腹を裂きてミるまぼろし( 四 )
うずうずと腹のそこにこそばゆいような感覚があった。急かされているみたいだ、慌てて立ち上がって、格子から女の家の中を覗き込んだ。一緒なのだと伝えれば、友達になってくれたりしないだろうか。
静かな家の中にそっと滑り込んだ。ごちゃごちゃとたくさんのものが打ち捨てられているなか、ちいさな古びた文机で女は書き物をしていた。
しばらくそれを近くで眺めていた。いまの彼女の手は普通の長さをしている気がする。
いつまでたっても気づいてくれないからやがて決心して、女の前に回りこんだ。息を、吸って、吐いて、ひどい傷を受けているくせばくばくと音をたてて疾走する心ノ臓を無理やり宥めて声を発する。
長らく使うことのなかった喉は声を押し出すたびに軋んでしまう。細い声をそれでも伝えたくて、仔どもは振り絞る。
「ねえ、あのね。あなた、同じなの」
期待を込めてじっと見つめた。落ち着かなくて手のひらの風鈴をもてあそぶ。長く手にしていたせいで青銅はすでに温く、仔どもの上がった体温を下げてはくれない。けれどその温かさすら心地よかった。なんと返事をくれるのか、考えただけでもなんだか空に浮いてしまえるような気分だった。
けれど待てども待てども返事はこない。
女は時折手を止めながら、それでも紙面に投じた目で文を追っている。
聞こえ、なかったのだろうか。
しばらく躊躇ったあと、もう一度言ってみることにした。
「あの、ねえ。髪が、ね」
言いかけたところで、ふっと女の視線が上がった。とくん、喜びで一瞬心ノ臓がはねる。
こちらを、見た。
「あの、あのね」
勢い込んで言葉を続けようとすると、顔の横を女の長く伸ばした手が通り抜けた。風で、髪が浮く。女は塵箱に書き損じた紙を放ると、何事もなかったかのように作業を続けた。
ひとときは、何が起こったのか分からなかった。その視線の意味に、気づきたくはなかった。
「 あ、」
見えない、なんて。
何で、何で。どうして。こちらを見たのに、確かに見たのに。いるということに、気づいたはずなのに。
「ねえ、ねえ」
仔どもは忙しなく瞬いて、意味なく左右に首を振った。女の手に自分のそれを重ねる。ひんやりとした手。感じるのに、触れているのに、女の筆の動きは止まらない。手を目の前で振ってみた。目を隠してみた。それでも何の障害もないみたいに筆は滑らかに、美しい文字を書き出す。
「 ッ」
見えていない、女の目は自分を映さない。自分の何も、彼女に影響を与えない。
期待はきっと、何度だって裏切られるものなのだ。
喉の奥が引き攣った。音を立てて血が下がっていく。逃げるように立ち上がり、縺れる足で家の外へと飛び出した。
藍に染まる空の中、もう紅は見えない。風鈴を下げた提灯が、夜風に吹かれながらいくつもいくつも、空を舞っている。
澄んだ音色が何十にも重なって、夜を通り抜けていく。
それを美しいと感じる余裕を、仔どもはもう持ち合わせていなかった。
増えたひと。
大路を行きかい、談笑するひとびと。物を売り買うひと。仔どもが存在を知らない、祭囃子を楽しげに鳴らすひとたち。
風鈴を吊るした提灯を、また空の中へ放そうとするひとも。
それはひとというにはあまりに面妖だったものの。
転げるようにして出てきた仔どもを、顧みる様子はない。屋敷で、だれも仔どもの存在を気にしなかったように。
「ねえっ」
助けて、
声を上げてみても、ここにいるのだと声高に主張しても、誰の目の端にさえ、この姿は掠めないのだ。