第27話【ナザック砦攻防戦3、夜襲】
深夜未明。
夜の砂漠は昼間とは打って変わって極寒の寒さとなる。
昼のような遠慮のない太陽光は影を潜め、魔力を帯びた赤い月が世界を照らしている。
太陽の存在がないだけで、灼熱の砂漠は凍えるほど寒い世界へと変貌する。
「ふう……おーい、誰か火を使えないか?」
「ういー、使えるぜ。お前もこっち来いよ」
「すまないな」
「気にすんな」
ラフェンサ率いるオリヴァース正規兵、そのうちの見張りが五人ほどいる。
一時間ごとに交代することで疲労を減らすというスタイルで、彼らは警戒態勢を敷いていたのだ。
軍の大部分が天幕の中に避難して暖をとっているが、それでは見張りはできない。
見張りとして一時間、夜襲に警戒をしなければならない彼らは魔法で寒さを凌ぎながらぼやく。
「くそ、寒いな……昼とは大違いだ」
「砂漠に来たのは数年ぶりか……あのときも、あのナザック砦で足止めをくったんだぜ」
「今回は勝てるのかよ……? 今日の昼も負けたじゃねえか」
「傭兵たちだけだったからな。でも確かに、今までも攻め落とせなかったしなぁ……」
彼らの士気はあまり高くないが、それも致し方ないだろう。
ナザック砦は大国ラキアスでも攻めあぐねた要塞であり、オリヴァース軍も幾度となく敗北してきた。
今回も同じ結果になるだろう、という悲観的な考えが軍に蔓延しているのは言うまでもない。
残念ながら小国オリヴァースの歴史は、奈緒の想像を上回って厭戦気分が高まっている。
「……ったく、冗談じゃないって。こっちは子供が生まれたばかりなんだ……勘弁してくれよ、戦争なんて」
「しっ、聞こえるぞ。愚痴はあまり言うべきじゃない」
「でも、なあ……俺、ミオの町の出身だし」
「クィラスの町ならともかく、国境付近じゃない俺らにゃあ、あんまり実感がわかねえなぁ」
クラナカルタの脅威が分かるのは国境の町ぐらいのものだ。
国境が落ちれば次は自分たちの番、という認識はやはり薄い。それくらいには平和ボケをしてしまっている。
そんな彼らだからこそ、判断が遅れてしまったのだろう。
最初の一人が『それ』に気づいたとき。
既に事態は致命的だった。
「お、おい……なんか、地響きが……」
「……声? なんだ……?」
何十、何百という接近してくる何者かの足音が響く。
雄叫びや絶叫のような百人規模の声が、深夜の砂漠に木霊する。
大部分の見張りの者たちは自分たちへ接近してくる軍隊の存在は暗闇で視認できない。
偶然にも一人、暗闇でも昼の光のように世界を見渡せる『暗視』の能力を持ったエルドラド族がいた。
物事を見通すことに長けたエルドラド族の見張りが、ようやく己の職務を思い出し、力の限り、叫んだ。
「て、敵襲……! 敵襲だああああああああああああああああ!!!」
奈緒率いる討伐軍に衝撃が走った。
全体のほぼ九割が就寝しているというこの状況で、蛮族軍は夜襲を仕掛けてきたのだ。
末端の兵たちは驚愕した。見張りなど、形だけのもので十分だと思っていたのだ。
彼らはナザック砦に篭城するだけで勝利を得ることができる。
だからこそ、外に出て戦うという選択肢を選ばれるとは夢にも思わなかった。そんな危険なことをする必要がない。
「起きろ! 敵が、敵が来るぞー!」
「くそっ……何だってこんなときに!」
彼らは瞬く間に大混乱へと陥っていく。
奇襲を受けた際、もっともやってはいけない行為が、冷静さを失って逃亡することだ。
第一陣、第二陣と崩れていけばたった一度の奇襲で全てが終わる。
現に見張りの彼らは足を縺れさせながら逃げ始め、そして向かってくる蛮族たちは時の声をあげて襲い掛かる。
「ひっ……ギャアアアアッ!!」
「た、立てえ! 全員、武器を取れー!」
「敵襲だ! クラナカルタが攻めてきたぞ! 死にたくなけりゃ、起きやがれ!」
「う、うわぁ……っ!!」
何とか震えたつ魔族たちの前に現れたのは、二メートルを優に超す大きなオーク族の男だった。
髪の毛はなく、眼光は鋭く、瞳は血走っており、口元には獰猛な笑みを浮かべている。
ナザック砦の主、ベイグ・ナザックは手始めに見張りの兵たちに棘の付いた棍棒を叩きつけ、絶命させる。
ハハッ、と狂気に太くて赤い舌を垂らしながら、ベイグは我が兵を鼓舞した。
「皆殺シニ、シロ! 殺シ尽クセ……!!」
クラナカルタの夜襲部隊、合計三百人ほどが討伐軍へと襲い掛かる。
圧倒的な暴力により見張りの兵たちはおろか、周辺の陣もあっと言う間に壊滅状態へと陥った。
犠牲者は約二十人。だが、これは序章に過ぎない。
ベイグは討伐軍の三百の兵と、弟の仇の全てを皆殺しにするために、更なる進軍を続ける。
◇ ◇ ◇ ◇
「ナオ様、敵襲です! クラナカルタが夜襲を仕掛けてきました!」
「…………」
ジェイルの声に奈緒のいるテントからの声はなかった。天幕は沈黙を守っていた。
くずくずしている時間はない。起きていないのなら叩き起こすまでだ。
敵はまだ本陣には到着していないが、既に前軍が打ち破られたという情報はシェラを通じて入っている。
ジェイルは何としても奈緒に起きてもらい、最悪でも体勢を立て直すために逃げてもらおうと思っていた。
ナザック砦攻略の糸口は掴んでいるのだ。核たる奈緒さえ無事ならいくらでも再起は図れる、と。
「失礼いたしますぞ、ナオ様! 敵が攻めて……」
天幕を広げ、強引にジェイルは中へと入る。
総司令の本陣にしては装飾も何もない、ベッドとテーブルがひとつと椅子がふたつ、のテントだった。
最低限の設備しか整えていない奈緒の寝泊りするテントだったが、既に彼の存在は消えていた。
「お、おや……?」
奈緒は既にテントの中にはいなかった。
危機を察知したらしく、ジェイルが呼びに来るよりも早く外に出ていたらしい。
(逃げた、のか……? 逃げたならばいい……私も早く、逃げなければ)
再起を図るために身を隠した、と判断した参謀ジェイルは駆け出そうとして、それに気づく。
首脳陣の一人として渡されたシェラから声が漏れているのだ。
何事かとシェラを耳に傾けてみると、聞き覚えのある声がした。
『……ル! ジェイル! 聞こえないのか!? 応答しろ!』
「な、ナオ様!」
捜していた総司令の声だった。
そうだ、冷静になれば首脳陣同士はシェラで連絡が取り合えるのだ。
戦争に従事したことは初めてだったクィラス町長のジェイルには、あまりその発想はなかった。
突然の夜襲で冷静さを失っていた、とも言える。
『ジェイル、良かった! そっちも無事だね?』
「は、はい! ナオ様もご無事で!」
『それじゃ早速だけどジェイル。衛生兵を集って怪我人の手当ての準備をして! 急いでね!』
「……け、怪我人の……?」
それはどういうことだろう、とジェイルは首をかしげた。
怪我人の手当てとは戦いが終わった後にやることだ。戦っている最中にやることではない。
クラナカルタ軍が退いたのか、という希望的観測が沸いた。
だがしかし、奈緒の次の一言で甘い幻想は打ち壊されることになる。
『僕はこれから、クラナカルタ軍を止めてくる。前線には予断を許さない者もいるんだ、早く、頼むよ……』
「な、ナオ様!? 前線って……いま、どちらに!?」
『問答をしている時間はないッ!!!』
シェラの向こう側から、奈緒らしからぬ怒号が響いてジェイルは肩を震わせた。
彼はいま、どうしようもなく怒っている。悲しんでいるのかも知れない。
理由もわからないが、今の奈緒に逆らうのは得策ではない、とジェイルは自然に判断した。
「すぐに参ります、ご武運を!」
ジェイルはシェラの通信を終えると、すぐに後陣の兵たちを召集した。
衛生兵を組織し、己もまた長剣を携えて前線へと飛び出していく。初めて後手に回った戦は月夜の晩に続く。
◇ ◇ ◇ ◇
「セリナたち飛行部隊は怪我人の確保! 後陣へとどんどん回していって!」
『分かったわ!』
「ラフェンサ、体勢を立て直して! 冷静さを失っていない者は前線に、恐慌状態の者は後詰に!」
『はい!』
シェラで次々と指示を下しながら、奈緒は最前線で戦っていた。
敵襲の雄叫びを聞いたのは龍斗で、前線へと走ったのも彼だった。もちろん命令は奈緒からのものだ。
意識が二人分あるために、誰よりも早く異変に気づいた彼らの行動は早かった。
第一陣は手遅れだったが、第二陣が襲われるよりも早く前線へと到達。どうにん押し留めている状態だ。
「ゲオルグ、カスパール! 傭兵隊はまだか!?」
『今、向かっているからもう少し耐えててくれ! 昼の影響で疲労が色濃いんだ!』
奈緒の周囲にいるのはラピスたち切り込み部隊三十名と、第二陣の兵たち二十人だ。
砂漠という不慣れな環境で六倍以上の兵力差をつけられている。
厳しい戦いだ。判断を間違えれば即座に全滅してしまうだろう。一気に襲われればその時点で敗北だ。
だが、幸運にも幾つかの僥倖が重なっている。
「ラピス、無事!?」
「な、何とか……!」
ラピスと合流できたのが第一の僥倖だった。
彼女もいち早く事態に気づき、自分の部隊を率いて前線へと駆け付けてくれたのだ。
おかげで本来の第二陣の兵力は二倍以上に膨れ上がり、どうにか戦線を保つ体裁が整っている。
ラピス本人も奈緒が魔法を撃っているあいだ、彼の護衛を担当してくれているので安心して魔法が使えるのだ。
「<氷の嵐>!」
ごう、と極寒の砂漠がそのまま敵軍へと牙を剥いた。
氷の塊がゴブリン兵の顔面に直撃し、風に宙を舞ったオーク族は地面へと叩き付けられる。
奈緒が放つ魔法はこれで六度目、いずれも広範囲へと与える中級以上の威力を誇る魔法だった。
それでも奈緒にはまだ余裕があるのは、今の時刻が夜だからだろう。
第二の僥倖、赤い月が奈緒たちの魔力を補充すること。
これは奈緒だけでなく、魔族全員に言える話ではあるが、もっとも顕著に恩恵を受けたのは奈緒だった。
敵軍はオーク族とゴブリン族が中心で、主に肉弾戦を得意としている。
魔力の強化ならともかく、補充だというのだから彼らにはあまり意味がない。
燃費の悪い奈緒が今でもまだ戦えるのは、赤い月が月光から送られる魔力を吸収しているからだろう。
「死ねええええええええっ!!」
「ぐあっ……!!」
だが、それでも。
絶対的な不利は覆されることがない。
また一人、味方の兵が切り殺された。鮮血が舞い、内臓が飛び出し、命が途絶えた。
第一陣の二十人は全員助からないだろう。きっと、惨劇が広がっているに違いない。
それを自覚すれば自覚するほど、頭が沸騰して、奈緒の精神が削られていく。
(分かってる……つもりだったけど)
狩谷奈緒は戦争を引き起こし、この悲劇を自ら起こした者だ。
兵たちが人の姿をしているかどうか、など関係ない。まるで駒のように兵たちを操る、それが指揮官だ。
魔族も人間と何も変わらないことぐらい、奈緒は知っている。
知っている上で、奈緒は平然と策を練り、人に人を殺させる命令を下し、自らも敵を殺している。
(……辛い、な)
傷つき、傷つけられる。
殺し、殺されることを命令する。それはとても辛いことだ、と心の中では分かっていたつもりだった。
だが、初めて味方が犠牲になった瞬間を目にして、さらにそれが浮き彫りになってしまったらしい。
死地に人々を赴かせる、という罪業は人殺しなんかよりも遥かに重い。
そんな簡単なことを今更気づかされた。
「いてえ……痛てえよぉ……」
「手が、て、手がぁぁぁ、俺の右手がぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「死にたくない……死にたくない、死にたくない、死にたくない……」
絶叫が、悲鳴が、怨嗟が、苦痛の声が奈緒の耳に届くたびに心が磨り減っていく。
彼らの痛みも、苦しみも、死も、その全ての原因は間接的に自分にある。
まるで自分を責め苛む怨嗟の声のようで、奈緒は歯を食いしばって戦線を維持するしかなかった。
だが、それにも限界があったのだろう。
「ぎゃあああああ!!」
「な、なんだ!?」
「そ、空からだ! 空からも……!」
奈緒は地上の敵を七度目の魔法で吹っ飛ばすと、上空へと視線を向けた。
そこにいたのはクラナカルタの飛行部隊だ。
彼らが飼育する魔物たちの群れが奇声を上げて、討伐軍の兵たちに襲い掛かるところだった。
クィラスの町でも戦った鳥の魔物、イルグゥ。
空を飛ぶ青白い肌の毒蛇、スカイサーペントなどが奈緒の視界に入っただけでも二十体。
(このまま、じゃ……!)
空と陸からの波状攻撃を受けては、いかに五色の異端であろうとも戦線を維持できない。
英雄は戦争そのものには勝てないように、圧倒的な物量の前には為す術もない。
空中へと魔法攻撃を仕掛けたい奈緒だが、地上部隊を押し留めるので精一杯だった。
ギリ、と唇を噛み締めた。
このままでは負ける。
もう一刻の猶予もなく、現状は最悪となっている。
いや、全体的に見れば問題ない領域といって過言ないだろう。
夜襲を受けたにも関わらず、犠牲者は全体の十分の一程度だ。まだまだ再起の可能性はある。
今ここで戦線を退いて逃げたとしても、奈緒やラピスのような主力さえ無事なら巻き返せる。
(ダメだ……そんなの、ダメだ……)
だが、それは逆に言えば第二陣を放棄するということだ。
第二陣を放棄するということは、いま一緒に戦っている兵たちを見捨てるということになる。
既に奈緒の足元には仲間や敵の死体のほかに、怪我で動けなくなった兵たちの姿もある。
仮に逃げることを選択すれば、彼らを背負って逃げる余裕などない奈緒たちは、彼らを見捨てることになる。
奈緒に従って死地に赴いた兵たちを、見殺しにすることになる。
「ナオ、殿……! ここはもう無理です! 一端、退きましょう!」
「い、嫌だ……! 彼らを見捨てることなんてできない!」
ラピスの言葉に首を横に振りながら拒絶する。
ここで逃げたら最低の人間になってしまう。そんな自分になんてなりたくなかった。
だが、ラピスはおもむろに奈緒の胸元を掴むと、張り裂けんばかりの音量を叩き付けた。
「聞き分けなさい!! ここで逃げれば、少なくとも数人は助かります! 逃げなければ全員が死にます!」
「でも……でも、僕は……!」
「ここであなたが死んだら、お嬢様を初めとした三百人以上が危険に晒されるんですよ!?」
迫ってくる空中部隊の魔物の一匹を斬り殺しながら、ラピスは胸元から手を離した。
奈緒も押し問答をしている時間はないので、八度目となる魔法の行使を開始し、地上を薙ぎ払う。
だが、そうしている間にも一人、また一人と味方が倒れていく。
奈緒へと突きつけられた残酷な選択肢へのカウントダウンは、味方の兵たちの命と共に減っていく。
(……奈緒、ここまでだ。もう俺に代われ)
(いやだ……いやだよ……)
(駄々を捏ねるなよ。飛行部隊は救助のためにいない、奈緒もそろそろ限界だろうが)
(でも、僕は……!)
ラピスの言葉は理解できる。
龍斗の言葉だって理にかなっている。
総司令として奈緒は逃げなければならないことぐらい分かっている。
だけど、そんな理屈なんて知ったことじゃない。
「逃げない……絶対に、見捨てない……」
「ナオ殿!」
(奈緒!!)
ラピスと龍斗、二人からの叱咤が内と外の両方から届く。
それでも奈緒は足を止め、己の足元で右足を負傷し、横たわる悪魔族の兵士へと目を向けた。
彼は見捨てられることへの不安と、死にたくないという恐怖を押し殺して奈緒を見上げていた。
救いを求めるような、泣きそうな彼らの顔にそっと奈緒は笑いかけた。
「大丈夫。絶対に、見捨てないから……」
「……は、はい……」
「だいじょうぶ。きっと、大丈夫だから」
大丈夫、という言葉がどれだけ無責任で残酷な言葉か、奈緒には分かっていた。
それでも言わずにはいられなかった。言って安心させてやりたかった。
しっかりと、奈緒は敵軍を睨み付けた。不屈の闘志が翡翠色の瞳を宿していた。
(もはや、これまでか……最悪、ナオ殿だけでも……む?)
ラピスは無理やりにでも奈緒を引っ張っていこうと考え、彼を気絶させてしまおうと接近して、そして気づく。
強烈な違和感、こちらへと接近してくる巨大な影の姿に。
「キュイイイイイイイイイイイッ!!!」
奈緒やラピス、その他の全員の耳に届いたのは鳴き声だった。
ぴたり、と敵味方問わず、その動きが停止した。
何事かが分からないのは両軍一緒らしい。奈緒からすれば絶望的な状況下において、それは希望として現れた。
奈緒の背後を大きな影が追い抜いていき、空の魔物たちが地に堕ちた。
「あれは……?」
「おお、おおおおおおお……!」
奈緒の疑問に対し、答えたのは足元に横たわっていた悪魔族の兵士だった。
オリヴァースからの援軍として参戦した兵たちが、まるで救いを見たかのように沸き立った。
空を飛翔する黒い影の正体が、ようやく奈緒にも見えた。
「竜……!?」
正確には、飛龍と呼ばれる魔物だった。
魔物としてのランクはキブロコスと同じCランクという、まずまずの実力を持つ空を飛ぶ竜だ。
その背中には一人の女性が槍を構えて騎乗している。
奈緒がその人物が何者なのかを判別するよりも早く、飛龍の姿を見た兵の一人が女性の名前を呼んだ。
「ラフェンサ様だ……」
「えっ!?」
「ラフェンサ様が、ワイバーンを駆って、助けにきてくださったんだ!!」
ラフェンサ・ヴァリアー……エルドラド族の彼女の顔を奈緒は思い出した。
そういえば今まで一度も、ラフェンサが戦うところを見たことがない。近衛部隊と言っていたが覚えがなかった。
だからこそ、奈緒も口を開けてその光景を見ていた。
飛龍を駆って空の魔物を駆逐していくその姿は、まるで舞のように伸びやかな戦い方だった。
『大将!? 大将、聞こえるか!?』
「……その声は、ゲオルグ!?」
『おうよ、待たせたなぁ! こっちは夜襲を仕掛けてきやがった奴らの横っ腹にぶつかったぜ!』
一度時間稼ぎが成功したら、後は続々と報告が入ってきた。
奈緒自身にその自覚はなかったが、どうやら奈緒とラピスが踏ん張っている間に彼らが独自で動いたらしい。
『こちら、カスパールです。隊長と共に敵兵を殲滅中』
『ラフェンサです。ナオ殿、大丈夫ですか? 遅くなりましたが、後はお任せください』
ばたばた、とシェラを通じてようやく機能し始めた首脳陣の声が届く。
奈緒は思わず地面に膝を付いてしまった。
月の光の加護があるとはいえ、一日に使用する分の三倍の魔力を消費したことによる疲労だ。
後方を攻撃された敵軍は浮き足立ち、どうやら退却していくらしい。
「な、ナオ殿!?」
「…………あ、うん」
クラナカルタ軍が去っていき、残されたのは多くの怪我人と死者だった。
元の世界では一度も死体を見たことのない奈緒は、目の前に広がる地獄絵図を呆然と見つめていた。
味方も死んだ、敵も死んだ。
そんな光景をこれから何度も作っていくことに、奈緒の精神は大きく揺さぶられていた。
「……ラピス。怪我人は敵味方問わず、手当てしてあげて……」
「はっ……承知しました!」
「もう、大丈夫そうだね……僕も、天幕に戻るよ。被害報告はジェイルに持ってこさせて……」
「……はっ」
ラピスの承諾の声を背後に、奈緒はゆっくりと最前線を後にした。
遠くのほうでは追撃をする傭兵団やラフェンサの軍と、クラナカルタの戦いの音が聞こえてくる。
もちろん、更に前へと進めば惨劇となった第一陣の悲惨な姿が見えるだろう。
だが、奈緒はとても前には進めなかった。
この日、夜襲で戦死した討伐軍の兵たちの数は四十を超えた。
この数は討伐軍全軍の一割以上になる。
オリヴァース軍の兵が半分以上を占め、ラピスの切り込み隊と傭兵たちがそれぞれ十人近く殺された。
今後の夜襲の可能性も考えて、警備は更に厳しいものへと変更された。
敵軍も同じくらいの犠牲者を出したらしいが、奈緒の心が晴れることはなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「完全な奇襲攻撃を受けたにも関わらず、被害は微細。不幸中の幸いにして僥倖、と」
言葉にすれば簡単な結末だ。
数字に直せば明確な意味合いがあるに違いないが、それでも総司令には関係ないのだろう。
ゲオルグは被害明細が書かれた紙を読みながら、溜息をつく。
「それでも総司令は傷心、か。甘い。甘いなぁ、残念ながら」
「危うくそれがしたちは、この軍の核を失うところでした……もしも、ラフェンサ殿やゲオルグ殿が遅れれば」
「第二陣も全滅していた可能性もありますね……」
集まっているのは討伐軍の首脳陣だ。
セリナ、ラピス、ラフェンサ、ゲオルグの四名は本拠となる会議の場に揃っている。
ジェイルとカスパールは負傷兵の治療と警備体制の見直しに従事している。
奈緒本人に至っては自分の部屋から出てこない。
「このままじゃ、士気にも影響するぞ。お優しいことは結構だが、戦争にショック受けてるようじゃダメだ」
「…………」
「最悪、大将が潰れるようじゃお終いってな。下手に保守的な指揮を取られても危険すぎるぜ」
「……そうね」
セリナは青くなった表情の奈緒のことを思い出した。
ふらふら、と夢遊病のように足取りのおぼつかない奈緒は見ていて痛々しかった。
「とにかく、今までの生き生きとした大将に戻ってもらわなくちゃ、な」
「ですが……心に負った傷は、そう簡単には直せません」
「それがしたちに出来ることなど、本当に少ないでしょう……」
ゲオルグの言葉にラフェンサとラピスの二人が嘆息した。
二人とも今日の戦いで部下を失っている。彼女たちもまた辛いのだが、それでも奈緒には再起してもらいたい。
そうでなければ死んだ者たちが報われないのだ。
彼らの死は無駄ではなく、必要だった犠牲と思いたい。それが彼らを慰めることだと思っている。
「私が、行くわ」
悩む彼女たちに向けて告げたのは、セリナだった。
彼女は金髪の髪を少し弄ると、真っ直ぐにラピスたち三人を見据えた。
「行く、とは?」
「これから奈緒のところに行ってくるのよ」
「……やめとけ。今ぐらいはそっとしておかねえと、何されるかなんて分からねえぞ?」
「いいのよ」
あっさり、と。セリナはゲオルグの忠告を受け流した。
ラピスは何かを言おうとした。だが、言葉は意思に反して口から零れることはなかった。
セリナの表情もまた思いつめているような、そんな顔をしていたからだ。
「皆は、後のことをお願いね」
「あ、ああ……」
夜襲への後始末をラピスたちに任せ、セリナは会議室となったテントを後にした。
深夜、もうあと二時間ほどで日も昇ってくるだろう。
赤い月はだいぶ傾いたところにあり、優しく彼女の魔力を満たしていく。
セリナは未だ慌しい討伐軍の陣を歩き、奈緒の眠る寝室へと歩を進める。
◇ ◇ ◇ ◇
「…………」
セリナには、奈緒の泊まっているテントが重苦しい雰囲気を背負っているようにも見えた。
それでも臆することなく彼女は中へと入っていく。
「……ナオ、入るわね」
「………………」
セリナが声をかけて、テントの中へ入室した。
そのままテーブルや椅子には目もくれず、ベッドの上で呆然とした状態の奈緒へと視線を向けた。
奈緒はゆっくりと、部屋へと入ってきたセリナに笑いかけた。
放心していた奈緒はセリナの登場に気づき、疲れたような顔に何とか笑みを浮かべて『いつも通り』を演出した。
「……セリナ、どうしたの?」
その表情があまりにも痛々しくて。
それでも自分たちに見せる気遣いは見ているだけで苦しくて。
ショックを受けているにも関わらず、セリナに見せる笑みは儚いながらも完璧なものだった。
それが、あまりにも許せなかった。
「辛いときに、笑わないで……」
「……セリナ?」
「悲しいときに……笑わないでよ、ナオ……」
歪められてもなお美しい彼女の相貌、彼女の瞳から涙が流れて頬を伝う。
奈緒の瞳が驚きに見開かれたが、何の対策も彼にはなかった。
そうして彼女はゆっくりと、顔を涙で濡らしたまま。
奈緒の身体をそっと抱きしめ、そのままベッドへと押し倒した。