第34話【ラキアスとの交渉】
「そちらから、何か要望はないかな」
「要望を伺うのはこちらのほうかと。あなたがわたくしたちに。何を期待するのか。それは知りたい」
手強いな、と改めて奈緒は心の中で溜息をついた。
既に会談は三十分ほど経過しているが、何も決まっていない状態になっている。
面倒くさいのが嫌いなゲオルグや、露出魔女マーニャなどは、まだ一時間も経過していないのに潰れている。
ジェイルなどはこんなことも得意なようで、積極的に発言してきていた。
「では、交互に要望を通していく方針ではいかがですか、ナオ様」
「……ユーリィはそれでいいかな?」
「構いません。まず先にこちらの要望は通しました。砦の中へ兵は入れてもらいます。次はそちらかと」
「分かったよ」
向こうの言い分のほうが正しいので、笑顔を見せて奈緒は答えることにする。
奈緒は終始笑顔を作っているが、ユーリィは鉄の女というか、氷の女というか、そんなイメージがぴったりの無表情だ。
何らかの作戦、相手がどのようなことを通してくるか。
それを見極め、ひとつでも多く自分たちの有利な条例を通したい、と思った。
まさか、高校生の分際でそのような各国の首脳会談のような、重苦しい現場に登場するとは思わなかったのだが。
「率直に言うと、今後は僕の指揮下に入ってもらいたい」
「指揮下。というと」
「うん。僕の兵として戦ってもらう。独立した軍団はそれだけで問題を引き起こす。勝手に行動されるのは困る」
「なるほど」
なるほど、などと頷いているが、恐らくは指揮下の意味ぐらい解説されるまでもなく分かっているだろう。
彼女は指揮下、という漠然な言葉に様々な意味が含まれているのを知っている。
奈緒の口からその詳細を聞き出すことで『じゃあ、これは指揮下、という条件には入ってない』と言うことも可能なのだ。
漠然とした言葉は混乱を生む。それをユーリィは知っている。
さすがに大国ラキアスの参謀の一人、というわけではないのだろう。そして、指揮官を任されたマーニャも只者ではない。
「……あー、暇ねー……お姉さん、ちょっとベッドでくてー、としたいわん……」
「…………」
只者ではない、はずである。
辺境の一軍とはいえ、それは兵隊たちの話だ。
指揮する者はそれなりの何かを所有しているだろうし、現に部下は優秀な参謀っぽいユーリィを擁しているのだから。
副官に大事な会合を任せて、逆ナンパしていた件を考えるとフォローに困るが。
「結論から言いますと。大雑把な内容には頷けません」
「どういうこと?」
「あなたの指揮下とは。つまりあなたの手足になるということ」
「…………」
「戦では捨石にされようと。内部で身体を捧げよと言われても。わたくしたちは従わなければならないというのなら」
確かにその内容で頷ける話ではない。
冷静に考えればユーリィたちは、本国から何らかの指示を受け取っているに違いないからだ。
相手の指揮を奪って全てをラキアスの功績にしろ、などという指令が出ている可能性もある。
「まあ、お姉さんは別にその内容でも」
「あなたは黙ってなさい、マーニャ。基本的に対話では無能なんですから」
「……ひどいわねん」
しくしく、と嘆く振りをする上司のはずのマーニャ・パルマー司令官。
上司を平然と罵倒して涼しい顔をする、部下のユーリィ・クールーン参謀。
二人の力関係が何となく分かってきた。
組しやすしはマーニャ。しかし、会談の対処についてはユーリィに一任されている、と考えていいだろう。
「ごめんねー、やっぱりお姉さんは場違いな気がするから、外で待ってるわねん」
「……ええー」
一任、というか丸投げだった。
奈緒が信じられないような声を上げるが、マーニャはお構いなく会議室の外へと歩いていく。
なめまかしく腰を振りながらの退出に、男性陣の目が奪われるが、ラフェンサの咳払いで我に返った。
がちゃり、と扉を開けて消えていく自由奔放なる魔女、マーニャだった。
「……失礼しました。アレについては。捨て置いてください」
「うん……まあ、いいけど」
右手で頭を抱えながら奈緒は溜息をつく。
向かい側では同じように、無表情のまま静かにユーリィが嘆息するところだった。
どうやらお互い、彼女の扱いには困っているらしい。
閑話休題して本題へと話を戻すことにする。
「一応だけど、僕だってそんなことはしたくない。ラキアスは協力者だ、捨て駒でもないし、娼婦でもない」
「そうですね。わたくしも。そうだと信じています」
よく言う、とカスパールが眼鏡の奥から鋭い視線を向けた。
信じているのなら最初からどうこう言う必要は無い。これは牽制のようなものだろう。
逆に考えれば、今の二点は彼女が最も警戒している案件であると考えていいかもしれない。
一方のユーリィは当初から厳しい見解を持っているらしく、そのまま固い口調で告げた。
「わたくしたちは。友軍という形でナザック砦へと参りました。友軍は本来。指令を受ける必要はありません」
「……だけど、そうしてもらわないと困るかな」
「あなたが困るのは知ったことではないかと。その要求を受け入れて。困るのはわたくしたちだけではないですか?」
それに、とユーリィが重ねて告げる。
一気に畳み掛けるかのように。奈緒の計算に深く切り込むかのように。
「個人的にも。あなたに全てをお任せするには。不安を覚えます」
それは侮りだっただろう。
ラキアスという大国の意地でもあっただろう。
更に言えば、大国だからこその傲慢さを知らしめる一言にも聞こえるだろう。
ジェイルが不機嫌な表情を浮かべ、ゲオルグが奈緒の顔色を伺い、ラフェンサが静かに瞳を細めた。
それほどの首脳陣たちを前にしても、ユーリィの表情は一切揺るがない。
「なるほどね」
奈緒は、そこまで言うかと笑ってしまった。
周りの首脳陣が険悪な雰囲気になっていくなか、一人だけ困った顔で笑っていた。
作り笑顔だとは思うが、全然そんな風には見えない。そんな笑みがユーリィの内心に警戒をもたらせた。
(普通なら。怒る場面のはずなのですが)
ユーリィは顔の筋肉を動かす余力さえ思考に巡らせて、静かに今後の展望を見据えていた。
奈緒という少年がどんな存在なのかが分からない。
挑発には乗らない。交渉の運びはお世辞にも上手いとは思えない。歳もまだ十代で、後半かどうかも怪しい。
てっきり、象徴として祭り上げられただけの存在で、真の司令官は他にいると見ていたのだが。
「でもね、ユーリィ。忘れてもらっちゃ困ることもあるんだけど」
その予想は違う、とようやく結論を付けることができた。
あからさまな挑発を前にして、周囲が色めき立つ中、この少年だけは平静を失うことが無かった。
彼はユーリィの思考を読むかのような、静かな沈黙を少し演出すると、言葉を紡ぐ。
「友軍だからこそ、戦場の指揮権を得ることには繋がらないよ」
「…………」
やはり、要点はそれなりに抑えてきているのか、とユーリィは僅かに思う。
確かにこの状況でオリヴァース軍が考えるのは、ナザック砦陥落の功績を横から奪われることだ。
あくまで彼らは自分たちの主導で行いたいに決まっている。
それを示すためにも、ここでユーリィたちの手綱を握っておきたいに違いない。ユーリィは思考を読むように結論付けた。
「ですが。わたくしたちの軍を指揮する権限まで。あなたたちが持っているわけでもない」
「……そうだね。だけど、それじゃあ困るんだよね」
くすくす、と笑う奈緒を見て、ユーリィは少し考え込んだ。
この笑みは強がりなのか。ただの見栄なのか。それとも、何か策があっての含み笑いなのか。
服装を変えれば女性のようにも見える討伐軍総司令の表情を、ユーリィは測りかねていたが。
唐突に、奈緒は驚くべき一言を告げた。
「しょうがないなぁ。それじゃ、僕たちだけでクラナカルタを落とすよ。遠路ご苦労様、帰り道も気をつけてね」
空気が、停止した。
ユーリィの呼吸が驚愕で止まった。
奈緒の周囲に控えていた首脳陣たちも言葉を失っていた。
これにて会談終了、と席を立とうとする奈緒を見て、彼の言葉が本気であることを悟った。
「待ちなさい! どういう。意味ですか」
「言葉どおりの意味だけど。勝手に動かれる軍なんて、山賊以上に役に立たないしね」
「……山賊……?」
奈緒は、笑っていた。
この空間でただ一人、彼だけが笑っていた。
全員が言葉を失っていて、平静さを失う者も敵味方問わず存在しているにも関わらず、彼だけは。
口元を歪め、済ました顔で、平然と笑っていた。
「あなたは。我々の力を。必要としていたはずでは……まさか。必要ないというのですか」
そんなはずはない。
ラキアスの助力が欲しいからこそ、彼らは援軍要請をしてきたはずだ。
命令文を受け取ったユーリィたちもそのように解釈している。
むしろオリヴァース軍だけでは力負けする可能性もあるから、ラキアスによる底上げを狙っていたはずなのだが。
「もちろん、欲しいよ」
奈緒は正直に言った。
ラキアスからの援軍。二倍近くに軍が膨れ上がるのは嬉しいだろう。
「だけど、別に傭兵で埋め合わせしてもいいしね。それぐらいでしかないんだよ」
「リーグナー地方の覇者であるラキアスの軍を。傭兵風情と一緒と考えるのは。あまりにも無礼が過ぎるのでは?」
ユーリィの態度は意図的に傲慢なものとしているが、これこそが強がりのようなものだろう。
このまま黙っていては会合が終わってしまう。ユーリィも積極的な発言をせざるを得ない。
奈緒は少しだけ首をかしげる仕草を見せた。
「でも、僕の指示に従ってくれないんだよね」
「それは」
「難攻不落と謡われたナザック砦を陥落させた実績を鑑みても、僕を信用できないんだよね」
別に、そのことを祭り上げるつもりはない。
実際に陥落させたとはいえ、半分以上は皆の頑張りだと奈緒自身も思っている。
だけど交渉ごとに限っては、こうした『実績』ほど効果があるのは、キブロコスの件で証明済みだった。
現にユーリィなどは口元を結ぶと、無表情に僅かな憂いの感情が見えた。
「……つまり、君たちは僕たちに対して、信頼はおろか信用も示すことが出来ないってこと、だよね」
「…………」
「ほら。お互いを信用できないのに、一緒に戦うなんて難しいでしょ?」
ぐっ、と息を詰まらせて悔しがるのはユーリィだ。
自分たちを侮辱するような暴力的な言葉だが、間違いなく正論であることは間違いない。
かといって、ここで怒りに身を任せて帰ってしまうのはまずい。
ユーリィも、そしてマーニャも、ラキアス国でどのような叱咤を受けるか、分かったものではないからだ。
「……この件は。国際問題になりますよ。オリヴァースに厳重な抗議をすることにも」
「え、なんで?」
「何でって……」
ラフェンサやジェイルが顔色を青くしてしまうが、奈緒の表情は変わらない。
二人を庇うような言葉を向けて、冷然とした事実だけを突きつける。
「どうしてオリヴァースに、抗議をするの?」
「……ですから。ラキアスを侮辱したオリヴァースには」
「うん。だからね、勘違いしているみたいだから言うけど。オリヴァースは『友軍』の扱いになるんだよ?」
今度こそ、ユーリィの無表情が完全に崩れた。
驚愕にも似た顔色で、呆然と奈緒を見ることしか出来ないユーリィに向けて、奈緒は言い放つ。
ただ、事実だけを。彼女たちを追い詰める言葉だけを。
「オリヴァースが、僕に、兵を貸してくれてるんだ。勘違いしないでね。この討伐軍は『オリヴァース主導』じゃない」
ラフェンサが奈緒の言葉に困った顔をするが、実際にはその通りだ。
奈緒がオリヴァースに対して踏んだ手順は、クラナカルタ討伐の必要があるため、兵を貸せ、というものだ。
決して『オリヴァースの将軍として奈緒が指揮している』わけではない。
奈緒は奈緒であり、オリヴァースの友軍がラフェンサという将に率いられているだけに過ぎない。
「僕は、オリヴァース国の者じゃない。ただの……そうだね、傭兵みたいな存在だよ」
「傭兵……? そんなはずが」
「ラキアスにどんな命令書が送られてきたか知らないけど。オリヴァース王はラキアスに話を通しているはずだよ」
即ち、カリアス魔王が提案していった援軍要請の言葉。
クラナカルタを討伐する、という計画があり、ラキアス側からも一軍を貸し与えていただきたい。
オリヴァースからも一軍を出し、ナザック砦を攻略する、と。
ラキアスはいつもどおりの回答をした。『ナザック砦を陥落させれば、こちらも一軍を出そう』というものだ。
難攻不落のナザック砦を落とせるはずがない、と高をくくった対応を取ったのだ。
「オリヴァースから一軍、ラキアスから一軍。僕に兵を貸し与え、クラナカルタを倒して民の安寧を手に入れる」
クラナカルタの被害にあっているのは、ラキアスもオリヴァースも共通事項だ。
だからこそ蛮族国討伐について、異論があるはずがない。
問題は討伐したあとの旧クラナカルタ領地の分割だ。ラキアスはこれに一枚絡むつもりだった。
兵を出し、主導権を奪い、クラナカルタ領を切り取ることが望みに違いない、と奈緒は内心で当たりをつけていた。
「それで、ユーリィ。オリヴァースは僕の指示に従う友軍として、『善意』で力を貸してくれているけど」
「…………」
「ラキアスは自国の民のために『善意』で戦ってはくれないのかな」
「……議論のすり替えでしょう。わたくしは。あなたの指示に従うことが」
「できないというのなら、話は終わりだよ」
冷たく言い放たれる言葉に、ユーリィはこっそりと歯噛みした。
色々な展開も考えていた。状況しだいで自分たちを厚遇するように仕向けるつもりだった。
何だかんだといってもラキアスの強兵はオリヴァース軍の比ではない。
求めてやまないに違いない、と踏んだのだが、ユーリィは想像以上の手強さに歯を噛み締めるしかない。
「少し。考える時間をください」
「だめだよ」
ピシャリ、と奈緒が時間延長の懇願を断ち切った。
さっきまでの柔和な笑みが消えていた。
攻め時と見た奈緒は罵倒されても消えなかった笑みを消し、この場での結論を求めた。
「マーニャとも話さなければ。わたくしの一存では」
「彼女はユーリィに一存したみたいだよ? というか、会談から抜け出しちゃったら、さすがにね」
「……くっ」
正論だ。道理なだけに言い返せない。
奈緒はユーリィの様子を見て、自分が優位に立っていることを確信した。
大丈夫。まだボロは出ていない。
内心では凄く緊張している奈緒だったが、鍛えぬいた表面上の平静はこんなところで生きてきた。
「そうだね。それじゃ、条件付きにする?」
「条件……?」
「うん。僕がこれから、そちらの有利になる条件を付け加えていくから。それで承諾できないなら、話は本当に終わり」
「…………」
ユーリィは視線を真っ直ぐ、奈緒へと向けた。
彼女の思考は奈緒が告げるだろう条件を吟味するために、フル回転で巡らせられる。
奈緒の首脳陣たちも事の次第を見続けていた。
全員の注目が集まる中、奈緒は指をひとつ折り、言葉を紡ぐ。
「ひとつ。僕が君たちに指示するのは戦術的なものだけ。君たち個人に向けるくだらないものじゃ、ない」
それは、女性指揮官であることを考慮した条件だ。
好色な司令官はたまに女性指揮官に権力を行使することで、意に沿わぬ命令に従わせることもある。
奈緒本人はそういう事実を知らないのだが、ユーリィはそういう事実があることを知っている。
一番最初にそこを言及してくる以上、ユーリィには奈緒の人柄の予測がついた。
「ひとつ。君たちの軍に全てを押し付けはしない。捨て駒になれ、とも言わない。ただ、仕事をこなしてくれればいい」
この二つはユーリィが望んでいた最低限の返事だろう、と奈緒は思う。
自分が彼女の立場になったなら、必ずそこだけは確約させるからだ。無能な指揮官に大事な部下の命を預けられない。
だからこそ、この二つは絶対だ。それだけは確約させても何も問題ない。
「……一応、そちらが懸念してると思う部分について保障したけど」
「………………」
「不満そうだね。ついでに言っておくけど、引き際を間違えないようにね。次に僕が終わりと言ったら、『終わり』だから」
無言のまま、ユーリィの瞳が細くなった。
駆け引きを楽しんでいるのか、何処まで相手の条件を引っ張り出せるかの勝負に、奈緒とユーリィの視線が鋭くなる。
奈緒は右手の薬指を折り、三つ目の条件を口に出す。
「ひとつ、衣食住の保障。友軍として、協力する仲間として、そこは徹底させると約束するよ」
「当然。です」
「その、当然の保障を疑わなくていいってことだよ」
ユーリィは思考しながら考える。
どんなに頑張っても奈緒から引き出すことの出来る条件は五つまでだろう、と。
彼が片手で条件を数えていくのは、それをユーリィにも伝えるために違いない。
人畜無害な見た目に反して、鬼畜のような対応にユーリィは最初に奈緒に抱いていた評価を改めざるを得なかった。
「ひとつ、二人には拒否権がある。作戦や意見、進言などを認める」
「……」
小指がゆっくりと広げられたのを見て、ユーリィは口を開いた。
恐らくはこれまでだ。それ以上の条件は用意されない。奈緒の怪しげに歪む口元を眺めて、生じる不安を押し殺す。
拒否権がある以上、同等の権力を手に入れたと考えてもいいだろう。
相手にとってもギリギリの妥協点。これなら、大丈夫だ。
「分かりました。その条件付きで。あなたの指揮下に入りましょう」
「……ふう。決まりだね」
あっさり、と。
本当にあっさりと、奈緒は前言を引っ繰り返した。
首脳陣の顔に色が戻る。緊迫感に包まれた雰囲気がようやく霧散した。
結局、条件付きとはいえ、奈緒の指揮下に入ることが決まったのだ。交渉は奈緒の勝利と見ていい。
「一応聞いておくけど。戦力は期待していいんだよね?」
「ええ。それは頼りにしてもらって結構です」
「分かった。それじゃ……」
奈緒はまず、会議にほとんど参加していなかったゲオルグとカスパールへと視線を向けた。
最も、発言は奈緒ばかりだったのでジェイルやラフェンサの出番もほとんどなかったのだが。
「ゲオルグ。傭兵たちに野営の準備を。不満が出たらよく言って聞かせてね」
「おう、了解ー」
「カスパールもお願い。ゲオルグ一人だと、何だか騒ぎになりそうだし」
「良い判断です」
「オレってそんな認識!?」
一転して明るい会話になる奈緒は、つい先ほどまで渡り合ったユーリィから見れば狐にしか見えなかった。
柔和な笑顔の向こう側にどれだけの考えを巡らせているのか。
ナザック砦を陥落させた実績も含めて、彼を認めなければならないだろう。
もちろん、警戒の対象として、だが。
「ラフェンサ。オリヴァースとラキアスの混成軍になっちゃうから、齟齬が生まれないように気を配ろう」
「分かりました。問題が起きないように善処しますわ」
「ユーリィもお願いね。兵士たちも背中を預けあう仲になるんだから、信頼関係を築いてもらわないと」
「……分かりました」
それは最初の命令、というなら従うほかは無い。
無理に仲良くされても困るのが本音だが、そういうユーリィ個人の事情は隣に置いておくことにした。
彼女には彼女の目的があり、そのためにもクラナカルタは討たなければならない。
今はナザック砦を陥落させたナオ・カリヤという人物の采配を信用しよう、ということで彼女の思考は落ち着いた。
「それと……ねえ、ユーリィ。細かい作業は得意?」
「……? ええ。それなりに。得意としていますが」
「よっし、補佐役ゲット」
「は?」
指を鳴らす奈緒。事情の分からないユーリィは怪訝そうな顔をした。
自分の隣に控えていたジェイルの肩を叩く。線の細い中年悪魔族の表情が、少し微妙そうに歪んでいた。
奈緒はひたすら純粋な笑みで説明を始める。
もっとも、あれだけの交渉の後では、ユーリィの瞳には偽りの笑顔にしか見えないのだが。
「いやー、雑務が多くてね。参謀のジェイル一人じゃ裁き切れなかったところなんだよ」
「……はあ」
「早速、命令だね。ユーリィはジェイルと共に参謀として雑務を処理すること。マーニャは……彼女、何が出来るんだろ」
「…………あの女は戦闘では役に立ちますよ。きっと。多分」
我が司令官にして友人にしては、情けない話だとユーリィ自身も溜息をつく。
自由奔放な不良女と学級委員長が手を組んでいるみたいだ、と奈緒はこっそりと思った。
とにかく、内政方面ではマーニャの出番はないらしい。
雑務の九割はどうでもいい、というか重要書類ではないので、九割の仕事をユーリィに手伝ってもらうことにする。
これでジェイルの苦労も、半分になるに違いない。
「ジェイル。これで仕事は半分になると思うから……命を諦めないでね」
「…………え、ええ、ありがとうございます」
「……何が。あったのでしょうか。すごく。不安なのですが」
数日前に起きた『とある事件』により、ジェイルの待遇に改善を求めようと奈緒が提唱したのが事の発端だった。
ラキアスの援軍。奈緒にとって、いずれは敵に回る相手に内政を任せるのは危険かもしれない。
ぼそり、とユーリィに聞こえない音量でジェイルの耳元に囁く。
(ジェイル。心得ておいてね)
(は……?)
(重要書類だけは前もって確保してほしい。あんまりユーリィには見られないように)
(は、はい)
基本的には九割の雑用の処理だ。
危険がないとは言えないが、この戦いに限っては仲間なのだからそれぐらいの信用は見せる必要がある。
背中の心配をしながら戦う余裕など、奈緒たちにはないのだ。
「それじゃ、解散。各自、頑張ってね」
◇ ◇ ◇ ◇
「こちらが、私の執務室です」
「……………………」
「これが、今日こなす仕事ですな。なに、いつもに比べれば少なめです。二人ならそれほど掛かりません」
執務室に通されたユーリィの前に、白い暴力が存在していた。
机に積まれた白い書類は、まるでひとつひとつが相手に苦痛を与えるための道具にも見える。
ユーリィとて雑務処理の経験はあるほうだが、ラキアスは人材も豊富なため、一人にこれほどの量は回ってこない。
最初の仕事として目の前に展開された雑務の山は、彼女の想像を遥かに超えていた。
「やられた。これが。あの少年の陰謀。わたくしを。精神的に追い詰める算段か」
「いえいえ。驚くのはまだ早い」
「なんですって?」
「これから、続々と送られてきます。これは私の経験ですが」
そう言った直後、がちゃり、と背後の扉が開かれた。
兵士らしき男はジェイルの言葉を証明するかのように、白い書類の束を提出した。
いつもどおりの光景としてジェイルは笑顔で受け取ったが、ユーリィの身体は戦慄めいたもので震えていた。
「まさか。これだけの量を。今まで一人で?」
「慣れれば楽なものですよ。ふふっ、ふふふふ……さあ、二人で頑張りましょう。命令ですからな」
「…………俗に。それを廃人と人は言います……」
ユーリィが何とか言葉を搾り出すが、ジェイルは瞳孔の開いたような、生気のない表情で答えた。
それは冷静沈着な彼女は恐怖に落としてしまいそうになるほど、壮絶な何かを放っていた。
怨念とも、殺意とも、敵意とも、雑念とも違う何かだ。
「なに。二人でやるのです。ほんの三時間ほどで終わるでしょう?」
ナザック砦最初の一日。
援軍の参謀ユーリィ・クールーンは、予想を超えた手荒い歓迎を受けることになる。
後日、彼女の瞳からも生気が抜けてきた、と報告があるのは別の話だ。
◇ ◇ ◇ ◇
話は変わって、奈緒の部屋。
いつもは奈緒が椅子に座って本を読んでいる、彼の絶対的な空間だ。
たまにセリナが紅茶の誘いに来たり、追従するような形でラピスも現れたりする憩いの場所だ。
今日も今日とて、会議を終えた奈緒を出迎えてくれる空間に、先客がいた。
「…………」
セリナ・アンドロマリウス・エルトリア。
今はエリス・セリナで通している金髪ツインテールの少女は腕を組んで座っていた。
表情は厳しく、不機嫌オーラが視認できるぐらいで奈緒は思わず回れ右をしたくなる。
だが、それが出来ない理由がセリナの対面に座っていた。
「……あはん」
マーニャ・パルマー。
何故、貴様はここにいる、と奈緒は思わず声を絞らせた。
成熟した身体を惜しむことなく曝け出し、色っぽく足を組みながらセリナと対峙している。
「え、なに、この状況」
奈緒の困惑した一言。
こちらもこちらで、何やら厳しい問題に直面している様子だった。
セリナは奈緒に一瞥を向けると、口を尖らせた。
「むう……」
「……ええと、セリナさん?」
「なによ」
「機嫌、悪い?」
「……別に」
素っ気無かった。
何だか凄く寂しかった。
涙ぐみそうになる奈緒に、マーニャがいらぬ優しさを見せる。
「あらあら。ボウヤ、泣きそうね。慰めてあげようかな?」
優しさが、時には凶器となるということを奈緒は初めて知った。
ラキアスの援軍はやはり只者ではない。
これが彼らの陰謀で、奈緒を苦しめるためにわざとやっているのではないか、と思う。
セリナはセリナで、言葉少なめに奈緒を睨みつけているだった。
(いや、だから……)
好意とも敵意とも分からない二人の視線に貫かれる。
何だか今からでも全てを投げ出して逃げたくなる、という針のむしろを感じて。
(この状況、僕にどうしろって言うのかな……)
ほんのり、と。
哀愁の漂う背中を向けながら。
奈緒は今日一番の恐怖体験に身体を震わせたのだった。
まずはこの場をお借りして。
イリシュ様。いつも感想をありがとうございます。
毎回、感想をお送りしたいのですが、どういうわけかメールがそちらに届きませんorz
お手数ではありますが、評価&感想のほうで改めて感想を書いていただけると、お返事が出せて助かります(泣)
いつも皆様の感想に元気付けられております。本当にありがとうございます!
追伸。
ついに一日のユニーク数が2000を突破。本当にありがたいことです。
これからもどうぞ、よろしくお付き合いください!