第14話【似たもの同士の休暇】
(一日、俺に身体を貸す?)
(うん)
初陣の翌日、クィラスの町。
領事館の最高級の部屋に寝泊りしていた奈緒と龍斗の、朝の最初の会話だった。
セリナとラピスの女性陣は別々の部屋を用意されていて、近くにはいない。
別に心の中で会話する必要はないのだが、既にこの体勢で慣れてしまった。
(動きがあるのは明日以降になるでしょ? 伝令が今頃、やっと首都カーリアンについたところだろうから)
(まあ。今日一日ぐらいは休暇の時間があるな)
(うん。だから龍斗に身体を貸しておいて、僕自身は一休みしながら計画を練ることにするよ)
(……なんか、お前最近ずっと計画練ってばっかじゃねえか? まだ足りねえの?)
龍斗に身体を貸している間は、ほとんど心の中に作り上げた自分の部屋に篭もっている。
計画などいくらでも立てているだろうが、奈緒は納得していないらしい。
既に身体の所有権は龍斗に切り替わっており、ベッドからのろのろと起き上がりながら会話をする。
(たまには龍斗も自由時間がないと。修行の時間を抜きにして)
(いや、でもな、奈緒? この身体は基本的にお前のであってだな?)
(龍斗、修行に全部使っちゃいそうじゃない。この前の買い物みたいに、ぱーっと楽しんできてもいいと思うよ)
(いや、この前も何も、それ昨日の話なんだぜ……?)
豪華な部屋は内蔵されている洗面所もまた豪華だった。
何しろ顔を洗うための水がボタンを押すことで一定時間、出てくるのだ。
(俺たちの世界じゃ、蛇口を捻ったら水が出てくるのは当たり前なんだけどなぁ……)
(うん、この世界じゃボタンひとつって稀少みたいだね)
この魔界……特にリーグナー地方では水は消耗品であり、商品とも言える。
周囲が鉱物や鉱山ばかりであり、浄水する便利な道具というものもないので、自然と必要なものになるのだ。
オリヴァースは地方で唯一、森と水が豊富な土地。
故に魔物も多いのが欠点だが、木々や水を売ることで財政を整えている。
だからこそ、ボタンひとつで水が出てくるというシステムは豪勢の証なのだ。
機械が発達していないので、どういう原理かは分からないが。
(そういや、前の日に泊まった宿とか、風呂場があったよな……あれってかなり水を消費しねえか?)
(一泊で三十セルパって風呂場に使う水のお金も計算しているらしいよ)
(げっ、じゃあ安い宿では風呂にも入れねえのか? ていうか、普通に住んでる奴は高い金を払って入るのか!)
(家族の中に水の魔法を使える人がいれば、経費はだいぶ削減できるんじゃない?)
(……おお、なるほど)
水の魔法とは、氷の魔法のこと、とされている。
奈緒がイメージするのが氷結や氷柱なので氷ばかりだったが、水をイメージすれば水を出すこともできる。
セリナやラピスはこれで水を買って運ぶ手間が省けた、と喜んでいたのを思い出した。
頼りにされているような、便利に使われているような、そんな気がして複雑ではあったが。
(って、話が逸れたけどよ。マジでいいのか?)
(うん。ちょっとセリナにも事情を話して許可を取っておく? 必要なら呼ばれたら出てくるし)
(とはいっても、鍛錬以外にすることあったっけなぁ……)
もっぱら、今の龍斗の最大の関心ごとは破剣の術の会得だ。
奈緒のためにも自分のためにも強くなりたいこともあるが、やはり男として新しい技みたいのを覚えるのは浪漫がある。
問題点は奈緒の身体を使っているため、交代したときに奈緒に負担をかけない程度にしておかないといけないことだ。
昨日はついついやりすぎて、奈緒から抗議を受けたばかりなのだった。
(まあ……とりあえず、朝の鍛錬から始めますか)
顔を洗い、髪の毛を少し濡らして整えると、白いタオルで顔を滴る水滴を拭き取る。
朝の身だしなみを一通り終わらせた龍斗は、セリナたちが待っているであろう朝食の場へと歩いていく。
リーグナー地方全体を巻き込もうとしている彼らの、数少ない休日の一日が始まった。
◇ ◇ ◇ ◇
「って、いうことなんだけどよ」
「いいんじゃないかしら? お互いを尊重しているってことよ」
一階の食事室。軽めに朝食をとるための部屋でセリナはそんなことを口にした。
夕食のときのような長方形の長いテーブルではなく、少人数で食事をするための部屋だ。
食事のときぐらいは座らないと落ち着かない、ということでラピスも彼女の隣で食事を堪能している。
奈緒たちの話を聞いたラピスは、ぽん、と手をたたくとラピスを見て言った。
「ちょうどいいわ。ラピス、あなたにも今日一日の暇を与えましょう」
「……は?」
「リュートに付き合ってあげなさい。私は領事館で本でも読んで過ごすから」
朝食に舌鼓を打っていたラピスが、ぴしり、と凍りついた。
彼女は事態を理解した瞬間、わたわたとセリナと龍斗へ視線を行き来させたまま、裏返った声で叫ぶ。
その向かい側でも龍斗が少し慌てながら抗議の言葉を送った。
「お、お、お嬢様? 何ゆえ、そのようなことを!」
「いやいやいや、さすがにそこまで付きっ切りになってもらうわけにぁいかねえよ……」
「主命令」
「むっ……むぐぐ……」
「き、汚ねえ! こんなときこそ強権発動しやがった!」
伝家の宝刀を抜かれ、ぐうの音も出なくなる従者二人。
龍斗はセリナの従者ではないが、彼女が魔王として定めているのは龍斗ではなく、親友の奈緒だ。
身の程を意外と弁えている龍斗は必然的にセリナの部下二号ということになる。
別に本人が拒絶すればいいのだが、龍斗自身は言葉以上の抵抗はしなかった。所謂、形ばかりだ。
「権力とは使うためにあるのよ」
「だめだ! この貴族、だめだ!」
元の世界でも聞いたことがあるような格言に、龍斗が突っ込みを入れるように叫ぶ。
当のセリナはいつものように優雅な手つきで紅茶を口に含み、彼らの抗議を黙殺している。
やがて、一息ついた彼女がトドメを刺すように口元に笑みを浮かべて口を開く。
「で、二人は嫌なの?」
「い、嫌というわけではありませんが……リュート殿が迷惑では……」
「嫌じゃないな、断じて。ラピスが承知してくれるなら……」
「あなたたち、本当に似たもの同士ね」
苦笑してしまうセリナに、二人は気まずく視線を逸らしあうのだった。
確認しておくが、セリナは男性との交友経験がない。そして付き人であり、四六時中控えていたラピスにもない。
逆に龍斗は男女かかわらず、多くの交友関係を持っていたが、この世界では奈緒を除けば目の前の二人ぐらいだ。
まあ、すぐに状況に適応して慣れてしまうのが龍斗だった。
「……で、ラピス」
「は、はい?」
「飯食ったあとで破剣の術の修行をしたいんだけど、早速いいか?」
「え、ええ、もちろん」
どうにも男性と二人きりという展開に動揺しているらしいラピス。
主のセリナはつい昨日、奈緒と二人きりで月を眺めるというロマンチックを演じている身なので余裕の笑みだ。
ちなみに部屋に戻った後、ベッドの上でごろごろと転がりながら呻いているセリナの姿は誰にも目撃されていない。
余裕の笑み、とは彼女が必死で作り上げた意地の表れなのかも知れない。
「……で、セリナのほうが顔を赤くしているのはどういうわけ?」
「え? な、なんでもないわよ?」
「そうか? 昨日の夜、奈緒も同じような顔してたからちょっと気になったんだけどさ」
こいつ、まさか覗き見していたんじゃないでしょうね、とセリナは冷や汗を流した。
表面上は優雅に紅茶を楽しむように見せている彼女のカップを持つ手が、動揺を示すように揺れていた。
言えない。勢いに任せて身を寄せ合いながら『好き』なんて単語を口にしたなんて言えない。
それがどれだけ簡単な言葉だとしても、後で冷静に思い返したときは恥ずかしくて死にそうなセリナお嬢様。
結論、女性陣はまだまだ恋愛関係の経験値が足りないのだった。
「と、とにかく! 私は部屋で休んでるから、ラピスたちも休暇を楽しみなさい!」
セリナお嬢様は勢いよく言い捨てると、そのまま食堂を後にしてしまった。
後に残されたのは二人の人間。ラピスが気まずそうに龍斗を上目遣いで覗き見るが、ばっちり目が合ってしまう。
思わず呻いて視線をそらしてしまう純情剣士を見て、龍斗は親しい人に見せるような人懐こい笑みを浮かべた。
彼は様々なしがらみの一切を無視することにして、気楽に思う。
まあ、なるようになるか。
朝食を済ませた龍斗は席を立つと、ラピスへと手を差し出した。
友情の基本は握手と相場が決まっている。
ラピスはしばらく目を瞬かせていたが、龍斗の顔と差し出された手を見比べて、控えめにその手を握り締めた。
姿かたちは気弱で大人しそうな奈緒の身体だが、まとう雰囲気と快活そうな表情はそれとは違う感覚を得る。
「それじゃ、今日一日、よろしく頼むぜ、先生」
「は、はい。不束者ですが、ひとつお手柔らかに!」
それじゃ嫁入り前の娘か何かだ、と龍斗は苦笑いしながら手を握り返す。
まずは破剣の術の修行、そして身体を鍛えるための修練。
その後のことは後で考えることにしよう、と心の中で思いながら、龍斗たちもまた食堂を後にしていった。
◇ ◇ ◇ ◇
「エリス様、よろしいですか?」
背後から掛けられた言葉にセリナが振り返った。
彼女に恭しく話しかけるのはクィラスの町長だ。線の細い体付きの男は悪魔族を示すように頭に山羊の角を生やす。。
エリス・セリナ、というのがオリヴァースにおけるセリナの偽名だった。
さすがにエルトリアの名前はリーグナー地方では有名すぎるので、偽名を使うことにしよう、と奈緒が提案したのだ。
「あら、どうしました?」
「いえ。以前にこちらから申し出ておりました、町を救っていただいたほうの謝礼をお持ちしました」
町長がそう言って差し出したのは五千セルパほどの金額だった。
セリナの初期の所持金の十分の一程度だが、一年間くらいは働かずとも過ごせるほどの大金だ。
悪魔族の町長は少し申し訳なさそうに語る。
「謝礼の金額にはご不満がありましょうが、我が国で今出せるのはこれぐらいで……」
「ああ、謝礼は後日で結構ですわ、クィラス町長」
「……は?」
セリナは社交辞令のような口元を僅かにあげた笑みを見せながら、町長の謝礼の申し出を断った。
確かに彼女たちは資金が欲しい。五千セルパだろうが、五百セルパだろうが、資金はいくらあっても困らない。
現に今までの旅路と奈緒の加入により、セリナは既に十分の一近くを切り崩しているのだ。
再び初期の五万セルパに手元を戻せるなら、断る理由はないはずだったが。
「今のオリヴァースの財政は厳しいでしょう? クィラスもこれから市場を建て直していかなければなりませんわ」
「え、ええ……仰るとおりです」
「なら、このお金は市場復興にお使いになって。私たちは謝礼目的で戦ったわけではありませんの」
半分は真実で、半分は嘘だ。
これもまた奈緒の策略なのだが、恩は簡単に返させないことをセリナに伝えていた。
今ここで単純にもらう五千セルパよりも、後々の繋がりを考えて恩を売っておいたままのほうが都合がいい。
そんな黒い理由を町長は鑑みることができず、器の広いセリナたちに感極まったような声を上げた。
「え、エリス様……それでは我々が返すご恩がございません……どうにか、これを受け取っていただかなければ」
「いいえ。いまは旅の資金も十分あります。クィラスの町は失礼ですが、十分とは言えないかと」
「……て、手痛い指摘ですが、その通りで……」
「でしたらいずれ、何らかの形で協力していただきたいことができますわ。そのときに、私たちをお助けになって?」
貴族然とした優雅な言動をもって町長の申し出を謝絶した。
町長は口をぱくぱくと動かすが、それ以上の言葉は出てこない。彼の目には涙のようなものが見えた。
セリナはそんな彼に微笑むと、金色の髪をなびかせながら廊下を歩いていく。
悪魔族の男はその態度にますます尊敬の念を覚えていく。
彼女が廊下の角を曲がって消えるまで、町長は彼女の毅然とした後姿を見送り続けた。
(……まあ、確かに私もこうすることが一番良いと思うわ、ナオ)
部屋へと続く廊下の赤いカーペットを踏みしめながら、セリナは心の中で呟いた。
心は何だか凄く軽くて、良いことをしたあとの爽快感を感じ取っている。
(打算的な意味でも、良心的な意味でもね)
成り上がるための策略は決して綺麗なものではない。
素晴らしいことをした裏では汚いことを考えている、そういうことも多いし、実際にセリナたちもそうだ。
だが、奈緒の考える策は良心的でありながら打算も働かせる策略が多い。
人が聞けばそれは甘い、と言うかも知れないが、セリナはそんな彼の計画が一番の成り上がりの近道だと思っている。
狩谷奈緒は人の繋がりを大切にしながら、一番自分たちが得する展開を考え出すのだ。
(一介の学生だ……とか言ってたけど。ガクセイっていうのは、奈緒みたいな参謀さんを育成する機関なのかしら?)
何処か間違った誤解を頭に思い浮かべながら、セリナは自分に割り当てられた部屋へと入っていく。
ドアノブを回し、一般人からすれば豪華すぎて笑いがこみ上げてくる部屋の装飾に目を留めることなく、セリナは歩いた。
机の上に置きっぱなしの本の一冊を拾い上げると、自分はベッドの上へと身を埋めた。
もはや計画を考えることは彼女の仕事ではない。エリス・セリナという偽名を持った少女は少しでも知識を蓄えることだ。
『魔界の魔物生態全書』
『魔法の力の起源』
『伝説上の魔王たちと勇者たち』
文庫本として読むにはあまりにも大きい辞書のような本が、机の上に何冊も積まれている。
辞書のような大きさのそれは鈍器としても活用できそうなほどで、セリナの細い腕では折れてしまうのでは、と錯覚する。
そのうちの一冊、周りに比べれば一回り以上小さい本を手に取ったセリナは思う。
(奈緒の計画に必要なのは魔界の常識……別世界から来たというなら、せめて私が憶えておかないと)
奈緒本人に見せるにしても、彼らは身体をふたつの魂が共有している。
なかなか時間は取れないだろうが、だからと言って疎かにしていい理由はない。
知識を深めるためにも、時間の空いているセリナが読んでおき、彼の知恵袋のようなものになっておく。
全ては彼女が巻き込んだ戦争だ。ならば、出来ることの全ては尽くさなければならない。
(……あの二人、うまくやっているかしら?)
一瞬、意識を向けかけたセリナだったが、やがて本の内容へと目を移す。
書かれていたのは魔法の数々と、その制御方法についてだ。魔族として当然持っている必要知識が記されている。
だが、セリナはそれを食い入るように見つめていた。
彼女が常識に対して勉強不足というわけではない。貴族だからこその世間知らずも多少はあるが、常識は知っている。
問題はそこではない。彼女が調べなければならないことはそんなことではない。
炎、水、地、風、雷、闇、光。
七つの属性が魔法の症例として報告されている。
氷という魔法も水とは別の新たな属性として考えるべき、という声もあがっていて、近々八色に分類されるらしい。
様々な特性があり、セリナはそれをおさらいするように口ずさむ。
「水は炎を鎮火する。地は水の存在を吸収する。風は地を風化し巻き上げる。炎は風の存在によって燃え上がる」
四つの属性はジャンケンのような形で優劣が決まっている。
故に相手の魔法の属性を知っているのなら、それに優位な魔族をぶつけるというのが基本となっている。
セリナのような炎使いには水の魔族を当てれば、まず負けない。
詳しい計算法をセリナは知らないが、優位な魔法は単純計算で二倍の力を発揮する、とまで言われている。
「雷と氷は打ち消しあい、光と闇は互いの存在を食いつぶす……か」
セリナはベッドの上で片足を立てながら、次のページを開いた。
よほどお気に入りなのか、また別の種類の黒いワンピースを着ている彼女。角度を変えればスカートの中が見える。
もちろん、誰もいないからこそできる芸当であり、異性はおろか同性の前でもこんな格好はしない。
ひさしぶりのくつろぎ時間を満喫しながら彼女は再びページを開き、そして固まった。
「…………暴走の危険性と、それの収め方」
ようやく見つけた目的の記述を見つけ、セリナの瞳は鋭くなった。
◇ ◇ ◇ ◇
「刀を、買いに行かなければいけません」
破剣の術の修練が一通り終わり、一息ついていたときだった。
水を飲んで休憩する龍斗に対し、いつもと同じ袴姿を羽織ったラピスは申し訳なさそうにそう呟いた。
「刀?」
「はい。先日の戦いで敵の大将を討ち取った際に、折れてしまったのです。新しい刀が欲しいのですが……」
「……あー」
先日の戦い、と聞いて龍斗は思い出した。
空からの奇襲攻撃でオーク族の大男を真っ二つにしたとき、彼女の刀は根元から破砕してしまったのだ。
もともと、ラピスの持っている刀は日本刀のような色合いが強かった。
西洋の剣のように叩き斬るためのものではなく、押して引く、という一連の作業が必要な高等な業物だったのだ。
先日はその余裕もなく、一撃で葬るためにも叩き斬るしかなかったのだろう。
「……市場、今は機能してねえんだよなぁ」
「はい……」
しゅん、とラピスが肩を落とした。
己の得物を折る、というのは未熟者の証とされている。
ラピスは己の未熟を恥ずかしく思っているに違いない。それが彼女を追い詰めなければいいが。
ともあれ、刀がない今のラピスはちょっと強い人、というぐらいに過ぎないのだ。
「申し訳ありません。一日付き合うといっておきながら……」
「ああー……何処に売ってるか分かる?」
「オリヴァースの隣町にも市場が開いているようです。片道は半日もかからないそうですので、破剣の術を使って……」
「走って買ってこよう、と」
機先を制して言うと、俯き加減の顔を僅かに下に振って肯定した。
隣町の市場に刀が置いてあるかどうかは分からないが、それでも無手のままでいるわけにはいかないだろう。
言い方は悪いかもしれないが、ラピスは重要な戦力だ。
一対一においては彼女より強い者はまだ見たことがない。せいぜいが大型魔獣ぐらいだが、あれは例外だ。
誰だってそれ一体で五十の魔物と同じ扱い、なんてクリーチャーに一人で立ち向かいたくはない。
「んー、それじゃ俺も行くぜ。破剣の術はともかく、普通に走っても大丈夫だろ?」
「え……? あ、はい。砂漠の道でもありませんし、それでも今日中には帰ってこれると思いますが……」
「なら決定。俺もあちこち回ってみたいし、これからどうせ身体作りのジョギングだし」
龍斗は立ち上がると、ラピスの返事も待たずに水筒らしきものに新しい水を補給する。
ラピスはそんな彼の後姿を呆然と見ていたが、やがてふっと笑って諦めることにした。
完全に行く気満々の男を止める術をラピスは知らない。
「でしたら、スパルタの走りこみになりますよ。しっかり付いてきていただきましょう」
「おうよ。こちとら陸上部の助っ人で長距離走の全国大会に出た男だぜ、それくらい楽勝よ」
「……はあ……」
陸上部、という単語がよく分からないラピスは首をかしげる。
全国大会という言葉がなんとなく凄い響きに聞こえたラピスは、やがて自分を納得させるように一言。
「リュート殿は世界でも屈指のスタミナを持っているのですね」
「ごめんなさい、大げさに言い過ぎました」
全国の意味を履き違えたラピスの一言に、速攻で龍斗が詫びを入れた。
下手に過大評価されて、破剣の術をフルに使われたりしたら置いていかれ、迷子になりかねない。
「ま、まあ、とりあえず……っていうか資金は相談しなくていいのか?」
「ふむ……」
ラピスは以前に龍斗に手渡したときのように、突然胸元に手を突っ込んだ。
しかも胸ポケットとかそういう簡単なものではなく、明らかに服ではなく下着に仕込んでいるような気がする。
やがて、彼女の手に出てきたのは緑色の札束の数々だ。
「手持ちの合計は一万セルパ。刀の相場は千セルパから、といったところですから、十分かと」
「だから何処に隠してるんだよアンタ!」
「あまり資金を切り崩すわけにはいきませんが、やはり必要不可欠な経費として考えるしか」
「え、無視?」
愕然とする龍斗。既に攻守が入れ替わっていた。
こういう使い方をしているなら、実は資金って結構無くなっているんじゃねえかなあ、と龍斗は不安に思う。
金持ちは金が無くなることに気づかない、と聞いたことがある。
「ちなみに、現在の資金は?」
「四万五千セルパと、端数が少し。思えば一ヶ月ほどで十分の一も使っていますね……」
「一年も保たねえじゃねえか! 財政担当大臣の奈緒が泣くぞ!」
「それがしも危惧しているのですが……どうしても必要経費として消えていってしまって」
あと数ヶ月、奈緒たちとセリナたちが出逢うのが遅れていたら、もはや巻き返しが聞かなかったかも知れない。
そもそも龍斗には戦争に必要なお金がどれくらいなのか分からないのだが。
「つーか、傭兵にはいくら使うつもりだったんだよ」
「相場が分かりませんが、半分以上は注ぎ込んでいたかも知れませんね……」
「先行き不安だなあ、おい!」
奈緒が聞いたら卒倒しそうだ、と龍斗は冷や汗を流した。
さすがに貴族のお嬢様が突然旅に出たらこんなもんか、と一通り絶望することにする。
一度下がった生活水準を下げるのは難しい。
「まあ、しょうがねえか……普通に生きているわけじゃなくて、戦争を吹っかけようとしているんだからなぁ……」
「そうですね。……と、そろそろ出かけますが、準備はいいですか?」
「セリナへの報告とかは?」
「既に朝のうちに承諾はいただいています。問題は……」
ラピスは一度言葉を区切って、そして挑むような口調で龍斗に笑いかけた。
「リュート殿が、私の速度に付いてこれるかどうか」
「……よしきた、てめえ……久しぶりに燃えてきたぞ、おい」
この瞬間、彼の心の中にいた奈緒の背筋が凍りついた。
理由は分からないが、何だか致命的に嫌な予感がするが、今日一日は龍斗に身体を譲ると決めている。
違和感の正体は分からないが悪質なものではないと判断して、結局心の中の部屋に待機。
そして数分後。
クィラスの町を飛び出す二人の若者の姿が旅人によって目撃された。
あまりの速度に魔族の旅人は唖然としながらその様子を見送ることになる。
傍目には女を追い回す男のように見えるのだが、どちらも楽しそうな笑みを浮かべていた、ような気がする。
後に二日連続で筋肉痛となり、悲鳴を上げる奈緒の姿が確認できるのだが、それはまた別の話。
◇ ◇ ◇ ◇
「なあ、ラピス。この世界の樹ってのは、自分で勝手に動いた挙句、キシャアー、とか叫ぶのか?」
「リュート殿! それはクリーパーです! 樹の姿をした魔物です、逃げて逃げて!」
なんか、根っこを足にして近づいてきた樹の怪物が獲物を捜している。
刀を持っているならともかく、無手の彼女では大木の身体ごと打ち倒すことはできないだろう。
ラピスは珍しいなぁ、とか呟きながら近づいていこうとする龍斗の首根っこを掴んで、全力で逃走を開始した。
「なあ、ラピス。この世界は犬が放し飼いにされてるんだな。十匹もいるんだけど、飼い主はどこだ?」
「リュート殿! 思いっきり野生のギアウルフです! 狼です狼! 人を襲う肉食の!」
黄色い体毛の狼たちに囲まれた状態で素でボケる龍斗。
ぐるるるる……とやる気満々の唸り声でじりじりと距離を詰めてくる狼の群れ。
一体をラピスが素手で薙ぎ倒し、あとは破剣の術を使えない龍斗を背負って、全速力で駆けていく。
「なあ、ラピス。この世界って面白れえなあ」
「リュート殿! いい加減自分から魔物に近づいていくのやめてください! って何持っているんですかあなたは!」
「いやあ、なんか色鮮やかなキノコを拾ってな? ところでさっきから意識が遠く……」
「バイオマッシュルームです! 胞子を吸ったら意識を失います! 早く捨てて捨てて!」
龍斗が両手で抱えている紫色の斑点のキノコを鷲掴みするラピスは、そのまま遠くへとキノコを放り投げた。
べしゃり、と音を立てて弾ける毒キノコを見ることなく、ラピスはがっしりと龍斗の肩を掴む。
「あなたは馬鹿ですか! なんといいますか馬鹿ですね!?」
「ちっとも言い直せていねえ!?」
さて、どうしてこんなことになっているのかというと。
最初こそ全速力で大地を蹴った二人だったが、やはり龍斗が先に力尽きた。
ラピスとしても龍斗を置いていく選択肢など有り得ないので、結局は魔物との遭遇以外では歩くことにしたのだ。
だが、龍斗の持ち前の好奇心から魔物との遭遇率がアップしており、ラピスはもはや遠慮もなく叫ぶ。
「いいですか! このオリヴァースの国は魔物の被害が深刻です! 特に自然系の魔物が多いんです!」
「さっきの樹の魔物とか?」
「そうです! ギアウルフの群れとか、バイオマッシュルームとか、色々です!」
「あのキノコも魔物だったのか……」
「魔物の被害、年間に何百人の死者が出てるとお思いですか!」
「うおおおお……! 交通事故並みに深刻だな、おい」
素顔の性格で叫ぶラピスは新鮮だなぁ、と思わなくもないがそれはそれ。
既に五回以上も魔物と遭遇する、という星の生まれつきに呪われた運命でも感じ始めるラピスだった。
通常、片道で魔物と戦う羽目になるのは一回から二回だ。
むしろ遭遇せずに移動することだって普通にあるのに、どうして自分から魔物と関わりになろうとするのか、と叫ぶ。
「頼みますからせめて刀が手に入るまで大人しくしてくださいお願いします!」
「お、おう……」
一言も区切ることなく絶叫するラピスに対し、さすがの龍斗も首を縦に振るしかない。
最近、危機感というものが薄れはじめたらしい。好奇心は猫を殺す、というが龍斗はまさにそれに当てはまる。
自分の身体は自分だけのものではない、ということを改めて頭の中に入れることにした。
というか、さっきから女性に守られてばかりの自分が情けない。
「ううむ……俺も武器があるといいんだけどな……あそこの棒切れでもいいか?」
ひょい、と唐突に地面に落ちていた木の棒を拾い上げた。
その瞬間、龍斗の表情が怪訝そうなものに変わる。
硬い木の感触ではなく、ぐにょり、と生き物を触ったようなものだった。
何かを不審に思うよりも早く、木の棒が龍斗へと飛び掛かる。
「ぎゃあー! 史上初、木の棒に襲われる俺ー!?」
「ウッド・サーペントです、だから大人しくしてくださいって十秒前に言ったばかりじゃないですかあああああっ!!!」
木に擬態する蛇の首根っこを掴み、破剣の術を使って遥か遠くへと放り投げるラピス。
軽く百メートル以上は遠投された蛇の魔物は、壮絶な音を響かせて地面へと叩き付けられた。
今度こそ堪忍袋の緒が切れたラピスは、危険極まりない目つきになって龍斗を睨む。
もはや遠慮はない、そこにあるのは純粋な怒りの塊だ。
「よっしゃあ! 戦略的撤退に即決定ー!」
「リュート! もはやあなたに敬意を表するのはやめました! 思いっきり殴らせてくださいっ!」
「いえーい、呼び捨てにされたけど敬語は変わらねえ! だが断る! てめえに殴られたら頭骨が陥没する!」
「おのれ、待ちなさいいいい!!!」
この日、龍斗とラピスの親睦は確かに深まった。
内心では扱いに困っていた奈緒と龍斗の線引きが、このとき確かにラピスの中で決定されたのだ。
即ち、翡翠色の瞳はセリナと同等の敬意を表する相手として。
そして、今の軽薄で無鉄砲で騒がしい紅蓮色の瞳は、ラピスの同格にして一切の遠慮のいらない馬鹿として。
「はっはー! とりあえずシーマの実でも食べて落ち着かないかなあ、ラピスさん!?」
「ええい、待ちなさい! シーマの実は後でいただくにしても、まずはあなたの処分が先だ、リュート!」
「よおし、どんどん砕けていってるな、ラピスー! 俺も道化を演じた甲斐があったぜでもごめんなさいぃ!」
「ええ、本当に有意義な休暇になりそうです! あなたの人となりを知るために、ですが!」
この瞬間、鎖倉龍斗は完全に確立した。
奈緒という才能のおまけではなく、一人の龍斗という人格が証明されたのだ。
龍斗は若干半泣きになりつつも、笑っていた。
この世界で奈緒以外に初めて、心の底からもたらされた笑顔だった。
それと同時にラピスもまた、主以外に初めて素顔を向けることができた。とても、有意義な休日だっただろう。
「ぎゃははははは! こうなったらもう行き着くところまでいってやるぜええええ!!!」
「逃がしません、リュート! 好奇心、という言葉をトラウマとして刻みつけてやります!」
彼らは実に楽しそうだった。
後で筋肉痛などの被害をこうむる奈緒を除けば、だが。