第20話【追憶の舞踏会】
今から三年ほど前のこと。
カリアス・ヴァリアーというオリヴァース魔王の昔話をしよう。
小国オリヴァースの次期魔王。
王族であり、魔王候補でもありながら、しかし小国であったために微妙な立ち位置。
若かりし頃のカリアス・ヴァリアーが周囲から向けられていたのは、そんな余分なものを通してのものだった。
小さな国とは言え、王族の嫡男である。彼の存在にはそれなりの影響力があった。
『いやいや、カリアス殿も良いお歳だ。そろそろ婚約を考えてはいかがですかな?』
『うちの娘に良くできたものがいましてな! うはははは!』
娘を嫁入りさせ、オリヴァースの権力を手に入れようとする下級貴族たちがいた。
成り上がりを目指す彼らからすれば、若輩者のカリアスの後見人という立場は美味しく見えたのだろう。
カリアスに己の嫁をあてがい、それによってオリヴァースの中心人物となっていけるのだ。
王族に対する貴族の政略結婚や、そんな裏のある婚約などはいくらでもある。
そういうのが面倒だったカリアスは下級貴族から嫁を取ろうとはしなかったのだ。
これがカリアスが魔王となった現在でも、王妃を迎えない理由のひとつである。
身を固めてほしい、と妹も言っているのだが。
「兄上。そろそろ結婚を考えては?」
「まだいい。そんなん気分じゃない」
「お世継ぎを作るというのも、頂点に立つ者の勤めのひとつですよ」
「お前の子供を玉座に座らせてやる。とっとと男を連れて妊娠報告を我にし――――ぐほあ……!?」
オリヴァース二代目魔王だった父は、平々凡々な人物だった。
小国らしく歴史の浅い国だったが、ささやかな領土をそれなりによく纏めていたように思う。
子供だったカリアスの知らないところで苦労していたのかも知れないが、少なくとも自分よりはうまく収めていた、と思う。
次期魔王、三代目を襲名するはずの彼は色々なことにうんざりしていた。
彼は王族だ。しかし、小国の王族だ。
立場的にはとても弱い。
近隣諸国、特に巨大国家であるリーグナー地方の覇者、ラキアスには頭が上がらなかった。
そんな王族を見て、ラキアスの貴族たちは嘲りの笑みを浮かべながらカリアスを迎えていた。
悲しきかな、中間管理職。
間に挟まれるもの、というのは本当に面倒で、そして物凄く嫌なことだと、少年時代のカリアスは思っていた。
『これはこれはオリヴァース王。このようなところで酒を飲む余裕があるとは驚きだ』
『いまや財政の半分がラキアスとの交易で成り立っておるのでしょう? はっはっはっは!』
上級貴族。
侯爵家や伯爵家などはオリヴァース王家を下に見下していた。
全部が全部そうだとは言わないが、ほぼ大半の上級貴族はカリアスを見下していた。
立場は王族という最上級にいながら、侯爵や伯爵によって物笑いの種にされていたのだ。
「……つまらんな」
別に王族だから敬え、などと言うつもりはない。
だが、侯爵や伯爵のように見下す人間と、子爵や男爵のようにへりくだってお世辞を言う人間を彼は見てきた。
少年時代、父である二代目オリヴァース魔王と共に見てきたのだ。
カリアス・ヴァリアーの性格は僅かに歪んでいたのは否めなかった。
「そもそも、王族や貴族などは生まれの違いではないか」
貴族として成り上がった当の本人ならともかく、その血縁や貴族として生まれてきた者の何処が偉いのか。
それを言うなら王族として生まれてきたカリアスやラフェンサも該当するのだが、それでも別にいい。
当時の彼は子供染みた怒りを覚えていた。
そして下級貴族をハイエナのように思い、上級貴族を喧しいウルフのようなものだと考えていた。
「兄上。ラキアスから舞踏会の招待状が届いています」
「お前、行け、ラフェンサ」
「わ、わたくしはその……伯爵の次男と名乗る方が、苦手でして……」
「あー、あの無遠慮なナルシー野郎か……あー、くそ。確かにラフェンサ一人連れて行くわけにはいかんか」
大国ラキアスの舞踏会。
貴族たちが一堂に集まり、華やかな衣装を着て踊り合うというもものだ。
国の権威を示すためにもラキアスが主催するパーティーは相当に豪勢なものだ。
リーグナー地方の覇者としての立場を利用されている以上、属国にも近いオリヴァース側は参加を断れない。
こうした、国同士のしがらみというものは人間も魔族も共通のものらしい。
「分かったよ。父上の代理で行けばいいんだろう?」
「はい。さすがに父上が参加するわけにはいきませんから……」
当時のオリヴァース魔王は内臓に病を患っていた。
体内の魔力が不可思議な方向に暴走し、内臓を絶えず傷つけてしまうという病気だ。
もはや長くない、と治癒隊に告げられたのは一週間ほど前のことだった。
それでも最期の最後まで勤めを果たそうと、今もカリアスの父は謁見の間の玉座に座っている。
「ラフェンサ、お前も残れ。父上に大事がないようにな」
「……よろしいのですか?」
「考えたくないが、俺が帰ってくる前に父上の容態が急変する可能性もある。肉親の一人は傍にいないと」
「…………はい」
「それに、あのナルシー野郎がラフェンサを狙ってるってんなら、来ないほうがよさそうだ」
カリアスは一人で行くのはとてつもなく憂鬱なのだが、この気分を妹にまで押し付ける必要はないだろう。
魔王の代理としてカリアスはその日のうちに首都カーリアンを出発した。
舞踏会の日付は一週間後だ。バード族のような飛行能力を有しているのなら、二日ほどで開催場所に着く。
だが、カリアスはエルドラド族だ。普通に馬車に乗り込むしかない。
馬車なら国境のクィラスまで三日。更にラキアスの第二の都市、プリゾアまで三日ほど掛かる。
「開催場所はプリゾアか……ラキアスの首都のほうだったら、間に合わなかったかも知らんな」
そんなことを呟きながら、カリアスは約六日間の馬車の旅に赴いた。
本当なら父の傍を離れたくはなかったが、立場的に仕方ない。
あんまりラキアスに弱みを見せるわけにはいかないし、父が倒れれば次は自分が魔王となる。
別にラフェンサが魔王でもいいのが本音だが、女は魔王になってはならない、というわけの分からない決まりがある。
結論として嫡子のカリアスが魔王になるのが自然の流れだった。
「憂鬱だな」
父の危篤の報は既にラキアスにも流れているだろう。
これまで以上に愛想笑いを浮かべる下級貴族と、傲慢な上級貴族を思うと胃が痛くなるのだった。
エルドラド族は森の民。物事の本質を見抜くのが得意な種族である。
僅か八歳で貴族のドロドロした部分を見破ってしまった身としては、馬車の中で溜息をつくのも致し方なかった。
◇ ◇ ◇ ◇
予定通り、プリゾアまでの道程は六日ほどで終わった。
正確には六日の夜中に到着となったのでギリギリだが、舞踏会は七日の晩だから一日の猶予がある。
その日は久しぶりに通された客人用の部屋のベッドで疲れを癒した。
七日の午前中はラキアス第二の都市、プリゾアの市場を回ってラフェンサへの土産を買い求めることにした。
「髪飾りか、ネックレスか……そんなところでいいだろう」
「いらっしゃいませ」
「すまない。妹に送る品を用立ててもらいたい。一応は俺の三つ下ぐらいだ」
「かしこまりました」
さすがはプリゾア、リーグナー地方から見ても第二の都市だ、とカリアスは周囲を見渡しながら感心する。
オリヴァースの首都カーリアンを更に上回る規模と市場の品揃えだ。
大国ラキアスだからこそ、戦争の危険がないために商人たちが安心して商売ができている。
オリヴァースのようにクラナカルタから度重なる略奪を受けている国では、これほど活気に溢れてはいないだろう。
商人から緑宝玉のネックレスを買い求め、その場を後にする。
「さて」
宿のほうに戻ろう、とカリアスは歩きながらこれからのことを考えた。
時刻は昼を過ぎたぐらいだ。これから従者に礼服を用意させ、それを着て舞踏会に行かなければならない。
舞踏会、だ。つまるところ女性と踊らなければならない。
上級貴族の女はカリアスを見下しているので踊ろうとはしないだろう。
カリアスと踊ろうと躍起になっているのは下級貴族たちの娘だ。しかも裏があるに決まっている、とカリアスは思う。
壮絶なほどに抜け出したい、帰りたい、という思いに縛られるが、それでは何のために来たのか分からない。
「あら、これは良い品ね……ラピス、あなたこれを着て舞踏会に来ない?」
「や、やめてくださいお嬢様! それがしは参加などできません!」
「……ん?」
舞踏会、という単語を聞いてカリアスは何となく声のほうを見た。
まず目に入ったのが洋服店。しかも高級そうな雰囲気が漂うのは、ドレスなどが売られているからだろう。
続いてカリアスが見たのは二人の少女だ。
黒いワンピースを羽織った金髪ツインテールの少女と、桃色の髪をポニーテールにした少女だ。
「いいじゃないの、一人くらい紛れ込んだって。誰にも分からないから問題ないわ」
「問題大有りです! 貴族の方々だけしか舞踏会には入れない決まりでしょう!」
「それがそもそもおかしいのよ。ラピスたちは表のほうで警護をするんでしょうけど、それでも無用心よね」
確かに、としっかり盗み聞きをしながら頷くデバガメ次期魔王。
貴族たちしか入れない空間、という特権のような存在がそんなに良いものなんだろうか、とカリアスも思った。
例えば刺客が貴族の振りをして侵入した場合は、為す術もなく皆殺しにされるだろう。
いかに魔法を扱える魔族とはいえ、魔法の才能の有無は貴族も平民も関係ない。
カリアスやラフェンサのように魔法の才能に恵まれた王族や貴族、というものは正直なところ少ないのだ。
「それに、舞踏会に私一人を放り込む気? 踊るのは好きだけど、相手の問題で憂鬱よ」
「そ、それがしに言われましても、決まりですからお嬢様」
「お、仲間発見」
思わず声が漏れてしまうカリアスだった。
踊ること自体はそれなりに得意だ。何故ならラフェンサに散々、散々付き合わされたからだ。
そして踊る相手が決まらないか、もしくは意図を持って言い寄ってくる者たちで一杯になるのだろう。
この場合、自分よりも格上の立場の相手と踊るように誘惑するのが楽しいのだ、というのが貴族たちの言葉だ。
溜息をもう一度ついてから、気づいた。金髪ツインテールのお嬢様が、カリアスを見ている。
「あら、あなたも舞踏会が憂鬱なの?」
彼女の言葉は、カリアスが舞踏会に参加することが分かっているかのような口ぶりだ。
後ろにいるラピスと呼ばれた従者らしき少女は、僅かな警戒と共にカリアスを見ている。
カリアスは呟きを拾われたか、と苦笑いを浮かべながら言う。
「ああ。女性にはモテなくてね、相手が決まらない」
「顔は悪くないと思うけど」
「ありがとう。でも立場的な問題でな、踊るのは得意なんだが、舞踏会は憂鬱なんだよ」
「得意なのに好きじゃない、ってのもおかしな話ね」
優雅な微笑みの少女を見た。
エルドラド族の特徴は相手の本質を見抜くことだ。
相手が愛想笑いを浮かべているか、相手が心の奥底で嘲笑っていないか。
何となくそれが普通の人間や魔族よりも敏感なのが、自然で生き続けたとされるエルドラド族だ。
「まあ、私も舞踏会は苦手よ。あなたと同じように立場的に、ね」
「そうか。お互い大変だな」
そうね、などと自然体に苦笑する彼女は素の状態らしい。
突然会話に参加してきた男に対する警戒感とか、不信感とかそういうものを持っていない。
背後の従者の少女のほうが彼女の十倍以上も警戒しているような気がするが、まあそれが当然だろう。
彼女は恐らく、カリアスが小国の王族という立場を知らないのだろう。
「それじゃ、俺も一応礼服に着替えないといけないから、これで」
「……ええ、そうね。私もそろそろドレスに着替えないと」
「向こうで逢えたら声でもかけてくれ」
「あら、ダンスのお誘い?」
「気が向いてくれればな」
超投げやりにそんなことを口にしながら、カリアスは黒いワンピースの少女の素性について考察する。
あの堂々とした立ち振る舞いと、舞踏会を憂鬱の一言で切り捨てる態度は大物だ。
彼女自身がどんな立場にいるのかは分からないが、下級貴族とはとても思えない。
上級貴族だとしたなら嫌だなぁ、とカリアスはそっと溜息をつく。
(俺の立場を知ったら、あの子も嘲りの眼差しを向けてくるか……? いや、ない、か)
何となく勝手なイメージで申し訳ないが、そんな風に人を見下すような少女とは思えなかった。
ある程度の貴族としての優越感のようなものは感じているが、それ以上に貴族が誇らしい、と感じている。
自意識は高いが聡明で、他人との距離も間違えない。それがエルドラド族として本質を見た分析だった。
(まあ、伯爵や子爵くらいだったら、俺から声をかけてみてもいいか……)
あまり気が進まない舞踏会だったが、ひとつの楽しみができたカリアスは宿へと歩いていく。
舞踏会は五時間後だ。
不安と憂鬱とやるせなさが九割を占めていたが、ほんの一割ほどに楽しみを見つけたカリアスは少しだけ笑っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
ラキアスの舞踏会。
年に一度行われる、ラキアス主催の大舞踏会だ。
参加者はラキアスの王族、貴族に関わらずリーグナー地方の王族貴族たち。
加えて他の地方の国や貴族も参加するほどの大きな催し物で、王族貴族総勢二百名以上が参加している。
貴族の数だけで一軍が編成できるぐらい、と言えば多さも伝わってくるだろう。
まして、魔族は個体数が少ない。そんな中での二百名以上、というのは本当に多い、と言わざるを得ない。
「……動員されている兵は千だと? 単純にうちの国の全兵力の二倍か……」
ラキアスとの力の差を見せ付けられたオリヴァースの次期魔王、カリアス・ヴァリアーは何度目かの溜息をついた。
できるだけ目立たないように端っこのほうでワインを一口含みながら、舞踏会の様子を眺めている。
下級貴族の女性たちのお誘いをできるだけ丁寧に断っていくが、これも想像以上に苦痛だ。
なまじ彼女たちの中には邪気や狙いといったものが感じられないから、特に。
いつでも黒い笑みを浮かべているのは彼女たちの父親や親族なのだった。
「それにしても、あの黒いワンピースの子は何処かな……あれだけ堂々としているんだから、分かると思うが……」
人数だけで二百以上の礼服やドレスに身をまとった者たちの中から、一人を探し出すのは困難だ。
金色の髪とはいえ、貴族連中には金髪の少女はいくらでもいる。
顔は覚えているが、化粧を施しているとするなら探し出すのは困難というものだろう。
多くの人たちは既に相手を見つけて踊っている。
(もう、こうなったら適当に踊って……ラストダンスだけ、抜け出してしまうか)
最後の一曲を踊る、というのが一番重要視される事柄だ。
宴の終わり、最後のひと時を過ごそうとする意思をもって最後のダンスを踊ることになる。
むしろ、それが狙いの者たちも多い。
カリアスのところにもラストダンスのお誘いは来ているのだが、これだけは丁重にお断りしているところだった。
「カリアス様、一曲どうですか?」
「……ん、そうだな。お相手願えるかな?」
邪気というものが感じられない地味目な少女の手を取った。
最後のダンスでなければ、基本的には受け取る。カリアスが今まで断っているのは最後の一曲のお誘いだけだ。
ラフェンサの相手として教わった優雅な踊り、基本的に女性の魅力を引き立てるようなダンスだ。
お相手の魅力の引き立て役。自らは黒子に回って優雅に楽しむ。
カリアス自身が目立たないように。女性の美しさが際立つように。それがカリアスが練習させられたダンスのやり方だ。
「ふう……」
「あの、ありがとうございました」
「ああ、楽しかったよ」
ふわり、とした笑顔を向けられてカリアスも自然な笑みで応える。
彼女を見送りながらもう一度ワインを頂く。執事服を着た彼は給仕と護衛を担当しているのだろう。
無用心、とあの少女は言っていたが、こういった護り方というのも存在するのだ。
ワインの甘い香りを楽しみながら周囲を見渡したカリアスは、ざわざわ、と落ち着かない雰囲気を感じ取った。
遠くから大貴族の入場の声が届いたのは、そのときだった。
「エルトリア公爵家、入場ー!」
思わずカリアスもそちらへと目を向けてしまっていた。
エルトリア公爵家は王族の次に権威がある大国ラキアスの大貴族。貴族の中の貴族だった。
王族の中に嫡子がいない場合は、公爵家が王の座に座ることになる。当然影響力はすさまじい。
現れたのは当主のラグナ・アンドロマリウス・エルトリアと、その一人娘だ。
「な、に……?」
カリアスは息が止まるかと思った。
エルトリア家の直属は当主と一人娘だけだ、ということは知っていた。
だが、その一人娘に見覚えがある。カリアスが待ち望んでいた少女の姿があった。
黒いドレスに身を包んだ金色の髪の少女の姿を見て、ようやくカリアスは全てを悟った。
(公爵家、だと……? 文字通り、雲の上の存在じゃないか)
高嶺の花、と言っても過言ない。
子爵や男爵に憧れるだけのカリアスとは違い、侯爵や伯爵家のような上級貴族からも敬われる存在だ。
最上級の貴族、ラキアス王国のエルトリア家。
ラキアス王国の王族の相手を務めることが自然、とまで思える神々しいほどの彼女がそこにいた。
思わず、カリアスは身を隠してしまった。
「おいおい……どうしようもないじゃないか」
重ねて言うが、カリアスは小国オリヴァースの王族だ。
大国の公爵家と小国の王族。立場は似ているようで、酷く遠いものだった。
ダンスの相手に誘うなどという恐れ多いこともできない。
カリアスの立場を知った彼女がダンスの相手を断ったとしたら、カリアスは身の程知らず、と周囲から馬鹿にされる。
「……はあ、憂鬱だ」
さっきまでの気分が一気に沈んでいくのをカリアスは感じた。
初恋の少女に実は相手の男性がいることを知った少年のような、そんな疲れた台詞だった。
エルトリア家のご令嬢、セリナはラキアスの王族と踊っていた。
きっとこのまま、ラストダンスまで相手に困ることはないだろう。何しろ、公爵家の一人娘なのだから。
彼女に好かれようと寄っていく男は数多い。
一曲が終わり、カリアスも諦めたかのように別の女性と踊る。
宴もたけなわで、もう三曲も踊ればラストダンスの時間となる。
二曲ほど踊ったら宿に戻ろう、と心の中で決めながら女性を引き立てるようなステップを刻む。
表情に憂鬱さは決して出さないようにしながらも、心の中のモヤモヤは晴れなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「ふう……」
バルコニーでカリアスは頭を冷やすように夜の街を眺めていた。
現在の舞踏会はラストダンス直前で、最後の相手を探そうと躍起になっている貴族たちの姿が見える。
むしろこの時間にバルコニーで休む、などということ自体が論外だが、踊るつもりのないカリアスには問題ない。
何だか微妙に欲求不満のような感覚がするのだが、それすらも無視して夜風に当たっていた。
「もうすぐラストダンスか……さて、どうやって抜け出そうか」
そんな思案をしながら夜風に当たる。
夜空には魔力を注ぎ込むような赤い月が爛々と輝き、カリアスの身体を癒していく。
綺麗な満月だったが、それでもカリアスの心が晴れることはなかった。
このときまでは、だが。
「あら、ラストダンスを前にして抜け出すなんて不真面目ね」
「ん……?」
背後から聴こえてきた声に首をかしげた。
彼女の声を、彼女の雰囲気を感じ取ったカリアスはまさか、と言わんばかりの表情で振り向いた。
そこには黒のドレスに身を包み、少女だと言うのに大人の雰囲気すら感じさせる彼女の姿があった。
「……セリナ・アンドロマリウス・エルトリア殿」
「無粋ね。あなたまで私をそんな色眼鏡で見るのかしら?」
「いや、失礼」
あまりの驚きに平静さを装えている自信がなかった。
色っぽい彼女の雰囲気と、本当に堂々とした態度、そして悪戯っぽく微笑む彼女に呑まれていた。
どくん、と心臓が跳ねていて、早鐘のように鳴り続けている。
「冗談よ。私はエルトリア家であることを誇りに思っているもの。あなたは違うの? カリアス殿下?」
「……知ってたのか」
「聞いたのよ、踊っていた方々に。なかなか愉快な言葉もいただいたけど、丁重に笑顔で切り捨ててきたわ」
愉快な言葉、というのがカリアスに対する中傷であることは何となく理解できた。
彼女はカリアスの事情とか立場とか、そういったものを全て知っている。
知っている上で優雅に微笑んだ彼女は、手を差し出した。
「踊らない? もうすぐ最後の一曲が始まるわ」
「いや、しかし……」
その手を掴むことにカリアスは躊躇した。
ラストダンスの意味合いに加え、公爵家の一人娘と踊るということがどれほどのものか。
思わず動きを止めてしまうカリアスに向けて、セリナは口を開いた。
挑むような、試すような声色だった。
「ねえ、カリアス。憂鬱なあなたが望むのはどんな私かしら?」
「……なにを?」
「あなたは公爵家のセリナ・アンドロマリウス・エルトリアだから踊るの? そんな色眼鏡を理由にして断るの?」
ハッとした表情でカリアスは彼女の瞳を見た。
誇り高い彼女の自信満々の瞳には、嘲りや計算というものが一切浮かんでいない。
憂鬱な舞踏会の中にある、小さな楽しみを見つけた子供のようだった。
そして彼女の立場は今まさに、カリアスと同じものだった。
「それとも、あなたは市場であったセリナと約束したから踊るの?」
「……ああ、そうだったな。声をかけろ、と言ったのは俺だ」
「声はかけたわ、返事はどうかしら?」
ははっ、と口から自然な笑い声がこぼれた。
憂鬱でつまらなかった舞踏会の存在が、とてつもなく光り輝くのを感じた。
カリアスはセリナの白磁のように白い手を取り、同じように柔らかな笑みを浮かべて応えた。
「喜んで」
その後、カリアスは周囲の貴族が驚くような視線を受けながら、今までで一番楽しく踊ってみせた。
セリナの美しさを際立てながら。
彼女の本当の魅力だけは己の心の底に大切に保管しながら。
◇ ◇ ◇ ◇
あれから三年の月日が流れたのだ。
三年の時間は嫡子だったカリアスが魔王として君臨するまでの時間であり。
そして同時に輝かしかったエルトリア家が完全に没落し、処刑されるまでの時間でもあった。
「……当時は、セリナ殿が生きていることも知らなくてな。あのときほど嘆いたこともなかった」
「…………」
魔王の私室にいたのは主のカリアスと、その妹のラフェンサ。そして招待された奈緒だけだった。
彼とセリナの関係を知りたい、と聞いた奈緒へと答えがそれだ。
三年という月日の間で、カリアスの一人称も我に変わっている。少しでも威厳を保つために。
「謁見の間でセリナ殿が現れたときはな、思わず感涙に咽び泣くところだった」
「……」
「どれだけの苦労があったのか、我は知らない。彼女の心の闇というものを、たった一度逢っただけの我では測れん」
「……はい」
ラフェンサが入れてくれたキリィの葉による紅茶を貰いながら、奈緒は神妙な顔で頷いた。
初めて奈緒が逢ったときのセリナは、余裕の表情の中に焦燥を隠せていなかった。
身体を捧げる、とまで自分を追い詰めるような、危うい人だった。
カリアスも恐らく、そんなセリナを感じたのだろう。エルドラド族は本質を見抜けるというのなら、彼女の焦りも分かる。
「だが、セリナ殿が協力を要請したのがナオ殿であって良かった、と思っている」
「あ、ありがとう……」
「彼女はナオ殿の言葉を良く守っている……だからこそ、改めてもう一度、我は言うぞ」
真剣な表情でカリアスは言う。
人間の奈緒には本質を見抜く力、というものはない。
ただ、カリアス・ヴァリアーの本音というものがそんな些細なこととは関係なく、伝わった気がした。
「彼女を幸せにしなければ、我は君の敵に回るぞ」
「……言われなくても、そのつもりです」
「彼女の信頼を裏切るなよ。彼女を本当の意味で笑わせてやってくれ。俺には、できないことをな……」
「はい、必ず」
本当にこの人は凄い、と奈緒は言葉を受け取りながら思った。
カリアス・ヴァリアーは本当にセリナのことが好きなんだ。
それは上辺だったり、一時的な気の迷いだったり、計算づくだったり、といった感情じゃない。
本当の意味でセリナのことを大切に考えている人だ。
その彼は自分の恋が叶わないことを承知で、それでも奈緒に対して『頼む』と言えるような男なのだ。
「……ラフェンサ」
「はい、兄上」
「ナオ殿に貸す一軍の指揮はお前が執れ」
「……わたくしが、ですか?」
紅茶の給仕に回っていたラフェンサが、首をかしげながら言った。
彼女は将軍の一人だが、近衛軍の指揮が彼女の本職となっている。
遠征軍ならば右将軍か左将軍のどちらかが部隊を指揮するものだ、とばかり思っていたが。
「良い経験になるだろう。ナオ殿、我が妹のことも、くれぐれもよろしく頼む」
「あ、えっと……はい! ラフェンサ、よろしく……でいいのかな?」
「はい。ナオ殿の力になれるように、善処いたします」
オリヴァース軍の全兵力は四百ほど。
カリアスはその日のうちに百五十名を一軍として遠征軍に加えるように流れを通した。
クィラスの兵力も加えれば百八十名ほどだ。
これに傭兵を加えれば十分に決起できるほどの戦力が集まるだろう。
「問題はラキアスが援軍を出してくれるかどうかだけど……」
「既に書状はバード族の伝令に任せてある」
返事が届くのは一週間後、といったところだろう。
カリアスはくつくつ、と含み笑いを浮かべながら宣言を下した。
「後は仕上げをなんとやら、だ。できる限りの支援を約束しよう」
「心強いです、カリアス王」
二人がもう一度交わした握手は、先ほどよりもずっと力強かった。
願いを託した者と託された者は、ひとつの友情を確かに繋げて戦いへと赴いていく。