第八話 メッ(滅)てヤッ(殺)ちゃう
地下水道の最奥である、ガルダル市で最も深い場所。
そこは大きな空洞になっており、壁や床は大きな石で隙間なく組まれていた。
大量に吊り下げられた魔法ランプがそこを薄暗く照らしており、床に描かれた大きな魔法陣を映し出していた。
大きな魔法陣は赤黒い塗料で描かれており、その色合いからそれが血液を使われていることが分かる。
その魔法陣の上には、黒いローブの人間たちが中央の何かを囲むように立っており、中央にある何か白い物に向かって悍ましい呪文を謳っているようだ。常人であれば肌がぷつぷつと泡立ち、全身に鳥肌が立つことだろう。
部屋の片隅には、打ち捨てられたかのような人間の死体が山と積みあがっている。
死体の下の方には埃が積もっており、ずいぶん前から積み続けているらしい。
そんな場所に足を踏み入れる人影が一つあった。
それは地味な色合いのパーカーにパンツスタイルの女性であり、その上には寄れて所々に皺のある魔術師のローブを羽織っている。
茶色の髪の毛をセミロングまで伸ばし、その下には世界一の美術家が描いた絵画よりも美しい美貌の顔が覗いている。
そしてその肩には、暗くて分かりづらいが一匹の小さな蛇が乗っていた。
その人物が鳴らす足音に、黒いローブの内一人が振り返る。
その黒いローブは他と違い、豪奢な錫杖を持っていた。
「おやおや、こんなところまで来てしまうとは……とっとと上で死んでおけばよかったのだけれどね」
振り返ったその人物は、くすんだ灰色の髪を短く切り揃え四角い眼鏡を掛けた青年だった。
口ぶりから、彼こそがヴァニリノをこの空間に閉じ込めた者であり、ヴァニリノをそれにより殺そうと目論んでいたのだろう。
――そしてその顔は、ヴァニリノも良く知る人物の物だった。
「おや、その姿。ロバートさんですか」
魔術師協会ガルダル支部の支部長であるロバートは、小さな微笑みをその顔に張り付けていた。
今まであってきた彼とは口調がまるで違う。
この様子では、今までの礼儀正しい姿は猫を被っていたらしい。
「……我々の活動を邪魔するお邪魔虫はヴァニリノさんだったんだね。いや、これは予想外だった!」
その青年――ロバートは、大仰な手ぶりで驚きをあらわにする。
その瞳には、燃えるような狂気が宿っていた。
「しかし、これを見られたからには例えヴァニリノさんでも見逃すわけにもいかないね。心苦しいのだけれど、ね」
そう言うロバートはにやにやと口を歪ませており、心が痛んでいるようにはまるで見えなかった。
「……ふーん、そうですか。――私、結構怒っているんですよねえ。疑似神域の核に私が納品した魔道具を使っていますよね? 私の作った魔道具を本来の用途で使わないとは、製作者に対する侮辱です。そんなことをする輩には、相応の報いを受けてもらわねばなりません」
振り返ってみれば、ヴァニリノが魔道具を納品を受注する際、その仕様について細かく注文を付けてきていたのがロバートだった。
最初から疑似神域の核にするために、ヴァニリノへその目的とは異なる用途の魔道具を注文してきたのだろう。
だがおそらく、正直に話をして魔道具を注文してもヴァニリノは作成を承諾しただろう。
ヴァニリノは邪神である。そして飲むためにお金が欲しかった。
ロバートは選択を間違えたのだ。
そのせいで、この世で最も怒らせてはならない存在の内の一つを怒らせた。
例え話ではあるが、この世で最も強い人間よりも、この世で最も弱い神の方が遥かに強いのだから。
神と人間の間には、遥か高い”超えられない壁”が存在している。
「おお、こわいこわい。――しかしね、貴女がどれだけ強い魔術師でも絶対に勝てない脅威、覆せぬ邪悪というものがあるんだ」
何も知らぬロバートが手に持つ錫杖を石畳に突き、金属音が鳴った。
すると、残りの黒いローブたちがロバートの前に出る。
そして全員がそのフードを自らはぎ取ると、そこには爬虫類と甲殻類と鳥類を掛け合わせた怪物の顔があった。混沌のものたちだ。
その混沌のものたちの後ろに光る魔法陣が描かれ、そして魔法陣の中からぬるりと悍ましい怪物が現れた。
怪物は混沌のものたちよりも大きく、歪な形をしていた。
それは見上げる程の灰色の肉だるま。
人型ではあるがその埋まるほどの脂肪で関節という間接が埋もれていた。
背中には蝙蝠のような羽が二枚羽ばたいている。
「見よ、この禍々しい姿を! これは混沌のものたちなどという下級共とは違う上級の奉仕種族。――《膨れ上がるもの》だ。上級の奉仕種族は人間ではどれだけ鍛えてもたどり着けない高みにあるんだ。これこそが、そしてその召還を可能にする神域こそが我が主の加護なのさ!――さあ、やれ。やつを血祭りに上げてみせろ!」
ロバートは歪んだ笑みを浮かべ、恍惚と命令を口に出す。
その言葉に、ヴァニリノは肩のナダをチラリと見る。
――加護?
ナダは疲れたように首を横に振った。
そして迫る二種類の邪悪なるものどもに、しかしヴァニリノはただ一つの溜息を吐くのだった。
「やれ邪悪だの、禍々しいだの――――貴様は自分を邪悪の王とでも思っているのだろうが……底が見えぬほどの邪悪を知っているか――――――?」
――――その瞬間、ヴァニリノの片腕が深淵を切り取ったような闇へと変貌した。
永劫に渦巻く闇の塊は、見つめていると吸い込まれる様な感覚に陥る。
深淵から漏れる冷たい死の黒光は周囲に獰猛な牙を剥き、放たれた虚無のエネルギーが、忽ち大きく太い幾本もの触手の形をした、漆黒の影絵の様な姿になった――――。
そして、いつからかヴァニリノのセミロングの茶髪は塗り潰された黒に染まり、その瞳は、黒く、闇く、死い、濁り混ざった黒色の奈落へと変わっていた。
「な、なんだお前は……! ――人間じゃあないのか!?」
女性の形をしたものの右肩から、幾本もの漆黒の巨大な触手が震えるように身をくねらせ、そこから黒色の闇が溢れ出る。
ロバートは、そのこの世のものとは思えない、精神が軋む程の圧倒的な存在感、魂が圧迫される程の恐怖感に一歩、二歩と後ずさる。
「我が名はヴァニリノ。一万年前、次元の裂け目より現界した深き神の一柱であり、虚無の狭間に住まう神。――――貴様に死を齎す存在だ」
神気に威圧されたロバートは体が固まってしまって動かない。
しかし、ロバートが召喚した奉仕種族は契約に従ってヴァニリノに襲い掛かる。
だがヴァニリノがその触手を踊らせると、それらはもれなく血まみれの肉袋となって灰色の石レンガの壁に叩きつけられた。
それは、上級奉仕種族の《膨れ上がるもの》であっても例外ではなかった。