第五話 世間一般で言う神隠し
あの夜、何者かに殺されていたあの男は、どうやらどこかの記者だったらしい。
それが新聞なのか、雑誌なのか、それともフリーなのかは分からない。
身元が分かる持ち物を何も持っていなかったからだ。
どうやら危険な事件に首を突っ込んでいたようで、ヤバい相手に身元を特定される可能性を少しでも排除しようとして、身分の分かるものを持っていなかったのかもしれない。
だが男の持っていただろうカメラやボイスレコーダー、色々とメモ書きがされていたメモ帳といった物があったため、何らかの物書きだろうという事は分かった。
メモ帳には、記者が追っていたのであろう事件――ガルダルの怪のことが自らの体験談と共に取材や調査について詳しく記入されていた。
カメラやボイスレコーダーにも、決定的とは言えないものの怪しげな人影などが写り込んでいるものがあり、恐らく深くまで調査に及んでいたらしい。
…………まあ、だからと言ってヴァニリノが何かすることもない。
ああ、そういえば、ガルダルの怪のことは魔術師協会支部長に聞いてみればよかったのかもしれない。
魔術師が何人も行方不明になっているのが本当であれば、何かしらのことは把握しているだろうし。
クッ……、酒の誘惑に駆られて忘れてたぜ……。
次会うのは、財布の様子から考えて……半年後?
うーん。
……ま、いっか!
半年なんてすぐだし。
変なことに首突っ込まなきゃ大丈夫でしょ。
初志貫徹。
特になにをするでもなく、普通に暮らしていれば大丈夫。
こういったことには初めから頭を突っ込まないことこそが、平和でほのぼのとした生活を送るためには肝要なのだから。
――男を殺した現場で、その犯人らしき人間と鉢合わせしてしまったことはカウントしないこととする。
そもそも、あれは犯人が悪い。
あんなにいい匂いをさせるなんて。
殺すなら匂いが漏れないように、もっと人里から離れた場所でするべきなのだ。
……おっと、あの時のことを思い出したらまた涎が。
こうなったらまた飲み直すしかない、が……生憎、今はもう夜は深く、時計が0時を回ってしまっている。
今の時間では、たとえ酒屋と言えども既に店は閉まってしまっているだろう。
ヴァニリノが久しぶりに好物を食べられたあの夜の事件の日から、すでに数日の時が過ぎていた。
それだけの時間が経っても未だ好物の味が忘れられないヴァニリノだったが、それとは別に、今日も今日とて夜の街へ酒を飲みに繰り出していた。
しかしそれも酒場の閉店で追い出され、今は夜風に当たりながら夜の街を徘徊している。
休息どころか睡眠すら必要のないヴァニリノは、余計な出費を増やさないためにも宿は借りず家は無く、日の多くはどこかの店に入り浸るか、ただ町をぶらぶらと歩いて過ごしていた。
寝床を確保するよりも酒をより多くの飲む方にお金を使う方が、遥かに有意義にお金を使えるのだから当然のあり方なのだ。
一ヵ月に一回しかない新月の夜に沈む街を、ヴァニリノは静かに歩き続ける。
月明りのない夜はいつもに増して暗い闇が落ちる。
今歩いているガルダル市の東側にある住宅街には、数が少なく点々と置かれた街灯しか明かりになるものが無い。
昼間の人通りは見る影もなく、その石畳の道にはヴァニリノ一人分の足音だけがコツコツと響いていた。
寂しげな夜道に、しかしヴァニリノはまるで昼間と変わらない調子で過ごしている。
(ん~! 夜風は気持ちいいものですね。飲んで火照った体のまま涼しい風にあたるの最高! ――それはそうと、何日か前に食べたあれは美味しかったなあ、また食べたい…………ん?)
ヴァニリノの体を何かざわりとした感覚が包み込んだ。
辺りの景色には、何の違和感も無い。
しかしヴァニリノには、今いるここが一瞬前の場所とはまるで違うところだという事が分かっていた。
空の色は同じ。
町の景色も変わらない。
歩く石畳の感触も色も、全て同じだ。
しかし、決定的に何かが違っている。
「亜空間領域? ……いや、疑似神域かな?」
そう呟く。
亜空間領域と疑似神域は似ているがその本質が大きく異なる。
亜空間領域は魔術によって作り出した閉じた空間のことだ。
現世に存在する空間ではあるが空間的に繋がってはおらず、一部の聖域や精霊たちの住処などがこれに該当する。そして、邪神たちの間ではもっぱら人間たちを閉じ込めて脱出ゲームなどを開催するときに使用されていた。
これは神やそれに準ずる者たち以外――例えば人間にも作成することが可能だったが、聖神が地上から離れてしまったせいでその技術の多くは失伝してしまい、現在ではアイテムボックスなど物を持ち運ぶ程度の亜空間領域を作り出すのが精々であった。
疑似神域は神域――神の住まう特殊な領域であり、世界の裏側とでもいうべき場所――をどうにかして再現した場所のこと。
神域は神しか作ることが出来ない。
しかし疑似神域は、神以外の生物が儀式を行い何らかの神を祀ることで作り上げる疑似的な神域だった。
その作成には、亜空間領域を作るときとは比べ物にならない程の対価と労力が必要だ。
そして聖教の大神殿の深部などは、聖神の疑似神域が用いられていたりする。
疑似神域は本当の神域に比べれば杜撰もいいところだが、それでもトップクラスに特殊な場所だ。
どうやらヴァニリノはそこに迷い込んでしまったらしい。
(これが俗に言う神隠しというやつですね――――しかし、なんでこんなところに疑似神域があるんでしょうか)
それは作った本人から聞くしかない。
さて、こういうところには大抵、特定の脱出手段があるものだけれど……。
まあ、せっかくだしゆっくりと調べてみることにしましょうか。とヴァニリノは歩き回ってみることにする。
(とりあえず、住宅の窓や扉は開かないと)
ガタガタと揺れることもない。
ぴっちりと閉まってびくともしない様だ。
隣の扉を試しに叩いてみると、あり得ない程硬質な感触が返ってくる。
これは中に入れそうにない。
そもそも中が本当にあるのかも怪しいところだ。
仕方ない。別の何か手掛かりのありそうな場所を探すとしよう。
ヴァニリノは周囲の建物を確認しつつ移動してゆく。
そしてしばらく進んでいっていたころ――――。
「――お、開きましたね」
遂に、中への扉が開けられる建物を見つけることが出来た。
見上げてみると、そこは灰色の石レンガで組まれた重厚で巨大な建物であった。
目に入るのは、『ガルダル大図書館』と書かれたプレート。
ガルダル大図書館と言えば、この王国でも有数の巨大図書館だ。
何万もの蔵書が保管され、外には出せない特殊な魔導書や魔道具も管理しているらしい。
王国が主導で作り上げた巨大な図書館。
それがガルダル大図書館である。
ヴァニリノが大きな両開きの扉をゆっくりと開けると、肌寒い風がゆっくりと吹きつける。
室内は明かりはついていないものの、天井付近のガラス窓から月明りが差し込み、その中が薄っすらと浮かび上がっていた。
入り口の近くにあるのは衛兵の駐在所。
貴重で価値の高い図書も保管しているガルダル大図書館には、常に警備のための人員が衛兵の駐屯所から派遣されているのだ。
しかし、あくまで裏の世界であるこの場所に衛兵の影は無かった。
薄暗い駐在所を通り過ぎ奥に進むと、そこには大きな受付がある。
何人もの受付人が入れそうなその場所に今は人影などなく、物寂しい静寂だけがそこに落ちている。
ヴァニリノの履く靴の底と硬質な床が打ち合わさる音だけが図書館内に響く。
受付を通り過ぎると、そこには多くの本棚が立ち並んでいた。
壁という壁を埋め尽くし、覆いかぶさるほどの本棚。
その全てには本がぎっしりと詰め込まれている。
ヴァニリノが本の背表紙を流し見しながら大図書館を歩いていると、その一画にオレンジ色の光を見つける。
(……こんなところに誰か人が?)