第47話【クラナカルタ決戦3、追憶】
「テセラ姫ー、テセラ姫ー」
「なんじゃ?」
「どうして、テセラ姫はメンフィルで過ごさないの? テセラ姫、偉いんでしょ?」
「ふむ。妾には、城の生活など性に合わんのだよ」
昔々の話。
生活はやっぱり過酷な日々。
姫、と呼ばれた魔女は一人の子供と話をするのが最近の楽しみだった。
十年以上前の話か。本当に、年寄りになると昔を思い出して仕方がない。
「テセラ姫ー、テセラ姫ー」
「なんじゃ?」
「結婚とかしないのー? テセラ姫、ずっと可愛いじゃん! ていうか、僕と全然変わらないよね」
「阿呆。もうとっくに結婚して、未亡人じゃ」
「新しい恋人とかいないのー?」
「最近の子供は色恋沙汰が好きだの……まあ、相手はおらんよ。ほら、この話はもういいじゃろうが」
少年は、とても朗らかで感受性の高い性格だった。
土気色の肌はオーク族の証。ゴブリンの女性は褐色の肌が特徴的で、魔女もまた褐色の肌を持っている。
良く似た色に惹かれたのか、少年は良く里へと遊びに来ていた。
「僕は城塞都市に暮らしてるんだよ」
「うむ、そうだろうのう」
「姫もおいでよ! お母さんが美味しいシーマのパイを作ってくれるんだよ!」
「ふむ……シーマの実の、のう……」
格差社会、というべきか。
絶望的なまでの貧富の差を、少年は恐らく理解できないのだろう。
魔女は徘徊する魔物を狩って食い繋いでいるような日々だ。
城塞都市での生活は豪勢なのだろうな、と人知れず思う。恐らくは、誰かから奪ってきた食材だ。
「機会があればの」
「うん!」
「さあさ、こんなところに長居してはいかん。母御も心配するだろう?」
「う、うん! それじゃ、また明日ね!」
明日も来るのか、という心配と呆れと、僅かな期待を込めて魔女は溜息をつく。
素直な良い子だ。
ただ、己の中にあるものを処理するのが苦手なように思った。
少年はオーク族にしては小柄だ。青年になっても、ゴブリン族のような小柄な体つきかも知れない。
(……排斥、されていなければよいがの)
身体の小さなオーク族は馬鹿にされる。
心の中に劣等感などを抱えていなければいいが、と魔女は一抹の不安を覚えながら食事を取る。
魔物の肉を消毒し、生のまま咀嚼しながら、明日も来るだろう少年を思い出して目を細めた。
孫の顔を見ることを楽しみにする老婆のように。
一年間ほどの交流が続いた。少年が大人になっていくのを見守るのが、何よりの楽しみとなっていた。
長くは続かなかったが。
◇ ◇ ◇ ◇
「姫……ひめえ!!」
崩壊は突如として訪れた。
少年はオーク族にしては小さな身体で、身体中を血まみれにしながら現れた。
魔女の表情が凍りついた。
それは少年が血だらけだからではない。詳しくは分からないが、少年を紅く彩る水滴は少年のモノではないだろう。
間違いなくそれは、少年の背中でぐったりとしているオーク族の女のものだった。
「どういうわけじゃ、これは……!?」
「あ、あ……助けて。助けてよ……テセラ姫……ひめえ……!」
「くっ……」
小さな背中に身体を預けていた女を、冷たい床の上へと寝かせた。
沈黙が降りた。魔女の手が止まってしまっていた。
少年は魔女の様子に気づかないまま、人形のように動かないオーク族の女を一心に見ながら叫び倒す。
「助けてよ、ひめえ……! お母さん、助けてよぉ……!」
「…………」
魔女は、たっぷりと十秒間も固まったままだった。
有り触れた悲劇が目の前にある。
ラファールの里では珍しくもない光景。どんなに抗っても冷たい現実は女の体温を奪っていく。
正確には、奪い尽くしてしまっていた。
「あいつら! あいつらぁ! 緑色の肌をした奴らにやられたんだ! 食べ物を持っていかれたんだ!!」
魔女が初めて出逢う少年の母。
背中に刃物の傷があった。一度でも二度でもなく、それこそ無心に刺し続けられたのだろう。
少年が無傷なのは奇跡に近い。母が身を挺して庇ったのだろう、と想像できた。
代償はあまりにも大きく、そして無慈悲にも冷たい。
「姫、助けてよ……! お母さんを助けて……ほ、ほら、だって。姫ならできるもん……姫なら、なんだって」
「…………っ」
子供心の崇拝か。
認めたくない現実からの逃避かも知れない。
魔女なら何でも出来る、と思い込んでいるのだろう。
「……無理じゃ」
助け、られない。
魔女は人の生死にまで介入することなんて出来ない。
彼女の住む世界はクラナカルタ領ラファールの里。枯れた砂漠に医療用具なんてなかったし。
何より、既に事切れている女を蘇生させる術を、魔女は知らない。
「もう、死んでおる」
「……っ!!」
少年は突き付けられた現実に顔色を変えた。
瞳は無機質で冷たいモノへと変貌していく。朗らかな性格を象徴するような瞳が消えていく。
表情は柔和なそれから、復讐鬼と思えるほどの激情が支配している。
「あっ、ぁ……ああああああぁぁぁぁぁああああああああああああ!!!!」
亡骸となった母に縋り付く。
何度も返事を求めて呼びかけるが、当然ながら返事はない。
認めたくなくて首を振る。身体を揺らして起こそうとするが、冷たい肌が記憶の中の母の温かさではないと告げていた。
一時間以上、少年は嘆き続けた。彼の中で母の存在がとても大きいことを痛感した。
「……て、やる」
ぽつり、と。
少年の口から零れてはならない怨嗟の声。
魔女は背筋が凍ったかと思った。
あれほど明るくて朗らかな少年が、ここまで変貌してしまうのか、と思ってしまうほどの憤怒。
「殺して、やる……お母さんを殺したあいつらぁ……! ひめ、姫、ひめえええ……!」
うわ言のように魔女のことを呼んでいる。
身の危険すら感じた。
今にも飛び掛かってきそうな少年が、歯を剥き出しにして挑むように魔女へと要請した。
「あいつらを探してよ……僕、あいつらの顔を覚えてる。見つけて、殺してやる。お母さんを殺したあいつらを……」
だめだ、それはダメだ。
魔女はかつての朗らかな少年の幻想を信じ込んでしまった。
誰かを殺してしまえば、もう少年の心は戻らない。
それが分かっていたから、魔女は首を横に振った。信じられない、というような表情をする少年に語りかける。
「いかん。殺してはならん……」
「どうして!?」
「この里の住人は生きることに必死なのだ……場合によっては、他人を傷つけてでも、生きていたいと思う者もいる……」
「だから、なんだよ!? 生きたいからって理由でなら、他人を殺してもいいって!?」
「……違う……」
弱々しく首を振るしかなかった。
分かっている。少年の憎悪は正しい。実に正しい権利だ。
それが分かっているから、魔女は詭弁を用いるしかなかった。それがどれほどの不条理かを考えないまま。
結論から言えば、魔女は選択を誤ったのだ。
「汚い……この里は、醜悪だよ……!!」
「違う……汚いのは、この里ではなく……」
世界の理だ。
残酷なのは世界そのものだ。
この里は、残酷な法則に絡めとられただけの被害者なのだ、と言いたい。
だけど、母を殺され、憎悪の虜となっている少年に、どうやって説得すればいいというのか。
「復讐などやめよ、オルム!」
名を呼ぶ。
少年の名を叫ぶ。
魔女はエゴと分かっていても願いを叫ぶ。
それが後々に大きな悲しみすら生むことも考えず、ただ奇麗事を告げた。
「良いか、オルム。母のことは気の毒じゃった……だが、強く生きよ! 悲劇を乗り越えられるほど、強く……!」
悲劇には違いなかった。
しかし魔女は悲劇に慣れすぎていたし、里に住む者たちだって慣れすぎていた。
だから、なのかも知れない。
城塞都市出身のオルムは、魔女たちと違って悲劇に慣れてなどいなかったのだ。
その温度差はギシギシと音を立てて何かを捻じ曲げていき、ついに我慢の限界が訪れた。
「ふざけるなあ!!」
「……っ!?」
「ゴブリン! あいつらがお母さんを殺した! 他の奴らに助けを求めても、誰も助けてくれなかった!」
当然だ、彼らは自分が生き残るだけで精一杯なのだから。
家族ですら、見殺しにしなければならないほどに追い詰められている者たちに、他人を救うような余裕はない。
悪いのは里でも、ゴブリンでもないと言いたいのに。
悲劇を演出した犯人は民衆に罪を犯させたり、他人を見殺しにさせる世界のほうなのに。
「姫も、助けてくれなかった……!」
少年の絶望をどうやって癒せばいいのか分からない。
何十年と生きてきた経験はこんなにも役立たずだっただろうか。
「この里の魔族は、悪魔だ! お前たちのせいで……お前たちのせいでえ!!」
「違う、オルム……!」
「うるさい……! うるさい、うるさい、うるさい、うるさいぃぃぃぃ!!!」
少年は魔女の元を飛び出していく。
決定的な離別。どうしようもない決別。世界の被害者は少年か、それとも魔女か。
変わらなければならない。世界を変えなければならない。このままでは、いつまでも悲劇が続いていく。
訪れる者のいなくなった集落で、魔女は悲しげに呟いた。
「馬鹿者め……」
食べ物を奪わなければ生きていけない者。
奪うために傷つけなければならない。城塞都市に住んでいた、という理由で殺害に至ったのかもしれない。
格差社会にも似た酷薄な悪政。
その犠牲者は少年や母親であり、魔女であり、罪を犯した民衆たちだ。
「馬鹿者め……!」
そうして、二人の立ち位置は隔たれて。
十年以上の時が過ぎた。成人したオルムは、当代最強の戦士であるギレンを擁して国の上層部に立った。
百年を数えた魔女、テセラ・シルヴァも王権奪取を支援した。
協力関係にあろうとも、オルムとテセラの距離は隔たれたままだった。そして、最終的には敵味方に別れて争った。
「うっ……ううう……!」
かつての少年は胸を光の槍で貫かれ。
変わらぬ姿の魔女は致命的な一撃を加え、悲しげな表情で青年の死を見つめていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「姫……おせえ、っすよ……」
「うむ……無理をしたな、ロダンよ。死に急ぐものではないぞ、若人」
「へへ……違いねえ……」
功労者が発することができたのは、満足げで乾いた笑みだった。
男はそのまま気絶する。体力の限界だったのだろう。
命に別状はないはずだが……オルムの攻撃を何度も受けている。元通りに戦えるようにはなれないだろう。
後遺症が残るのは間違いない。
「お主ら」
「は、はい!」
「動ける者は負傷者の回収と治療。何人かはアズモース渓谷に走って、人手を連れてきてもらおうかの」
命令しながら、視線は仰向けのまま倒れるオルムを見つめている。
息はある。だが長くは保たないだろう。
腕で貫かれたかのような凄惨な胸の傷は、誰がどう見ても致命傷だった。
最後の灯火とはいえ、命を繋いでいることが脅威的ともいえる。
「オルム」
声をかけた。
直接、こうして話すのは十年ぶりだろうか。
復讐に生きたオーク族の青年は、口周りを真っ赤に染め上げながら口元を歪めていた。
「姫、か……くはは。最期は貴様か……何とも、因果なものだな……」
「お主は口調も、背丈も、考え方も、変わってしまったの」
乾いた笑いが足元から。
死の間際において憑き物が落ちたのか、青年は皮肉混じりながら穏やかな声色をしていた。
さっきまでの悪鬼のような行動の反動なのかもしれない。
真っ白に燃え尽きた青年は、馬鹿にするような口調を崩すことなく、口を開く。
「貴様とは、違うさ……もう、十年も経った……」
「そうだの」
命が、燃え尽きていく。
若人の命が消えていく。共に笑い合った少年に、置いていかれる。
魔女はこれまでどおり、変わらぬ魔女の姿のまま告げた。
「すまぬ」
「…………」
「妾は、お前も救いたかった。『あの時』に戻れると思っておった……だが、現実はこの様でな」
他ならぬ自分の手で、青年の命を絶つ。
何とも馬鹿らしい決着か。百年も生きてきて、何一つ自分の思い通りになどなりはしない。
悲劇の結末。これもまた、里の住人は慣れすぎた。
ゴブリンの姫は、多くの人たちに置いていかれた。彼女一人が生き残り、周囲の者たちが先に逝ってしまう。
これもまた、置いていかれる光景のひとつに過ぎなかった。
「誤解を解きたかった。きっと、もう一度、分かり合えると……」
「よせ」
ごふっ、と青年が血の塊を吐きながら笑った。
未練がましい魔女の態度に痺れを切らしたらしい。
指一本だって動かせず、何かを言葉にするだけで命を削るような状況下で、敢えてオルムは口を開いた。
もしも、の話は好きじゃなかったから。
「もう、終わったことだろう……ごふっ……はは、私は後悔せんぞ。ざまあみろ……」
「オルム……」
「今までもこれからも、ゴブリンどもを呪い続ける……どんな事情があるにせよ、私は決してお前たちを、許さん……」
それは、最期の最後まで敵であることの意思表示。
分かり合える可能性などなかったのだ、と。
結末はお互いのどちらかの死しかなく、必然の結果にして気に病むべき問題ではない、と。
殺さなければ殺していた。それが戦場で、敵味方に分かれた者たちの流儀だ。
「それが、生き方だからな」
死に際、オルム・ガーフィールドの最後の矜持。
安易な救いなどくれてやらん。死の間際に分かり合えるような結末など用意しない。
最期の最後まで、テセラ・シルヴァのいけ好かない敵で在り続ける。
復讐に囚われた人生であろうとも、自分一人だけはその生き方を否定しない。
絶対に、否定しない。
「……最期に。何か言いたいことは、あるかの」
最後の問答だ。
オルムはゆっくりと、己の思考の中へと埋没していく。
◇ ◇ ◇ ◇
「……最期に。何か言いたいことは、あるかの」
言いたいことだと。
あるさ。あるに決まっている。
潔い最期など迎えてやらない。死ぬ間際まで汚い言葉を吐いてやろう。
蛆虫のゴブリン族。その長たる姫。全てが汚らわしい。
何て言ってやろうか。頭の中に思い浮かぶのは百通りを越すほどの罵詈雑言だ、数には困らない。
呪われろ、と叫んでやろうか。
死してなお、ゴブリン族を呪い続ける鬼となるのも面白い。
死んでしまえ、と言葉を投げつけてやれば、姫はどんな顔を見せるだろうか。
きっと、受け止めるだろう。辛い表情を見せて、それでも気丈に罵詈雑言を受け止めるに違いない。
地獄で待っているぞ、ではどうか。
面白い意見だ。これも採用してみたい。
悪役のようだ。実にシンプルで、実に陳腐で、だからこそ自分にも相応しい捨て台詞に思えた。
たくさんある。奴らにぶつけたい言葉などいくらでもある。
(………………)
良くも殺してくれたな、とか。
母の仇は決して忘れん、とか。
罪悪感に苦しめ劣悪種、とか色々な言葉が頭に思い浮かぶ。
だけど。何かが違うような。
もっと、ずっと前から、言いたい言葉があったような気がする。
(………………はは)
思い出した。
少年だった時代の残り香、残りカスの想いだった。
遅すぎる。絶望的なまでに遅すぎる。
そんな、簡単なことに落胆していた。落胆して、代わりの言葉を探そうとして、気づいた。
もう、口が開かなかった。
残念だ。
罵倒してやる良い機会だったのに。
ちょっとの迷いで機会で棒に振ってしまった。
疲れてしまった。胸を貫く激痛すら心地よくなってきた。情けなく、ぱくぱくと口を閉じて、開けて、を繰り返す。
最後の息を、すう、っと吐いて。
「――――――」
何かを口にした。
頭が働かなくなって、何を言ったのかを自分でも理解できなかった。
耳にも届かなかった。五感が真っ暗になっていって。
最後に視界の隅で、小さな瞳に溢れるほどの涙を溜めた、憧れの人の姿を見つけた。
◇ ◇ ◇ ◇
「本当に……どいつもこいつも、妾を置いていきおる……」
魔女は事切れた青年を見下ろして、小さく肩を震わせていた。
泣くものか。慣れている。悲劇には慣れている。
置いていかれることにも慣れた。だから泣くものか。こんな、復讐者如きの死を、嘆きなどするものか。
「いかんの……」
温かい思い出が胸の中に広がった。
笑い合った日々は十年の時を経てもなお、魔女の心に強く残っている。
誰も、彼女たちに声をかけることは出来なかった。
魔女は小さく、ぽつり、と。自分を嘲笑するかのような、軽い口調で言霊を吐き出す。
「年寄りは、昔を懐かしみすぎて、いかん……」
そのときだった。
遠くで竜のいななきが響く。
魔女は上空を見上げた。竜の鳴き声は遠い空の向こう側だったが、彼女には見えた。
豆粒のような姿。高速で飛んで帰った者たちを。
「……ふん。遅いわ、馬鹿者めが」
伝達魔術品シェラを取り出した。
魔力の波長を合わせ、視線は遠く、アズモース渓谷の向こう側の豆粒へと向ける。
聞こえるか、と声をかけた。
帰ってきたのは一日ぶりにしては懐かしい、黒髪の少年の声だった。