第12話【クィラスの町の英傑】
「さあ、次! 来なさい!」
セリナは大空を舞っていた。
竜人と悪魔族の混血である彼女は飛行能力を有している。
背中に生えた紫の蝙蝠の翼は、易々と華奢な彼女の体を風に乗せて大空へと飛翔させる。
彼女の標的は上空を飛ぶ一つ目の鳥型の魔物、イルグゥだ。
ケエエッ!
お世辞にも綺麗とは言えない叫び声をあげて、複数のイルグゥが大きくない翼を上下に揺らして空を飛ぶ。
彼らは全て上空で行われている魔法の応酬から命からがら逃れてきた魔物たちだ。
本来は空からの奇襲、牽制用として調教された兵としての役割を持つ彼らだが、やはり統制は取れていないらしい。
また一体が、セリナの炎の魔法によって身体を焼き、大地へと堕ちていく。
「ふふ、生憎とね……空中戦で負けたことがないの。薄汚い魔物には、ね!」
セリナ・アンドロマリウス・エルトリア。
青空を自由に旋回する彼女は炎と風、ふたつの属性に愛された才能のある魔族だ。
魔族の八割から九割はひとつの属性しか宿せず、五色の異端などという例外を除けば一割の天才なのだ。
下級の魔物、それも恐慌に陥っているイルグゥの群れなど簡単に蹂躙できる。
「悪いけど、早く終わらせてもらうわ。<風の鎌、翼を引き裂け>!」
セリナの叫びに呼応して周囲の風が鋭利な刃へと変貌していく。
衝撃波にも近いそれはイルグゥの翼を切り落とし、空を飛ぶことのできなくなった鳥型の魔物が大地に激突する。
彼女の飛行した先ではイルグゥのものと思われる赤い羽根が、まるで雪のようにひらひらと地面に降り注ぐ。
イルグゥが放つ風の魔法も、高速で自由に羽ばたく彼女には届かない。
「お別れね」
残る鳥の魔物は四体。
今のセリナならば五分も時間は要らなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
破魔の剣、の流れを汲む『破剣の術』。
これは闘気を具現化させた戦闘技術、と考えて良い。
誰だって身体の中には生命力がある。この生命力を魔族は魔力に変換することが出来る。
この魔力を持って魔族は魔法を扱うのだが、魔力に変換する回路を持たない人間は違う。
生命力を『気』としてそのまま放出することによって、身体能力を高めることができるのだ。
「はあああああああああッ!!!」
裂帛の気合と共にラピスが跳躍した。
身体の中の生命力を足に込め、たった一飛びで五メートル近い高度を跳躍することができる。
魔法のように応用力があるわけではないが、単純な力比べではラピスという剣士に分があるのだ。
ラピスの狙いは首長の恐竜のような魔物、キブロコスを超えて更にその上。
オーク族の将、ボグの胴体を叩き切るためにラピスは跳躍する。
「ニンゲンフゼイガ! ズニノルナァァァァ!」
ボグはキブロコスの背中を蹴飛ばし、魔物の巨体を以って迎え撃つ。
三メートル以上もの長い首を鞭のように振るい、同時に首と同じ長さの尻尾がラピスに迫った。
ちっ、と舌打ちしてラピスが刀を振るい、尻尾を受け止める。
しかし首の攻撃まで対応することが出来ず、直撃を受けたラピスの身体がピンポン玉のように地面を跳ねた。
「がっ……!」
「ラピス!?」
「だ、大丈夫ですっ……! 破剣の術の本懐は身体強化! 頑強さとて例外ではありません!」
即座に体勢を立て直すラピスだが、その口元には血が一筋流れている。
だが、あれほどの一撃を受けてその程度なら御の字だろう、と龍斗も奈緒も思った。
大昔の恐竜が蘇ったかのような圧倒的な質量。
硬い鱗による鞭のような攻撃は奈緒が受ければ全身の骨がバラバラになる。
だが、奈緒とて余裕があるわけではない。生き残りの蛮族たちがまだ残っている。
「さすがにこいつらを放っておくわけには……」
奈緒が眼前に立ち塞がろうとする緑色の肌の蛮族たちを睨み付けた。
視界に収めた三人組の蛮族は奈緒の姿を見ると、怪物でも見たかのように飛び上がった。
「げ、げげげ!? テメエ、よく見たらあんときの氷使い!?」
「ぎ、ぎぎぎぎぎ!?」
「うーあーあー! こーわーいーやーつー来たー!」
「………………別に放っといていいかなぁ」
そんなことを呟きながらも、雄叫びをあげてきたオーク族に手をかざす。
三人組の蛮族たちを弾き飛ばし、奇声をあげて奈緒に迫る存在を迎撃するためだ。
未だ混乱の境地にいるらしい彼には、もはや破壊衝動しかないらしい。
だが、遅い。二秒もあればオークは近づくことも許されない。
「<凍れ>」
「ぎぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃが……が、ああああああ……!」
あっと言う間に氷の彫刻ができあがる。
確実にこの手で生き物を殺した感覚が奈緒の中にあった。思わず吐き気を催しそうになる。
だが、これは戦争であり、殺し合いだということを心に刻んだ。
セリナの仲間になったときから覚悟していたことだった。感傷に浸っている余裕は一切なかった。
「逃げる奴は逃げていい! 追いはしない! ただし歯向かう奴は容赦しない!!」
声を張り上げて生き残りの兵たちを脅した。
効果は如実に表れた。ざわざわ、と蛮族たちが顔を見合わせて、奈緒を遠巻きに眺めている。
現に目の前のオーク族は何をすることもできずに呆気なく絶命したのだ。
強きものに従う、というのがクラナカルタの掟。
これは即ち、相手が自分よりも強いことが分かれば無闇には戦おうとはしない、ということを表している。
「今から五秒数える! 逃げるか歯向かうかを選べ! 五秒数えて、まだこの場に立ち塞がるのなら……!」
五秒を数えるどころか、それ以上の言葉は要らなかった。
奈緒の力を恐れたゴブリン族の三人組が、我先にとばかりに武器を捨てて逃げ出したのだ。
一人逃げ出せば、もはや後は雪崩のようだった。
かしゃん、かしゃん、と地面に武器を捨てて、兵のほとんどがクィラスの町から命からがら逃げ出しはじめる。
その光景を見ていた龍斗が、心の中で口笛を吹いた。
(ひゅー、奈緒もすげえ感じになったなあ!)
(……………………)
(……奈緒。気負うなよ)
(………………うん)
無理やりにでも明るく振舞おうとする龍斗の言葉を胸に刻む。
ゲームのように実感の沸かない倒し方とは違う。
己の手で、己の意思で、敵意と殺意と悪意をもって生きている者を葬っていく。
他の誰でもない、他の何物でもない。狩谷奈緒が殺していく。
心の奥が張り裂けそうで、敵を倒せば倒すほど胸の奥に冷たい霧のようなものが渦巻いていく。
殺すことに慣れてしまえ、と囁く残酷な狂気が奈緒の胸を過ぎった。
「……っ……」
唇を噛み締めてその妄念を振り払った。
戦おう、と言ったのは奈緒本人だ。戦いに巻き込んだ当事者がそんなことではいけない。
奈緒は知りたかった。本当に狩谷奈緒という存在は戦争という場所で戦っていけるのか、どうかを。
結果は見てのとおり、戦いという枠に関しては何の問題もない。
ただひとつ、奈緒に突きつけるのは精神的な痛みだけだった。
(奈緒……)
(大丈夫。僕は、だいじょうぶ……しっかりしなきゃ、僕がやらなきゃ)
一人なら当に潰れていた。
龍斗がいるからこそ、奈緒はまだここに立っていられる。
しっかりと、地面を踏みしめ、天に向かって手をかざし、己の意思で未来を文字通り切り開く。
(……さあ、やろうぜ、奈緒。敵は、あの恐竜かい?)
(うん。上のでっかいオークはラピスに任せて、僕たちは魔物を相手にしようか)
キュオオオオオ、と鳴く強大な魔物、キブロコス。
全長は三メートルにもなる首長竜。長い首と尻尾による殴打に加え、口には炎を湛えている。
赤い焔の証を認めた奈緒は不自然なほどに顔をしかめた。
「……どいつもこいつも、炎が好きなんだね……」
どくん、と心臓が跳ね上がる。
襲ってきた悪魔などよりも数段は上だろう怪物を見ても、奈緒の心の中に恐怖はなかった。
ただ残忍な気持ちが巻き上がって、心の奥底に青い炎が宿っているような錯覚さえ覚えた。
前方では竜を相手にラピスが何度目かの突撃を繰り返し、しかし攻めきれずに後退している。
上空からは最後のイルグゥが墜落し、セリナが空中戦を制したところだった。
苦戦するラピスと、上空十メートルほどのセリナに向かって奈緒が叫ぶ。
「ラピス! セリナ! 一度こっちに来て!」
最初に反応したのはセリナだった。
戦いが終わったことで心の余裕があったらしく、轟音の響く戦場においても奈緒の言葉を理解した。
ラピスの耳にも届いていたが、ボグとキブロコスの反撃を抑えるのに必死で集合には応じられない。
舞い降りた黒色のワンピースの乙女が言う。
「どうしたの? 一度退却かしら?」
「いや、セリナ。セリナは人を抱えて空を飛ぶとかできる?」
「……うーん」
奈緒の申し出にセリナは顎に手を当てて唸った。
彼の言葉はお姫様抱っこで抱えるような重量を背負って、大空を飛翔しろと言っているようなものだ。
単純計算でセリナの二倍の重さとなる。それで飛ぶということになると厳しいのは明白だった。
「結構、きついわ。一人なら何とか飛べるでしょうけど、二人は絶対に無理」
「分かった、ラピスは大丈夫?」
「大丈夫よ。ただし、高くは飛べないわ。良くて十メートル……それ以上は無理ね」
「十分だよ!」
奈緒はそれを聞くと地面を蹴る。
前線を維持しているラピスのところまで走り、巻き上げた砂嵐でキブロコスを牽制した。
若干の猶予ができたその隙を狙って、奈緒は相手に聞こえないように言う。
「ラピス! 魔物は僕が引き受ける! セリナと共に上空に飛んで!」
「っ……は! 承知いたしました!」
承諾は早かった。
ラピスもこのままではジリ貧であることに気づいていたのだろう。
砂嵐で視界を失って暴れていたキブロコスの赤くて鋭い瞳が、ゆっくりと奈緒という障害を捉えた。
実際に真下で見ると本当に見上げてしまう。
まだ幼稚園に通っていた頃に、図体の大きい大人を真下から見下ろしたときのような圧倒的な質量が咆哮する。
硬い鱗に覆われた魔物は、炎を吐くために口を開いた。
「<凍り付け、その身体の中心まで>!」
炎を吐かれる前に奈緒は叫んだ。
奈緒が使える属性の中で一番炎に相性が良いのが氷の属性だった。
魔法にはジャンケンのようなルールがあるらしい。
詳しい理論を奈緒は聞かなかったのだが、氷雪……すなわち『水』という属性が『火』に強いのは何となく分かる。
キュオオオオオオオ……
爬虫獣類の四本足のうち、前足の二つが凍結した。
突如として身動きが取れなくなったことに、主のボグが困惑の色をこめた悲鳴をあげている。
だが、奈緒の魔力ではそれが限界だったらしい。
竜の炎を止めることはできず、ばっくり、と開かれた口から業火の炎が噴射された。
真っ赤な炎が奈緒の視界を埋め尽くして。
「あっ……」
ぶちり、と。
「あああああああああああああああああああああああッ!!!!」
とうとう、今まで張り詰めていた奈緒の理性が弾け飛んだ。
炎が奈緒を黒く焦がし、飴玉のように溶けさせるまでの時間は二秒強、対して奈緒の魔法は一秒あれば十二分。
両手をかざすと同時に手負いの獣のような我武者羅な咆哮が響き渡った。
「<全ての色を漆黒に塗り潰せ>ッ!!!!!」
イメージは奈緒の心に宿った絶望の形だった。
親友を失ったあの日のように。暗くて、黒くて、昏くて、全ての色を呑み込むような圧倒的な暴力。
狩谷奈緒という少年を構成していた様々な色彩を、無粋な漆黒で全てを一色に染めてしまう。
黒は圧倒的な力、暴力の象徴、理不尽を示す色だ。
炎の赤も。
竜の肌の黄土色も。
心の中にあった白い良心も。
奈緒の視界に存在する全ての色彩を丸ごと漆黒に包み込む。
絶望に震える闇、奈緒の心を襲った黒色を現世に顕現した。
キュオオオオオオオオ……!!
キブロコスはこのとき、逃げようとした。
上に乗っている主すら放り出して生存本能のままに逃げ出そうとした。
だが、奈緒が前足を凍らせてしまったせいで逃げることができなかった。否、前足を千切ってでも走りたかった。
眼前に広がるのは闇の魔法だ。
それ一色だけで魔王へと君臨することだって可能なほどの稀有な属性にして、圧倒的な暴力を指し示す。
真っ黒な漆黒がゆっくりと迫ってきて、キブロコスを呑み込んでいく。
「全部……全部……全部……消えて、消えてしまえ……」
「ナ、ナンダァァァァァァァァァァァァ!?」
ボグの野太い叫びが木霊した。
正体不明、理解不能、説明不可の圧倒的な力の暴力が己の従える魔物を食い尽くしていく。
彼はこの瞬間、キブロコスを見捨てて逃げるべきかどうかを迷っていた。
黒い塊の中に竜の長い首が吸い込まれていき、大きく身体を痙攣させた魔物の上に乗っていたボグは恐怖する。
(ジョ、ジョウダンジャネエ……! シヌ、コロサレル……!)
闇の魔法は炎や氷のような四大元素を利用した魔法ではない。
己の心の闇を具現化して全てを呑み込む、とされている。
今の魔界で闇の魔法を使える者はほとんどいない。千人に一人、万人に一人という確率しかない。
稀少さに加え、それを使いこなすまでに潰れてしまう魔族が増えている、という社会問題もある。
ともあれ、闇の属性を扱うような者は化け物としか思えない。
このままでは一緒に殺されてしまう、と思ったところで変化は起きた。
「あっ、ぐ……!」
(奈緒!? おい、しっかりしろ!)
魔法を使っていた当の本人が、がくり、と膝を付いて苦痛の声を上げる。
己の闇魔法の強大さに本人が耐えられなくなって、そのまま倒れてしまったのだ。
それを合図として簡易的なブラックホールも消滅し、呑み込まれていった竜の首もまた消滅した。
キブロコスの絶命は確認するまでもない。だが、ボグの顔には心の底からの安堵の笑みが浮かんだ。
「ギャ、ギャハハハハハハハハハ! モラッタアアアアアアアッ!!」
キブロコスの死は惜しいが、正体不明の魔族らしき男を殺すことができる。
二メートル以上の身体を起こし、棍棒を構えて己の手で殴り殺そうと、獰猛な笑みを浮かべたボグの瞳に。
「…………ア?」
飛翔する二人の少女の姿が眼に入った。
奈緒の派手な魔法に気を取られていたボグは反応することができなかった。
上空十メートルからセリナはラピスの手を離し、ラピスはそのまま全体重をかけてボグの身体に刀を叩き込んだ。
無理な使い方と酷使で刀がボキリ、と嫌な音を立てる。
だが、最後の仕事を全うしたことを示すように鮮血が噴出し、ラピスはその返り血を浴びることなく地面へと降り立った。
「さらば」
「ア……ガ、チクショ……」
ボグの身体は頭から股まで真っ二つに裂け、右半身と左半身に綺麗に切り裂かれていた。
赤い鮮血は人間とそれほど変わりない。絶命したボグは首を失って横たわった魔物の上で、壮絶な最期を遂げた。
ラピスは己の役目を終えた刀を悲しげに見つめると、根元から折れた刀身と鞘を回収し、その場で供養した。
(終わった……か?)
(うん……)
戦いは終わった。
クラナカルタ軍の死傷者、百名以上に加え幹部のボグを撃破。
たった三人の彼らが挙げた戦果だ。
客観的に見れば大勝利といっても過言ない。初陣としてこれ以上の戦果はないだろう。
(……奈緒? 奈緒……?)
(………………)
ただひとつの不安点があるとすれば。
奈緒の心の中に宿る黒い霧が彼の心を黒く黒く染めていく。
親友の言葉すら届かないほどの深い深い心の底に、奈緒本人ですら持て余すような壮絶な感情が渦巻いていた。
ともすれば、それこそが魔王に必要な残酷さと冷酷さかも知れない。
クラナカルタ軍をほぼ壊滅させた張本人。
魔王候補、狩谷奈緒の口元は、酷薄さを示すように薄く歪んでいた。
◇ ◇ ◇ ◇
クィラスの町の町長は伝令の報告を受けていた。
彼は居住区の前に三十人の守備兵と共に仁王立ちし、蛮族どもから民衆を守る予定だった。
現に地響き、爆発音、喚声、怒号、と戦争特有の嵐のような音の数々を聞いて覚悟したのだ。
今日こそがクィラスの町の最後になるやもしれない、と。
だが、悲壮感の漂う彼らの元にもたらされた報告が届き、町長はしばらくその意味を解することができなかった。
「た、たった三人の旅人が百以上の蛮族どもを追い払ったというのか!」
「はっ! 市場に取り残されていた十名以上の商人や民たちも全員無事に保護しました!」
「市場は酷い有様となっていますが、死傷者はゼロ。奇跡的としか言いようがありません」
伝令役となったバード族の青年たちも、自分の口から飛び出す報告が信じられない、といった顔つきだった。
町長もしばらく思考が停止していたが、轟音が完全に止んだところを聞けばそれが真実であることが理解できた。
クィラスの町は崩壊を免れたのだ。町に住む二百人以上の町民の命と共に。
「彼らは地の利を活かして敵軍を混乱させ、同士討ちを起こさせました。その混乱に乗じて敵大将を撃破」
「大型の魔物、キブロコスと共にクラナカルタ軍は壊滅……敵軍の犠牲は百人近くにのぼるかと……」
町長は背中から流れる冷や汗が止まらなかった。
敵軍が蛮族、魔物の混成部隊で百二十人ほどの規模であることは報告を受けていた。
だが、大型魔獣キブロコスはそれ一体で五十の魔物に匹敵する、と言われている。
もしも本隊が居住区を襲撃してきたのなら、町長を含めた守備隊は全滅。町民も多くが犠牲となっていただろう。
だが、その危機は去った。正体不明の旅人たちの活躍によって。
「そ、それで……その旅人たちは……?」
「はっ、面会を求めております。いかが致しますか?」
「ば、馬鹿者! 報告など後にしてお通ししろ! 彼らはこのクィラスの町の英傑だ、丁重に領事館にお迎えしろ!」
悪魔族の町長はすぐにバード族の青年の一人を旅人へと伝令に使う。
その一方で民衆たちに危機が去ったことを伝える声明を出し、自身はクィラスの領事館へと駆け込んだ。
領事館は町長の住まいでもあり、クィラスの町を運営するための仕事場でもある。
町長は領事館に避難していた非戦闘員の己の部下を捜し当て、気の弱そうな顔つきを精一杯強めて言った。
「領事館で一番良い部屋を用意しろ! 町を救った英傑たちを迎える! 失礼があっては町の恥だ!」
◇ ◇ ◇ ◇
「初陣は確かに勝てた。数は圧倒的だったけど、それでも劇的な勝利だったとは思う」
奈緒、セリナ、ラピスの三人は市場でも比較的被害の少なかった店にいた。
伝令と思われるバード族の青年に町長との面会を求め、余った時間を使って色々と計画をつめることにしたのだ。
三人の中で唯一負傷してしまったラピスは、袴を脱いで柔肌を露にし、出血しているところに包帯を巻いている。
奈緒はできるだけそちらの方向は見ないようにして、続けて語る。
「だけど、これは運が良かっただけだと思う。勝てたのは奇跡的で、偶然に過ぎないよ」
「……そうなのかしら? 現にここまで圧倒的な戦果で勝ったのよ?」
セリナの疑問はもっともだった。
敵軍全体の四分の三を打ち倒し、敵大将のオーク族の男まで撃破。
更に被害らしい被害はラピスが軽症を負っただけ。もはや偶然の域を超えた大勝利といっても過言ないはずだ。
だが、首を振る奈緒の表情は険しかった。
「僕たちが勝てたのは、相手が同士討ちを起こしてくれたからだよ。僕たちが倒した人員は半分くらいなんだから」
「……まあ、そうよね。嬉しい誤算だったのかしら?」
「うん。真正面から戦っていたら……僕たちの中の誰かは欠けていたかも知れないし、市場では抑え切れなかった」
本来、戦争とは数の多いものが勝つ。
これは覆しようもない絶対の真理であり、これが覆されるときには何らかの幸運が働いていると言っていい。
織田信長で有名な桶狭間の戦いなど、豪雨が降ったからこそ少ない人数で打ち勝った典型的な例だ。
今回もそれと同じようなこと。幸運は二度と続かない、と奈緒は気を引き締めている。
「勝って兜の緒を締めろ。今回の初陣のことは忘れよう、油断は敗北を呼ぶって相場が決まってる」
「……ナオ殿の言われる通りでしょう。今日、勝ったから明日も勝てる、と考えるのは危険です」
「そうね。舞い上がらないように注意するわ」
何しろ一度負けたら終わりなのだ。
今回の戦いはまだ、危なくなれば逃げてしまえばよかった。
だが、これからも常勝していくと仮定して。もはや逃げ出せない戦いで負けてしまえば終わりだ。
いつでも勝者と敗者は紙一重であることを自覚しなければならない。大切な人を失わないためにも。
(だけどよー、奈緒。お前の魔法なら、割と楽に考えられるんじゃねえかー?)
龍斗の楽観的な意見が零れ落ちた。
重たすぎる荷物を背負って表情から純粋な笑みというものが少なくなっている奈緒を、少しでも安心させたかった。
それでも奈緒は心の中で首を振った。
龍斗にだけ漏らす弱音は、先ほどセリナたちに告げた言葉よりも遥かに重い声色だった。
(ダメ、なんだ……)
(え?)
(僕の魔法は不安定すぎる……それに、僕の中でも限界が見えてきた気がする……)
(限界って……)
実感が沸かない龍斗に対して、奈緒は内心で唇を噛み締める。
先ほどの己の所業を恥じるように。
(魔法は、すごく感情によって威力が左右されてる……僕は扱いきれてないんだ)
(でも、今まではうまくいってるだろ?)
(ううん。ラピスが来るタイミングが遅かったら、殺されてた。実はね、龍斗……さっきから震えが止まらないんだ……)
今の奈緒は傍目に見れば腕組みをしているように見える。
セリナやラピスに不安をかけさせないように偽装しながら、奈緒は自分の身体を抱きしめていた。
胃の中のものが逆流して嘔吐しそうになる。
心に渦巻く黒い霧が今も止まらない。魔族を、魔物を殺していくことに覚える快感がたまらない。
戦争そのものよりも、殺し合いを愉しみはじめた自分の心が怖かった。
(怖いのに、愉しい。辛いのに、嬉しい。今までなかったはずの強い力が、何の努力もせずに手に入った……)
(……正しいことに使えばいいんじゃねえかな)
(戦争に正義なんてあるのかな……)
(……奈緒)
(僕はただ、相手を蹂躙していくことに愉しみを感じたい、なんて考えてないかな……?)
いつもなら、そんなことは考えない。
今日は戦争という殺し合いをしてきたばかりなのだ。一介の学生だった奈緒は生きるか死ぬかの戦いを経験した。
自分から望んだことだったが、想像以上に衝撃というものは大きかった。
あのとき、もしも、という考えが奈緒の頭をよぎる。
何処かのタイミングがずれれば、その瞬間、奈緒の命は終わっていた。
しかも、それも含めて奈緒の心が躍っているのだ。
殺す快感、殺されるという恐怖、その全てが奈緒を愉しませる。
ただのゲームの中だけの出来事である、と割り切れればどんなに楽だっただろうか。
だけど、今の奈緒はセリナたちの命を背負って、敵対する者の命を絶つ。
重圧に押し潰されそうになっているくせに、そんな戦いが心躍るほどに楽しい。まるで爽快なゲームをやっているように。
(奈緒は、優しい奴だよ)
龍斗の言葉は簡潔なものだった。
いつもなら長々とした詭弁を弄してでも奈緒を落ち着けようとする。
だが、今回は奈緒自身が感情を持て余している。規模こそ違えど、それは急激に強くなった者が陥る悦の感情だ。
扱う理由や向ける相手さえ間違わなければそれでいいのだが、奈緒は潔癖すぎるのだろう。
(やっぱりさ、奈緒はすげえと思うわけよ。振り回される前にちゃんと自分を戒めているからな)
(そう……なのかな)
(後は、もうちょっと内向的な性格を何とかすりゃあ、なあ……もっと人生にも張りが出てくんのに)
(……それ、どういうことさ)
あんまりと言えばあんまりな言葉に、奈緒は思わず苦笑した。
それが表に出てしまったらしく、奈緒の苦笑いを見たセリナがラピスの治療を終えてふっと微笑んだ。
「……やっと、少し落ち着いたみたいね」
「え?」
「ずっと追い詰められていたような顔、してたでしょ。だからこれでも後悔していたのよ?」
セリナの顔も苦笑するようなものへと変化していく。
少し自嘲的な笑みの裏には、確かに後悔にも似た何かが混在していたような気がした。
本当にこんな戦争に巻き込んでよかったのか、彼は優しすぎるのではないだろうか。
先ほどの初陣は奈緒自身が決めた戦いではあったが、それに押し潰されてしまう、ということは非常に危険なことだ。
「大丈夫? 私は今後もあなたを頼っていいのかしら?」
彼女の問いかけには計算があるかのような含みを持つ。
これが奈緒の性格を鑑みたうえでの発言ならば、彼女の話術はきっと外交方面でも戦えるだろう。
だが、セリナ本人にそうした意図はなかった。
彼女はただ、勝ったというのに追い詰められた表情で座り込む奈緒のことが心配だっただけだ。
「うん、僕は大丈夫。だけど、少し今日は無理をしちゃったかな……」
「そう、ね。今後は少し身の丈にあった戦いをしましょうか。それと、勝ったときくらいは喜んでいいと思うわ」
「……うん、そうだね。でも」
「油断は禁物、でしょ?」
先に言い当てられて、奈緒も思わず笑みが深くなった。
もっと気楽に考えろ、と龍斗も言っていた。その通りかも知れない。
戦争という正義も悪もない戦いに参加するのなら、もっと割り切るべきかも知れない。
奈緒一人がそんなに追い詰めて考えなくても、セリナたちはセリナたちで己の危機感も分かっている。
あんまり追い詰められた表情をして、彼女たちを心配させてしまっては元も子もない。
(なんだか、重く受け止めていたのが馬鹿みたいだよ)
(ぎゃはははーっ! なーに、こうなったらやれるところまでやっちまえばいいじゃねえの!)
元より、ここで降りる選択肢など存在しない。
狩谷奈緒は親友と共に、セリナという少女の手助けをしたい。
手助けをしなければいけないでも、手助けするしかないでもなく、奈緒本人が彼女を手助けしたい。
もちろん、様々な事情を鑑みれば手助けするしかないとしても、一番彼らの中を占めているのはそうした感情だ。
「それで、ナオ。この戦いのメリットについてだけど」
「うん。前にも説明したよね。これから戦う蛮族国の戦力の一端を見届けること」
「それと、それがしたちが何処までその軍勢と戦えるかどうか、ということですね」
ラピスの言葉にももちろん真実が含まれる。
これからの計画を考える上でも敵の情報がなければお話にならない。
兵の質、自分たちの戦力の把握、敵国の事情、敵大将に関する弱点でも何でも、情報はあればあるほどいい。
だけど、今回の戦いはそれを上回るほどの意味を持っている。
「もうひとつ。オリヴァースの国と太いパイプを繋げることだよ」
奈緒がこれからのことを想定して薄く口の端を吊り上げた。
年の割には少し幼そうに見える顔つきが、まるで龍斗が宿ったときのように野性的に歪む。
セリナはその表情を恐ろしいとは思わず、頼もしいと感じていた。
今まで雲を掴むようだったエルトリア家復興の道が、彼の手によって形になっていくのだから。
「さあ、オリヴァースの魔王を『交渉』の席に座らせようか」
背後から翼が羽ばたく音が近づいてくる。
よほど急いでいるらしいことが分かる羽の動きに気づき、二人の少女は上空を飛ぶバード族の青年を視界に収めた。
彼は奈緒たちの元に舞い降りると、恭しく最敬礼で頭を垂れる。
この日から奈緒たちご一行は、クィラスの町の救世主として扱われることとなった。