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死んだはずの杏奈が目の前にいる。亜里沙は混乱した。三人の姿は石段を登り終え、社のほうへ消えた。亜里沙はその後を追って石段を登りかけた。
「お嬢ちゃん、ついていっちゃあいかんよ」
いきなり声をかけられて振り返ると、いつやってきたのか、紺色の作務衣を着た白髪頭の老人が亜里沙の後ろに立っていた。
「でも……」
「友だちじゃったのか」
亜里沙はうなずいた。
「このお宮の中には、人の世の罪や穢れを祓うことのできる四人の神様がおってな。生きていた時に犯した罪を、根の国という黄泉の世界に吹き飛ばしてくれるんじゃ。あの娘は、両親の罪を祓ってもらい、死後の安息を得るためにやってきたものと見える。じゃから、ついていけば嬢ちゃんも、あの世へ向かう道へ迷い込んで、戻ってはこれんようになるぞ」
亜里沙は老人の言葉にうつむいた。
「それにしても嬢ちゃんはずいぶんと悲しげな顔をしておるな。あのような死者の姿は、本来は人の目には見えぬもの。それが見えるというのは、嬢ちゃんの心が、今生きてある場所から迷い出しておるからに違いない」
老人はそう言うと「よっこらしょ」と掛け声をかけながら石段に腰を下ろし、亜里沙を手招きした。亜里沙は仕方なく老人の隣りに座った。
「死ぬほど辛いことや悲しいことがあっても、自分が間違った行いをしていなければ、いつかは報われる。それが人の世の習いというものじゃよ」
亜里沙は目を丸くして老人の言葉を聞いた。
「あっ、いや、これは嬢ちゃんには少々難しかったかの。ところで嬢ちゃんは幾つになる?」
「十五才」
亜里沙の答に、老人は笑みを浮かべながらうなずいた。
「十五才か。まだまだこれから良いことがたくさんあるぞ」
「本当に?」
「本当だとも。あったかいお天道さまの光や、風の音や、きれいな花の色や、そういう身近なもののひとつひとつに喜びを感じることができれば、誰でもすぐに幸せになれる」
「えぇーっ、そんなぁ!」
亜里沙は、老人のあまりにも安易な結論に落胆の声をあげた。
「何がそんなぁじゃ。不平や不満ばかりに心が向いていては、幸せにはなれんぞ」
老人の言葉が終らないうちに、石段の上に再び人影が現われた。三人は来た時と同じように、無言でゆっくりと石段を下り、亜里沙と老人の脇を通り過ぎようとした。
「杏奈ちゃん」
亜里沙はこらえきれず悲しげな白い顔をした少女に呼びかけた。
杏奈は足を止め、亜里沙を見て微笑んだ。その唇がかすかに動いた。
「サ、ク、ラ」
亜里沙の頭の中に杏奈の細い声が響いてきた。目の前に小さな公園があって、十本ほどの桜の木が立っている。その桜はまだ芽吹いたばかりで、花の姿はどこにもないが、亜里沙たちが高校に入学する頃にはここは一面に薄桃色の桜で埋め尽くされることだろう。けれど、杏奈はもうその花を見ることができない。
―― 杏奈ちゃん、桜見たかったよね。満開の桜の下で、新しい制服を着て写真を撮ったり、友だちとおしゃべりしたり、いっぱいいっぱいやりたいことがあったよね
亜里沙の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「サ、ヨ、ナ、ラ」
また杏奈の声が聞こえた。
「おそらくあの子の両親はあまりに業が深く、神にさえ拒まれたものと見える。じゃがあの娘まで戻ってこずともよかったであろうものを。なんともはや」
ため息のようにそうつぶやくと、老人の姿はかき消すように消え失せた。
―― 杏奈ちゃん、あたし杏奈ちゃんのこといつまでも忘れないからね。だから桜が咲いたらまたここで会おうね。あたし、待ってるから。たとえ夢の中でだっていいから、きっときっとまた会おうね。約束だよ
亜里沙は闇に消えた杏奈に向かって、心の中で何度も呼びかけた。そして不意に家で待つ母のことを思い出した。亜里沙の帰りが遅いので、桂子はきっと心配しているだろう。
一―帰ったらお母さんに、あたしやっぱり一番行きたい高校を受けたいって正直に言おう。今だったらきっと自分の本当の気持ちが言えるような気がする
亜里沙はまっすぐに顔を上げると踵を返し、沈丁花の香りが漂う坂道を陸上部で鍛えた自慢の足で駆け出した。 (了)
これも旧作で、桜の季節に書いたものです。ホラーとかファンタジーとかの括りには入れづらいお話で、期待はずれかもしれませんが(笑)