第42話【決戦の日は近い】
「ふうん。それじゃ、ボウヤはやっぱりオリヴァースに戻っちゃったわけねん?」
「一日で戻るって言ってたわ」
奈緒を見送った夜、その日のうちに首脳会議は行われた。
南門に布陣した本陣の、総司令室……奈緒の天幕に、討伐軍の首脳陣が集まっていた。
時間はあまり掛けられない。
時刻は夜遅くだが、この瞬間にでも敵が攻めてくる可能性は捨てきれないからだ。
「オレは東門の警備と、有事の際には南門の救援ってことで、いいんだな?」
「ええ、ナオはそう言っていたわ。カスパールでもいいけど」
「……いやぁ、ボクは遠慮しておきますよ。軍の指揮は得意ですが、接近戦は不得手ですからね」
「筋肉が足りねえんだよ、筋肉が」
「種族の違いという単語をトラウマとして刻み付けますよ、隊長」
東はカスパールが全軍の指揮を執る。
ゲオルグは救援隊として部隊を半分に分け、南門を襲う敵を囲んで打ち倒す役目と決まった。
「既に、隊長の部隊とボクの部隊、二つに分割しています。有事の際には迅速な行動ができるかと」
「おうおう。カスパールの案だったが、役に立ちそうだな、おい!」
「いえいえ。隊長と違って考えてますからね」
「んだとぅ?」
いつもの言葉の応酬に、潔癖症のユーリィは僅かに頭を抱えた。
傭兵と肩を並べることが気に入らないのかも知れない。
彼女は鉄の女、氷の女、という異名を兵士から付けられているほど、毅然とした態度で一日総司令に語る。
「エリス殿、ナオ殿は、一日で戻る、と?」
「ええ、そう言ってたわ。ラフェンサの飛龍なら、往復で……半日ちょっと、くらいかしら?」
「もう少し、遅くなるやも知れません。一日で鎮まるような、内乱であれば、いいのですが」
「そういやアンタ、大将が援軍に向かうことに珍しく賛同してたな?」
ゲオルグが思い出したかのように語った。
ラフェンサの様子がおかしい、と夕方の時点で気づいた奈緒は前もって首脳陣に声を掛けていた。
傭兵のゲオルグは総司令自身が出撃することに難色を示したものだが、ユーリィは賛同したのだ。
彼女の性格を考えると、無謀だのと口にして止めるものかと思っていた。
「わたくしも。後方の憂いが脅威であることは。理解していますから」
「あはん。どうせ一日だけだし、今までも相手のお兄さんたちが攻めてくることもなかったから、大丈夫よ、きっと」
「そうかねえ」
それは些か楽観が過ぎるのではないか、と傭兵の感は告げていた。
もちろん、攻めてきたときの備えは十分だ。
奈緒とラフェンサの両名がいない、という事実は厳しいが、武闘派は他にもたくさんいる。
攻めてきても互角以上の戦いができるに違いないが、何かが引っかかるゲオルグだった。
「ふむ。発言、いいかの?」
「ええ、どうぞ」
天幕の端っこのところで、見た目幼女のゴブリン族が手を挙げた。
この中ではゲオルグに次ぐ年長者な彼女だが、曲がりなりにも降伏した敵将という立場である。
発言権はあるし、奈緒もそんなことは気にせずに何でも言って欲しい、と言っているが、彼女は礼儀を弁えていた。
首脳陣が集まった場では、こうして手を挙げて発言の許可を貰っている。
「妾の計算が正しければ、そろそろ城塞都市の兵糧が尽きる。今日の夕方など、オーク族が降伏してきたからの」
「オーク族が?」
それは珍しい、とラピスが声を上げた。
オーク族は周知の通り、ゴブリン族を劣悪種として見下す者が多く、そして自尊心の高い魔族だ。
彼らの一部が降伏してくるだけでも、城塞都市の状況が切羽詰っているのが予想される。
「何でも、兵士たちのためにオーク族の民衆から食料を奪い始めたらしい。横暴に耐えかねたのじゃろうの」
「……なるほどねん。本格的に手詰まりになってきたわけだ。バカの人たち……」
「お嬢様……逆に言えば、明日にでも攻撃を仕掛けてくる可能性は十分にあるのでは」
「そう、ね」
敵が兵糧を求めて出撃してくるのは明日か、それとも明後日か。
セリナが魔王ギレンの立場なら、明日にでも攻撃を仕掛けるに違いないだろう。
奈緒がいない、ただそれだけの事実が心細い。
今まで彼の隣で勝利を経験してきた彼女は、柔和な笑みを浮かべる少年の顔を思い返していた。
「ともかく、オーク族は戦力になるからの。妾の軍に加えさせてもらったが……明日に会戦する覚悟はしておくべきじゃ」
「分かったわ。時間を稼ぐ戦いをしないと……」
「……だな。なんだかんだ言って、大将が軍を指揮して、実際に勝利して、ここまで来たんだ」
「ふふ……最後にボウヤがいないと、締まらないわよねえ」
そんなこんなで、話は進んでいく。
笑い話をする余裕はない。必要最小限の情報交換を終えて、彼らは役目を終えていく。
「配置換えをするわね。ラピスは南門に移動、西門はテセラにお願いするわ」
「何故じゃ? 妾たちの部隊を最前線から外す理由などいらんじゃろ、扱き使えばいいというのに」
「ありがと、その気持ちだけ貰っていくわ」
奈緒がいなくなって、不安が押し寄せてきたからだ。
一緒にラキアスを打倒する、という目的を持った仲間はラピスしかいない。後は、偽りの理由で集った者たちだ。
ラピスは、自分を守ってくれる。
奈緒がいないのなら、彼女を傍においておきたい、と願った。
「分かりました、お嬢様。それがしが、お守りいたします」
「ええ……お願いね、ラピス」
配置は決まった。
西門にテセラたちゴブリン部隊。
東門にゲオルグ、カスパールの傭兵部隊。
南門にセリナとラピス、そしてオリヴァース正規軍の兵士たちだ。
オリヴァース軍の指揮権は既にセリナの手元にあることは宣告済みだ。
多少の混乱はあるかもしれないが、迅速な動きと働きに期待できるだろう。
「お姉さんたちは、今までどおりでいいのかしらん?」
「……ええ。敵が出撃していって、手薄になった城塞都市を攻めてくれればいいわ。それで、戦いは終わる」
「はい。わたくしたちに。任せてください」
「ふふ。情熱的な汗が流せるわねん」
「それじゃあ、勝利条件」
勝利条件を確認する。
何度となく繰り返されてきた、彼らの中にある目的だ。
「ひとつ、城塞都市メンフィルの陥落」
セリナが告げる。
クラナカルタ唯一にして、最後の都市。
魔王ギレンが玉座に座る城塞都市にして、クラナカルタの首都を制圧すること。
「ひとつ、魔王ギレンと軍師オルムの撃破」
セリナは続けた。
魔王ギレン・コルボルト、軍師のオルム・ガーフィールド。
残りは二人の主要人物だけだ。
彼らを打ち倒す。それだけでも、城塞都市の陥落と同じだけの意味合いを持つ。
「ひとつ……誰も、犠牲にならないこと」
最後のひとつは、決して守られない勝利条件だ。
奈緒が掲げた理想の具現。言うだけなら問題ないでしょ、と笑う少年の顔が脳裏にちらつく。
最悪、この中の誰かは次の戦いが終われば、二度と会えないかも知れない。
それでも願わずにはいられない。それが、平和の中で生涯を過ごしてきた、黒髪の少年の本音だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「で、セリナ。結局、ボウヤとはどうなのよ」
「…………」
「ちゃんとアプローチしてるの? んー、お姉さんが思うに、ラフェンサとボウヤを一緒に行かせるのは危ないかも?」
「………………」
「ふふふ……ラフェンサにボウヤを取られて、ちょっと落ち込み気味なのかしらん?」
奈緒の天幕で一晩を過ごすことにしたセリナは、目の前の状況に頭を抱えていた。
ラピスも一先ず西門に布陣していた寝床から私物を持ってくるため、この場にはいない。
彼女は天幕に堂々と居座るつもりのマーニャを見て、溜息をついた。
「……ねえ、マーニャ。北門のほうは、いいのかしら……?」
「ユーリィがやってくれるわよ」
「ああ……そうね」
思い出した。
ラキアスから来た援軍の大将は自由人だったのだ。
天幕というより、奈緒の部屋に居座ってお茶の要求をするまでもなく、勝手に飲み物を手に入れていた。
うーん、貴族の作法からは考えられないわね、などと心の中で独り言を呟く。
「私は進展なしよ。あと、ラフェンサの件は私の気にしてるんだから、ほっといて」
「あら。あらあら、今日はセリナが少し素直ね」
「大きなお世話よ!」
マーニャが援軍として討伐軍の一員になってから、一ヶ月も経過していない。
既に女性陣は彼女に言いように弄られている現状だ。
ラピスなどはこの前、龍斗をネタにされて小一時間もからかわれた。最後は真っ赤になりながら刀を振り回していた。
本当にマーニャは友人を作るのが上手い、と思う。
恋を議題にして盛り上がった時点で、既に友人関係が形成されていく、という恐ろしい話だった。
「ふむ。セリナも恋する女子であったか……ああ、勝手に水をいただいておるぞ」
「………………」
「…………」
あれえ、おかしいなぁ、とセリナは目を瞬かせた。
どう考えても十歳くらいの褐色の姫が、ここにいるのが当然と言わんばかりの自然さでお茶を飲んでいる。
マーニャすらびっくり、という表情で固まっていた。
神出鬼没が売りの百歳越えの幼女は、セリナたちが固まっていることに気づかないままに言う。
「マーニャよ。お主も遊んでばかりいないで、そろそろ将来を考えた付き合いをしたほうが良いぞ。人生は短いのじゃ」
「……え、ええ……正論ね。とても正論よ、ええ」
「そう、ね……見た目十歳くらいの人に言われると、正論なのに理不尽さを感じてしまうのだけど」
まさかの三者面談だった。
セリナ、マーニャに加えて女性陣最年長にして、見た目最年少のテセラがお茶会に加わっていた。
見た目は幼女、中身は老婆……なのだろうか。
セリナは褐色の肌をじぃーっと見た。とても百年生きたとは思えない、ピチピチの肌だった。
「くっ……砂漠という厳しい環境の中においても、この滑々の肌の理由は一体……」
「テセラ。是非、お姉さんにも若さの秘訣を教えて欲しいわん……」
「……と言われても、のう。妾は明日、死んでも不思議ではないのだぞ?」
テセラは真剣な女性たちのコメントを受け流しながら、苦笑いを浮かべた。
ゴブリン族の寿命は短い。五十年から八十年ほどだ。
人間よりも短い寿命だというのに、テセラは既に百年以上を生きている。人間に換算すれば百三十歳ぐらいなのだ。
それでもなお、この神秘性すら感じさせる若さが、ゴブリン族の信仰の対象となったのだろう。
「それだけ生きてたら、恋のひとつはしたんじゃないの?」
「もちろん……というか、勘違いしているようじゃが、妾は既婚者じゃぞ。子供はおらんがな」
「ええええ!?」
「そ、その犯罪に手を染めたのはどんな殿方なのかしらね……?」
「こらこら、犯罪ではないわ」
いや、だってねえ、とセリナは隣に座るマーニャと顔を見合わせた。
テセラの見た目は十歳の幼女だ。
恐らくは結婚した当時も、これくらいの背丈と幼さに相違ない。ともなれば、彼女を娶った男性は真性だ。
嫌なレッテルを貼られることを覚悟で結婚したというのなら、彼女の夫は勇者に違いない。
「既に亡くなったがな。……と、微妙そうな顔をするな。普通に天寿を全うしたわ」
「ゴブリン族の人だったのかしらん?」
「うむ。正確にはゴブリン族と、人のハーフだったがの。見た目はむしろ、人間に近かったわ」
「へえー……テセラは、もう結婚してたんだ」
「未亡人だがの」
くつくつ、とテセラは愉快そうに笑った。
笑っていいことなのかどうか、セリナには判断が出来なかったから、愛想笑いだけに留めておいた。
彼女の中では、愛した男性と死に別れたことは清算されているのだろう。
「あら、新しい恋に身を投じることはしないの?」
「結婚した男性に操を立ててる、とか?」
「ははは! よせよせ、妾はもう老婆のようなもんじゃからなぁ。見た目に騙される男どもが可哀想じゃ」
「またまたぁー」
女三人寄れば何とやら。
勝手知ったる総司令の部屋で、彼女たちはしばらく会話に花を咲かせるのだった。
余談だが数時間後。
総司令の天幕に現れたラピスが加わることになる。マーニャやテセラは、大人の嗜みで彼女をからかい始めた。
最後は顔を真っ赤にしたラピスが刀を振り回して幕を閉じるのだが、それはまた別の話。
◇ ◇ ◇ ◇
一方その頃、奈緒たち。
「ナオ殿! しっかり掴まっていただかなければ、振り落としてしまいます!」
「ああいや、それは分かってるけどもう落ちそうなんだよぉぉおおおおおおおおおおおおおお!!!」
話は変わるが、ジェットコースターを奈緒は連想した。
安全が確保された状態でスリルを楽しむという、遊園地特有の有名アトラクションだ。
では、問題です。
シートベルトもなく、ただ女の子の腰に抱きつくだけが命綱のジェットコースターがあるとしましょう。
これは天国でしょうか、それとも地獄でしょうか。
「速度は落とせません! 恥ずかしがられては、こちらも恥ずかしいのです、ナオ殿!」
「わ、わわ、分かってるよ! だけどこれってすっごく怖いってええええ!!」
高度はジェットコースターの比ではない。
安全が確保されているわけでもないし、たまに飛龍が不規則に動くために胃の中のものを吐きかける。
乗り心地は想像以上に最悪だった。
気持ちよさそうに飛ぶのは飛龍ククリばかりで、乗りこんだ二人は色々と大変だった。
(奈緒……そういえばお前、ジェットコースター、ダメだったなぁ)
(か、かかか、替わってよ龍斗! ほら、今なら合法的にラフェンサに抱きつくことも!!)
(うむ、凄まじく美味しい条件だなー)
(よし、替わろうっていうか、無理やりにでも替わる)
(だが断る! それじゃあお前は成長しないからだ! 苦難を乗り越えろ! そして女を知れ!)
(後半最悪だ!)
内心でそんな会話が続けられているとは露知らず、ラフェンサは背筋に冷たいものを感じるのだった。
第一、奈緒が動揺しているのと、一応は年上だから、ということで頑張って平静を保っている状態なのだ。
ラフェンサだって家族以外の男性に後ろから抱きしめられる、などという状況は生まれて初めてだったりする。
心臓の音がばくばくっ、と強く鳴り響くのが聞こえないか、ラフェンサは心配だった。
「平常心、平常心、平常心……ぶつぶつ」
「ら、ラフェンサ? 急にどうしたの……?」
「な、何でもありません。わたくしは、落ち着いています」
「う、うん? あれ、落ち着いてるとか落ち着いてないとか、そういう話だったっけ……?」
意識するまい、と心に誓いながらも腰に回された腕とかが気になる王妹殿下。
回された腕は年下で童顔の男の子にも関わらず、意外にも骨張っていて逞しかった。
腰というか、お腹の辺りを男性の指が這う形になっている。
強風に吹き飛ばされないように奈緒がぎゅっ、と力強く抱きしめたりすると、何だかドキドキしてくるのだ。
(だ、大丈夫。兄上とそんなに変わらない……平常心を保って)
変なところに意識を持っていけば、手綱を掴むラフェンサ自身が危険になってしまう。
心を落ち着かせようとするラフェンサだったが、男性と身体的に接する経験がほとんどない彼女には難題だった。
密着する身体。彼女の柔肌のような背中に、これまた意外にも逞しい胸板が当たっている。
背後を振り向けばすぐ近くに奈緒の顔があるのだろう。耳元に生温かい息を感じて、王妹殿下の顔が真っ赤になる。
「あわわわわ」
「ら、ラフェンサー!? な、なんか高度が下がってる! 下がってるー!!」
「わ、わたくしは落ち着いてます!」
「言葉のキャッチボールが出来ていないーっ!?」
飛龍の二人乗りはこんなにも大変なのか、と戦々恐々とする奈緒だった。
ラフェンサはラフェンサで手を回されているお腹の感触が気になって、龍に乗ることに集中できていないようだ。
今日の夕食は控えめに取っておくべきでしたー! と微妙な乙女心で落胆してみたり。
恋すらしたことのない彼女でも、思うところはいくらでもあるのだった。
それでも唯一の家族の危機のため、速度を落とすことだけはしない。逆にそれが危険だった。
(龍斗ー! 替わってー!)
(うーん、すまねえ。さっきまで奈緒は寝てたからいいんだろうけど、今の俺はちょっと寝てねえから危ねえんだ……)
(わーん!)
心の中で泣き叫びながら、奈緒は龍斗との交代を諦める。
余談だが、寝てないのは真実の龍斗だが、別に奈緒の手伝いとして替わってやれる余裕はある。
替わらない理由は奈緒の反応を見るのが楽しいことと、幽体離脱状態になって絶景を楽しみたいからだった。
ちなみに、龍斗の言う絶景とは高度からの景色ではなく、強風で捲れた王妹殿下のおみ足だったりする。
いつか、彼にはスケベ大魔王なる称号でも授与されるかも知れない。
「あわわわわ……」
「ら、ラフェンサがいつもの冷静沈着なラフェンサじゃないのは何でー!」
「あわわ、あわわわわ……!」
彼女の身体にしがみ付くのに精一杯の奈緒は気づいていない。
お腹のところに回していた腕が、段々高度を上げている。既にへその部分よりも上に向かっている。
これ以上、奈緒の手が上に行くことがあれば、彼の手は少女の膨らみを鷲掴みにすることだろう。
天然スケベと養殖スケベ、果たしてどちらが罪だろうか。
「ナオ殿、も、もっと高度を下げてください……!」
「えええ!? 高度を下げることには賛成だけど、そもそも手綱を持ってるのはラフェンサだよねえ!?」
「こ、このままではいけないことになります! 高度を下げてください!」
「何が!? 僕はいま、何をすればいいの!?」
二人の叫びが砂漠の上空で虚しく響く。
己の背中に乗る主たちの困った状況に気づくことのない飛龍ククリは、気持ちよさそうにキュイイ、と鳴いた。
騒がしい乗客たちを乗せた飛龍は、オリヴァース国に向けて進んでいく。
◇ ◇ ◇ ◇
「準備が整いました、魔王ギレン」
「ご苦労だった、オルム」
城塞都市メンフィル。
砂風を凌げる都市は飢えと渇きに満たされていた。
ラファールの里と城塞都市メンフィルの環境が、そのまま入れ替わったようだと誰かは言った。
都市の人民が一人、また一人と逃げ出し始める頃、ついに準備が整った。
「長かったな」
「時間がかかりまして。ですが、これで逆転の一手は打てましょう」
「そうだな。向こうにはテセラが付いている。四方の門はおろか、抜け道すらも遮断されていた」
ラファールの里が、そのまま降伏したという事実は城塞都市に多大な衝撃を与えた。
心中でオルムは舌打ちをしたものだ。この機会に皆殺しになってしまえばよかったというのに。
そのまま討伐軍が彼らを抱えたまま、自滅するものだと思って様子を見ていたが、結果は彼の予想外のものだった。
ラファールの里は再生している、という情報が入ったときには、メンフィルは四方を囲まれていた。
全て、軍師オルムの裏をかいた出来事だった。
「だが」
だが、今回だけは防ぐことはできまい。
逆の立場なら可能性に思い至ったところで、防ぐ手段など何一つないからだ。
軍師オルムは小柄な体躯を震わせて哄笑する。
魔王ギレンは小柄な体つきを玉座に沈めたまま、静かに威厳のある言葉を告げた。
「既存の抜け道が塞がれたなら、新たな抜け道を作ればいい。ただ、それだけのこと」
「その通りでございます、魔王ギレン」
通常なら多大な時間が掛かる抜け道や隠し通路の開通。
それも地の魔法が使える者が集まれば、僅か一週間程度で完成に至る。数はクラナカルタ最高の戦力なのだ。
準備は整った。
何百もの兵たちを進軍させることができるほどの、抜け道は整った。
「今日は腹いっぱい、兵たちに食わせてやれ」
その意味を、わざわざ語るまでもない。
軍師オルムは腰に挿した二振りの剣を鳴らしながら一礼する。
唇の端には残虐なまでの張り裂けた笑み。明日が待ちきれない、と言葉にしてしまうほどの高揚感がある。
退出していくオルムの背中を無感動に眺めながら、ギレンは静かに目を細めた。
「明日の夜だ。王の座になど未練はないが、強者と闘えるのは喜ばしい」
奇しくも、出撃の日取りは今から二十四時間後。
討伐軍の誰もが、この事実を知ることはない。
総司令の姿はそのとき、ない。
全軍の指揮を執るべき少年がいないことなど、ギレンも含めた全員は知る由もない。
「存分に楽しもうではないか」
無表情だったギレンの口元に、隠しきれないほどの愉悦が零れた。