第三話 魔術師協会
カランカランと鳴るベルの付いた飯屋の扉をくぐると、眩しい日光がヴァニリノの顔に照り付けてきた。
その光に思わず目をつぶる。
「まいりましたね。明るいところは苦手なんですが……」
ヴァニリノは心底辟易していると言わんばかりの顔で呻き声を漏らした。
まったく、店に入った時は曇っていたくせに。肝心な時に気の利かない太陽だ。
ダレたような仕草で、ヴァニリノはパンパンに中身の詰まったカバンを吊り下げた手を、肩に担ぐように乗せる。
ローブの肩部に皺が寄った。
うーんと、このあとは、などと呟きながら石畳の道を歩いていくことにする。
そうしてそのまましばらく歩き続けると、表の大通りに入った。
そこは多くの人々が通り過ぎる、大きくにぎやかな通りだ。
何車線もある車道にはいくつもの馬車が通り過ぎ、左右に分けられた歩道は大勢の歩行者が行き来する。
通りの両側には、色付きの石やレンガで造られた大きく華やかな建物が立ち並んでいた。
魔術師協会のガルダル支部が存在するのは、そんな大通りの表側。
ヴァニリノが大通りに沿って歩道を歩くと、その建物の威容が目に入ってきた。
大都市ガルダル市に相応しい、白亜の石材で建てられた大きな建物。
それは魔術師協会という組織の巨大さと権勢をこれでもかと表している。
しかしそんなものに全く興味のない高踏の邪神ヴァニリノは、何の感慨もなくガラス張りの自動扉を開けて中に入る。
入り口から入って直ぐの一階ロビーは、非常に綺麗で整っており。
鏡のように磨かれた大理石と、白亜の魔道石材。
透明度の高い装飾ガラスに、フロアにはいくつもの観葉植物が並べられていた。
そこを魔術師のローブを羽織った者や、外套を着た者たちが多く歩いている。
ヴァニリノはそんな中を、何にも興味を示さずまっすぐと歩いていく。
そしてそのまま、ロビー奥にある受付に向かい受付嬢に話しかけた。
「こんにちは。ヴァニリノと申しますが、担当の方はおられますか?」
魔道具組合のこともあり、あまり周囲に知られるのは得策ではない魔道具の納品については、受付では話さないことになっていた。
その代わり、ヴァニリノの名前を出せばこの件を担当している人間に話がつながることになっているのだ。
「――ヴァニリノ様ですね。少々お待ちください」
何度も魔術師協会に訪れているヴァニリノのことを見知っている受付嬢は、慣れた手つきで連絡を行う。
そして電話でどこかに確認を取るとそのまま案内を行う。
「それでは担当のものが向かいますので、三階の第二会議室にてお待ちください」
そう言った受付嬢は、にこりと微笑を浮かべた。
しかしヴァニリノには分かる。彼女がいま微かな不快感を感じていることを。
――いったい何だろうか?
…………あ。
そういえば、ここに来る前たらふくお酒を飲んだっけ。
なるほど酒臭いのか。ちょっとこれは恥ずかしい。
ヴァニリノは密かに、そして即座に魔術で口内の消臭を行い、受付嬢に礼を言うとそそくさと三階へ向かうのだった。
◇◇◇
ヴァニリノは魔術師協会支部の階段を上る。
ここも何というか、品がいいというか、気を使って内装を整えていることが窺えた。
先ほどの受付のときについて。
ヴァニリノは自らの名をそのまま名乗った。
ヴァニリノは世界の敵たる邪神の一柱であり、本来その名は絶対の禁忌の一つである。
もし他の名、特に神代の大戦で活躍した《アムグルゥナ》、《ゼェルゼァル》、《ルハ=ブジャル》等といった名であれば彼らは顔を青くし、直ぐにその口を噤むように言うだろう。
あの気が遠くなるほど長大な聖書を深く読み込んでいないと、それらの名が邪神の名前であることは分からないだろうが、それでも世界で最も広く知られている宗教である《聖教》に忌み名として指定されている。
だから人々は、その名が例えどんなものかは分からなくても、その言葉の羅列を忌避すべきものとして記憶している。
しかし、ヴァニリノは別だ。
先ほどの受付のお嬢さんはヴァニリノの名を聞いても、ことさら気にする様子もなく、不快感を表した様子もなかった。
いや、別のことに不快感を感じてはいたようだが……。
と、とにかく。
ヴァニリノの名は忌み名としては広まっていないし、そもそも聖書にすらその名が載っていないのである。
なぜかというと――――。
「……私は、《神代の大戦》で一番最初に負けましたからねぇ」
呟きがこぼれた。
一万年前、邪神と聖神、二つの陣営がその命運をかけてぶつかった《神代の大戦》。
それは神や人間など問わず数多の犠牲が出た、あまりに凄惨で大規模な大戦であったが、何を隠そうヴァニリノは、その《神代の大戦》にて最も早く脱落し死んでいた。
邪神陣営、聖神陣営含め、神や眷属、人間などの大戦に参加した全生命の中で最も最初に敗北したのが邪神ヴァニリノである。
故に、その知名度は無いに等しい。
大戦で活躍――聖神陣営に大損害を齎したり、強い恐怖を与えた邪神や眷属であれば神話にもその名は確実に刻まれ、そうでなくとも、人々に危害を与えた存在であれば聖書に一文だけでもその名が記されるハズである。
しかし、最も最初に戦場から姿を消し、存在感が薄く聖神陣営に被害も与えた覚えのない邪神の名前など、知られるわけもなかった。
つまり、名前バレの心配など皆無!
――邪神も神である以上、名売りは重要ではあるのだが、それについてはすでに諦めている。
(……もとから知名度や信仰にはあまり興味はないから、まあ別にいいのですけれど、ね)
そんなことを考えながら三階の第二会議室に到着したヴァニリノである。
中にまだ人の気配が無いを察し、躊躇なく扉を開ける。
そして、中にある見目の良い調度品には目もくれず、奥の方にあるソファにどかっと座り込み、持ってきた魔道具の入ったバッグを机の上に置くのだった。
そうしてソファに座って寛ぎながら待つこと数分。
会議室の扉が開いて一人の男性が姿を見せた。
「ああ、ヴァニリノさん、お久しぶりです。ロバートです。あなたがいらっしゃると聞いて、いてもたってもいられず、すぐに会議から席を外しましたよ」
きっちりとした清潔感のあるスーツ身を包み、くすんだ灰色の髪を短く切り揃えて、四角い眼鏡を掛けた青年。
ロバートと名乗った彼は、ヴァニリノが魔道具を納入するときの担当者であり――――この魔術師協会ガルダル支部の支部長であった。
「会議中だったんですか。問題ないので?」
「はっはっは、みんなわかってくれます。あなたが来たのだとなればね」
「そうですか」
ロバートの視線が、ヴァニリノが机に置いた大きなカバンへ突き刺さっている。
ヴァニリノが魔道具を納入するときにいつも使うカバンである。
ヴァニリノはその様子をチラリと見ると、そのカバンからいくつかのものを取り出した。
すべて何らかの器具――魔術が刻まれた器具、魔道具だ。
「おお! 手に持ってもよろしいですか?」
「かまいませんよ」
「では失礼して。…………やはり、貴女の作った魔道具は素晴らしい出来ですね。魔結晶の加工、刻印版の精密さ。魔力系回路の整然さとロスの少なさはまさに芸術的です。超一流の魔道具技師にも貴女ほどの人物が如何ほどいるのか」
「それはどうも」
それは仮にも人間を超越した邪神の作った魔道具である。
人間社会でも容易に受け入れられるよう、意図的に大きく手を抜いたとはいえ、人から見れば非常に優秀な作品であることに違いはなかった。
それこそ、その制作者の担当に魔術師協会の支部長が自ら就くくらいには。
「貴女の魔道具は貴族から非常に受けがいいので、こちらとしても助かっております。――昨今の技術の発達によって魔道具の量産も可能になりましたが、やはり高度な魔道具は人の手で作らざるを得ませんから」
ロバートは「それではいつも通り買い取らせていただきます」と言って懐から金貨銀貨を取り出した。
ヴァニリノは硬貨の数を数えると、それをポケットの中にしまい込む。
そして、これで用は終わりかと思って席を立とうとするが、ロバートがちょうど話を始めた。
「あと、これからお願したい魔道具に関しまして、基本的にはこれまでと同じで問題ないのですが、一部仕様を変更していただきたい場所がございまして」
話を始めるロバートに、ヴァニリノは内心イラつきを覚える。
これからこのお金を握りしめて酒場へ繰り出そうと思ったのに。邪魔するな。
これだけあれば、向こう三か月は飲んだくれていられる。
キンキンに冷えたビールに合うのは、枝豆にもつ煮、ウインナーも捨てがたい。そして何と言ってもガルド鳥のから揚げこそがベストマッチ……!
よく神にささげられる供物の中に、酒があったりする。
ヴァニリノも例に漏れずお酒が大好きだ。
神にささげられるお酒。
その種類は御神酒や薬酒、白酒などがあり。
場合によっては米酒やブドウ酒が用いられる。
しかしヴァニリノはそういったお酒は好きじゃない。
大衆的なビールこそがヴァニリノの至高なのだ。
極めて経済的な神だと言わざるを得ない。
それを味わう時を奪うのか此奴は。
憎しみを込めてロバートを睨みつける。
しかし、自分から邪気(物理)が漏れ出ているのに気が付いて、刹那にそれを中止した。
……あ、あぶない。
ちょっとした弾みでロバートを殺してしまうところだった。
ヴァニリノは心の中で汗をふく。
――神の憎しみは呪いになり得る。
止められて本当に良かった。
ロバートはこれでも、ヴァニリノにお金を運んでくれる協力者だ。
ほのぼのとしたのんびり生活を支えてくれる協力者である。
それを簡単に失うわけにはいかない。
(でも、こいつの話ながいんですよねー)
ヴァニリノは浮きかけた腰を落として話を聞くことにするが、内心のため息は止められなかった。