした男の顔に白い枕が投げつけられた。
弾くまでもない殺傷力を感じさせない攻撃を受けて、男は僅かによろめいた。
見れば少女が僅かに顔を紅くしながら、やはり声だけは冷たく言い放った。
『し、死ねばいいのに……』
『……? すまん』
戦い以外に何も知らなかった男は、首をかしげながら謝るのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
『あなたは異常よ』
『そうか』
一年が過ぎた。
男は機会があれば少女のところへ足を運ぶようになっていた。
子供作り、などという名目は既に有名無実となっていき、男は少女の毒舌を楽しんでいた。
少女の言葉は痛烈で、そして刺激的だ。
戦いにしか興味を向けることのなかった男が珍しく見つけた楽しみは、彼女の人間性を観察することだった。
『戦うことだけ、死ぬことだけしか考えてないもの。まるで獣ね』
『そうかも知れんな』
『死ねばいいのに。やっぱりあなたは死ぬべきよ。あなたの望みは『戦いの中で死ぬこと』なんでしょ』
『そうかも、知れんな』
否定はしなかった。
男は己の異常性を何となく理解していたし、的を得ていると言っていい。
理由はない。すぐに自殺したいわけでもない。
ただ、渇くのだ。もっと強い相手と戦ってみたい。己は戦場に骸を晒すような男だと思っている。
己を殺してくれるほど強い相手と殺し合って、戦人として死にたい。
『自分勝手の人殺し。最低ね、安い陶酔だわ』
『貴様はいつも手厳しいな』
『当たり前よ。私はあなたに死んでほしいもの』
『恨みか?』
『違うわよ』
少女は何の迷いもなく否定すると、真っ直ぐに男を見据えて言う。
『あなた、死にたそうだもの。忠実なる奴隷として、ご主人様の願いが叶うのを願わないと』
それが、どんな意味を持つのか、男には判断がつかなかった。
痛烈な皮肉なのか、それとも本心から出た矛盾した願望の形なのか、男には理解できなかった。
胸を突かれたような顔を浮かべる男。
少女は初めて小さく笑って見せると、歌うように告げる。
『だからあなたは、自分よりも強い人と戦って死ねばいい。あなたの末路はそれが妥当よ』
『それは、貴様の望みでもあるのか?』
『……そうね。きっと、そうに違いないわ』
『そうか……そうだな』
それは厳しい全肯定だった。
理由は未だに分からないが、男は胸に想像以上の軋んだ痛みを感じていた。
当然のことながら、少女は男の死を願っていた。
そんな当たり前のことを今更ながらに突きつけられることが、何故か苦しかった。
『我が死ねば、貴様は自由だな。何がしたい?』
『新しい飼い主が、新しい首輪を私につけて嬲るだけじゃない? もう、どちらでもいいことだけど』
『それは、どういうわけか、不愉快だな』
『……そう。醜い独占願望ね』
少女は、珍しく機嫌の良い様子で微笑を浮かべ続けていた。
いっそのこと、と少女は気の迷いを思う。
奴隷に身を落としてもなお、王族として確立していた気概すら溶かして。
『戦いにしか興味がないなら、世継ぎなんて必要ないわ。私を独占したいなら殺せばいいのに』
『……何故だ?』
『殺せば、殺した人を独占できるわ。命は誰にとってもただひとつ。一度でも奪えば、永遠にあなたのものよ』
『人殺しは嫌いなのだろう』
『安心して。あなたのことは、嫌いだから』
殺したい、とは思わなかった。
彼女には常に傍にいてほしい、とすら思っていた。
捕らえた当初は大嫌いだった男の評価が、嫌いにまでなっている。時間は緩慢だが、その違いが心地よかった。
静かに男は首を振る。
殺せない、という意思表示であり、己が考えた軟弱な答えを振り払うための行為でもあった。
◇ ◇ ◇ ◇
『ナザック砦が落ちた。ベイグも重体だ』
『そう』
『貴様の父を裏切った兄弟は、もはや死んだと言っていい。少しは気が晴れたか?』
『どうでもいいわ。あの兄弟に興味はないもの』
そうか、と男は小さく呟いた。
何となく予感していた答えではあったが、少しだけ落胆にも似た感情があった。
数年のときが過ぎても、男と少女の関係が変わることはなかった。
『強いの? 今度の相手』
『分からん。だが、少なくともベイグよりは強いに違いない』
ナザック砦での戦いでは、それほど脅威だとは思えなかった。
だが、名前を聞いてみたいと思えるような少年だった。
リュート・サグラとナオ・カリヤ。
男と少女の願いを叶えてくれる相手かどうか、楽しみに出来るような者たちだった。
『楽しそうね』
『我が望みだからな』
『死ねばいいのに、ほんと』
『もはや聞き慣れたな、その言葉は』
男は無表情。
女も無表情のまま、見つめあった。
子供を作るため、と言いながら一度として関係を持たなかった二人。
女は男の死を願いながら、男は己の死を願いながら、数年のときを生きてきた。
『もしかしたら、城塞都市まで攻めてくるかも知れん』
『そうかもね。それが?』
『貴様、逃げてみるか? 我は今度こそ、この戦いで死ぬかも知れん。奴隷が嫌なら、止めはせんぞ』
少女は少しだけ驚いた顔を見せた。
無表情以外の顔を見せることは珍しいので、これだけでも言ってみた価値があった。
男はいつの間にか、少女に情を抱いていたらしい。
再び誰かの飼い主にされるぐらいなら、己の前から姿を消してでも逃げてもらいたい、などと思ってしまっていた。
『ばか』
予想外の言葉だった。
今度は男が驚いた顔を浮かべる番だった。
少女はいつものようにベッドに座り込んで、シーツに体を包ませながら言う。
『死ねばいいのに。あなたも。そして、私も』
『どういう、ことだ?』
『知らないわよ。とにかく、私はここに残る。あなたは勝手に戦って死んできなさいよ。その報告を待ってるわ』
男は少女が何を考えているのか、分からない。
少女は珍しく表情に無ではないモノを浮かべながら、更に。
『あなたは戦って死にたいのに、私は弱いからその願いを叶えられない』
『…………』
『どうせ私が逃げても野垂れ死によ。もう、とっくに生きることも諦めてたぐらいだし』
絶句する男に向けて。
少女の口から今までで一番優しくて、今までで一番残酷な言葉が放たれる。
『あなたに殉じてあげるわよ。せいぜい、頑張って死んできなさい』
◇ ◇ ◇ ◇
彼女を殺したくない。
少女を死なせたくない。
男に課せられた捨て身の呪いは、男を存分に苦悩させた。
死にたいのに、死にたくないなどと思ってしまう。
『これが、貴様なりの復讐か?』
戦人として戦って死にたい。男にあるのはそれだけだった。
今では生き残ることに理由すら見つけてしまう。
ああ、無様だ、魔王ギレン。
本当にお前はどうしようもない戦士だ。彼女の言うとおり、正真正銘の異常者に違いない。
一人の女にこれほど狂わされているのに。こんなにも惑わされているのに。
――――戦場に出たら、その想いを結局忘れてしまう。
男にとって戦いとは恋以上に甘美で。
男にとって殺し合いとは、性交よりも興奮する事柄で。
男にとって殺されることとは、一人の女の死よりも大事な願いであったのだから。
『戦場こそが、我の居場所だ』
誰か、この狂戦士を殺してくれ。
誰か、この愚かな大鬼の渇きを癒してくれ。
誰か、殺し合いにしか悦を感じられない異常者を止めてくれ――――!
◇ ◇ ◇ ◇
もっと速く。
もっと強く。
もっと激しく。
もっと鋭く。
もっと苛烈に。
もっと強引に。
もっと強烈に。
もっと、もっと、もっと―――――全てをぶつけるように。
「があぁぁぁああああああああ!!!」
「は、ははは! はははははははははは!!!」
命さえ燃やし尽くすかのような猛攻。
後先すら考えない。生き残ることを放棄しかねない自殺衝動の赴くままに。
ただ唯一の好機に全てをかける理念は、命を捨てて戦う死人に似る。
それを凌ぎ、受け止め、反撃すら行う魔王もまた、打ち合う強敵と同じだろう。
両者は互いを削り、自分を削って戦っていく。
(望むのは……奇跡の、三秒間……!)
どんな形でもいい。
三秒の間だけ、魔王ギレンを止めなければならない。
反撃もない、攻撃もない。絶望的なまでの三秒間を手に入れなければならない。
魔族の身でありながら、人間と肉弾戦で戦える種族……オーク族。
歴代最強の大鬼族は、血沸き肉踊る戦いを心行くまで楽しんでいる。
「いいぞ、もっとだ! もっと速く! もっと鋭く! もっと強く打ち込め!!」
それは余裕から来る言葉ではない。
生死の狭間で愉しみ、ただ無邪気なまでの殺意だけが龍斗を襲い続ける。
己を追い込むことで、更なる危難に身を委ねるかのように。
技術も何もない、乱暴で凶悪なチャンバラが続いていく。
打ち合っている最中、魔王の脳裏にひとつの言葉が……願いが浮かんでいた。
(……我を、殺してくれ)
己の異常性を理解し始めた哀れな魔王は。
その一瞬だけを求めていた。




