プロローグ
「――――さいよッ!」
何か、声が聞こえる。
「――なさいよッ!」
胸元辺りの服も、かすかに揺れている気もする。
「起きなさいよッ!!」
今度ははっきりと聞こえた。でも、声量が全く感じられないせいか、この心地よい場所から脱却をしようなんて、微塵にも思わなかった。
「早く起きろぉッ!!!」
思わなかったが、繰り返される魔の手からは逃れられないと判断し、僕は嫌々ながらも起きることにした。
久しぶりの寝床だっただけに瞼はとても重い。
「ふわぁぁ……」
「――じゃないわよ!」
「痛いじゃないか」
どうやら、目の前に浮かんでいる小型の物体は、ささやかな余韻に浸る間も与えてくれないらしい。僕の眼前を右へ左へと、白い羽を駆使しながら忙しなく飛んでいた。淡紅色の長い髪もひらひらと揺れているのが目立っていた。
「じゃないわよ! もう一発叩くわよ! 今度は目に向かって手加減しないわ!」
「いや、それは勘弁してください」
「じゃ、さっさと起きる」
「はい……よっと」
こんな真夜中に一体どうしたのだろうか。考えながら、視界に何か明るいものが入ってくるのに気付いた。それが何かを問いかける前に、リトルは状況を説明してくれた。
「村が、襲撃を受けているのよ」
「……襲撃? 一体こんな平和なとこに誰が――」
「ここでのこと、クロトは覚えてないの?」
「い、いやいや、覚えてるよ」
「私も起きたばっかりだから……ね。確信があるわけじゃないからはっきりとは言えないけど、ね。おそらくは、あいつらよ」
あいつら。それは、この世界に住む人間とは異なるヒト。人間とは、異なる容姿をしているため、魔人と呼ばれていた。
「まぁ、そうだね。それ以外の要因は無さそうだ」
僕は手早くベットから起きて、手近にあった装備を身に着ける。金属製の小型の盾、一本のナイフ、それに加えて布に包まれた荷物を腰に携えた。
そして、低く構えながら、窓から外の様子を見る。
「ここからじゃあ、あまり見えないけど。家が一つ、燃やされているのは見える。そこに、識別できないヒトも」
「うん、そう。でも、重要なのは状況判断をすることじゃないわよ」
「…………重要なこと?」
窓から目を凝らして様子を伺う。人間のような物体から、しっぽらしきものが生えている者が、数名いることに気付く。
さらに、しっぽの生えていない者も、何人も。
「戦うか、戦わないか。助けるか、助けないのか。逃げるのか、逃げないのか」
「――っ」
「知ってる。あなたが、あの時傍観をして、どれだけ後悔してしまったのかを。だから、私は助けた。助けるべきではない、あなたを……ね」
「リトル、君は見ていたんだね」
「うん。だからこのままだと、またクロト泣いちゃうでしょ」
僕は、口を噤んだまま、窓からの光景を眺めた。目に映るものは、まぎれもない人間が、魔人に襲われている現実。それを否定しようにも、否定できない現状だけが映り、体が震えてしまう。
「逃げる?」
逃げる。逃げてしまえば、楽なんだろうけど。僕はまだ、何も選んでいない。
正確には、何も選べていない。人間として、生きていくのか…………それとも、別の何かとして生きていくのか。
そんな半端者だから、僕は傍観することしかできなかった。自分の手を汚すことなく、どちらの可能性も残したまま生きるには、そうする術しか知らなかったから。
だから、きっと逃げるのが一番の正解なんだろう。
「逃げはしないよ」
「じゃあ、戦うの?」
「いいや、戦いなんてしない」
でも、僕にはこの光景を見捨ててしまえるほどの冷酷さは無い。そして、冷酷さは無いけど、戦って何かを為す非情さもない。
手を汚したくはない。祝福を受けていても、祝福を受け入れてはいないんだ。
「止める」
「へ?」
「誰も死ぬことなく、誰かが誰かを殺すことなく、奴らを追い出して見せる」
「それは……無理よ」
きっと後ろで、リトルは呆れている。
「人間は、魔人を憎み、魔人は、人間を敵視している。その関係は、絶対にこの世界で覆ることが無いわ。だから、この状況で誰も死ぬことなく、平穏無事に終わ――」
「止めてみせる」
ナイフを握りしめ、再び僕は宣言をする。
「もうあんな思いは、したくないんだ。だからこそ、僕ができる精一杯のことはしたい。その結果がたとえ、誰が望むものでなくて、命を落とすことになっても」
振り返ると、リトルはどこか驚いたような表情をしていた気がした。おそらく、彼女には理解できないのだろう。
いや、きっと、人間でも理解してくれる人はいないだろう。見方によっては、ただの逃げだからだ。
「……はぁ、もう勝手にしなさいよ」
「わかった」
「言っとくけど、私はクロトの手助けなんかしないからね。私は、あんたと目的地が同じ、同行者でしかないんだから!」
「わかってるよ」
しばらく目を合わせた後、リトルは再びため息をした。
「上手くやりなさいよ」
そして、彼女は闇のほうへとひらひらと消え去っていた。けっして僕は、彼女を薄情者だとは思わない。彼女には、きちんとした目的があって、目的に沿った行動をしていて、そのついでに僕を助けただけだ。
加えて、僕たちは出会ってから日が浅い。当然だ。
「さて……三体、下級かな」
上手くやれといわれても、僕には策は無い。策は無いが、武器と力はある。
やりようによっては上手く収まるはず。何かイレギュラーなことが無い限り。
この時、僕は気付いていた。
僕が、自分だけが――僕を信じようとしていると、知っていた。