4話 制服を着た女(後編)
少女はひとしきり泣いた。生まれてから、こんなに泣いたことは無かった。体中の水分を出し尽くすまで、涙は止まらなかった。そして泣きつかれた頃、さっきまで側にいた、体の大きな黒人の男がいないことに気がついた。
少女の名は、緒方さつきといった。日本の首都にある高校の二年生である。陸上部に所属し、800mで県大会の上位に入賞するほどの健脚の持ち主だった。
さつきは部活帰り横断歩道を渡っていたところ、信号を無視して突っ込んできたトラックに轢かれた(トラックの運転手は居眠り運転をしていた)。そして気が付くとオアシスの木陰に体を横たえていたのだった。
最初は、夢だと思った。古典的に自分の頬をひっぱったりもした。だが、いつまでも夢が覚める気配は無かった。仕方なく周囲を散策しようともしたが、オアシスの周りは砂漠であり、泉から遠くには離れられなかった。それほどの熱砂なのである。
オアシスには水の他に、果実がなっている木があり、お腹が空いたらそれを食べた。『飢えるということは、これが現実なのかもしれない』という考えが脳裏によぎったが、さつきは必死にそれを打ち消した。こんな孤独な世界を現実と認めてしまったら、狂ってしまいそうだった。
目が覚めてから三日が過ぎたころ、体が無意識に震えるようになった。両親や友達、気になる先輩のことを必死に思った。が、震えは止まらなかった。
さつきは、ここを離れなければならないと思った。このままではほんとうに狂ってしまう。
砂漠が危険なのはわかっていたが、『もしかしたら、日射病で倒れて目を覚ましたら元の世界にもどっているかも』という考えがさつきを後押しした。
そしてさつきはジェイコブと出会った。
「一人にしないで……。もう一人はいやだよ……」
ジェイコブがどこにもいないことがわかると、さつきはべそを掻きながらまた砂漠へと歩いていった。
黒人の巨漢、しかも拳銃で自殺を図ろうとしている男に割って入るなんて、向こうの世界にいたころのさつきからしたら考えられないことだろう。彼女の孤独は、それほど大きなものだった。この世界で、自分の他にはジェイコブしかいなかった。
さつきがオアシスを離れた頃、ジェイコブはワイバーンに襲われていた。
「な、なんだこの化物は! 信じられねえぜファック!」
ハリウッドか、ここは!
俺は45口径を急降下してくる緑色の化物に向ける――駄目だ、速すぎる!
間一髪、鋭い爪の一撃を避けた。野郎、本気で俺をお昼の弁当にしたいようだ。
化物は二、三メートルはあろうかという巨躯で自在に空を飛んだ。砂漠を歩いていると、奴がホットドッグを狙うカモメのように俺の坊主頭を狙ってきやがったのだ。
「ふざけやがって……!」
州の射撃大会で優勝した腕前を見せてやる……!
俺は頭上で旋回する化物を狙って、45口径をぶちかました。
「グラララララララララァァァァァアアア」
化物は雄叫びをあげた。
クソ、致命傷にはならなかったか。
これで逃げてくれたら御の字――そう思った俺のあては外れた。化物はけたたましく威嚇しながら、バッサバッサと俺の頭の上から離れない。どうやら、なおさら火をつけちまったみたいだ。
「一つわかるのは――俺の死に場所は、お前さんの腹の中じゃないってことだ」
俺たちは睨み合った。が、力関係は明らかだ。45口径の殺傷力は折り紙つきだが、それは人間相手の話だ。あんな化物は想定外だ。しかも奴は、自在に空を飛び回っているのだ。
残弾は二発。仕留められなくとも、奴に、「こいつはやっかいな獲物だ」、と思わせなければならない。
「俺は食ってもまずいぞ、化物め」
全身を伝う汗が気持ち悪い。さっきオアシスで水を飲んだのが遠い昔のようだ。あの娘には悪いことを言ったな――
その時、化物の殺意が俺からそれた気がした。
俺の後ろを見ている……?
化物に注意を払いながら、俺はおそるおそる振り向いた。
……ファック!
俺が走りだすのと、頭上で風切り音がしたのは同時だった。化物はあっという間に俺を追い越し、俺より美味そうな獲物――先ほどの少女のもとへと殺到する。
「ひっ」
少女は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。
「やめろおおおおおおおおおお!」
俺は走りながら45口径を撃つ。反動が制御できず、足がもつれる。が、なんとか倒れずに走り続けることができた。しかし、俺と少女の距離が五十メートルはあろうかというのに、化物はもう鋭い爪で少女を押し倒していた。俺の撃った弾はかすりもしなかったのだ。
俺は、人生でこれほど必死に走ったことはあるかというぐらい、がむしゃらに足を動かした。化物は、巨大な嘴で少女を突ついている。
その場で召し上がるつもりか、クソ!
化物の背後から、俺の胴回りはあろうかという首に飛びついた。銃床で、化け物の頭をむちゃくちゃに殴る。化物は食事を邪魔されたことに激怒し、甲高い雄叫びをあげた。俺はその巨大な口に45口径ごと腕を差し込み、引き金を引いた。化物の後頭部から、脳漿ごと銃弾が飛び出した。
化物の巨体が、ゆっくりと砂漠に倒れた。
「クソがッ」
口の中から腕を引き抜くと、ぬめぬめとした液体がまとわりついていた。俺はそれに構わず、倒れている少女に駆け寄った。
ああ……。
「なんでだ、なんでこんな」
口を抑え、少女の側に跪く。砂は血に染まり、少女の腹からは、縄跳びのようなものが周囲に散乱していた。
間に合わなかった……!
拳で砂を突く。
「……かった」
俺ははっとした。少女が何事かを呟いたのだ。
……まだ息がある!
が、少女の容体は、止血とかもうそういうレベルの話ではない。救命医療を必要としているのだ。だが俺は、デトロイトの冴えないメカニックなのだ。何もできない。何もできない……!
「なんて言ったんだ。俺が聞いてる」
「……よかった」
よかった?
「これで……元の……世界……もど……」
少女はそう言ったきり動かなくなった。
「ああああああああああああああああ」
俺は45口径をこめかみに押し付け、引き金を引いた。
残弾は、もう無かった。
「なんで、なんで、なんで!」
何度引き金を引いても、空虚な空撃ち音が響くするだけだった。
なんで俺ではなく、この娘が死ななきゃなんないんだ……!
俺はそれから雄叫びを上げ続けた。
白い異形に乗り、夜の砂漠の空を横断していた男はふと眼下に目を向けると、『生命の灯』を目にした。
――やけにでかいな。
男が降り立つと、『灯』の傍らに、二人の人間の死体が寝ていることに気がついた。そのうちの一人は年端のいかない少女で、損傷が激しい。もう一人は肌の黒い大男だった。
「何があったのか……ワイバーンあたりに襲われたか」
男はひとりごちる。
――だとしたら、この『灯』はワイバーンのものか? この男が倒したと?
男は首を振る。
――帝国騎士団の者でも苦戦するあれを、丸腰の人間が敵うはずがない。……では、この『灯』は?
男は『灯』に手を触れた。すると、空中で淡く光を放っていたもやもやとしたものが、みるみるうちに実態を伴っていった。最後にはぽとりと地面に落ち、『灯』は跡形もなく消え去った。
物質化したものを拾い上げ、目を見開く。
これは――命の石!
男は再度二つの死体を見る。
これほどのものが出るとは……ではやはり、この黒い男が化物を?
男は死体を見聞する。そしてまたも驚かされた。
二人とも、まだ生きている!
暫し逡巡する。
――命の石を使うべきだ。だがどちらに使う?……決まってる。男には悪いが、少女はもう持ちそうにないのだ。
男は少女――さつきに近付くと、口を開け、ビリヤードの玉ほどの大きさの薄紅色の石を無理やり突っ込んだ。すると、さつきの体が蛍の光のように、緑色に発光し始める。それを見届けると、男はジェイコブの体を持ち上げ、傍らで大人しくしている白い異形の背中に載せた。
「ちと重いが、勘弁してくれよ」
頭はタカで、体は馬に羽が生えたようなその異形は、主人に首を撫でられると「ピューイ」と鳴いた。
男は次に発光し続けているさつきの体を運ぶ。内蔵は元通りになっており、傷口も塞がっている。いまやさつきの体は、発光しているの以外、寝ているのとなんら代わりはない。
「命の石……噂には聞いていたが、これほどまでとは。これを巡って、国と国とが戦をするのも頷ける」
三人を載せ、異形は天高く飛翔した。流石に三人載せているせいで軽々とはいかないものの、その飛行姿はどこまでも雄々しい。ワイバーンよりもずっと上位の化生。その種族の名は、ヒッポグリフといった。
男は途中、ジェイコブが黒くてゴツゴツしたものを握りしめていることに気が付き外そうとしたが、固く握っていて取れそうもなかったので、そのままにした。
残弾は、零。