第40話【急転直下】
「報告します、総司令」
「うん」
「ラファールの里の評判を聞きつけて、ゴブリン族の一団が投降してきました。これで百人を超えます」
「ご苦労様。魔法の選別を行って、魔物討伐部隊と派遣部隊のふたつに分けよう」
名も知らぬ一般兵の魔族から報告を受け、奈緒は最前線のラファールの里に陣を構えていた。
ラファールの里の復興から、さらに一週間が経過していた。
まだまだ完全とは言わないが、状況はすこぶる良い。
一万人の民衆は十以上もの集落に別れて生活し、ナザック砦とアズモース渓谷は人で溢れている。
「ナオよ。城塞都市からの投降者ならば、それなりの戦力になると思うのじゃがの?」
「いや、魔物の討伐も立派な治安維持になるし。このままいけば、敵の戦力も切り崩せる」
ラファールの里が復興している、という事実は大きい。
嫌々従わせられていた城塞都市メンフィルのゴブリン兵たちも、次々と投降してきている。
メンフィルに残っている敵兵のほとんどがオーク族となる日も、そう遠くないだろう。
彼らが勝っていた数の利点が、どんどん無くなっているのだ。
「ゴブリン族は戦争には参加させない、ということを商人に通じて広めてもらってる」
「なるほどの。殺し合いなどしたくないゴブリン族は、次々と逃げてくるわけだの?」
「もちろん、精鋭部隊を構築してテセラに指揮してもらうつもりだけど……基本的には故郷を復興してくれればいいよ」
奈緒は天幕の中に作った自分の部屋の椅子に座り、前線指揮官として指揮を取っていた。
復興を邪魔するようにクラナカルタ軍が攻めてくる可能性があったからだ。
城塞都市メンフィルはその名の通り、要塞として建築された都市でもある。守りやすい本拠地でもあるだろう。
そこから飛び出してくるのならば、これを迎え撃つ用意はあった。
『ナオ殿、ラピスです。西門は異常なし』
「了解、気をつけて」
『ラフェンサ殿も上空から様子を探っています。今のところ、問題はありません』
城塞都市は東西南北の門から入ることが出来る。
都市とはいえ、商人もほとんど立ち寄らないので、開発は進んでいない。あまり発展している都市ではない。
守りのほうもナザック砦の存在があるため、実戦などは経験もない。
奈緒は東西南北の門のうち、三方に兵を配置していた。
『ゲオルグだ。東門は静かなもんよ。奴ら、ぴくり、とも動かねえ』
「油断しないでね」
『あたぼうよー、オレはともかくカスパールの神経質を舐めんじゃねえぜ!』
『隊長、少し頭冷やしましょうか』
西門にはラピス、ラフェンサの部隊。
オリヴァース軍と切り込み部隊、合計二百人が配置され、西門からの出入りを許さない。
東門にはゲオルグ、カスパールの部隊。
傭兵部隊、合計三百人あまりが出番を今か今かと待ちながら、東門をシャットアウトしてしまっている。
両部隊にはゴブリン族が何人か追従し、メンフィルの隠し通路や秘匿の道を暴く。
「ふっふっふ。一応は妾もクラナカルタの首脳陣だったからの。隠し通路など網羅しておるわ」
「味方に引き入れて良かった。おかげで、メンフィル包囲も楽だったよ」
「うむ」
テセラ・シルヴァが知りうる限りの情報も、大きな収穫だった。
城塞都市の作り、人口、弱点、隠し通路から現在の敵軍の詳細な情報が手に入った。
敵軍の数はいまや、二千人を下回っている。
時間をかければかけるほど、ゴブリン族の兵士たちの脱走が相次ぐだろう。そうなれば、こちらの勝利は確定的だ。
「南門は僕らがいるしね」
「うむ……そろそろ、妾の巡回時間かの?」
「そう、かな、うん。セリナがそろそろ終わる頃だろうから、次はテセラの番かも」
「承知した」
南門は奈緒率いる本隊、二百名が通路を塞いでいる。
北門は表面上は、兵を配置していないことになっているが、実は違う。
マーニャ、ユーリィ率いるラキアスの軍が砂漠の砂や岩肌に身を潜めて、百人ほどの奇襲部隊が配置されている。
(北門を大っぴらに塞がねえのは、何でだっけ?)
(んー、理由はたくさんあるけど。とりあえず、逃げ道を確保させておいたほうが、敵兵が奮起しないから)
四方を囲むと、背水の陣のように死力を尽くして戦うことになる。
死に物狂いの敵兵は本当に恐ろしい。
だから、北門だけを開けておくことによって『生きたい』という気持ちにさせるのだ。
マーニャたち奇襲部隊の役目は脱走兵を見逃し、出陣してきた敵兵を打ち倒すことになる。
(龍斗だって、死に物狂いで戦うしかない、ってときと、逃げられる退路がある、ってときで、やっぱり違うでしょ?)
(まあ、なぁ……)
(って言っても、僕の案じゃなくて、セリナとマーニャの案なんだけどね)
(あん?)
くすくす、と笑う奈緒の言葉に違和感を覚える龍斗だった。
いやいや待て、と憑依した親友は奈緒の背後で頭を抱えながら、言う。
(セリナと、マーニャ? マーニャはラキアスの人間じゃねえか)
(なんか、友達になったみたいだよ)
(本当かよ……)
(あと、ラピスもラフェンサも、この前はテセラとも友達になったみたいだけど)
(女性陣全滅!)
唖然とする龍斗だったが、奈緒も良く似た感想だ。
マーニャは友達を作るのが上手いのだろうか。逆にユーリィは孤高の存在を貫いているのが印象的だった。
もはや、女性の中でマーニャを中心としたネットワークが形成されているのだった。
(ははっ、もしかしてこれでラキアスに主導権を握られたりして)
(…………)
(………………)
(冗談に、聞こえねえ……)
(うん……気をつけよう、うん)
背筋が少しだけ寒かったので、心に留めておくことにした。
奈緒は天幕の中でゆっくりと時間をかけて、戦況を見据えることにしていた。
時間が経てば、敵軍の脱走兵を増えていくだろう。
もっと単純な話として、補給口を塞いでいるのだ。食料などの補給ができない。これで敵は弱体化していく。
(敵が焦って、攻撃を仕掛けてきたときが、勝負……)
城塞都市メンフィルに攻め入る必要はない。
無理に要害を陥落させようとすれば、双方共に多くの死傷者が出るだろう。
篭城する相手には兵糧責めが一番だ。
生産性のないクラナカルタの首都では今頃、食料の確保に追われているかも知れなかった。
「ただいま」
「おかえり、セリナ。まだ敵は出てこない?」
「みたいね。シェラで他の皆とも連絡を取ってみたけど、異常なしって感じみたい」
「…………」
ふむ、と奈緒は少しだけ首をかしげた。
確かに今のところ、クラナカルタ軍は攻めてこない、ラファールの里の移住のときも攻めて来なかった。
好戦的な国だと聞いていたはずだが。
城塞都市に篭もっている理由はなんだろうか。何か、見落としはないだろうか、と思考を巡らせる。
「おかしいな……魔王の性格を考えると、すぐにでも出撃してきそうなもの、だけど……」
「投降してきたゴブリン兵が言ってたのよ。『テセラ様が降伏を表明して、士気が大きく下がっている』って」
「なるほど……ね」
クィラスの町攻略戦での敗北。
難攻不落だったナザック砦の陥落。
アズモース渓谷での大敗。
第二席、第五席を占めていたナザック兄弟の撃破。
更には第四席のテセラ・シルヴァの降伏など、今までのクラナカルタの歴史では考えられない失態に違いない。
「どんなに首脳陣が声を張り上げても、兵士たちは国のためになんか戦いたくないってのが、本音みたいね」
「実際に戦うつもりのある戦力は、どれぐらいなんだろ?」
「オーク族の急進派が主ね。テセラの話では、千人にも満たないらしいわよ?」
「千人、か」
現在、戦争として参加している討伐軍の兵力の合計は八百人ほど。
魔物討伐に赴いているゴブリン族たちも含めれば、数の優位すら逆転することが可能だろう。
魔王ギレンは迂闊に動けないのかも知れない。
治安が乱れれば人々の信望は離れていき、留守になれば暴動を起こす者だって出てくるかも知れないからだ。
「内憂外患、か」
「え?」
「いや。自業自得とはいえ、最後は自分で自分の首を絞めたみたいだね、向こうも」
アズモース渓谷での戦いぶり。
捨て駒を使って逃げ出したあの兵略と、ラファールの里を見殺しにすることを選んだ戦略。
あれが今、致命的な足枷となっているのだ。
「軍師オルム……選択を誤ったね」
簡単に兵士たちを見捨てるような首脳陣相手に、兵が忠誠を尽くすはずがない。
信用ひとつに取っても武器であり、戦争だけに限らず政治にも大事な要素だったはずなのだ。
それを、彼らは読み違えた。
人の命を、人の心を、物として扱ったことが大きな原因に違いないだろう。
「ナオは、結構そこのところは大切にしてるわよね」
「というか、見捨てる選択肢が取れないだけなんだけど」
「でも、今ではナオに対して忠誠を誓ってくれてる。やっぱり、そういうのって人望だと思うけど」
「うーん……」
それなら、いいのだが。
奈緒は決して心と心を触れ合わせて、彼らを引き込んだわけではないのだ。
利害関係の一致、これが一番しっくり来る。
一部の将兵が尊敬してくれたり、信頼してくれるのは嬉しいのだが、少なくとも全員ではないだろう、と思う。
テセラと出逢ったときの痛烈な台詞は、今でも心の中に棘として刺さっている。
(まあ、二十年も生きてない子供が、人の心を計算すること自体が傲慢だよね)
(……え、なに、奈緒。今日のお前は詩人?)
(いや、別に)
一度、戦争となれば子供も大人も関係ない。
戦況は確かに奈緒のほうが優位に立っている。今までの功績が報われようとしていると言っていい。
優秀な将兵、民衆の信望、大義名分。
敵戦力の解体、主だった敵将の撃破と懐柔、資金の調達など、考えうる限りのことは問題ない。
それでも、たった一度の敗北で形勢を逆転されてしまうのが、戦争なのだ。
(ラファールの里の協力も得て、食料や水の問題も解決。少しずつだけど、資金も稼げてるし……問題、なくね?)
(なら、いいんだけど……不安要素はいくつでも挙げられるよ)
(例えば?)
(言うまでもなく、魔王ギレンと軍師オルム)
魔王ギレン。
破剣の術で強化した龍斗の身体能力を、更に上回るオーク族の長。
単純に彼を打ち倒すには、百人以上の兵力が必要になるだろう、と奈緒は分析をしていたぐらいだ。
魔物のランクで表すならば、Aクラスに近い。
(えー、でもさぁ。軍師のほうは大したことねえってえ! 実際、あいつが下手打ったから、俺ら有利なんだろ?)
(あー、うん。否定はしないけどね? でも、兵を数だけでしか見てない人って怖いんだよ)
(怖いんか?)
(例えば、倫理観を無視した作戦を平気で行えるからね)
数に任せた万歳突撃なら、まだいい。
奈緒は絶対に実行しないが、背筋の凍るような策略ならばいくらでも思いつくのだ。
(兵の家族を人質にとって、自爆攻撃をさせる……とか)
(うわぁ……)
(城塞都市に爆弾か、それに相当するものを仕掛けて、僕たちが攻め落とした後に爆発させる焦土作戦とか)
(誰一人助からねえよ)
(奇襲攻撃を仕掛けて僕たちの中の誰かを人質に取り、それを交渉のカードとしながら……)
(つーか、それを考えられるお前が怖えーよ!)
しょうがないじゃん、と奈緒は憮然とした表情で思う。
奈緒たちがその作戦を使わないからといって、相手が使わない保障は何処にもないからだ。
敵の策を読むためには、相手の気持ちになって考えてみるべし。
手持ち無沙汰の奈緒は机の上に突っ伏しながら、龍斗との雑談に耳を傾けていた。
(てか、あれ? なー、奈緒ー、セリナは?)
(水浴びにいったよ)
(……なんか、この前まで水の補給が難しくて難しくて、って感じで悩んでいたと思うんだけどよぉ?)
(ラファールの里の吸収合併が、事態を好転させたよね)
少なくとも現時点に至っては、もはや喉が渇いたと泣き叫ぶ者はいないのだ。
人が一堂に会して助け合い、水の魔法や商人から買い取った水を瓶の中に入れて貯めていく、という仕組みだった。
大勢の人数がいるが、魔法という概念があるからこそ、それも優位に働かせることが出来る。
今ではご覧のように、女性陣が水浴びをできるぐらいの余裕がある。
(逆に、城塞都市のほうは食料や水が無くなってくるよ。魔法にだって限界あるし)
(ああー……城から一歩も出られないんじゃあ、食い物の補給もできねえもんなぁ)
(個人的にベストな解決法がある)
おー、なになにー、と少しだらけ切った言葉を送る親友。
奈緒は口元に少しばかりの優越感にも似た笑みを浮かべると、最も望むべき展開を語った。
(食料無くなって、敵の将兵たちの元気がなくなって、最終的には降伏する)
(ないない、それはない)
(だよねー)
心の中で苦笑いを浮かべた。
魔王ギレンも、急進派のオーク族も降伏などという選択肢を選ぶはずがない。
戦わずしての敗北などという屈辱を選ぶはずがない。
まして、今まで劣悪種として侮っていたゴブリン族を味方に引き入れているのだ。
奈緒たち討伐軍に降伏するということは、オーク族がゴブリン族に降伏する、ということと同義なのだから。
(つーか、食料求めて俺たちに襲い掛かってくんだろ、あいつらなら)
(うん、間違いないと思うよ)
オリヴァース国に侵攻した理由もそこにある。
同じような短絡思考で、数に物を言わせた物量作戦で食料を手に入れようとするに違いない。
城塞都市に残された食料は、二週間も持たないだろう、とテセラは証言した。
ならば、一週間以内にでも、魔王ギレンは動いてくる。
(問題は、魔王ギレンだよね。龍斗、勝てる?)
龍斗をして、勝てない、と思わせたオーク族最強の戦士。
兵士百人に相当する最大の障害。
龍斗は冷静に戦力を分析していた。あのときの敗北から、龍斗だって成長を目指すために特訓した。
ラピスと共に大型の魔物を狩り、経験をつけてきた。
それだけのことをしても、実力的にはギレンとの差はほとんど縮まっていないことを、龍斗は正しく判断していた。
(勝つぞ)
正しく判断してなお、龍斗は一切の迷いなく告げた。
勝てる、とか。
勝てない、とか。
勝つのは難しいかも知れねえ、とか。そんな言葉遊びはどうでもよかった。
(馬鹿野郎が、勝つに決まってんだろ。俺を誰だと思ってやがんだ、ああ?)
挑戦的な口調に込められたものは、自信ではなかった。
龍斗は自信を持って強がりを口にしたわけではない。
相手の戦力を見誤った傲慢な妄言でもない。そんな、つまらないものでは断じてない。
簡単な話だった。わざわざ尋ねるまでもなかった。
(魔王? オーク族? クラナカルタ最強の戦士? くだらねえ)
親友が、最強の戦士を倒せ、と言うのならば。
龍斗はそいつを完璧に打ち倒してみせる、という約束をするだけだ。
(いいか、奈緒。分からねえようなら教えてやんよ)
約束。
信頼によって紡がれる誓いだ。
鎖倉龍斗は、狩谷奈緒との約束を護るのだ。
護らなければ、ならないのだ。
(俺ぁ、狩谷奈緒の、親友だぞ)
その言葉だけで十分だった。
根拠もない、勝算もない、ないない尽くしの言葉の中にひとつの覚悟だけがある。
(……うん、ありがと。信じるよ)
百の理論よりも、千の勝算よりも頼りになる気がした。
信頼の置ける友人の存在が本当にありがたい。
一人なら何も出来なかった。
奈緒がいま、こうして総司令という地位についているのも、親友が文字通りすぐ近くにいたからだ。
「……うん、頑張ろう」
「どうしたの?」
「う、ううん、別に」
そっと漏らした独り言を水浴びから戻ってきたセリナに拾われ、奈緒は僅かに赤面するのだった。
そんな微笑ましい光景を見て、親友は心の中で笑い転げていた。
◇ ◇ ◇ ◇
何もかも、上手くいっていた。
逆転されていく形勢、問題のない物資補給、頼りがいのある仲間たち。
魔王ギレンという強大な壁があるとしても、怖くないと思っていた。
事実、親友の龍斗がいるのなら、と奈緒も思っていた。
目の前のことにばかり、気を取られすぎていたのだろう。
城塞都市メンフィルの包囲。
後一歩でクラナカルタは陥落するはずだった。
誤算はないはずだった。少なくとも奈緒は、この戦いにおいて『想定外』などないと信じていた。
「……なん、だって?」
その知らせが届いたのは、龍斗の覚悟を受けた日の夜だった。
奈緒は全身が凍りついたまま、動かないのではないか、と錯覚すらした。
最初、伝令が何を言ったのか、奈緒の脳に正しく伝達されることはなかった。
もう一度、という声を受け、長距離を必死で飛んできたと思われる衰弱したバード族の伝令は、告げた。
「反乱、です……オリヴァース国で……」
顔を青くしたのは、奈緒だけではなかった。
セリナやラピスも驚愕に息を呑み、兄が魔王を務めるラフェンサは顔面蒼白でその報告を聞いていた。
バード族の伝令は、続けた。
「民衆の反乱ではありません……軍の、反乱です……左将軍エリック候が、謀反を……」
「そんな、エリック候が……?」
ラフェンサは信じられない、というように首を振りながら呆然と呟いた。
左将軍エリック候、という言葉に奈緒は聞き覚えがなかった。
いや、名前を知らないだけだ。
重要な要職に付くエリック侯爵の肩書きは、左将軍。その存在を奈緒よりも、龍斗が先に思い至った。
(げっ……オリヴァースの協議のときに、俺がぶっ飛ばして壁に叩き付けたオッサンじゃねえか?)
(…………あっ)
奈緒もその言葉で思い出した。
クラナカルタを攻めるべき、という協議のときに食って掛かってきた左将軍がいた。
確かあの時、龍斗に身体の所有権を移して、相手に畏怖を与えるために叩き潰した覚えがあるが。
魔王カリアスは別室で、やりすぎだ、という声を上げていた。
(やり、すぎた……)
クラナカルタ陥落まであと一歩、というタイミングで。
昔の事件が尾を引いた。
一番重要な場面での、友好国首脳陣による反乱……狙いは国家の転覆か。
それとも、ナオ・カリヤに対する報復か。
(まずい……)
物資補給に関しては、オリヴァースからも多大な援助を貰っている。
彼らからの支給がなければ、ラファールの里と将兵たち一万人の生活に大きな被害がもたらされるだろう。
それだけじゃない。魔王カリアスには恩もある。
後方に気をやっている余裕などないが、されとて見捨てることも許されない。
(どうする……?)
ラフェンサは、普段の落ち着いた雰囲気を霧散させ、必死に何かを考えていた。
オリヴァースの王妹である彼女にとって、本国の謀反はクラナカルタ攻略よりも遥かに重要に違いない。
その気持ちを汲んでやりたいが、事はそう単純なことではないのだ。
(どうする……!)
必死に頭を働かせた。
前門の虎、後門の狼というべきか。この状況は戦況を覆しかねない。
急転直下の状況下、狩谷奈緒は頭を働かせる。
◇ ◇ ◇ ◇
「………………ふむ」
オリヴァース首都、カーリアンの都。
玉座に座る魔王カリアスは、右手で頬付きをしながら事の顛末を見守っていた。
わあ、わあ、と宮廷はかつてないほどの騒ぎに包まれている。
騒ぎの原因はもちろん、左将軍の謀反に他ならない。
「因果応報、というべきか。それとも、煽りを受けた、というべきか」
騒がしい宮廷内でも、カリアスは揺らがない。
今頃、クラナカルタの攻略はどうなっているだろうか、などと考える余裕があるぐらいだ。
ナザック砦を攻略し、アズモース渓谷を抜け、ラファールの里を懐柔したらしい。
城塞都市メンフィルも、もはや陥落は時間の問題と報告され、オリヴァース国は沸いていた。
「ナオ。お前の戦績は誰もが羨むものだ。今まで誰も成し遂げなかったことを、こんなにも簡単にやってのけた」
ここにいない者のことを思う。
数年前から想いを寄せていた少女を託した、一人の少年のことを。
彼は目覚しい活躍をした。だが、そこに至るための手段は選ぼうとはしなかった。
結果的に、奈緒に対する反乱分子が増長してしまうのだ。
「伝令! エリック候の手勢は、二百人です!」
「そうか。こちらの手勢は?」
「ご、五十人ほど」
「……そうか」
かつて、ラフェンサが指揮していた近衛部隊が僅かに残っているだけ、なのだろう。
右将軍ブージ候はクラナカルタ最前線に送る物資の調達を依頼しているため、ここにはいない。
文字通り、カリアスとその手勢だけしかいないのだ。
「各地に援軍の要請を出しております、今しばらくのご辛抱を!」
「……待て。その援軍要請、最前線の部隊にも送ったのか?」
「は? は、はい! あちらには、ラフェンサ様もおられますので、国の一大事を知らせには……」
「馬鹿者が」
当然の処置を、カリアスは苦々しく罵倒した。
混乱の境地にいながら、主のそんな言葉を聴いた伝令の兵士は震え上がった。
一切のフォローをすることなく、カリアスは内心で今後の展開を想像しながら考える。
(このタイミング、偶然か?)
クラナカルタの陥落目前で、オリヴァース国の重鎮による内乱だ。
彼らの目的は何だろうか。
単純に王座を簒奪したいというのなら、ナザック砦で交戦しているときに行動に移すはずだろう。
確かにこのタイミングなら、本隊からの援軍も間に合わない。
だがそれは、ナザック砦の時点で同じことだ。よりにもよって、後一歩というところで反乱を起こした理由は何だ。
(得をするのは、当然クラナカルタだ)
陥落一歩手前、という状況で救いの風が吹いたと言っていいだろう。
左将軍エリック候と、蛮族たちが手を結んでいたという可能性について、カリアスは考えてみた。
だが、ほんの数秒ほど頭を回転させたところで首を振る。
エリック候はかつて、ナザック砦を攻略しようとして大敗している。蛮族たちに恨みこそあれ、協力はないだろう。
(クラナカルタの意図ではない、と考えるのが自然だろうが……さて、本当に王座簒奪だけが目的か?)
左将軍による、王位簒奪。
それが目的だと言うのなら対処はしやすいが、そうと断言してしまっていいのだろうか。
どの道、彼とは雌雄を決する必要があるだろう。
「エリック候よ。お前は野望多き男か、それとも糸に操られただけの人形か?」
人知れず呟くカリアス王は、むしろこの状況を楽しむように笑って見せた。
彼らを打ち破ることに対して多大な自信があるわけでもなく、絶望的な状況による諦観の笑みでもなかった。
例えるなら、強大な魔物を前にした狩人のような、武者震いすら感じられる笑み。
彼は武器を取ることすらしないまま、ゆっくりと無手のまま玉座から立ち上がった。
「……ラフェンサたちの様子が気になるな。最前線を投げ出して援軍に来るような暴挙に出なければいいが……」
飛龍の速度なら、数時間でカーリアンへと到着することが出来るだろう。
反乱が起きたのは宮中ではなく、兵たちの詰め所からという報告を受けている。
おかげで門を閉じることが出来たので、一日ぐらいは持ちこたえることができるだろう。各地から援軍も現れる。
問題は援軍がオリヴァース魔王派か、左将軍エリック派ということかも知れないが。
「おかしい。宮中で事を起こせば、もっと早くに決着できていたはずだ」
「か、カリアス陛下?」
「やはり、この謀反。何か裏があるな……警戒を怠るな。この戦いは、魔王の座を奪うこと以上の意味がある」
時刻は夜だ。
エリック候の反乱は昼頃に決起されたもので、既に半日以上が経過している。
カーリアンの民衆たちは不安に陥っているに違いない。
相手の狙いは分からないが、長引かせてはならない。それは他国に隙を晒すことにも繋がるからだ。
「全員。襲撃に警戒しながら、朝に備えて休んでおけよ」
決戦は数時間後の、早朝と定めた。
カリアスは一抹の不安を感じながらも、眼前の災難を前にして不敵に笑って見せた。
悪い状況は変わらないが、それでも口元に浮かべる余裕。
それが、魔王カリアスの矜持だった。