3. お風呂
さて、兄妹で一緒にお風呂で入ることについて、皆さんはどうお考えだろうか。
冷静になって考えてみると、どこまでがセーフでどこからがアウトかという境界が曖昧な気がする。
兄と妹は血が繋がっている家族だ。家族だから一緒に入っても問題ない……とは断言できないだろうが、逆に一緒に入ることが駄目かと訊かれればイエスと言えないのも事実。
自宅のお風呂は温泉とは違って公共のものではないから、必ずしも男女別々に入らなければならないという制限はない。
もちろん温泉であっても、例外的に条例で定められた年齢までの子供となら混浴することは可能である。男湯に四歳くらいの女の子がいたとしても、誰も「ここは男湯だから入っちゃ駄目だよ」と注意することはないだろう。
しかし、子供の場合はあくまでも『例外』だ。男女混浴は基本的に許されない。
ごく普通の女湯に四十代の男性が入って来たら、ほぼ間違いなく男性は警察のお世話になる。
そのくらい温泉では男女の区別が重要なファクターなのだ。
一方で自宅のお風呂の場合には男女の区別が大して重要視される訳ではない。
たとえ四十代の夫婦が仲良く自宅のお風呂に入っていたとして、何らかの方法で第三者がそれを知ったとしても警察に通報することはないと思う。
もちろん大抵の場合は自宅でも子供でなければ一緒に入らないのが普通だというのは理解している。
だから決して俺は自宅での混浴を勧めているのではない。
ただ、今の俺が世間的に見て大丈夫かどうか判断したかっただけだ。
――俺は今、実の妹である初杏とお風呂に入っている。
妹が七歳とかだったなら、俺はこんな思考を巡らせることはなかっただろう。
しかし現実として初杏は十五歳だ。俺と二つしか年が離れていない。
成人ではないにしても、男と女としては俺と初杏はもう十分だと言っても差し支えない。
だからここ数年、一緒に入浴することはなかった。今日を除いて。
でも、兄と妹は家族だし。別に一緒に入ってるからって訴えられることはないだろうし。
つまり兄妹は自宅で混浴してもセーフ。
……そんな訳ないか。
問題は法に触れるとか触れないとか、そういうことではない。
性を意識し始めた思春期の男女が一緒に入浴しているってことこそ考えるべきなんだろう。
何かの勢みで過ちを犯してしまったら取り返しのつかないことになる。
特に兄妹は決してそういう関係になってはならない。世の中の常識だ。
だから未然に防ぐ意味で家庭であっても男女が混浴することは少ないのだと思う。
いつもの俺だったなら、そういうことを考えて初杏と一緒にお風呂に入ることを拒否しただろう。
けれど、今の俺は極端に初杏を傷付けることを恐れている。
初杏の願いを拒んだだけで嫌われてしまうのではないか。そんな不安に駆られている。
……俺はそういう自分が嫌いだ。
「どしたの? お兄ちゃん。険しい顔してるけど……」
湯船に浸かっていた初杏が、縁に両手を乗せつつ心配そうに訊いてくる。
原因は確かに初杏にあるが、これは俺自身の問題だ。俺だけで答えを導き出さなければ意味がない。
「いや、何でもない……」
そう誤魔化し、思考している間ずっと俺に向かってお湯を吐き出し続けていたシャワーを止める。
本当に昨日から俺が俺ではないみたいだ。
「ふーん、そっか」
初杏は納得しきれていない様子だが、深く詮索するつもりはないらしい。
俺の気持ちを察してくれる初杏の優しさが、今はありがたい。
「お兄ちゃん、そのままじっとしてて」
俺は何をされるのか分からないでいたが、言われた通り風呂椅子に腰掛けたまま待機した。
初杏は湯船から上がって俺の背後に回る。
「今からお背中流しますね~」
いたずらっぽく初杏は告げる。
直後、背中に二つのひんやりとした感触。
その二つが背中を不規則に動いていく。
懐かしいな……。
初杏がまだ幼かった頃、俺はよく初杏の背中を洗っていたものだ。
その時、俺が背中を洗うのに使っていたのは自分の手。タオルを使うのが面倒だったのだと思う。
いつしか初杏も俺の真似をして、一緒にお風呂に入ったときは初杏も手を使って背中を洗ってくれたのだ。
それが今、数年ぶりに現実のものとなっている。
あの頃とはお互いに体格が全然違うけれど、変わっていないものが中に含まれていて。
どこか心地良い。
「お兄ちゃんの背中、大きいね」
俺の背中を洗いながら、初杏は話し始める。
「お兄ちゃんも私も小さかった頃にさ、よくこうやって一緒にお風呂入って、背中を洗いっこしたよね。あの頃のお兄ちゃん、私と同じくらいしか身長なくて小さかったなあ」
そう、俺は小学生までかなり身長が小さかった。二つ年が離れた妹と身長が同じになるくらいに。
俺の身長が急激に伸びたのは中学生になってからだ。それでも男子の中では小柄な方ではあるけれど、初杏の身長と十センチ近くの差ができてしまった。
「何かしばらく一緒にお風呂に入っていなかったから、こうして見るとお兄ちゃんはやっぱり男の子なんだなーって意識させられるというか。あはっ、何言ってるんだろ、私……」
初杏も昔とは変わってしまったことに多少の戸惑いを感じているのだろう。
俺だってそうだ。
上手く言葉では表現できないが、幼くて子供だった無邪気な初杏が、気付けば可愛い服とかに興味を持つようになって女子になっていた。
初杏から見た俺も、似たような感じなのだろう。
兄妹という関係は不変でも、年月を経れば人間は成長していく。二十歳までなら尚更だろう。
けれど、どうしても兄だからとか、妹だからという理由だけで変わらないのだと思い込んでしまっている部分がある。
変化していることに喜びつつも、自分が置いて行かれそうで不安。それは俺も同じ気持ちだ。
「まあ、人間だから時間が経てば成長するだろうけど、俺と初杏は兄妹だ。それは一生変わらないだろ」
俺はただ事実を言っただけに過ぎない。
けれど、初杏が求めている言葉はこれだという確信があった。
理論とかでは語れない、兄妹として過ごしてきたからこそ分かるものだ。
「うん、そうだよね。うん」
初杏は自分を納得させるようにそう言った後、
「ありがと、お兄ちゃん」
背中越しに感謝の言葉を述べたのだった。
◇ ◇ ◇
初杏に背中を洗って貰った後、お返しに俺は初杏の背中を洗った。
久々に触れた初杏の背中はすべすべで、やっぱり初杏は女の子なんだなーって思った。
兄妹揃って感想が似ているのは血が繋がっているからだろうか。
お互いに背中を洗った後、俺たちは湯船に浸かっていた。
当然のことながら家庭用の湯船に二人も入れば狭いわけで、かなり窮屈である。
しかも初杏は俺の脚の間に入り、背中を俺の胸に預けている状態だ。近すぎる。ほんのりとシャンプーの甘い香りが漂う。
血の繋がった妹だから理性を保てているが、これがクラスメイトの可愛い女子だったなら危うかっただろう。
視線を少し下に向ければ初杏の体が目に入る。
水滴で濡れたきめ細やかな肌、丸みを帯びた体、艶やかな髪の毛。
高校一年に生にもなったのだから立派な女子なのは当然なのだが、こうして見ると改めて初杏が女子であることを意識させられる。
……俺、さっきから同じことを何度も言っているな。
まあ、それほどまでに初杏の成長を兄として強く感じている、ということだ。
「何かさ、昔と色々変わっちゃったよね」
突然、初杏がそんなことを言う。
年寄りっぽい台詞だな、と思うのは俺だけだろうか。
「さっきの話の続きか?」
俺の体が男の子っぽくなったとかいうアレだ。
「それもあるけどさ、他にも色々と変わったことがあるよ?」
「例えば?」
純粋な好奇心から俺は尋ねる。
「例えば、お兄ちゃんがかなり無口になったこととか」
「……そうかもな」
原因には心当たりがあるけれど、口にすることはない。
俺の心の中にひっそりと仕舞われている。
「お兄ちゃん、小学生の頃とかかなり五月蠅かったし。私の部屋に突撃してきて電球の発明の偉大さについて語り始めたときもあったよ」
「……そんなことあったっけ?」
「あったよ~」
全く記憶にございません。
「お兄ちゃん、言葉のチョイスが下手で『電球はすごい』って何度も繰り返してたんだから」
くすくす、と初杏は笑う。
「五月蠅かったし鬱陶しかったけど、今となっては大切な思い出。私はお兄ちゃんがいて、本当に良かったと思う」
不意に初杏がそんなことを言うので、少し照れてしまう。
「あ、別に昔のお兄ちゃんだけが好きって訳じゃないからね! 今のお兄ちゃんも好きだから!」
初杏は慌てて取って付けたような台詞を言うが、その台詞で俺は初杏からの告白を思い出す。
俺は今、初杏からの告白の返事を保留にしたままだ。
兄妹が付き合うことは常識的にあり得ない。だから答えは決まっている。
けれど、初杏のことを考えると言えない。
そもそも常識だって絶対的に正しいという保証はないのだ。
けれど常識に逆らうのは無謀。自分たち以外の人々を敵に回すことになる。
だから俺は答えを出すことができない。
ただ、いつまでも返答をせずに先延ばしにすることはできない。結局は答えを考えて言わなければならない。
初杏のためだけではなく、俺自身のためにも。
しかし、今はまだ納得のいく答えが見つかっていない状態だ。
初杏の気持ちを尊重した上で答えを導けるよう、しっかりと考えておかなければならない。
これが俺に課せられた一番の課題だ。
「……色々あるって言ったけど、他で昔と変わったことは?」
俺は思考を切り替えるべく、話題を転換する質問を投げかける。
「う~ん、お父さんのことかな」
「ああ、それか」
もう十年以上経つだろうか。
「あの日はびっくりしたな~。急にお父さんが出て行っちゃったんだもん」
母さんと父さんの仲が悪かったのは元からだった。夫婦喧嘩はもはや日常と化すレベルで頻繁に起こっていたことは強く印象に残っている。何で結婚したのだろう、あの二人。
けれど決して離婚することはなかった。今だって別居状態ではあるが、離婚はしていない。
父さんは家に顔を出すことは稀だが、俺や初杏の中学校の卒業式には会いに来ていた。
また、俺たちの学費の支払いは確か父さんがほとんどやっているはずだ。
だから俺や初杏は見捨てられている訳ではなく、単に母さんだけが嫌なのだと思う。
「父さんがいなくて寂しいか?」
初杏は父さんに特に可愛がられていた。だから素振りこそ見せないが、もしかしたら初杏は寂しいのかもしれない。そう思っての質問だった。
だからと言って俺が何かできる訳でもないのだけれど。
「確かに、少し寂しさはあるよ。けどね、私にはお兄ちゃんがいるから大丈夫。だってお兄ちゃんは私にとって大事な人だもん」
…………。
予想外の返答に俺は戸惑う。
どうやら初杏は思っていたよりも俺のことが好きらしい。
というか、俺が思考を切り替えようと話題転換したのに、結局俺の話じゃん……。
「……ちょっとブラコンっぽかったかな」
いや、『ちょっと』ではなく『だいぶ』の間違いではないだろうか。
道行く人に「実の兄に告白する妹はブラコンですよね?」と尋ねたら百人中百人がイエスと答えるだろう。
この状況は、俺にとって好ましくない。
「本当に初杏は俺が好きなんだな」
ぼそっと俺は呟く。
話題転換に失敗したから出た心の声。
初杏に好意を抱かれていることは嫌ではないが、それよりも俺が初杏と向かい合わなければならないことに対する不安が勝っている。
俺が抱えている問題だから俺が解決するべき。
けれどずっしりと重かった。
「もちろん。お兄ちゃん、大好き」
俺の言葉を文字通り受け取った初杏からの不意打ちの告白。
昨日も聞いた言葉と何一つ変わらない。
初杏の心からの告白だった。