予兆
一
しゃんらんと涼やかに鳴る髪をじぃっと見つめていると、千穿は居心地悪げに身じろぎして仔どもを見下ろした。口が悪く、相変わらず優しくはなかったが、傍にあるだけで表情に嫌悪を滲ませることはない。
『何だ』
最近、千穿は進んで人型でいることが多くなった。高く上げた髪に挿さる簪も美しい。
「それ」
指さすとなんだ、と面白げもなく呟く。
『お前もこれから挿すだろう。別段大したことでもない』
「違くて。きれい。千穿、きれい」
千穿はいつも、眩しいほどに綺麗だ。綺麗だから、美しいものがとてもとても、似合っている。てらいなくそう言うと、千穿は眉を寄せて顔を逸らした。
『まったく、どうしてそうもおまえは恥ずかしいことばかり。
っとと、逃げるな莫迦ものっ』
仔どもの髪を捕えていた手が抜けていたので、これ幸いと逃亡を図ろうとしたのだが甘かったらしい。空を掻いた腕は一瞬あとには仔どもの細うでを掴まえていた。
『どうしてそうお前はすぐに逃げるのだ、ムスメ。ちょっと傷が治ったからと言って無理をするとすぐに開くんだからな』
「だって」
『だって、ではない。その長い髪をほったらかしにされるのは気に障る。耐えろ。この前は結局お前、寝てしまったんだからな』
「それは、ごめんね」
仔どもは抱えあげられ元の場所に戻されながら、申し訳なく謝罪した。
風呂自体は好きなのだが、いかんせん仔どもは体力がまったくなかった。熱い湯に放り込まれると、それだけで体力を使い果たしてしまう。それで、千穿に抱えられているあいだに、すっかり仔どもは寝入っていたのだった。
『悪いと思うなら、大人しくしておくんだな』
はぁい、と仔どもは不承不承うなずいた。空のみならず千穿が用意した櫛やら紐やら香油やら、転がっているそれは仔どもにとって気が重い。
「じゃあ、じゃあ、才津さまや空、みたいに総髪にするっ」
『莫迦を言え』
千穿の返答はにべもない。
『せっかく女で、しかもそのような素材をもって生まれてきたのだぞ。飾らずにどうする』
「ちっ、千穿、だってっ。前までそんなこと、しなかったっ」
『知らんなァ』
ばっさりと切り捨て、改めて仔どもの髪に櫛を入れながら千穿はにやりと笑った。
『刹貴とて、お前が可愛らしくなることに喜ばぬわけがあるまい。帰ってきたところを驚かせてやれよ』
刹貴は見えないよ、と反撃しながら常なら刹貴が座っているはずの場所を窺う。そこに、いつもの姿はない。つい先ほどやってきた才津に、空を置いていくかわりにどこぞへ連れて行かれてしまったのだ。空は置いていかれることに散々渋っていたのだが、上手く説き伏せられたらしい。
『簪自体は嫌いではないのだろう。だったら任せておけ、悪いようにはせんぞ』
「でも、」『でも、だって、は無しだと言ったはずだ』
相変わらず容赦なく言い切ろうとするのを今回ばかりは見逃げせず、仔どもは続ける。
「似合わないよ、絶対」
『はあ』
千穿は声を傾け、顔を顰める。
『どの口がほざく。お前、もう少しばかり年をとって客を取ればいくらでも買い手が付くほどだぞ』「ちょっと、千穿。何ですか、その例えは。聞き捨てならないのですが」
合いの手を入れたのは空だった。押入れをあさくっていた手を止め、千穿よりもよほど顰めた顔だ。
「主人が主人ならこちらも同じだ、もうちょっとまともな例えはないんですか。ほら、花が見劣りするほどです、とか。幾らでも言いようはあるでしょう。百合など実にお嬢さんに似合いだ」
『はっは、主人は同じはずだが、流石随従をするだけはある。口説き文句だけは申し分ないな』「冗談では、ないんですからね」
雲行きのあやしそうな言葉の応酬に、仔どもはどうすればいいのかとひとりと一匹の顔を見比べる。どちらも全力で笑顔だが、行き着く先が幸いだとは思えないものがそこはかとなく漂っていた。
こういったときに助けてくれる刹貴は、今いない。しばらく空っぽの頭を使って何とかかんとか考えて、仔どもは思い切って自分に使われるはずだった簪を空の髪紐に挿しつけた。
舌戦を中断した四つの驚いた眼差しが仔どもに落とされる。
「あの、お嬢さん、これは」
おそるおそる簪に触れた空が、困惑に瞳を揺らして訊ねてくる。
「あっと、その。そ、空も、千穿にやってもらったら。空のほうが、かわいい、し」
「え、」
頭に手をやった格好のまま、空は表情を凍らせた。それを仔どもは首を傾げて見つめ、千穿は数拍を置いて盛大な笑い声をあげる。
『違いない、傑作だ空っ。確かにお前もすぐに客がつくだろうて。そうさな、ムスメの後にいいように整えてやろう』「全力でご遠慮させていただきますっ、俺は男です、飾る趣味なんてこれっぽっちも持ち合わせてないんですからねっ」
毛を逆立てんばかりの勢いで拒絶を示す空になおさら千穿は声をあげ、後に、と言っていたくせに暴れる空を押さえつけて嬉々として髪をほどきだした。
『いいだろう、才津さまもおもしろい余興だといわれるに違いない』
「知りませんっ、ちょっと触らないで下さいこのヘンタイっ」
いくら叫んだとて千穿が止まるはずもなく、いじられる空を仔どもは感心して見ている。
「仲、いいねえ」
「ねえ、お嬢さんにはいったい何が見えておるのかお聞かせ願えますかッ」