魔法の装い
化粧って魔法みたいでしょ。
最後に二人で帰った日の言葉を、朔夜はずっと覚えていた。
*
新しい制服がようやく体に馴染んできたのに、明日から衣替えだ。夏服を迎えると共に新入生という響きも脱ぎ捨てることになるだろう。
開け放たれた窓からは心地よい温い風が入ってくる。まだ陽は高いが、クラスメイトたちは既に部活や帰宅のために教室を立ち去った後だ。その中で朔夜は小夜と二人で残っていた。小夜は窓際の一番明るい席で化粧ポーチを開き、朔夜はその前の席に座って机に広げられていくコスメグッズを眺めていた。
若いうちは肌がきれいなんだから化粧をする必要はない。おせっかいオバサンみたいに小夜のママはそう言っていたけれど、晴れて華の女子高生となった少女はまるで呪縛から解放されたようにコスメグッズに手を伸ばしはじめる。それは他のクラスメイトも同じで、流行に敏感な子ほど化粧への関心が強かった。
対して、朔夜はおおよその女子高生が持つらしい興味関心からは逸脱した世界で生息している。端的に言うと無欲だった。化粧をしたり、髪を染めたり、爪を塗ったり、スカートを短くしたり、鞄にジャラジャラとキーホルダーを付けることはしない。彼女たちを見ていると、自分とは違う世界の生き物だなと思える。朔夜がそう思うのは今に始まったことではない。小学校の時に流行したプロフィール帳も、中学の時に流行った恋のおまじないも手作りのミサンガも熱中できない子供だった。朔夜と女子たちに共通するものがあるとすれば、甘いものが好きということがせいぜいだ。
朔夜ほどでないにせよ、小夜も常に流行を追いかけ回すタイプの女子ではなかった。そのはずなのだが、どういうわけか小夜は高校に入学して早々、化粧に目覚めてしまった。朔夜にとっては用途不明なコスメを小遣いが許す限り買い集めて、自分に合うものを探してあれこれと試す。そうしている姿は、自分が何者かを模索しているようにも見える。
……否、どういうわけか、という言葉は正しくない。朔夜は小夜がどうして化粧を始めたのか、その理由を知っている。ただその理由を素直に認めることは癪だし、知らずに済んだなら知りたくなかった。だから知らない振りをしているだけだ。
小夜の化粧の発端は、入学後に行われた新入生ガイダンスから始まる。この学校のガイダンスは生徒会が執り行っている。そうすることによって生徒自身の心に糊をきかせるという方針らしい。
壇上で聞き取りやすい美声と理解しやすい言葉で、要領よく説明を行ったのは現生徒会長だ。シワ一つない制服を模範的に着こなし、濡れ羽色の艶やかな髪を背中まで伸ばした大和撫子。説明が聞きやすかったのは、原稿を読み上げるのではなく、頭に叩き込んでいる校則を歪曲なく自分の言葉で発しているからに違いなかった。
雇ったタレントを生徒会長として話させているのではと思うほどに、その人はユーモアがあり聡明だった。日常生活では滅多にお目にかかれない才女という印象を抱いたのは朔夜だけではないはずだ。
ガイダンス後、体育館から教室へ戻っていく生徒たちの口は、校則そっちのけで生徒会長のことばかり話していた。そのざわめきを聞くに、彼女に対する憧れを抱いた新入生は男女隔てなく少なくないのだとわかる。そしてそれは小夜も同じだった。
「美人で話も上手なんて素敵」
控えめな小夜が自分の感情を口にするなんて珍しい。そう思いながら、朔夜も相槌を打っていた。小夜が化粧に興味を持ち始めたのはそれからだ。早い話、小夜は言葉の通りに生徒会長に憧れたのだ。あの美貌に少しでも近付きたいという意思表示なのだと思う。
そのままでも小夜はきれいだよ。
喉まで出かかったその台詞を朔夜は声にすることができなかった。女同士の賞賛がどこまでなら友情で留まるのかわからなかったからだ。
生徒会長ってお化粧してるのかしら。どんなものを使っているのかしら。クラスはどこだろう。お昼はどこでどんなものを食べているんだろう。どこかですれ違えたりしないかしら。
小夜はそれを一つも声にしたことがないけれど、そう思っているのは行動に表れていた。学食では生徒会長が腰掛けている場所が見える場所に座ったし、生徒会室前の窓から見える景色が好きと理由をつけて通る必要もない廊下へわざわざ遠回りする。下校前にはその近くのトイレに通うのが日課になって、そこで会長と鉢合わせるのを期待していた。鏡の前で会長が唇に何かを塗っているのを見た時は、その日のうちに似たような形のコスメを買っていた。
小夜がそうしているのを見ている時、憧れを追っている女の子って可愛いものなんだなと思いながら隣にいた。ドラッグストアで華やかに並ぶコスメを眺めていると、女の子は大変だと思う反面、自分を可愛くするためのアイテムは女の子の質を高めるものなんだと感心もする。そういう女の子はキラキラしていて可愛い。小夜が化粧を始めたことによって、朔夜はそう思うようになった。
事態が変化したのは、入学して一ヶ月ほどした時だった。
「貴方が好きなの。私と付き合ってくれる?」
朔夜は告白された。他ならぬ、小夜の憧れのあの生徒会長からだ。二人が話したのはそれが初めてだった。
お手本にできるくらい綺麗な字で『お話があります。放課後、特別棟二階の第二準備室に来てください』という手紙が届けられていた。五・六限目の体育から戻ってきた時、机の上に置きっぱなしだったノートに、封筒の端を覗かせる状態で栞のように挟まれていたのだ。手紙に書かれた「黒澤蝶香」という名前には覚えがない。なので、呼び出されるままにその教室に向かって中に生徒会長がいたことにはかなり驚いたし、生徒会長の名前が黒澤蝶香というのも初めて知った。ガイダンスの時に聞いたかもしれないが完全に忘れていた。
会ったことがないのに何故朔夜が好きなのか。こういうサプライズパンチは生徒会長のようなアイドル的存在に起こるべきことじゃないのか。そもそも女同士なのだが。
会長の告白を聞いた朔夜は唖然としながらそんなことを考えていた。イエスかノーを決断するには動揺が激しすぎて、「考えさせてください……」としどろもどろに返事をした。生徒会長からの告白を保留にするなんて、会長のファンに怒られそうだと思いながらも、会長は快く頷いてくれた。
「仕方ないわね、まだお互いのこと全然知らないもの。明日貴方の教室に迎えに行くわ。一緒にお昼ご飯を食べましょう」
会長は寛容に、そのまま肖像画にできそうなくらい完璧な微笑を浮かべてそう言った。そう、お互いのこと全然知らないのになんで私に告白したんですか。そんな至極当然な疑問を言うのを憚られるくらい、会長は堂々とした態度だった。
その告白が生徒会長の本心ではなく、何かの罰ゲームだったのではと思い至ったのは家に帰って風呂に入った時だった。誰もが真っ先に思いつくであろうその可能性にまったく気付かなかったのは、それだけその告白のインパクトが凄まじかったからだ。考えてみれば当然だ。自分の気持ちを告白するのに、赤面も躊躇もなく、弁護士が依頼人に対して刑法を説き伏せるかのような堂々とした態度でいられるはずがない。そう思うと、なぁんだ、と安心して朔夜は湯船の中に頭まで沈めた。
しかし残念ながら、生徒会長の告白はマジだった。翌日の昼休み、本当に教室に生徒会長が迎えに来た。朔夜はビビった。小夜は自分の教室に会長が来たことにかなり動揺し慌てていたが、彼女の目的が朔夜だとわかると戸惑っている様子だった。
本当に来るとは思っていなかったので、「いつもはこの子と一緒に食べてるんですけど……」と逃げの一手で小夜を見ると、会長の目は小夜を見た。目が合った瞬間、小夜は耳まで真っ赤にして慌ててぺこりと会釈をする。
「ええ、知ってるわ。いつも一緒にいるわよね。もちろん貴方も一緒で構わないわ」
会長はそう言ってくれたが、小夜は慌てて首を振った。恐れ多い、と言わんばかりだった。
「用があるの、朔夜になんですよね。だ、大丈夫です、私……」
小夜の声は裏返っていた。ここまで動揺している小夜を見たのは初めてだ。いつも物事を客観的に捉えられる彼女でも、憧れの人を前にするとこんな風になるのか、と長い付き合いながら初めて知る。
「そう、なんだか悪いわね。行きましょう朔夜」
旧知の仲のように呼ばれ、朔夜は会長のたおやかな強引さに圧倒されながらもそれに従った。普通、ほぼ初対面の相手に下の名前を呼び捨てにされたら不快になっていいようなものだが、会長は他人のパーソナルスペースの穴を的確に狙って滑り込んでくる能力が抜群に長けているようだった。
食堂までの道中は視線が痛かった。新入生は全員が生徒会長の顔を知っていたし、会長に憧れているらしい生徒は、快くない視線を無遠慮に朔夜に突き刺してきた。生徒会長だ。なんで一年のフロアに? 一緒に歩いてんの誰アレ。中学の時の後輩とか? そんな感じの視線。というか実際に聞こえた。生徒会長は悠然と歩いていたが、朔夜は吐きそうだった。
食堂で向かい合って座り、会長はきつねうどん、朔夜は生姜焼き定食を前にして食べた。
麺類を食べているというのに、会長はちゅるんと一滴も汁を飛ばすことなく、高級フレンチレストランで食べても文句が言われないんじゃないかと思えるくらい音を立てずに食べていた。なのに変な食べ方をしているわけでもない。人間としての器官がそもそも違うのだろうか。実はこの人宇宙人なんじゃないか。もしかしてこれが全国うどん協会が推奨する美しいうどんの食べ方なのか。そう思うくらいには朔夜の頭は冷静ではなかった。何故なら食堂でも身に刺さるような視線を向けられているからだ。他の学年の生徒も、この二人がどういう関係なのか知りたくて仕方がないようだ。暴力的な好奇心を感じ取った朔夜は、私もこの人と自分の関係が知りたい、と腹の中で訴えた。
「食べないの? 美味しいわよ」
「あ、はい。わかってます」
生姜焼き定食は既に何度も食べたことがある。問題は味云々ではなく居心地の悪さだ。この視線の中でよく飯が食えるなこの人、と朔夜は呆れながらも感心する。彼女にとっては好奇の視線など日常茶飯事なのかもしれない。
会長はおあげを齧り、咀嚼して飲み込んだ後おもむろに訊いた。
「朔夜は今好きな人いるの?」
「いや、そういうの初対面で言うのはちょっと……」
周りも絶対に聞いてるし。そう思うと会話の音量は自然といつもより下がる。尻窄みに答えた朔夜に会長は尚も無邪気に訊く。
「でも知りたいわ。言ったでしょう? 貴方が好きなのよ」
周りの空気が変わったのがわかった。一瞬何を言われたのかわからなくて、朔夜は動揺して豚肉から会長を三度見くらいした。たぶん周りも同じくらい会長の発言の意味がわかってなかったと思う。
落ち着け落ち着け落ち着け。これは罰ゲーム。動揺することなんて何もない。そう自己暗示して朔夜は努めて冷静に返答の言葉を探す。この場で刺激してはいけないのは、目の前にいる人間よりも周りの野次馬だ。
「その件なんですが、一体どういった意図なんでしょうか」
「あら。わざわざ呼び立てて伝えたのだから愛の告白に決まっているじゃない。それとも貴方が左手首に付けているミサンガの色合いが素敵と伝えたように思わせたかしら」
説明する必要もないことをわざわざ訊いてくるなんて可笑しい。そう言いたげな悪戯っぽい口調だった。嫌みな感じはない。むしろ場を和ませるジョークに聞こえた。しかし言ってることは爆弾発言だ。大胆不敵にもほどがある。全校が集まる食堂で告白を公にするなら、昨日呼び出して告白した意味はあったのだろうか。
果たしてこの会長は人並みに常識のある人間なのか、朔夜はわからなくなってきていた。否、常識あるからこそ生徒会長の座についているのだろうが、人を掻き乱す言動はド天然のトリックスターと思えてならなかった。
「あのー、では、何故私を好きになったのでしょうか。私の記憶が確かなら昨日が初対面だと思うのですけれど……もしかして以前どこかでお会いしたことがありましたか」
「いいえ。話をした、という意味では間違いなく昨日が初対面よ」
「では、何故。そこが全くわからなくて私も混乱しているのですが」
疑わしい、と思っている態度を隠さずにそう問いかける。やはり会長は堂々として、見る人をころっと懐柔させる傾国的な笑顔でこう宣った。
「直感」
むちゃくちゃだこの人。朔夜は卒倒しそうだった。
なのに周りは会長の一言を聞いた途端、直感なら仕方ないね、と言いたげに緊張感が緩み、納得した空気があった。
「返事は急がないわ。ゆっくり考えてちょうだい。でもあまり先延ばしにされると焦れったくなっちゃうから、これから毎日会ってくれると嬉しいわ」
朔夜は会長の回答にも、納得してる周囲にも納得できなかったが、自分たちに向いていた好奇心がそれをきっかけに引っ込み始めたので、ようやく生姜焼き定食に手をつけることができた。食後はまた会長が教室まで送り届けてくれたので、再びちくちくとした視線の中を歩いたし、それは教室に帰った後も収まることはなかった。
食堂の別の場所にいた小夜は会長の爆弾発言を聞いていたらしい。二人の後方を歩いていた小夜は、朔夜と会長が分かれたのを見るや否や朔夜を捕まえて、会長から告白されたのかと戸惑いながら訊ねてきた。
「いや、そうなんだけど……私も突然のことで全然まだ訳わかんなくて。からかってるだけだと思うんだよね。だってあの会長だよ? っていうか私も会長も女だよ。女子高ならそういう話も聞くけど共学だしさ。ないでしょ」
戸惑っているのは私も同じだと朔夜は小夜に訴えた。しかし小夜も憧れはあれど、会長の人柄をよく知らないのだ。朔夜の話を信じないわけではないけれど、素直に頷くのも自信が無い、といった様子だった。朔夜もそれは同じだったので、それ以上は何も言いようがなかった。盗み聞きしていた周りもそれを聞くととりあえず好奇心をしまいこんだようだった。
しかし人の噂が広がる速度は伝染病よりも早いのだと、朔夜はその翌日に実感した。
生徒会長が新入生の女子に告白したことは昨日の昼休みの時点で全校に広まり、部活や委員会で噂が飛び交っているうちに「会長は新入生と交際を始めた」なんて尾ひれがついてしまった。お陰で朔夜は登校して早々、鼻息を荒くしたクラスメイトたちに詰め寄られる羽目になった。その時になって、まんまと外堀を埋められたのだと朔夜は理解した。これを計算づくでやったのならとんだ策士の女狐だ。だからきつねうどん食べてたのか。
かの有名な口裂け女は、発端は「人の噂がどれくらいで全国に広がるか」という調査で発信されて三日で全国に広がったそうだ。ゴシップとは怪談並に人の心をくすぐるのだなあと、他人事のように思った。というか他人事だと思いたかった。
その時朔夜が一番気にかかったのは小夜のことだった。憧れの人が同性愛者で、自分の友達を好きなんて複雑なんじゃないか。
そう思って押し寄せる人並みの向こうに立つ小夜を見ると、小夜は人形のような無機質な目を朔夜に向けていた。瞳には暗い炎を宿して。朔夜の心は一瞬、芯まで冷えきった。交錯した視線から入り込んだ小夜の暗い炎が、朔夜の内側から熱を吸い取り奪っていく。その冷たさは凍死する絶望を教えるようで、怖いくらいに心細い気持ちにさせた。
そう感じたのはその一回だけだった。けれど脅迫的な悪夢がずっと頭の中に残り続けるように、小夜の暗い炎を見た余韻は朔夜の中にずっと残っていた。
*
朔夜と小夜は、同じ小学校に転校してきた子供だった。三年生の時に朔夜が転校してきて、四年生の時に朔夜のクラスに小夜がやってきた。
転校生は、既に形成されている集団に溶け込むためにはどうすればいいのか見極める段階がある。そのため、観察眼を養い、客観的に集団を眺める冷静さを持ちながら適応していかなければならない。それが転校生として優秀な振る舞いだった。
習慣、方言、遊び。それは土地によって変わる。例えばジャンケンの掛け声一つ、言葉のイントネーション一つが多少違うだけで「それ変だよ」と指を指されることがある。それまで当たり前過ぎて肯定すら不要だったことが、場所が違うだけで違うと言われる。おそらく、転校生であれば誰しも一度は感じる閉塞感だった。
当然、「そうなんだ」と軽く流しながら彼らに合わせていくのだが、そういったことがぽつりぽつりとある度に、朔夜は人付き合いを楽しむことができなくなっていた。どうしていちいち変えなきゃいけないんだろうと心の中に塵が積もっていく。同級生たちと表面上は上手く付き合えていたが、この人たちに心を許したり本音を語ったりして安心することは一生できないんだろうなと子供ながらに悟っていた。
小夜が転校してきたのはそのちょうど一年後だ。その頃には朔夜は土地にも慣れてクラスの一員としてつつがなく過ごすことができていた。迎えられることはあっても迎える側に立つことがなかった朔夜は、転校生に興味を持って話しかけに行くクラスメイトを眺めるだけで、自分からは小夜に近付いて行かなかった。その時も転校生の習性的に、周りの様子を伺っていたのだ。
小夜は大人しい女の子で、クラスの中心に立ったり、手を叩いて笑ったりする女子ではなかった。しかしツヤツヤな髪と、人形のように整った顔立ちは女子から人気で、クラスの女子はこぞって小夜を構いに行っていた。
仲良くなろうというつもりは、その時はなかった。既に仲良くなりたい子が大勢いるのだから自分がわざわざ行く必要はない。そう思っていた。しかし朔夜は、小夜に話しかけることになった。
理由は、彼女が一人でいたのを放課後に見かけたからだ。小夜は裏門の方で、裏庭と駐車場を仕切る十五センチ幅程度、膝より少し高くなっているコンクリートの上を綱渡りするように歩いていた。教室ではあんなに囲まれていたのに、どうして今は独りぼっちなのだろう。もしかして何気なく言った何かを「変」と言われて、一緒に帰ってくれる人がいないのだろうか。そう思うと声を掛けずにはいれなかった。
「帰んないの?」
朔夜がそう声を掛けると小夜は振り向いた。
「ううん。こっちが帰り道なの」
「私も。ちょっと行ったところの川の近くなんだ」
「えっ! じゃあ私の家と近いよ」
小夜は人見知りをしない子供のようだった。その時は朔夜のことを知らなかったはずなのに自分の家の場所を話した。そしてその時聞いた話によると、小夜は別に仲間はずれにされたわけではなく、みんな正門の方から帰った方が家が近いから、単純に一緒に帰る人がいないだけだった。小夜は家の方向が同じ人がいることが嬉しかったのだろう。コンクリートから下りて朔夜の隣に移動してきた。朔夜は自分が同じクラスであることと、自分も去年この学校に転校してきたことを話した。
「名前もちょっと似てるよね。私、朔の夜って書いて『さくや』って読むの。新月の夜って意味なんだって」
「私も夜って字入ってる。小さい夜って書いて『さよ』。私のは昔の夜なんだって」
一緒に帰り、互いの家が歩いて五分もかからない場所にあることを知ると、それだけで仲良くなった。学校でも放課後でも一緒にいるようになり、家族よりも小夜といることの方が多くなるうちに、朔夜は小夜のことが一番好きになった。
朔夜はどちらかというと男の子と意見が合うタイプだったので女子の遊びに加わることは少なかったが、小学校の時に流行ったプロフィール帳の一枚を小夜のついでに渡されたことがある。完全にお義理だ。周りがカラーペンなどで可愛らしく書き込んでいる中、朔夜は無骨に鉛筆で書いていた。
好きなものを書くところに「好きな人」という項目があったので、朔夜は迷わず小夜の名前を書いた。本来は男の子の名前が書かれる場所なのだろうが、プロフィール帳の持ち主は特別仲が良い女子に配っていたというわけではないので、ほとんどの女の子はそこに友達の名前を書いていた。小夜がその場所に書いた名前も朔夜だった。
中学になり、今度はおまじないが流行り始めた。好きな人に気付かれずに影を踏むと興味を持ってもらえるとか、夜寝る前に好きな人のことを考えてリップクリームを塗ると話ができるとか、ティーン雑誌などで見かけたものが女子から女子へ伝わっていた。朔夜は既に誰よりも小夜と話ができているし、親友とも呼べる間柄だったのでやはり関心が薄かった。それに関しては小夜も同じようだ。その頃から小夜は男子から人気があったので、女子は自然と小夜の好きな人に強い関心を示していた。クラスメイトが直接小夜に「誰にも言わないから教えて」と言っても答えはいつもノーだった。誰もいない、という意味で。
「えー、今まで誰も? 変だよそんなの〜」
そう言う彼女は、時と場合によって好きな男の子が変わる女子だった。教室にいる時は誰くん、部活してる時は誰先輩、委員会の時は誰くん、といった具合に。
小夜はそういった言葉に惑わされない質だったが、隣で聞いていた朔夜は反射的に「好きな人を作らないといけないのかな」という気になった。実際、かっこいいと思う男の子がいないわけじゃない。だけど小夜と比べると、足元にも及ばないくらいちっぽけな存在に思える。
小夜が好きかもしれない、と思ったのはその時だった。
だからといって告白しようという気持ちにはならなかった。ずっと親友でいたし、小夜はその女子に対して「でも好きな人って、作ろうと思ってできるものじゃないし」と言っていたから。わざわざ小夜を好きな人にする必要はないと思った。
だけどそれ以来、時々、小夜のことが好きだと伝えたらどうなるだろうと思うようになった。深い意味はなく、友情という意味で。だけど言えたことはない。そのことが、小夜に向く友情の中に、一片の恋愛感情があるのではないかと朔夜に思わせた。
その考えが朔夜の中に定着してきた年の冬、今度は手編みのマフラーやミサンガ作りが女子の間で流行り始めた。それまで流行は誘われたら乗っかるくらいだったのに、小夜はマフラーを編むのにハマった。赤いロングマフラーを編むんだと意気込んで、学校にも持ってきて休み時間に黙々と編むようになった。朔夜も一緒に作り始めたが、二週間もしない内に飽きて持ってくるのを止めてしまった。そのため小夜が編んでる間に机の上を転がる毛糸玉が落ちないよう、机の中心に戻す係を買って出た。それにも飽きるとミサンガでも作るか、という気になって百円ショップで刺繍糸を買ってきた。一番簡単そうなレシピを選んで、同系色になる組み合わせで赤色を入れて編み始めた。小夜が編んでいるマフラーが赤色だったから、なんとなく赤を選んでいたのだ。「ミサンガを編みながら好きな人のことを考えて、それを付け続けて自然に切れたら両想いになる」という聞きかじったおまじないを思い出して、小夜のことを考え始めながら編む。しかし同じ作業をずっと繰り返していると無心になってしまい、結局小夜のことを考えたのは作り始めの時と、集中力が切れて思い出した時と、作り終わる時だけだった。
インターネットで付け方を調べている時に、糸の色によって意味が違うということを知った。また、ミサンガを付ける場所によっても意味が変わるらしい。赤色が恋愛運に関わり、利き腕に付けると恋愛の意味になると。少し考えて右手首に付けようと思ったが、左手で結ぶことができず、好きな人がいると思われるのも嫌だったので小夜にも頼めず、結局諦めて左手首に付けた。しかも別のサイトで改めてミサンガの色の意味を調べると、恋愛運を意味するのはピンクの糸と書かれていた。はじめに見ていたサイトは「運命の赤い糸」にちなんで恋愛運は赤い糸とされていたので、語る人によって糸の意味は変わるのかもしれない。信憑性の薄さに、占いとかおまじないなんてこんなもんか、と急につまらなくなった。ちなみに左手首にミサンガを付けるのは学業成就を意味するらしい。
そのミサンガは二年経った今も切れていない。編んでいる時は申し訳程度にしか小夜のことを考えていなかったし、おまじないなんてただの思い込みだと思う。しかしふとそのミサンガを見ると、自分は小夜のことが好きなのだと暗示をかけられているような気分になった。
*
これから毎日会ってくれると嬉しいわ。そう言っていた通り、黒澤会長は昨日に続いて今日の昼休みも教室にやってきた。朔夜は頭を抱えそうになった。初めて一緒に歩いた昨日が特別そうだったのかもしれないけれど、会長といると自然と視線が集まる。そして今朝の小夜の視線。会長と一緒にいることを良く思っていないのは確実だった。小夜はおそらく朔夜に嫉妬している。会長一人からあらゆる悩みが傾れかかってくるのを感じた。
しかし、せっかく迎えにきてくださる会長様に向かってお断りを申し上げるのは、目撃者を敵に回しそうで怖い。なので一先ずご一緒して、連絡先の交換をこちらから申し込んで、どうにか別の時間でお会いしませんかと伝えるのが一番無難に思えた。
「小夜。今日も会長と行ってくるから……あー、それとも一緒に行く?」
そう言ってから、小夜の前で会長に連絡先を訊くのはもっとマズくないか、ということに気付いて頭が痛くなった。どうすればいいんだ。
小夜の返事は冷たかった。
「ううん、大丈夫。お付き合いしてるなら私がいると邪魔でしょ。遠慮しないで」
……付き合ってない!
はっきりそう思うのに、言うことができなかった。機嫌を悪くしている小夜には火を油を注ぐ気がしたし、全校に付き合ってると思われてる状況でそんなこと言ったら会長に恥をかかせる気がした。
それでも否定したくて、「いや……」とだけ言うが、結局口を噤んでしまう。妙な空気。小夜相手にこんなの初めてだ。嫌なのに、そのまま留まるともっと悪い方向に向かう気がして、朔夜はそっと小夜から離れた。
昨日と同じように会長の隣を歩く。昨日よりは少ないがやはり好奇の目を向けられた。
「付き合ってることになっちゃってるみたいね」
「……そうですね」
さして困っている風でもない。むしろ悠々としている。順調に事が進んでいる状況に愉悦を感じているようだった。終局を見通しているチェスの盤面を見て、己の勝ちを確信している余裕を感じた。
朔夜がこの状況を快く思っていないことを会長は声で察したらしい。少し前に出て浅く腰を折ると、前から朔夜の顔を眺める。やはり焦りもない、徹して余裕のある表情でこう問いかける。
「女と噂になるなんて嫌かしら」
言われて、く、と息を飲む。反射的に自分の胸の内にある小夜への気持ちがよぎる。そんなことを会ったばかりのこの人が知るわけがないのに、会長の目は朔夜の考えていること全てを見通しているように感じた。
「そうは言いません」
「そう。やっぱり好きだわ、貴方のこと」
会長は花がほころぶような笑顔を見せ、軽やかなステップを踏んでふわりとスカートを翻らせると再び朔夜の隣を歩いた。
食事の席で朔夜は考えていた通りに会長に連絡先の交換を申し出た。会長はもちろんと快諾した。そして朔夜に何か目的があることを察して、ストレートにそれを訊ねてきた。言うか言うまいか迷った後、「会長と一緒にいると周りの視線が集まってご飯を食べることに集中できません」と正直に答えた朔夜に、会長は可笑しそうに声を出して笑った。それがまさに破顔という感じだったので、その時初めて、会長も普通に人間なんだな、と思った。
会長は、お昼がダメなら、放課後に喫茶店に入って少しお茶に付き合ってほしいという提案をしてきた。朔夜は尻込みした。一介の高校生が喫茶店に行くことを習慣化させるのは非常に厳しい。週五でファーストフードに行って百円の飲み物を頼んだら、単純計算で一ヶ月に二千円は飛ぶ。そして喫茶店には百円の飲み物はない。その金銭事情を恥じ入りながらぼそぼそと伝えると、「父の株主優待から、有り余ってるサービス券をこれでもかってくらい貰ってくるわ」と楽しそうに言ってくれた。株主優待とやらが一体何者かわからないまま、とりあえず会長が出費を抑えられるように便宜を図ってくれるらしいということはわかり、朔夜は明日から喫茶店をご一緒することになった。
つまり明日から毎日デートをするということで、それはもう実質付き合っているということとほぼ同義なのだが、朔夜は何故か断るという選択肢が頭の中に浮かんでこなかった。
会長との会話は特別楽しいというわけでもなかったが、されどつまらないなんて到底思うことができないものだった。気まずさも焦りもない。朔夜が焦っていることがあるとすれば、周りからの視線だけだった。それなりの社交性はあるものの決して話し上手というわけではないので、会話が流暢に続くのは会長の話術によるものに違いなかった。天は二物以上を与えるのだなと思っても、不思議と妬みはない。傑物には嫉妬心が湧かないものなのだろう。格が違いすぎると自分と比較ができないのだ。
会長は今日も教室まで送ろうとしてくれたが、それも目立つので切に切に、丁重にお断りした。参っている朔夜の様子に会長は「そう? 残念だわ」と愉快そうに笑って、途中まで一緒に歩いた後、自分の教室への最短ルートに差し掛かった分かれ道で真っすぐ帰ってくれた。その時ほっと息を吐いて、落ち着いた後の頭で、嫌な人じゃないよな、と思う。朔夜にとって予想外のことをやってくれるが、嫌がることは強行しない。その時にようやく会長の人柄を少し知れた気がして、そりゃあファンもできるわ、と思った。
小夜と顔を合わせるのが少し気まずく思いながら教室に戻ると、小夜はいなかった。基本的にいつも一緒に行動しているので、小夜がいない教室って他人の家みたいだな、と借りてきた猫のような気分になる。
自分の席で所在なげに次の時間割の教材を出していると、小夜以外に友達がいないことを急に実感した。クラスメイトとはそれなりに話すけれど、一人が嫌だからといって飛び石を渡るようにわざわざ話しかけに行く気は起きない。話しかけたところでどうせ会長の話になるのは目に見えている。
「あ、おかえり朔夜。もう戻ってたんだ」
先ほどまで気まずくなっていたことはスポンと忘れた。帰ってきた私のホームポジション! と喜び勇んでがばと頭を上げる。小夜の顔を見た瞬間、目が何かを捉えた気がして目を見開く。
小夜だ。けれど、なんか違う。違和感というよりかは、雰囲気が変わったような。
小夜は朔夜の様子に首を傾げる。その様子は昼に別れる前の冷たさなんて欠片もなくて、いつもの見慣れた態度だった。
「どうしたの?」
「いや、小夜なんか……、きれいになった……?」
呆然とそう訊ねる朔夜に、小夜は照れくさそうに笑った。持っていたピンク色のポーチを両手で持って顔を隠しながら俯き、バネを戻すようにすぐに顔を上げた。
「そう、お化粧してきたの。目立つ?」
「いや、全然。そうか、化粧……」
小夜は元から顔立ちが整っている。小顔だし、くっきり二重だし、睫毛は長いし、肌は綺麗だ。そして今までも化粧はしてきていたはずだった。それでも今までとは何か違う。何が違うのか、化粧に疎い朔夜は全くわからなかった。
「いつもリップティントだけだったのとか、マスカラだけだったのを、さっきトイレでちゃんと全部してきたの。アイシャドウとかチークとか。家で練習してたんだけど、変じゃない?」
今は不在の朔夜の隣の椅子に腰掛けて小夜は無邪気に言った。アイシャドウってなに、チークってなに、と思いながら、朔夜は小夜に見とれていた。鼓動が少し速くなっているのがわかって、口の中が乾いて、ドギマギしながら言った。
「うん。すごくきれい。可愛いよ」
それが口から離れた後、あ、と一瞬言葉を取り戻したくなる。変に思われたらどうしよう。でもこういう時は褒める方が自然だよね。内心でそう焦る。そして「ありがと」と笑う小夜にほっとした。
化粧って何をしたのかわからなくても、こんなに印象が変わるものなんだ。その事実は衝撃だった。
小夜はきれいだ。どこがなんて言い切れないくらい、じっと見つめていると息が止まって魂が吸い込まれそうなくらい、きれいだ。それこそ嫉妬するのがおこがましいくらい。
——……やっぱり私は小夜が好き。小夜以外考えられない。
予鈴が鳴り、小夜が自分の席に戻っていく。小夜が座っていた朔夜の隣には本来の座席の主が戻ってきたので朔夜は黒板の方を向いた。右の肘を机に立てて、頬杖をつくように拳の上に顎を載せる。机の上に置いた左腕の袖から覗くミサンガを見下ろして、胸のざわざわを落ち着かせるために静かに長い息を吐く。
会長のことはちゃんと断ろう。そしてその後は、また小夜と一緒にいる。朔夜はそう思い、右手を下ろしてミサンガを撫でた。
*
会長にはなんて言おうか。そんなことを考えながら小夜と一緒に放課後の教室を出る。会長は直接顔を合わせて告白してくれたのに、自分はアプリとか電話とかで済ませるのは絶対フェアじゃない。でも直接会って話すと言いくるめられそうだ。
他に好きな人がいるのでお付き合いはできませんという立派な理由があるのに、朔夜はそのテンプレのような理由で会長を押し切れる自信がなかった。告白する予定はあるのかとか、その人と付き合う見込みはあるのかとか、この先を見据える質問を投げかけられたら、頭をうなだれて「わかりません……」としか言いようがない。小夜は唯一無二と言える仲だが、親友であり、決して恋仲ではない。告白して玉砕する可能性だって十分ある。それで小夜との関係が崩壊して二度と話せなくなってしまったら、この先どうやって生きていけばいいのかわからない。世界中が他人の家となり、一生借りてきた猫として生きる未来しか見えない。
この状況を切り抜けられる明確な正解が、数学の模範解答のようにあれば良いのだが、残念ながら恋愛に参考書はない。女同士なら尚のこと、会長のように頭の回転の速い人間相手ならば尚更である。ハイスピードでサーキットを疾駆するのが会長なら、速度変化のない回転寿司のレールを回っているのが朔夜だ。
慌てて考えても仕方ないかもしれない。どうやって断るかは家に帰ってからじっくり考えることにしよう。少なくとも明日の放課後まで時間はあるのだから。それに小夜の機嫌も直っている。一緒に帰っているのに自ら進んで頭を悩ませるのはせっかくの楽しい時間をドブに捨てるようなものだ。今は会長のことを忘れようと思い、朔夜は隣を歩く小夜を見た。横から見ると改めて長い睫毛だなと思う。
「化粧ってそんなに雰囲気変わるもんなんだね」
「うん。最初見るとびっくりするよね。私も家で練習してるとき違う人の顔みたいって思ってた」
「どこが違うって言われるとよくわかんないんだけどね。化粧し始めるとわかるもんかな」
「あ、朔夜もしてみる? 帰りに何か買っちゃう?」
「いやいやいや、私はそんな女の子みたいなことできないって」
「ちょっとー、女の子でしょ」
「いやー私はいいよ本当、リップクリームがあれば。見てるだけで充分」
「えー」
「小夜が行くなら付き合うけど」
会話の往復の度に、いつも通りだと思って安心した。緊張は言葉と共に吐かれる吐息に混じって口から出て行き、何も意識せずに小夜と話すことができる。もしかしたら昼休み前までの小夜の冷たさは思い込みだったかもしれないと思うほどに。そうだ、小夜の憧れの会長が朔夜に告白したからといって、今まで過ごしてきた二人の時間や関係まで帳消しにされるわけはない。そう思えると、何も怖いことなんてないじゃないか。
「朔夜」
校舎を出たところで呼び止められ、ぎくりと足を止める。会長の声だった。瞬間、焦る。安全だと思っていた場所で蜂を見かけたような心境になった。
朔夜が声の方を向くと、昇降口の脇から会長が二人に向かって歩いてくる。当然のように傍へやってくるので、朔夜は一緒に喫茶店に行くという約束は果たして今日からだっただろうかと記憶を疑う。しかしそんなことはないはずだった。
「え、あれ、明日からって話じゃ……?」
「そのつもりだったんだけど、今日の放課後でもいいかと思って待っていたの。これから一緒にどうかしら。今日は私が奢るわ」
「いや、今日は……」
申し訳ないので奢っていただくわけにはいきません。告白のお返事はお断りするつもりなので、今日も明日もご一緒できません。
心の中でそうはっきり出てくるものの、思ってることをそれほどストレートに言っていいものか迷って口ごもる。校舎から出て来る生徒たちはドラマのロケ現場でも見かけたかのように好奇の目を向けつつ去っていく。会長は相変わらず人の好い微笑みを浮かべていて、それを見ていると何故だか早く答えないといけない気になる。しかし咄嗟に社交辞令的な言葉が出て来ない。
……ええい奮い立て朔夜! はっきり言わないから会長のペースに飲み込まれるのだ!
内心意気込んですうっと息を吸うと、朔夜は気持ちの重心を下げて、しっかりと会長を見た。
「今日は小夜と帰ります。すみません」
初めて会長に堂々とものを言えた気がする。言ったことに後悔もない。ほんの少しの高揚感を覚えて、今なら何を言われてもちゃんと答えられますので何でも言ってください、と構えることができた。
しかし、会長はあっさり引き下がった。
「そう、残念。じゃあ明日を楽しみにしてるわね」
会長ははじめから朔夜と帰れるのを期待していなかったようで、特に落胆した様子もなくたおやかだった。そもそも本当に朔夜のことが好きなのか今も半信半疑の状態だ。反応の薄さに、こんなものなのか、何もビビることはないじゃないか、と朔夜は安堵する。
会長は朔夜の隣にいる小夜に視線を映して、数秒その顔を見た。視線がかち合った小夜は気持ち少しばかり引いて、おかしなところがないように背筋を伸ばす。かちこちに硬直している小夜に、会長は優しく微笑んでこんなことを言った。
「今日はリップだけじゃないのね。今のメイクも素敵だけど、目が大きいからアイシャドウの幅をもう少し狭くした方が映えると思うわ」
小夜の顔がぽぽぽと赤くなる。恥ずかしそうに目を伏せ、目元を隠すように左手の指先で左目の瞼に軽く触れた。
「変でしたか……」
「ううん、きれいにできてるわ。でも貴方はもっと可愛くなると思って」
「あ、ありがとうございますっ、練習します!」
嬉しそうに裏返る小夜の声に、ぴり、と耳元に電気が走る。
小夜がそのまま「朔夜と駅まで行くのでよかったら会長も途中まで」と話すのを聞いて、なんだか置いてきぼりを食ったような気分になった。しかし会長はバス通学であることと、寄るところがあると言ってやんわりと断っていた。小夜はかなり残念そうにしていたが、そこで話の見切りをつけた朔夜が「じゃあ、お先に失礼します」と会釈をすると小夜もそれに倣い、会長も二人に別れの言葉を告げると歩き出す二人を見送った。
小夜は自分の顔の温度を確かめるように手の甲に頬を当てた。顔は林檎みたいに真っ赤だ。「話しちゃった」と小さく言って両頬に手を当てると、興奮覚めやらない様子で何度か溜息をついた。ぱたぱたと顔を扇ぐ。
「会長、私のこと覚えててくれてた」
ぴり、とまた電気が走る。はにかみながら言った言葉は、朔夜に言っているわけではないようだった。
小夜は振り返り、今一度会長を見ようとしたようだったが、既に彼女の姿はなかった。その後すぐに朔夜に問いかける。
「ねえ朔夜、会長とどんなお話してるの?」
何故か、その声に熱情を感じた。興味があるものに対する時の声。目は期待を含んでいる。普段と比べて何が違うのか、明確にはわからないのに。
会長が朔夜を好きなのかは半信半疑だ。だって会長はいつでも余裕だから。
だって本当に好きなら、今の小夜みたいな、こういう顔をするんじゃないのか。
「……なんだっけかな。緊張してあんまり覚えてないや」
思い出せるけど言いたくなかった。それを言ったら小夜はずっと会長のことばかりを考えそうな気がしたから。意地悪な自分に後ろめたさを感じて、朔夜は友達として、小夜に向ける言葉を探す。
「よかったね、話せて」
声が思いの外に冷たくなる。昼休みに小夜から冷たくされて不安になってたのに、朔夜は同じことをしている。いつも通り、というのが急に全然わからなくなった。
泣きそうだった。何かを、と、いつも通りの自分が言いそうなことを探した。
「小夜、なんで今日の昼休みに急に化粧全部したの?」
——ねえ、もしかして、会長に見てもらいたいからちゃんと化粧したんじゃないよね?
昨日教室まで送ってくれた会長を思い出して、内心でそう問いかける。朔夜は小夜を見れないまま彼女の返答を待つ。視界の端で顔にかかった髪を耳にかける仕草をしたのがわかる。えっと、と照れくさそうに笑ったのが聞こえた。
「化粧って魔法みたいでしょ。ちょっと違う自分になれるっていうか……」
言うか言うまいか少し迷ったあと、しおらしい口調でそう話し始めた。朔夜の態度に傷付いた様子はない。冷たくされたなんて思ってすらいないようだった。朔夜が会長に嫉妬したことに、小夜は気付いていなかった。
「私ね、朔夜のことちょっと羨ましかったの。会長に目を掛けてもらえて、お付き合いしてもらえるなんて、すごく素敵なことでしょ。でもなんか、私は会長のことすごく素敵な人だと思ってるから、「なんで私じゃないんだろう」っても実はちょっとだけ思ってね、……ちょっとだけよ? でも、それでちょっと朔夜に冷たくしちゃったから……だから、なんだろう、自分磨きっていうか……私も魅力的な人になりたくなったっていうか……いつもの自分を取り戻さなきゃって思って……うまく言えないけど」
小夜の言葉を聞いていくたびに少しずつ視界が遠くなる。
会長のことが羨ましかった。なんで小夜の好きな人は私じゃないんだろう。小夜に冷たくしてしまった。いつも通りがわからない。
小夜の言葉と自分を符合させる。今の朔夜と同じようなことを小夜は思っていた。それを化粧によって切り替えた。
化粧をきっかけに小夜がいつもの自分を取り戻したのなら、化粧をしていなかった今朝はなんだったのだ。朔夜が会長と行く前の、昼休みの冷たさは。胸の内には、いま朔夜が抱いているような暗い気持ちがあったのか。それは今も?
化粧して魔法をかけないと、友達ですらいられなくなるのか。
そのことに気付くと、朔夜は自分の中にズルい気持ちが沸き上がるのを感じた。下したはずの決断が鈍って、別の選択肢が並ぶ。汚くてズルい選択肢。自分はこんなにひどい人間だったろうかと軽蔑する。だけど、その汚さを考えていると少し冷静さを取り戻せた。
「あのさ、明日はお昼一緒に食べられるから」
「え? そうなの? 会長は?」
「周りの視線すごいからさ、ご飯食べるどころじゃないから昼に会うのは止めたいって言ったの。代わりに明日の放課後からは小夜と帰れないかも」
「そっかあ……周りの視線くらい気にしなきゃいいのに。……でも放課後の方が長くいれるもんね」
残念そうな小夜の声。友達よりも憧れに夢中になっている人。今も嫉妬心は隠しているのだろうか。
もう小夜は純粋な友情を抱いてくれていない。そう思うと、彼女にきれいな気持ちを抱けなくなってしまった。
*
小夜は帰る前に、放課後の教室で化粧を直すようになった。
相変わらず朔夜は化粧のけの字も知らないままだ。窓際の席の机に広げられるコスメグッズは容器は統一性がなく、どれも可愛らしいデザインをしている。わざとらしく可愛く見せて、本質を隠すような装飾やお洒落な形。それが女の虚飾を表しているようで好きになれなかった。
朔夜はメイクをした小夜の顔よりも、素顔の方が好きだった。澄んだ空気のような清涼感があり、楽な姿勢を許されるような気分になる。あの日以来見ていない。これから見ることはもうないのだろうかとふと考えて、そのことが少し悲しくなる。
底にマチがついているかまぼこ形の化粧ポーチ。色は薄いピンク色。片面の上の方に銀色のリボンがついている。ファスナーに下げられているダイヤ形の透明なプラスチックのアクセサリーは掴みやすくて、朔夜はよくそれを指の間で転がしていた。
小夜が化粧をしている間は彼女の方を見ないようにしている。なんとなく、人が化粧をしている間の顔は見ないのがマナーのような気がしたからだ。詳しい礼儀は知らないが、他人の風呂やトイレや着替えを見てはいけない倫理観に似ていた。電車で化粧するのはマナー違反という話をSNSで見かけたせいだと思う。
小夜が一つの行程を終えて、次のメイクに着手するためにポーチを漁る。プラスチックケースのコスメグッズが触れ合うとカチャカチャと軽い音がする。化粧をしてる小夜もコスメグッズもあまり好きになれなかったけれど、ポーチの中で鳴るその音だけはおもちゃ箱をかき回しているみたいで嫌いじゃなかった。
小夜が化粧をしている間は何もすることがない。暇で仕方がない。だけど先に帰ろうとも、小夜を急かすこともしなかった。二人でこうして教室で静かに過ごしている時間を手放したくなかった。未練たらしく、朔夜はまだ小夜への気持ちを捨てられないでいた。
「化粧なんかしなくてもきれいなのに」
以前は小夜を褒めていいものかわからなかったけれど、最近は友達の線引きを超えないかを考えないようになった。女子の容姿を褒めるのは特別なことじゃない。
——『小夜が「じゃあもう止めようかな」と答えたら、小夜の中の会長への気持ちは風化している』。花占いをする時に好き、嫌い、と言うように、心の中でいつもそう唱えていた。
「お化粧楽しいよ」
小夜は楽しそうに笑いながらそう返す。今日もダメだった。
本当に楽しんで化粧をしているのか今はもうよくわからない。小夜にはいつも魔法がかかっているから。彼女の魔法はいつも唇に色を付けて完了する。毎日やっているからなのか、日々化粧の手際が良くなっていくようだった。そして毎日見ているというのに、化粧を好きになれないというのに、メイクアップした小夜は必ずぐんと可愛くなって、毎度きれいだなと思ってしまう。そのことが悔しかった。
「朔夜もしてみる?」
「えっ」
そう言われるのは久しぶりだった。
小夜は化粧ポーチの中から新品のコスメを取り出して封を切り始めていた。鉛筆くらいの細さで、キャップを開けると小さな筆ペンの形になっている。
「昨日ね、朔夜に似合いそうな色のアイライン買っちゃったの。印象変わると思うな」
「いや、いい、いい。絶対お化けみたいになるから」
「おばけて。大丈夫、可愛くしてあげるから」
もちろんおばけとは儚げな幽霊などではなく、厚化粧に失敗している子供向けキャラクターのようなおばけのことだ。
興味がないし、小夜のような可愛らしい顔面を持って生まれて来ていない。彼女のような薄化粧をしたところで、アフリカゾウがアジアゾウに変わったくらいの変化しかないのではないのではだろうか。
しかしふと、本当に化粧で魔法なんかかかるのか、という思考が落ちた。
果たして顔を変えるだけで、気持ちをどこまで誤摩化せるのかを朔夜は知らない。そう考えるとほんの少しだけ興味が湧いた。今はもうわからない小夜の本心が、ほんの少しでも理解できはしないか。
可愛くしてあげるなんて、いったいどんな気持ちで言っているんだろう。小夜にとっては朔夜は恋敵なのに。そして朔夜を可愛く仕立てたところで、小夜が自分自身を追い詰める行為になるはずなのに。
「じゃあ、いいよ」
小夜は楽しそうに、よし、と意気込んで机の上のコスメを選別しはじめた。朔夜の目が節穴なのか、その様子に嘘は見えない。
化粧というのは当然顔に施すものだ。それを理解しながら朔夜は小夜に顔を触られるということを、触られるまで気付かなかった。また、思っていた以上に顔面に視線が刺さり、距離も近くてひどく落ち着かない。小夜の手が顔に触れる。左の瞼にアイシャドウを塗るところから始まったが、アイシャドウの色を取ったチップが瞼に触れる前から心臓がバクバクしたし、「目を閉じて」と言われた時にはキスでもされる気分になって腰から頭までが痺れる感じがした。
いったい何をされているのかわからないまま、小夜の言う通りにしていた。ただでさえ心臓が早鐘を打っているのに、小夜が「上向いて」と言うのに従ったら下目蓋の皮膚をあっかんべーするみたいに伸ばされたり、「いーって口横に開いて」というのに従っていると、ひどい顔をしていないだろうかという意味でもドキドキした。
「朔夜、やっぱりオレンジすごく似合う」
途中の出来映えを確認した小夜にそう煽てられて、わけのわからない衝動が込み上がったりもした。
余裕をなくしている間、朔夜は自分の中にあるズルさが影を潜めて、ただ目の前の小夜に対する好意が爆発するほどに膨らんでいくことだけを感じていた。
小さなブラシで塗られた唇にティシュを当てて余分な色を取った後、小夜は満足そうにして薄い鏡を開いて朔夜に向けてきた。
「ほら、朔夜。見て見て」
自分でも意識して触ったことのない部分をかなり触られたので、出来栄えを見るのは少し怖かった。しかし初めて化粧への期待もあった、
向けられた鏡を手に取って自分の顔を見ると、一瞬息が止まった。
「うわ、誰」
驚きと共にそう声が出た。朔夜のそのリアクションに「初めてはみんなそう思うよね」と小夜が笑う。
鏡を見ているのに、違う人の顔を見ているようだった。化粧自体が濃いわけじゃないのに。薄化粧だけでこんなに自分じゃないように変わるのかとビフォーアフターの差に衝撃を受ける。
「朔夜」
教室のドアの方から声がした。まじまじと鏡を見ているところに声がかかったので過剰に驚き、ビクと跳ねた膝が机にぶつかって机上のコスメがガタンと一瞬浮いた。顔を上げると、教室の後ろのドアのところに会長がいた。朔夜と目が合うと、珍しく会長も驚いた顔を見せる。だけどすぐにいつものように余裕のある笑みを取り戻して言った。
「お待たせ。行ける?」
「あ、はい」
朔夜は鏡を畳んで机に置いた。そのまますぐ立ち上がったが、何か忘れていることはないか、としばしその場に留まる。何も荷物を出していないからそんな心配はいらないとわかっていたのだが、後ろ髪を引かれる思いがあった。このまま小夜と別れるのは嫌だ。一瞬でも自分の中にあるズルさを忘れられた。このまま小夜と一緒にいたら、友達として元の形を取り戻すことはできないか。そんなことを思っていた。
別れがたい。しかしそんな感覚的な願望は理由にできない。朔夜は鞄を持って、「じゃあ、また明日」と小夜に告げて会長に足を向けた。
「あ、朔夜」
少し焦った声に呼び止められ、朔夜は振り向いた。小夜は何か言いたそうな顔をしていて、口を開いて息を吸ったのが見えた。
会長の元へ行くのを阻むように呼び止められたのは初めてだった。会長がいる場所で、会長ではなく、朔夜を見ているのも初めてだった。朔夜はその先の言葉を期待した。もしかしたら、小夜も同じように思っていたのではないか、と。
ほんの少し時間が止まった気がしたが、小夜はそのまま口を閉じた。
「……ううん。なんでもない。また明日ね」
なんでもないように小夜は笑って手を振る。期待したことが起こらなかったことに朔夜は肩を落としたが、そうとはわからないように、同じように応えた。
「うん。じゃあ小夜も帰り気をつけてね」
朔夜は小夜を残して、会長と一緒に教室を出た。
朔夜は会長の告白を受けた。
小夜と最後に帰った翌日、会長が連れて行ってくれた喫茶店で返事をして、現在正式にお付き合いをしている。女同士ということで風当たりが強くなるのを覚悟したが思っていたほどではなかった。それはこの学校の生徒に理解があるというより、会長ほどの才女であれば、多少好事家なことなんて小さな問題でしかないからだと思えた。もしくは、朔夜を特別視しているようには見えない会長の態度を見て、本気で付き合っていると思っていないのかもしれない。
周囲がそう考えることを見越して会長はそのように振る舞っていることは、朔夜しか知らないことだ。彼らは会長の睦言も、本気のキスも知らない。存外本当に朔夜のことが好きなのだということを、朔夜も交際してから知った。
「どうしたの? それ」
廊下で隣を歩きながら、会長が自分の頬に人差し指を当てながら朔夜に訊ねる。鈴を転がすような、面白いものを見つけた時の声。会長は朔夜を見つめたまま、機嫌が良さそうに口角を上げている。
自分でも見慣れていない化粧のした顔を見られるのはこそばゆい。朔夜は顔を隠すように眉間に触れ、あー、と少し言いにくそうにした。
「小夜がしてくれたんです。私に似合いそうな色のアイ……なんとかを買ったとかで」
「そう。急に大人っぽくなったわね。そのメイク好きだわ」
「やめてくださいよ、恥ずかしい」
顔を褒められるのは慣れていない。女の子らしくするのが恥ずかしくてわざと雑な態度で手を振った。
会長がメイクを褒めてくれたと言えば小夜は喜ぶだろうか。そう思った後、嫌味や惚気に聞こえる気がしたので止めることにした。
不意に、会長が朔夜の腕を取って足を止めた。反射的に会長を見上げると、貫くような視線と目が合う。この人と顔を合わせるといつもそうだ。穏やかで柔らかい表情なのに、心の底まで見透かされそうな眼力がある。朔夜はいつも、この人への恋愛感情など欠片もないことなんてとっくに見抜かれているのではないかと思う。しかし会長はいつだって何も言わなかった。
「キスしてもいい?」
問いかけはただの合図だった。女王の命令に拒否権がないのと同じ。しかし最近はそれを望んで受けられるようになっていた。
「どうぞ」
そう返すと静かに顔に影が落ちる。ふわりと触れる潤った唇。髪から微かにコロンの香りが流れてくる。瞼を開けたままの視界には、きめ細かい肌と長い睫毛が見える。恋愛感情など欠片もないのに、この人に触れられると心が鷲掴みにされた気分になる。その拘束的な誘惑には中毒性があった。
これほどまでに完璧な女性なら、そっと微笑むだけで数多の男が恋に落ちる。中には女も彼女に心を奪われる。小夜のように。
……小夜。
この人を見ているときの、恋の熱を孕んだ視線。その視界に入れるならなんでもよかった。もう失恋しているのはわかっている。端っこでもその目を向けられて、思い込みでも舞い上がりたかった。そういう虚しさに縋りたいほど小夜が好きだった。少しでも多く関心を向けられるほど安心する。そして同時に、その不毛さが悲しかった。
——『ねえ朔夜、会長とどんなお話してるの?』
小夜は会長を好きである限り、朔夜と縁を切ることはない。朔夜が会長と別れない限り、熱情の目に朔夜を映してくれる。小夜の恋を踏み躙ってでも小夜を失いたくなかった。本気で会長を好きでなくても簡単にキスができる。それで小夜が朔夜を羨んでくれるなら安いものだった。
化粧の中に隠した小夜の気持ち。その中には会長への恋と朔夜への羨望がある。その中にまだ朔夜への友情は残っているだろうか。
そして朔夜の中に、今も小夜への友情はあるのだろうか。
素顔になったとき、小夜は何を思っているのだろう。
——『お化粧楽しいよ』
小夜の素顔を隠す化粧が憎らしい。そうすることでしかやり過ごせない小夜が切ない。だけど小夜に笑顔を作らせて、一緒にいさせてくれる化粧に感謝もある。
化粧に本当に魔法があるのなら。
「会長。今日家に行ってもいいですか」
「もちろん」
唇を離した至近距離で囁くように問うと、会長はたおやかに頷く。誰もが好きになってしまう綺麗な顔で。小夜が憧れる美貌で美しく笑う。
——私が会長だったら、小夜を強引に抱き締めたりできたかな。
——私が会長だったら、小夜は両想いになれたかな。
——私が会長だったら、小夜は私に恋してくれたかな。
そんなことをふつふつと考える。化粧に本当に魔法があるなら、そのせいにして小夜を抱きしめたかった。好きだと言ってしまいたかった。だけどできない。魔法なんて嘘だ。過ぎた現実に小夜を慰める妄想をしても、現実では彼女に手を伸ばすことすらできない。
化粧に魔法なんてない。化粧なんかしなくても現実から目を逸らす卑怯者にはなれる。朔夜はそのことを知った。