看取り屋
死に際に、ふっと現れる人物がいるという。
それは孤独に消えゆく命のみに姿を見せ、最期を共に生きる者。
世間ではその人物は決して知られてはいない。
けれども、ある、若者がこうつぶやいた。
【看取り屋】。
それは、すがすがしい秋の日だった。
山も全力で色づいて、それはさぞ美しかったであろう。
普通の人からすれば。
とある若者からは、そうは見えなかった。
絶望の色だった。
モミジの紅は流れだす生命の色。
イチョウの金は欲望の色。
ブナの褐色は倒れ伏す土の色。
何もかもが悪く見えて。何もかもを若者は恨んだ。
自らを祝福しない人々を、自らを見下す花々を。
そして若者は、死を選んだ。そのために、ここへ来た。
付近で一番紅葉が綺麗で、深い深い山。
名前は知らない。おそらく正式名称など誰も知らないから。
誰にも真名を知られぬ山で、ひっそりと朽ちるのが、今の若者の夢であったから。
考えてみれば、名前など人間がつけた代物でしかなく、その山はただただそこで生命のゆりかごとなっているべき存在だったのに、人が踏み入って聖域を荒らした。
「はッ!一体何を無駄なことを考えてるんだか……」
若者は一人、悪態をついた。
それは自分の考えをダシにした自分への悪態だったかもしれないし、また別の、裏の意味があったかもしれない。
だが真意は分からずじまい。
もしかしたら、若者にすらわかっていなかったのかもしれない。
そしてまた……程よい死に場所を探して若者は歩いた。
土と落ち葉を踏む音が響いて。
されどそれは誰の耳にも入らなくて。若者はさぞ孤独だったであろう。
絶望をしていたとはいえ、まだ若者には家族がいたのだ。
止められる可能性はあった。
だが……若者の家族は可能性を知らないまま、今にまで来てしまった。
気づけば、若者は涙を流していた。
虐げられた負の思い出を見返したから……ではない。
口では独りで死にたいといいつつも、心は違った。
今まで寄り添う者がいなかったからこそ、死を決意してからそれを求めてしまったのだ。
「ああ、俺は何をしているんだろうな」
ぽつり。
雨が降った。
山の天気は変わりやすいという。
いつ天候が崩れてもおかしくはなかった。
雨音は全ての者にその存在を知らしめて。
若者は惨めな気分を味わった。
その嗚咽は涙と雨に洗い流されはしなかった。
魂の叫びなのだから、たかだか水に打ち消せるわけはなかろう
。
叫んで、響かせて、轟かせて。
その叫びは誰かに届いた。
そのように叫ぶことに注視していたからだろうか。
若者は自分が足場の悪いところにいることを忘れていた。
ズルリ。と
。
溶かされた大地は若者を意図せぬ死へと招いた。
落ちていく中、若者は思った。
【自分の意志でないもので死にたくない】
それは傲慢な願いだったろう。
人は基本的に、時と運命に命の手綱を握られているというのに。
その願いをかなえられるのは最も禁忌とされる、自ら命を絶ったときのみ。
神がそれを許すことは無い。なんという皮肉だろうか。
されど、叫びは届いた。望みも言った。
だから、彼は来た。
若者は、人間が極限状態の時に感じるゆっくりとした視界の中で、それを見つけた。
真っ白な仮面と、それと対比するような漆黒の喪服。
仮面には弧が描かれていて。
それは慈愛に満ちた、安心へ導く笑みだと若者は感じた。
もちろん、見る人によっては黄泉へと誘う悪魔の顔にも見えたであろう。
喪服の形状からしてあれは男であろうか。
若者はその状態の中で、なんでもない事を考えだした。
喪服の男は自分も落ちているというのに、死の気配を全くさせずに両手を広げる。
自然と、そこに入りたくなるような安心感を感じた。
落ちるまではあと数秒。喪服の男と若者の距離は離れすぎている。
本来ならば、助かろうはずもない。
本来ならば。
喪服の男は巧みな姿勢制御で、空中を踊るかのように舞った。
気づけば、若者のすぐ近くまで来ていて。
しかし、若者と鋭く伸びる木の枝との激突は避けられなくて。若者は串刺しを覚悟した。
でも、若者に与えられたのは違う衝撃だった。
包み込まれた後、何回か跳ねる感覚。
そして数秒か、数十秒か。地面を転がった。
温もりから解放された。
次に感じたのは冷たいも柔らかい土の感触。
しばらく(といっても十数秒にも満たない秒数であるが)空中にいたせいか、とても懐かしくて、愛おしく感じた。
横たわって、朽ちる事への喜びを見出した。
そのまえに。
若者の顔に影が差した。喪服の男である。
若者側からすれば、見上げているせいなのか。男に後光が差しているように見えた。
スーツは背中から脇腹にかけてのところが裂けているが、そこから覗くのは金属の煌めき。
背部には厚さ何ミリかは分からないが鉄板が仕込まれていた。男は無傷なようだ。
それ以前に、スーツの下に鎧のようなものを着込んでいる男に対して疑問を抱くべきだろうか。
若者は男を見つめる。
されど、男はそれを見つめ返してただただ佇んでいるだけである。
数秒間の間、場を静寂が支配した。
若者は男に対して戸惑い、男は何も言わず若者を見つめるまま。
そんな状況に焦れたのか、若者が口を開こうとする。
「」
「死なないのですか」
若者の吐息が音を成す前に、男は告げた。
初対面の人間に対して吐くようなものではない言葉を。
若者はさらに戸惑った。
確かに、自殺を目的として自分はこの山へ来た。
しかし、その事は誰にも告げていないのだ。
とあるSNSでは最近愚痴ばかり呟いて冗談交じりに「死にたい」とも呟いていたが、それは今日の事ではないし、特定されるような情報を公開してもいない。
若者の目的を、本来この男が知っているはずがないのだ。
そう考えると、男のつけている仮面の弧がだんだんと得体のしれないモノの嗤い顔に見えて仕方がなかった。
若者は恐怖を感じて後ずさった。
ずり、ずり。
落ち葉が若者の引きずる尻や足に擦られて音をたてる。
若者が三十㎝後ずされば、男は三十五㎝程距離を詰めてくる。
若者が何もしなければ、男は動かない。
それがなんとも奇妙で、まるでプログラムされた機械のようで、男の挙動は若者の恐怖心を加速させた。
「死なないのですか、あなたは」
また、男は若者に告げた。今度は若者の顔を覗き込んで。
いや、この覗き込んでという表現すらも怪しい。
男のどこにあるかも定かでは無い目は、若者を見ていたのかどうかすら分からない。
男が興味を持つのは、若者のの奥深くにある『死』だったのかもしれない。
若者は男の問いに関し、答えた。
「し、死ぬつもりだよ……。で、でも、どうやって死ねばいい。
死に方なんて分からない、でも死にたいんだ。
なあ、どうやって死ねばいい」
答えになっているのかどうか分からない返答だった。
質問に質問を返しただけであるが、男にとってはそれは十分な回答だったようで。
少し身じろぎした後に、纏っていた雰囲気が心なしか柔らかくなっていた。
仮面の奥の唇が震えた
。
「どう、死にたいですか。
楽にか。走馬灯と共にか。苦しんでか。眠るようにか。ぷつんと電源を切るようにか。
いろいろありますよ」
男の紡ぐ独特な口調は本当に死への誘いというべきか、終わりを否応なく自覚させるものというか、不思議な魅力があった。
つい先ほど、男に対して抱いていた恐怖は単なるちっぽけな望みに全て塗りつぶされて。
若者は自然と言葉を口にしていた。
「あなたに、殺されたい」
目的が自身の解放の為の自殺のはずだったというのに。
その目的は男に殺されることそのものにいつの間にかすり替わっていて。
若者は自分自身でも気づかぬままにその事に歓喜を感じていた。
恍惚の表情を浮かべて告げたその願いは、しかし怒気をにじませた男によって一蹴された。
「私は殺すものではない……。
見届ける者だ。
故に、君は自らの意志で選択しろ。
そこに私の意志は介入しない」
冷静さをわずかに失いながらも淡々と述べるその様子に、若者の書き換えられていた恐怖が再燃した。
恐怖でショック死でもしてしまいそうな程に悲痛に顔をゆがめた若者は、男の言葉が身に染みたのか。
逃げるようにして男から離れ、山の奥へ奥へと走り去っていった。
男は、追わなかった。
「はあっ、はあっ、はあっ」
若者は息を切らせながら走っていた。
人間の最期の防衛本能とでもいうべきものが、恐怖の根源に対して逃げることを提言してきたのだ。
一瞬にして死の誘惑から解き放たれた若者は、その甘言をこれ幸いと言い訳にして逃げている。
今まで抱いていた、「死にたい」などという欲求は、つい先ほど消え失せた。
いきなり目の前に現れ自身をかき乱し、意味不明で不可解な行動をするあの仮面に凄まれ、死への誘惑より生へしがみつくことを優先したのだ。
今はただ、戻って暖かな場所へと。
自分を否定するものがいても、自分を殺すものは居ない場所へと。
帰りたかった。
男によって、ある意味では生きる事について今一度考えさせられた。
今までの自分は、死、という物は陰鬱な現実からの解放であると信じて疑わなかった。
だが、自覚させられたのは自身の消滅への恐怖と、先の見えない、形容しがたい不安感の塊であった。
だから皆死を拒むのだと理解させられた。
心臓が震え、肺が荒れ、臓物がざわめく。
未だぬぐえぬ死の恐怖と、背後にいると絶対的に感じさせられる濃密な気配。
特殊な訓練など受けていない、本当の意味での一般人である若者からしても敏感に感じ取れるそれは、人間に残された最後の防衛本能なのだろうと若者は思っていた。
手足は震えている。
山道であるが故に走りにくく、時折転ぶ。されどすぐさま起き上がって走る。
死から逃れるための行動のはずなのに、だんだんと自分から終焉へと近づいているように感じて気が気でなかった。
自分の限界まで研ぎ澄まされて、切れてしまいそうな神経から教えられているのは、あの仮面の気配は走り、距離を取るたびにほんの少しずつ、1㎜単位かもしれないけれども薄まっているという事実。
そこから狂った頭で判断するは、仮面の男はあの場から動いていない。
もしくは追ってきていないという回答。
そこだけには若者は安堵していた。
また、足がもつれる。
倒れる。
地面との熱烈な抱擁を交わす。
起き上がろうとするが、乳酸地獄ともいえよう若者の四肢は、動くことを全力で拒否していた。
しばらくぷるぷる震えた後に、若者は諦めて楽にする。
また、静寂が戻ってきた。
いや、自分の荒い息だけが響いている。
いや。そのはずが聞こえない。
瞼が閉じようとしている。
ここで糸が切れたら落ちてしまうと懸命に耐える。
一向に身体が動かない。
なぜ。
なぜなのだ。
若者の疲れ切った脳内を、その疑問を表す文が埋め尽くした。
「ハンガーノック」
いつの間にか。
あたりには濃い死の気配が充満していた。
これまたいつの間にか来ていた男の物……ではない。
若者のものだ。
遅まきながら、告げられた甘い言葉の事を若者は考え始めて。
やがて、自殺の方法を探していた時に見かけた、極度の運動の後に起こる低血糖症状の事であることにたどり着いた。
鈍化していく思考で、必死に考える。
自分の今の症状と合致している。
そして、一瞬だけ明瞭で高速になった思考で浮かび上がった答えは
「これが、因果というものなのか」
「自分はどちらにせよ死ぬ運命だったのか」
「あの男が来た時点で、もうそれは逃れられないものだったのか」
若者から光が失われていく。
仮面の男……【看取り屋】は。先ほどと同じように眺めているだけである。
確かに男は、直接的に干渉はしなかっただろう。
傍観者だ。見届ける者だ。一つの命の終末を
。
「最期に一言。言い残すことはありますか」
看取り屋は問うた。
もうピクリとも筋肉を動かせないであろう若者に。
若者は理解したのか、しなかったのか。
動いたかさえ分からない。
けれど、看取り屋はこくりと頷いて。
「生きていてありがとう。死んでいってありがとう。
君の最期は、この私が看取った。
手向けの花束を送ろう」
魂無き遺骸に、光を持った手とは逆の手のひらを差し出した。
自分の中ではなかなかに良い作品ではないかと自負できたもので。
いかがでしたでしょうか。