第39話【ゴブリン族の姫】
「なるほどの。ラファールの里を通過させることが狙いか」
「……はい」
会談の実現はあっという間に決まった。
セリナたち飛行部隊を使者として送り、ゴブリンの姫であるテセラ・シルヴァを招聘した。
場所はラファールの里の中間地点に存在する、砂風を防げる程度の小さな廃屋だった。
当初はテセラの住居まで向かうつもりだったが、彼女はここを選択した。
曰く、奥地まで来たら一万人もの飢えた人々に襲い掛かられる可能性があるらしい。
「甘い選択だの、人間。お主らは常々、魔は穢れと称していたではないか。一万人もの『魔』に手を出さんというのか?」
「……この世界の人間がどうかは、知らないけど。僕は手を出すつもりはないよ」
「『この世界』の人間とは、おかしなことを言うの。まるで、他にも世界があるかのように聞こえる」
会談に参加しているのは、たったの四人だった。
討伐軍代表として総司令の奈緒。補佐役として使者に起用したセリナと、そしてゴブリン族のロダンだ。
ゴブリンの姫であるテセラに対して、同じゴブリン族の青年を用意した。
これが多少の敵意の緩和となってくれれば良い、と思うのだが。
「お主らのことは聞いておるよ。ナザック砦を陥落させ、あのベイグ・ナザックを打ち破った武士だの?」
「うん、まあ、一応」
「妾も人のことは言えんが、見かけによらぬものよな。その華奢な体つきで、オーク族を吹き飛ばすとはのう」
テセラ・シルヴァは十歳ぐらいの幼女の姿に見える。
これはゴブリン族の体質というわけではない。人間の女が褐色の肌になった姿がゴブリン族の女性だ。
彼女の体つきは、本当に偶然のものらしいのだが、初めて出会ったときは何の冗談かと驚いたものだ。
それでいて老獪な口調は、強烈なギャップを生み出した。
「さて、人間」
「奈緒だよ。ナオ・カリヤ」
「どっちでもいいと思わんか? 妾は一応、お主の敵じゃ」
「そう言わずに」
くすくす、と無邪気に奈緒は笑った。
ユーリィあたりが見れば狐の笑みだと、背筋を僅かに凍らせるかも知れない。
すっかり板がついてきた交渉のための裏表のない笑みを見ても、ゴブリンの姫は目を細めたままだった。
それは決して歓待しているわけではなく、じっくりと人となりを見定めるようなものだった。
「では、ナオよ。お主はこのクラナカルタを見て、どう思った?」
「……酷い場所だね。最低限の生活の保護も受けられてない。想像以上の惨状には唖然としたよ」
「うむ、当然の反応よな」
それで、とテセラは幼い顔立ちを不敵に歪ませて。
「そんな国を手に入れても、何の意味があろうかよ」
そんな言葉を口にした。
砂漠の国、民が飢えて渇き、救いを求める閉ざされた地獄絵図。
亡命を願うゴブリン族は傭兵となっていく。
ただ、小さな子供や力を持たぬ女では、ナザック砦を突破することはできない。この国から逃げられない。
ここは、砂漠と岩の牢獄なのだ。
「ラキアスはな、自慢の兵力で力押しすれば、ナザック砦など粉砕できていたわ。それでも手を引いた。何故か?」
「…………それは、多分」
「うむ。うまみがないのだよ。千人も二千人も犠牲にして、得られる国益など高が知れてるわ」
枯れた国。
山賊のような正規兵。
労力と犠牲に見合わないから手を引いたのだ、とテセラは語る。
ラキアスは、クラナカルタなど一瞬で討伐できる戦力を有しているという証でもあった。
「今回、僕たちはラキアスとオリヴァースの両国から協力してもらってる。これは、どういう意味か分かるよね?」
「……クラナカルタは、やりすぎたということよな」
「まあ、両方とも友軍という形だけど。彼らからしてみれば、確かに山賊討伐ぐらいの心持ちかもね」
「心しておくがいい、若い指揮官よ」
薄く、小さく、テセラは笑みを浮かべていた。
悪戯好きな子供のような小生意気な表情だが、その裏では綿密な思考が巡回していた。
「強欲とは、業深いものなのじゃよ」
「……強欲?」
「妾は長生きじゃ。だからこそ、年の功として分かることもある」
ゴブリンの寿命は八十年ほど。
テセラ・シルヴァは既に百年という時間を生き続けてなお、このような体つきをしている。
まるで成長が止まったかのような奇跡が、彼女をゴブリンの姫として畏怖される理由のひとつとなっている。
その彼女が、百年の魔女が、見た目とは裏腹な妖艶さで言う。
「お主に協力している者たちは、お主を利用しようとしている者ばかりじゃ」
「……そんなこと、ないよ」
「青いのう」
混成軍の弱点だ。
それぞれの思惑が必ずあることを指摘している。
オリヴァース魔王は本当に善意だけで軍を動員させてくれたのか、と。
傭兵たちは金に釣られて戦い続けているが、他にも別の思惑がある可能性はないか、と。
ラキアスの軍隊はそれこそ、奈緒の軍を乗っ取るために派遣されてきたのではないか、と。
「誰にでも、狙いがある。それを忘れるべきではないのう」
「……話が逸れたね。本題に入っていいかな」
「うむ、良かろう」
交渉ごとは相手が一枚、上手らしい。
見た目は幼子のようだが、やはりその正体は百年以上を生きた老獪だ。
人間に換算すれば百歳など優に超えている。
生きているのが不思議なくらいの相手は、長年ものあいだ、この地獄の中で生き続けたという経験がある。
「ラファールの里の通過、であったな。そちらの要求は」
「うん」
「では、こちらも要求を出させてもらおうかの。飢えたラファールの民衆たちに、食料と水を恵んでもらおう」
「…………」
予想通りの要求だ。
人道的な意味から考えても、無視できる要求ではない。
同時に、叶えてやれるほどの余力が討伐軍にないことも、奈緒には十分に分かっていた。
即答はできない。現実として、全てを救う材料などあるはずがない。
「……おいおい、姫。俺たちの事情、アンタなら分かってんだろ」
「何のことかの?」
「…………」
ロダンが口を挟むが、当のテセラは惚けた素振りを見せた。
彼女は試しているのだ。
奈緒がどのような選択をするか、を。総司令の人柄と行動方針を見定めるために。
奈緒のような仔狐じみた笑みではなく、本物の狐のような笑みだった。
「現実に俺たちは、自分の分の食い扶持で限界なんだよ! 千人分の食料もねえってのに、一万人なんて無理だ!」
「じゃがの、若いの。戦争に勝つということは、この国を作り変えるということよな?」
「……お、おう」
「ならば、遅かれ早かれ一万人もの民衆の命、背負ってもらわなければ困る。出来ねば、国はまた滅ぶ」
正論だ。
詭弁ではあるが、正論には違いない。
民衆の命も背負えぬ者が魔王になろうなどとは、おこがましい。
「妾たちゴブリン族は、力のない種族じゃ」
「……」
「力ではオーク族には勝てぬ。魔法の腕でも他の魔族に劣るじゃろう。才能に恵まれぬ種族よ」
悔しげに、ゴブリン族の長を務める女性は歯を噛み締めた。
オーク族とゴブリン族の確執がある。
力で押さえつけられたゴブリン族は、この渇いた砂漠の中で生き続けなければならないのだろう。
「そんな妾たちでも、主を選ぶ権利はあるはずじゃ」
主、とは誰のことか。
言うまでもなく今の魔王であるギレンと、目の前の総司令である奈緒の二人だ。
言外に彼女は語っているのだ。
お前は自分たちに何をしてくれるのか、と。強欲という名の、淡い期待を黒髪の少年へと投げかけていた。
「さあ、どうする」
沈黙を守る奈緒と、その隣に座るセリナ。
選択肢は多種多様にあるだろう、とテセラは脳裏で考えていた。
これは、賭けだ。
百年もの間、砂漠の国は奪い合うことしかできなかった。その世界にどんな形でもいいから、終止符を打ちたかった。
「さあ……どうする」
これまで、ゴブリン族の未来は閉ざされていた。
生まれてくる数よりも、餓死者や魔物に殺された数のほうが多かったのだ。
もはや数十年の間に、ゴブリン族という種族は一人残らず、この魔界から絶滅することになるだろう。
その前に、捨て身の手を打たなければならないのだ。
「妾たちを救うか、殺すか。それはお主の胸ひとつじゃ」
新たな魔王を迎えることに異存はない。
このままオーク族の天下でクラナカルタという国を存続させても、何の意味もないからだ。
アズモース渓谷から撤退され、ラファールの里に兵を配置しないことからも、この里が見捨てられたのは間違いない。
新たな身の振り方を考えるなら、討伐軍に身を寄せるというのは選択肢のひとつだ。
「お主は、魔王になる覚悟があるのかの?」
問いかけるのは、責任を背負う者としての覚悟だ。
テセラが、ゴブリンの長が、賭けてもいい、と思えるような相手でなければ意味がない。
下手な言葉で、きっとゴブリン族全員が皆殺しにされるのだ、とテセラも知っていた。
それでも、緩やかに殺されていく現状に比べれば、劇薬を選ばなければならないことは、言うまでもなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「……ナオ」
セリナは、俯き加減で奈緒を見た。
その表情には申し訳なさにも似た感情が去来していた。
あまりにも重い荷物を背負わされようとしている少年は、しばらくの間、俯いたままだった。
やがて、彼はぶつぶつと、小さく呟いた。
「一日で、三人家族で、五セルパ……一人当たり、二セルパくらいだから、一万人なら……」
「……な、ナオ?」
何か計算をしていたらしい。
隣で怪訝そうな顔をするセリナだが、ややあって考え事に浸っているのだと気づいた。
テセラやロダンは全く彼の様子が分からず、ついついセリナへと疑問を投げかけた。
「な、なあ。うちの大将、どうしちまったんだ?」
「……いま、ちょっと考え事なのよ。少しだけそっとしておいてもらえるかしら」
「ふむ……?」
会談の停滞は十分ほどだった。
黒い前髪を垂らして俯いていたために、目元が隠れていた奈緒はようやく顔を上げた。
少年は小さく息をつくと、確認するように尋ねる。
「テセラ。これから少し、確認と……それから、いくつか条件を」
「うむ……」
「ひとつ。ラファールの里の住民に食料を恵むことで、ラファールの里を通過させてくれる」
「その通りじゃ」
ひとつ、肯定の意思を示した。
そこが大前提だ。即ち、奈緒に国を維持できるほどの政治力と資金があるかどうか。
戦争に勝っても、それだけで終わられては意味がない。
勝者の責任として新たな国家を打ちたて、砂漠の国を復興させてもらわなければならないのだ。
「ひとつ。テセラは、戦力として数えさせてもらう。いいかな」
「……良かろう」
テセラ・シルヴァはクラナカルタの第四席だ。
この国の中では女性の中では一番強い、と考えてもいい。
彼女を戦力として陣営に迎えることになれば、それは心強い味方となるだろう。
おいおい、とロダンが引きつった笑みを浮かべた。奈緒はいま、叶えられない願いを呑もうとしている。
「ひとつ。民衆の中でも戦える者は参加してもらう」
「それは断らせてもらう。命を繋ぐことで精一杯な者ばかりでの、とても戦えはせんよ」
「うん、分かった。その代わり、家族を心配して故郷に帰ってきた人たちには参加してもらうよ」
「……むう」
残酷なことだ、と人は思うかもしれない。
だが、今回にいたってはそうではない。故郷の家族を心配して戻ってきたということの意味を考えればいい。
間違いなく、討伐軍からの襲撃に対抗するためだ。戦える戦力となるに違いない。
そして、家族を見捨てられない者たちだからこそ、クラナカルタの現状を憂うだろう。今の地獄を変えたいだろう。
そんな彼らならば、一緒に戦っていける同士となることができる。
「その条件でいいね?」
「……良かろう。故郷に帰ってきた者たちは、妾が説得する役なのだな?」
「話が早くて助かるよ」
簡単に告げる奈緒だが、彼以外の全員は不信感を露にしていた。
現実に一万人もの人間を養えるはずがない。
彼らを保護する余力があるのなら、もっと傭兵たちに金をばら撒いているに違いない、と思っていたのだ。
食料はどうやって確保していけばいいのか。まったく分からなかった。
「それじゃあ、今回の交渉はその結論でいいね?」
「……うむ」
「分かった。協力に感謝する。食料については、早速これから手を打つよ」
総司令は、本来なら叶えられないはずの幻想をあっさりと口にした。
くたびれた椅子から立ち上がると、古ぼけた廃屋の外へと視線を向けた。
彼らを護衛するためにラピスとゲオルグが警護をしている。護衛につける人数は二百人にもなっていた。
それを満足げに見ながら、奈緒は改めてテセラへと向けて口を開いた。
「テセラ。今からあなたも、僕の部下だ。指示通りに動いてもらうよ」
「う、うむ」
「まず、ラファールの里の住人を移動させよう。ここでは食糧供給が間に合わない。ナザック砦のほうに」
討伐軍の補給拠点はナザック砦だ。
ジェイル・コバール町長が商人と掛け合い、食料や水を提供してもらっている。
地味な作業だが、討伐軍でもっともの功労者は彼と考えても構わないほどの仕事量だ。
「テセラから、声明を発してもらう。ラファールの里の住人はナザック砦に」
「あそこは、五百名しか入らんはずだがの?」
「そこの近辺なら魔物の数も少ない。砦に張り付くようにして、野営してもらうよ」
「それでも一万人もの人数を擁するのは不可能じゃ」
そもそも、とテセラは泡を食ったかのように口を開いた。
「お主、本当に食糧事情はどうにかなるのだろうな? 単純に厄介払いなどするならば、即座に反旗を翻すぞ」
「難しいよ。だけど、不可能じゃない」
確固たる言葉だった。
予想の範疇というか、予想通りの要求だった。
テセラ・シルヴァの人柄については、前もってロダンから話を聞いていたのだ。
だから、絶対にこのような要求があるに違いないと確信して、既に手を打っておいた。
「……こちら、総司令ナオ・カリヤ。ジェイル、聞こえるかな」
『はっ』
伝達魔術品シェラの有効範囲は、ほんの数百メートル程度だ。
ナザック砦からここまでなら、とても届かない。
しかしジェイルはつい先日、物資の輸送のためにここに来ていることを奈緒は知っていた。
ちょうど帰り道だろうが、何とか伝わったらしい。
「商人や調理人、医者をナザック砦に集めておいて」
『い、いかがしましたか?』
「これから、たくさんの民衆たちがそちらに行く。彼らを保護する。文句は言わせない、これは決定事項」
有無を言わせぬ命令だった。
龍斗は心の中でこっそりと手を合わせた。
彼の親友は見た目によらず、頑固で融通が利かないのだ。
一度こうだと決めたら、なかなか折れることはない。それは一ヶ月近く行動を共にしたジェイルにも、理解できていた。
『……仕事が、増えますね』
「僕たちの軍の資金はいくらくらいかな」
『自由に使える余剰金額は、およそ一万セルパ程度です。一万人もの民衆の食料は、とても……』
奈緒は思考する。
切り詰めて生活すると仮定して、一日に一人が一セルパを使うと仮定しよう。
一日二食、最低限の食事と水だけでも人命は救える。
一万人もの民衆が一日生活するのに、一万セルパもの金が蒸発する。常識的に考えて、不可能だった。
(一日で消えるか……)
軍とは資金を使うものだ。
この上で民衆の世話まで担当するなど、どう考えても不可能だが。
「ジェイル。例のナーガって魔物の食材は、どれくらいで売れた?」
『はっ……? あ、ああ。一体でたくさんの肉やら何やらが取れまして、かなりの高額になっています』
「大きいからねえ……牛や馬ってレベルじゃないし」
『調理人に叩き売りましたので、およそ四千セルパほどにはなったかと』
「よし」
目論見が経った。
一万セルパもの資金で食料をかき集める、などということはできない。
その資金は別のところに使うべきだ。
「純資金の一万セルパで、調理人を雇って。大型の魔物も調理できるような人がいい」
『は、はあ……』
「ま、待て」
指示を送る奈緒の背中に、ゴブリンの姫が声を投げかけた。
彼が何をしようとしているのかが分からないのだ。
奈緒は振り返ると、簡単な話だよ、と苦笑しながらも説明した。
「普通に考えたら、一万人分の食料なんて用意できない」
「そうね」
得心したらしいセリナが、口の端を僅かに吊り上げながら相槌を打った。
一万人の食料や水などは一日で尽きてしまう。
そんなに急に食料を集めることだって出来ないだろうが……それでも、ただひとつの純然たる事実がある。
「だけど、それでもクラナカルタの人たちは生きてきた」
人並みの食料を得られないとしても。
それでも、生きていくためには食べてきたはずだ。何を食べてきたか、それは今日のロダンの言葉にもあった。
セリナは思い出した。そして、そんな生活をしているテセラやロダンも、ようやく気づいた。
「魔物か!?」
「ご名答」
ニヤリ、と口元に再び笑みを浮かべた。
純朴な少年のものではなくて、強大な敵に対するような不敵な笑みだった。
「一万人分の食料を、そのまま用意していたら一日しか持たない。だけど、魔物を狩って調理すれば、話は別」
『…………』
「問題は、食べられる魔物とか、そういう衛生面の安全性。だから、ジェイルには調理人と医者を用意してほしい」
前もってラファールの里の人たちの生活については、聞いていた。
ナザック砦で降伏したロダンを初めとしたゴブリン族たちは、ほぼ全員がラファールの里の出身だという。
だからこそ、設置された目安箱には里に対する寛大な処置を期待した文書が投稿されていたのだ。
彼らから奈緒は詳しく話を伺っていた。
『ナオ様、あの……それでも、一万セルパ程度では足りません。人件費、食費を含めれば、大層な金額に……』
「ジェイル。今回の考え自体については、どう思う?」
『はっ……確かに、魔物を適切に処理して調理すれば、大量の魔物が生息するような地域では、有効ですが……』
「うん、それなら大丈夫そうかな」
奈緒は視線をセリナへと向けた。
きょとん、とする金髪ツインテールの少女の耳元に小さな唇を寄せる。
「な、なに……?」
「セリナ……今こそ、僕たちの資金を使おうか」
「資金って……五万セルパの?」
「うん、埋蔵金。ここぞというところで使うつもりだったし、今が一番ちょうどいいかな、って」
無理を言っていることは承知だった。
彼女の大金は、彼女が実家から持ち出した最高の切り札だ。
これらを使ってラキアスを、リーガル家を打ち倒そうと決めたというのに、奈緒はそれをこの場面で使おうという。
蛮族救済のために、切り札を使おうとしている。
「……」
僅かな沈黙があった。
奈緒はセリナが猛反対してくる可能性も予想していた。
思考を巡らせ、彼女を説き伏せる手段を探していた。
だが、セリナはゆっくりと笑みを作ると、奈緒の心配が杞憂だということを証明するように頷いた。
「分かったわ。好きに使って」
「……え、いいの?」
「もちろんよ、当たり前でしょ。あなたが使うべき、と判断したんなら、使わないと」
それは、無条件の信頼だった。
それは、小さな子供が母親を信じることに迷いがあるはずがないかのような、そんな信頼だった。
それは、愛する人のやることに間違いがない、と断定するような、盲目的な信頼だった。
「そもそも、私はアレで傭兵を雇うつもりだったの。でも、結局は使わずに集めちゃったし」
傭兵たちへの報酬は、クィラスの町から出ている。
軍隊もそれぞれ、オリヴァースとラキアスの軍隊だ。奈緒本人の私兵といえば、セリナとラピスぐらいだろう。
ともあれ、使う予定などセリナにはないのだ。
どんな結末になろうとも、もはや奈緒の作戦に全幅の信頼を置くしかないのだから、切り札だって捧げられる。
「人助けに使えるっていうなら、それは素敵なこと……よね?」
「うん」
良かった、と奈緒は思った。
この人のことが大切だと思えることが、少しだけ誇らしかった。
向けられた信頼に応えなければ、と決意を新たにするには十分だった。
「総司令より、各首脳陣へ」
作戦開始だ。
敵軍は城塞都市で高みの見物を決め込んでいる。
ラファールの里がどれほど討伐軍を減らしてくれるかを期待しているのだ、とテセラは語った。
今が好機だった。ラファールの里の住民を退避させるのに、今以上の好機はなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
作戦は即座に開始された。
テセラの主導によってラファールの民たちは、ナザック砦へと向かって歩き始める。
他ならぬ指導者の言葉でもあるし、食事が得られるというのなら喜んで何処にでも行くつもりだった。
彼らに向かって、総司令の奈緒は告げた。
「君たちは君たちで働いてもらうよ。あ、戦いに参加しろ、ってわけじゃないけど」
例えば魔法の属性による役割分担だ。
属性が水の人物は、この砂漠でも重宝する。一人で十人分くらいの水が確保できるだろう。
氷の属性を含めても、水使いは魔界でも一割程度しかいない、という話を聞いたことがある。
だが、侮るなかれ。
一万人の一割は、千人にも昇るのだ。
「ナザック砦を解放するよ。希望を未来に外の世界へ行くもよし、僕たちと一緒に苦楽を共にするも、よし」
この言葉で、千人近いゴブリン族が外の世界へと飛び出した。
砂漠の国を嫌悪し、辟易している者たちだった。それでも全体の一割にも満たなかった。
残りの九割は行く当てもなく、そして外の世界へと足を踏み出す元気も、奮い立たせる勇気もなかったのだ。
かくして、約九千人もの民衆を扇動していくことになる。
(とはいえ、いきなり一万人全員が集まるわけじゃなく)
(まあねえ……)
(でもまぁ、最初だからいいじゃねえの)
初日は千人がナザック砦へと詰め掛けた。
これくらいなら、と食料を提供し、水を譲って彼らの心持ちを安堵させた。
だが、安心するのは早い。
働かざる者は食うべからず。まともな食事で生きた心地をようやく手に入れた民衆には仕事をさせた。
(魔物の討伐と、ついでに食糧確保……ねえ)
(付近の魔物を討伐して、村民からお金をもらって、ついでに魔物は食料として保存するんだよ)
(砂漠だから保存も利かねえだろうに)
(氷魔法は、こういうときに便利だから。何より、ゴブリン族の一番の長所は、文字通りの数だからね)
他にも水魔法の使い手は、討伐軍の水の供給。
地の魔法を扱う者はミオの町や首都カーリアンへと派遣され、岩を砕いたり土をほぐしたりすることで給金を得る。
誰でもやっているアルバイトのようなものだが、今回のこれはそれ以上の意味がある。
蛮族に対する偏見を、軽減させることができる。
生きるためなら、彼らは必死に働くだろう。
必死に生きる姿に共感する者だって出てくるはずだ。奪うだけの蛮族ではなく、魔族として扱ってもらうのだ。
給金を得て、食糧を買い、そして人々に受け入れてもらう。
そのための道筋を奈緒は敷き、ジェイルやユーリィを通じて様々な資金稼ぎに乗り出すことになった。
「……すごいわね」
「ゴブリン族の一番の長所は数だからね」
例えば民衆一万人のなかで、まともに働ける者が三割ほどだと仮定しよう。
一日の日雇いで、一人が三セルパを稼いでくる。
この瞬間、討伐軍には一日で九千セルパも手に入れる、という立派なサイクルが積み立てられるのだ。
日雇いのまま帰ってこない、という可能性もあるので、派遣される者たちは家族持ちの者を選んだ。
これはゴブリン族の信用を回復させる、という試みでもあるため、狼藉を働かないように厳しく取り締まった。
一週間が経過した。
この日、一万人ものゴブリン族の民衆を中心として、確実な社会が築かれた。
家族のいるゴブリン族は日雇いの作業で給金を受け取り、それを討伐軍へと渡すことで一日の食料と水を得る。
平均して一人が三セルパから五セルパほどを稼ぎ出した。
最初こそ合計で二万以上もの資金を費やしたが、今では僅かにその負債を取り戻し始めているぐらいだ。
(魔物との戦いも、良い訓練になるみてえだなぁ)
(龍斗も良く参加してるよね)
独身で腕に覚えのあるゴブリン族や、砦陥落のときに投降したゴブリン兵の仕事は魔物討伐だった。
彼らでもEクラスぐらいなら打ち倒すことができる。ギアウルフやイルグゥを狩って、それを食料として運び出す。
たまにオリヴァースの町の依頼を受けて、魔物退治に乗り出し、それで報酬の謝礼金を受け取ることもある。
魔物の肉も上等な部位は商人に売ることで、更なる資金を手にする。
「……今まで、妾たちは生きていくために魔物を狩るのが、精一杯じゃった」
「うん……」
「…………周りから奪うことでしか、生計を立てる術はなかった。今では、活気すら感じられるのぅ……」
テセラの身体が小さく震えていた。
幼子のような顔が、感極まったかのようにくしゃり、と歪んでいた。
「うっ……ぇぐ……」
どうしようもなかった。
一万人もの民衆を救うことはできず、喉が渇いたと泣き叫ぶ子供に何もしてやれず、力なく項垂れていた。
お腹が空いたあまりに、死んだ魔物を生のまま食べて腹を壊した子供がいた。何も出来なかった。
何をする気力も起きず、ただただ砂漠のど真ん中で身体を投げ出し、自暴自棄になったゴブリン族の女がいた。
諦観と無気力と渇いた叫びだけが満ちた世界、のはずだった。
世界はこんなにも変わっていた。
僅か一週間という期間で、死人のような彼らに活気が戻り始めている。
魔物を生のまま食べて腹を壊していた子供は、医者に見てもらうことで元通り走れるようになっていた。
自暴自棄になっていた女性は調理師へと弟子入りを志願し、今では魔物の解体は彼女に任されるほどだ。
皆が生き生きと、苦しい生活に希望を見出していた。
「よかった……ほんとに……っ……」
人目もはばからず、テセラ・シルヴァは泣いていた。
奈緒は静かにその場から立ち去った。女性の涙は見るものではない、と思ったからだ。
テセラは振り向くことなく、それでも確かな言葉を紡いだ。
「ありがとう……」
心をこめて、もう一度。
百年という時を生きてきた女性は、こんなにも流したい涙があったことに感謝するように。
「あり、がとう……魔王よ」
「うん……」
照れくさくなって、奈緒は足早にその場から立ち去った。
奈緒は、この成功が自分の功績とは思わなかった。少なくとも自分は何もしていないのだ。
ゴブリン族の民衆たちの生きる力、これが強かっただけのこと。
その背中を一度だけ押したに過ぎない奈緒は、日本人さながらの謙虚さを発揮しながら、足早に立ち去るのだった。