七大罪症候群(Seven Shindrome) 憤怒(Wrath)
私たちは子供を産んだことがない。
代わりに武器を生んだことがある。
正直、人込みはあまり好きじゃない。
だから満員電車に乗るのなんて地獄そのものだったし、痴漢に遭った日にはつり革で首吊りたいくらい憂鬱になる。
だからそういう時、私はいつも何かに没頭することにしている。
例えば文庫を片手で広げ、そこにある文章を追っていく。
そうすることで私は切り離される。
ぶつかりあう肩も、ヘッドフォンから漏れる騒がしい音楽も、電車の軋んだ走行音も、吐き気がするような酔払いの体臭も何もかも、そのすべてから。
意識は煩わしい外界から切り離され他人という存在を忘れてしまえる。
幸いなことに都心からだいぶ離れた路線で、時間が終電間近だったので車内にいる乗客は帰宅途中の会社員が数人だけだから、そんなことをする必要はなかった。
私はただ誰も座っていないシートにゆったりと腰掛けて、膝の上に置いたバイオリンケースの上に更に本を乗せて、それを読んでいるふりをしていれば良かったのだ。
本はキヨスクで買ったパルプ製のコミックだった。それらしく装う為だけに買ってきたものだ。
ずれた眼鏡の位置を直して、ページを捲ると大ゴマにM16を構えたデューク東郷がいる。話の内容は難しかったけれど、物静かで渋みのある彼には好感を持つことができた。
帰ったらもう一度ゆっくり読むことにしよう。
コミックからさり気なく目を離し、あの男を追う。
連結部分の通路を挟んで隣の車両。
あの男はがらがらのシートの端に座り、俯いている。
眠っているわけではない。ただ俯いて、自分の履いている靴の爪先なのか、床なのかわからないが、ただ一点をじっと見つめているようだった。
――ああ。やっぱりあの人なんだ。
正面から見たわけではないのに、私は確信してしまう。
世界中の人が「あれは彼ではない」と指摘してきたとしも、私は間違いようもなく断言することができた。
手が震える。
眩暈がしてよろめきそうになる。
コミックを手放し、膝の上にあるバイオリンケースを抱きかかえるようにしてそれを堪える。
『次はー下藤沢。下藤沢』
車内に流れるアナウンス。
ゆっくりと擡げていた首を上げる男。
暫くして電車が駅に到着すると、開いたドアから男が出て行く。
私はコミックをダッフルコートのポケットのなかに納めると立ち上がった。
ホームを歩き、駅の構内に続く階段へと昇っていく男の背中を慎重に追った。
それから改札を出た男が二つある南口へと出る階段を降りていくのを見届けると、もう一方の階段を小走りに下り、男よりも先に駅のロータリーを出る。その姿を見られないように全速力で疾走。
狙撃地点を目指した。
狙撃場所はミラゴ。
建築されてから十年以上も経っている古臭い地域密着型のデパートメントストア。
駅から寂れた商店街を抜けて五百メートルほどの距離。一度下見したきりの不慣れな土地ではあったけれど、周りの建物を追い越して「ミラゴ」という文字のはいった最上部をのぞかせるほど背が高い建物。
事前に実地確認しておいたので迷わずに辿着く。
そこはすでに何時間も前に閉店しているデパート。
外壁にとりつけられた照明が全て消され、宣伝文句のはいった垂幕ごと、夜の暗闇のなかに沈んでいる。
駐輪場を突っ切って近付いた入口にはすでにシャッターが下りている。
近くに並んでいた数台の自販機のうちのひとつでホットの缶コーヒーを買うと、コーヒーを左手ごとポケットに入れて建物の裏手へ。
ベージュの壁に沿って小走りに進み、角を曲がると鉄扉の前にやってくる。職員用の出入り口だ。
枠のすぐ外に取付けられたカードリーダーに用意していた職員証を通して開錠、押し開けて、入った。
中は薄暗く狭い通路になっておりしんと静まり返っている。少し進んだ左手の窓口からは明かりと小さな笑い声が漏れていた。
近づき窓口を覗き込んで、向こう側にある警備員室の様子を見てみるが無人だった。事務机に置かれた小型のテレビだけがバラエティー番組を写している。
構わずに奥へと進んでいくと、店内のポップやら資材が入っている段ボールが隅に置かれた空間へと出る。
そこがエレベーターホールだった。ボタンを押し、ほどなくして開いた目の前の扉から乗り込む。
扉を閉めると最上階へと向かわせた。頼りない明かりを発している天井の向こう側からモーター音が響きだし、一瞬だけ床が揺れる。上昇する。
コートの袖を捲って腕時計を確認する。まだ駅から十五分経っていない。
大丈夫。予定通りだ。
でも肝心なのはこれから。私は為すべきことを為さなければいけない。
自分に言い聞かせ、改めて気持ちを引き締める。手にしていたバイオリンケースの取っ手をぎゅっと握り締めた。
屋上へ出ると、風は心配していたよりも吹いてはいなかった。外気は肌寒いけれど指先がかじかんでしまうほどではない。
昔懐かしいパンダの乗物を横切って南側のフェンスまで行き、バイオリンケースを抱え飛び越える。
降立ったコンクリートの地面は自宅のマンションのベランダよりも広く、寝そべるだけのスペースがあった。
その先は膝下ほどの高さの白い堤で縁取られていて、地上という谷底との境界線になっている。
目の前に広がっている住宅地域は暗く静まり返っていて、まるで海のようだった。この時間家々の明かりの大半は失われている。
すこし離れたところでは鉄道の高架の長く横たわる輪郭がおぼろげに浮かんでいた。私が降りて来た駅の周辺は歓楽の明かりが集中しているのでどこにあるか肉眼でも分かる。
屈んでバイオリンケースを足下に下ろすと、ポケットから去年の社員旅行で買った招き猫のキーホルダーを取り出しその中から一番小さな鍵を摘み、それで左手首と取っ手を繋いでいた手錠を解いた。
次にバイオリンケースにかけていた錠を、二番目に小さな鍵で解く。
ケースを横にして蓋を開けた。内装は上質のシルクベルベットの生地が敷かれていて本物と同じ仕様のものだ。けれど特注で作られた凹凸の構造に納められているのは楽器ではない。
「おはよう≪射殺す眼差し(コカトリス)≫」と優しく呼び掛けてやる。
何か明確な反応が返ってくるわけでもなかったけれど、狭い場所から出ることができるのを喜んでいることは分かった。
早速、ケースに収納するために分解されていたパーツを手にとり、組み立ててやる。
程なくして元の姿に戻った彼の銃身部分を下から支え持つと、合成樹脂に似た材質不明の滑らかな手触りの表面から微かに熱を感じる。
全長一メートル三十センチ。浮き身銃身というまっすぐな形状。長距離狙撃銃という存在。
≪射殺す眼差し(コカトリス)≫。私の武器にして子供。
早速その場に膝をついて腹這いになると、白い堤の上に手を板挟みにして銃身を置き、台にして、狙撃の体勢をとる。
銃把を握るけれどまだ引金には触れない。
上部に取付けられた単眼鏡を覗き込み、銃先を動かして視界を駅前へと持っていく。
ほどなくしてそれらしき人物を発見できた。
ロータリーのベンチに腰掛けている、すぐ傍の外燈に照らされているので、その姿ははっきり確認できる。
丸い坊主頭、灰色のレーナーに、緑色の肩掛け鞄。この季節、この時間にしているあの薄着は先ほど電車で見かけたものと同じだった。
単眼鏡に映しだされていた男はふいに首を動かして、左を向いた。
はっきりと確認できる横顔。間違いない、あの男だ。
彼は、駅の階段から降りてきた人々を眺めている。浮かぶ表情は乏しく、どんな感情を抱いているのかは分からない。はっきりとは見ることができない切れ長の目に獲物を狩る猟犬のような鋭い光が宿っていることは想像に難くなかった。
彼は今、ワイドショーを軽く騒がせている殺人鬼だった。
五か月前から野良猫を刺殺するという奇行を繰り返し行うようになり先月の42匹目を境に、その標的を人に変えた。
高校に通う女子高生と、小学四年生の少年、それから四十代の主婦を三人を殺した。いずれも猫と同じように心臓を一突きだった。
ども犯行も場所を変えての無差別殺人であった為、警察は容疑者を百数十名ピックアップしただけで、まだ彼が犯人であることを特定するまでには至っていない。
そして今、四人目の標的を探していた。
彼は何故そんな犯行を続けるのか。
おそらく生来の屈折した性格と、過去に味わった大きな挫折に原因があるのだろう。
長い間、抱き溜め込み続けてきた人間に対する不信と憎悪が、≪憤怒≫の症状によって一片に増大させてしまった。そして彼にはその感情をぶつける具体的な相手がいない。それゆえ無関係でか弱い相手を対象にしているのだろう。
要するに動機は「八つ当たり」なのだ。
それが読み取れたところでようやく現実味の帯びた嫌悪感が沸いてくる。
私は喉の奥から込上げてくる吐き気を堪えて、ぐっと唇をかみ締めた。
父は他人とうまく折り合うことができない人だった。
ストレスを抱え込んで胃潰瘍で入院し、それをきっかけに退職して以来、しばらく定職には着かずぶらぶらしていた。
日中は家でテレビを見続け、私が帰ってくる少し前に外出し、夕方になることに帰宅するという生活を送っていたので、私は小学校高学年になるまで普通に働いているものだとばかり思っていた。
そんな彼の代わりに母は長年文句もなくパートタイマーの仕事を続けていたが、ある日何の前触れもなく、置き手紙一枚だけを残して行方を眩ませてしまった。店で知り合ったアルバイトの大学生と駆け落ちしたらしい。
それから父は再び働きだすようになったが、同時に嗜む程度だった酒と煙草をよく口にするようにもなっていた。
職場で何か気にいらないことがある度に、自宅で愚痴ったり喚いたりしながら飲んだ。
そして最後には咽び泣きながら枯れた声で母の名を呼ぶというのがいつしか決まりになっていた。
思いだす。あれは中学生の夏のことだ。あの日も、酔っ払った父は居間のカーペットに跪いて嗚咽を漏らしていた。
割れたガラスの灰皿の破片とこぼれた吸い殻を塵取りに集めていると、いつの間にか彼は泣くのをやめて、胡座をかき煙草を吸っていた。
私は手伝ってくれればいいのにと思いつつ、手が飛んでくるのを恐れて口にはしないでいた。
ふいに父が「灰皿をくれないか」と声を掛けてきた。
私は塵取りの中を見せて「割れちゃったよ?」と言った。
父は「そうか」とだけ呟くと指の間に挟んでいる煙草を再び咥えた。灰になっていた部分がぼろぼろと崩れ落ちてハーフパンツの腿の上に乗った。私は仕事が増えたと思ったが、彼は気にしていないようだった。
それから何を思ったのか手招きをされ、近付くと左手を強引に掴まれた。それからよくわからないまま着ていた制服の長袖の腕をめくられ、摘んだ煙草の先を押しつけられた。
目の前で起きていることが理解できなかった。反射的に腕を振り払うこともできなかった。
ただできたのは遅れてやってきた耐え難い痛みに叫び声を上げることだけだった。
それから父はまるで落ち着いた静かな声でこう言った。
「柚子。これは父と娘の絆の証しだ。この痕が有る限りおまえはおれを裏切ることはできない」
悲鳴を上げていながらも忘れることのできない言葉だった。何故か脳にはしっかりと刻み込まれていた。
ここから私の地獄の始まった。
彼は三人目を見つけたようだった。ベンチから立ち上がると何かに誘われるように歩き出した。
それを追うと同時に倍率を下げる。
男の全身とその周辺のロータリーの赤いタイルの地面が映し出される。
彼が視線を向けている方へとずらしていくと十メートルほど離れたところを駅から降りてきたらしい少女が一人で歩いていた。
彼女はフードに毛皮のついた白いコートを着込んでおり、手ぶらだった。友人と遊んだ帰りとも見て取れる。その色白でおとなしそうな顔つきは彼の嗜虐性を掻立てるだけの要素を十分に含んでいるように思えた。
私は視点を再び男へと戻すと、単眼鏡の左側面についた抓みを捻ると設定を感熱式に変える。
視界が熱分布図に切り替わり、それまで映し出されていた背景は切取られたように黒一色になった。
代わりに彼の姿が温度で色分けされて浮かび上がってくる。髪が水、顔と手が橙、衣類の首周りが水でそれより下が青。
標準温度の黄色は四十度に設定されていた。それ以上になると橙、赤、紫、白、それ以下になると緑、水色、青、紺の順に毎一度ごと変色していく。
だからそこから分かる彼の表面体温は四十一度前後だ。
それは重症高体温症という普通の人間であれば意識不明となっているだろう温度だった。
外気にさらしているはず顔が遥かに平熱を上回っているのは風邪をひいて高熱を出しているわけではなく、もっと別のなにかの症状が出ていることを表わしていた。
顔より低温であるはずの手の温度がほとんど変わらない。それはつまり全身が発熱しているということだった。
その体温の上昇パターンから鑑みても彼の症状が《憤怒》型であることは間違いなかった。《強欲》であれば両手、《色欲》であれば生殖器、《暴食》であれは腹部の部分だけが高熱化するはずだ。
彼は人気のない高架沿いの道をゆっくりとした足取りで歩いていた。その様子には周りを気にしたりなどの不自然な挙動はみられなかった。これまで踏んできた場数が自信となって、自制と落ち着きを与えているようだった。
照準は常に彼を捉え続けている。後は引金を引きさえすれば、撃発した雷管(プライマ―)によって押し出された弾丸を間違いなくあの頭部に叩込むことができた。それで何の問題もなく彼を始末できる。
けれどサーモグラフィはまだ四十五度に達していない。
摂氏四十五度。
それは「人間の限界体温」として近年定められた数値だった。それはまだ法律が、彼が生存している、または人類であるのを認めている事を意味していた。
だから今、彼を射殺することはできない。
私はまだ待つしかなかった。
《七大罪症候群》は、今世紀初頭に中南米で第一号患者が発表されてから、世界各地でも次々に症例が確認されるようになった奇病だ。
その疾病はこれまでのどの症例にも類似したものがなく、あらゆる意味で一線を越えて異なっていた。
まず現代医学を以てしても病原体の発見ができず、感染経路や感染源などの一切が不明のままだった。
そして発病の引き金になっているのが、特定の欲求や感情に基づいた執着心であった。傲慢、嫉妬、暴食、怠惰、強欲、憤怒、色欲。奇しくもそれはキリスト教の七大罪と一致していたが為に通称がそこから採用された。
そして何より精神病ではなく、症状は直接的に超常的な肉体への作用をもたらすものであった。致死性はない。ある意味でそれどころか罹患した人間にとって弊害と呼べるものもなかった。ただ病気が進行していくごとにあらゆる物理的な限界を越えた肉体を得てしまうのだ。同時に徐々に心からも人間らしさも失われていく
だから国際法で「病気」として定義されてはいるものの疑問を投げ掛ける声は多く、またそれをキリスト教徒などの宗教家は「神罰」と呼んでいた。
治療法はない。偏執と肉体の限界から解放されて「奇行」に走る彼らを止める方法があるとすればひとつしかない。
二度目に吸い殻を押しつけられた時、苦痛の声を上げる私に、父は「これは聖痕なんだ」となだめるような口調で説明した。
「この痕が有る限りおまえを見た目で判断するような悪い人間が寄付くことはなくなるし、父さんも二度と裏切られることがなくなるだろ。二人で安心して暮らすことができるんだよ」と。
私はそれを聞いて抗うことを諦めた。受け入れることにした。
腕に入れていた力を抜いて、ただまだ微かに燃えている煙草の先がじっくりと皮膚に押しつけられていくのを涙目で見つめた。
知ってしまったからだ。それが歪んでいるけれど愛の形なのだと。母を失った哀しみが、私への執着心に代わり、私を失うことの怯えがこのような行為に走らせたのだと。
こうすることで父が安心を得られるのであれば仕方がない。だから私は耐えるしかないのだと思った。
くゆりたつ煙草の煙に混じって肉の焼ける臭いがした。
それからも毎日のように煙草の火を押しつけられ続け、その度に私は何も言わずただ下唇をかみ締めて、受け入れた。
周囲に気付かれないように気遣いさえしていた。ねんざと称して、日常的にスポーツ用のサポーターを身に着けることで隠した。
父は心からの安心を得たのかいつのまにか酒を止めた。
そして嬉々として、私の腕に着実に新しい痕を増やしていく。彼にとってそれが生きがいとなっているようで、小さな痕は徐々に広がっていき醜いただれへと変貌していこうが止めようとはしなかった。それを眺め、穏やかな笑顔を浮かべながら「大きくなったなあ」と子供の成長を喜ぶように声をかけた。
そして一年近くが経ち、痛みにもなれ始めた頃、私は自分の変化に気付いた。腹部が妙に膨らんでいたのだ。太ったわけではなく外へ押し出されるように張っていたのだ。
それはどうやら火傷が増えていく度に大きくなっていくようで、それは私の表に出ることのない「怒り」が溜め込まれていくように感じていた。
妊娠していた。
駅から一キロほど離れた高架沿いの夜道だった。
高架下は駐車場になっていて、道の反対沿いは空地を挟んで住宅が並んでいる為、人気がなかった。等間隔に並んだ外燈以外明かりが何もない。犯行を行うにはもってこいの場所だった。
それまで真っ直ぐに歩いていた少女は足ふいにを止めると、振り返った。
彼女の十数メートル後方には駅からつけてきていた男がいる。
彼もまた立ち止まった。その表情にはたじろいだ様子はなく、ただ虚ろな顔を俯き加減にしていた。
少女は、男に向かって何を言った。問い質しているようにもみえた。
男はそれに対して顔を上げようとすらせず何の反応も示さなかったが、ややあってから唇だけをはっきりと短く動かした。
何を言ったのかは分からない。ただそれを聞いた少女は血相を変えると半歩あとずさった。逃げようと身体を捻る。
次の瞬間、男は駆け出していた。それは明らかに人間離れした脚力だった。構えも助走もなしにたった三歩で少女との距離を詰め寄り、更に大きく踏み込むと、いつの間にか懐から取出していた光る何かを繰り出し突き上げた。彼の犯行の手口からしてそれがナイフであることは間違いなかった。
少女の身体は脇腹に拳ごとを押込まれて、不自然な体勢でくの字に折られた。爪先が地面から浮いた。男が手を素早く引き抜くと、少女はそのまま落ちるようにして歩道に倒れ込んだ。
男は自分のしでかしたことを理解しているとは思えないほど平静な顔つきで、うつ伏せの彼女をつま先でひっくり返す。
彼女の着ている白いコートは刺された腹部を中心に赤く汚れていた。動かない。
彼は周りを気にすることもなく、ただ首を落として彼女を見つめる。
何を考えているのかは想像することできない。だらんと下げた腕の先の握られたナイフや手の甲から血が滴り落ちていた。
単眼鏡を再び感熱式に変更してみると、彼の体温は四十三度。つい今し方の動作には肉体の異常化は顕れていたが、限界温度にはまだ達していない。
私はそっと引金を撫でる。
煙草の熱を押しつけられる度に、私の腹が膨れていくのは間違いないようだった。
目に見えた変化があったわけではないけれど腹部の肌が引っ張られていくのを感じられたから、それが分かった。
そして記念すべき三百数個目の火傷の跡ができた瞬間、突然下腹部の奥の方で強い衝撃がやってきた。これまで体験したことのない身体の内側からの鈍く重い痛みだった。
思わず父が長々と押しつけていた煙草を振り払って、その場に屈み、お腹を抱え込んでいた。陣痛だった。
その時は冬で、私は厚着をしていればなんとか気付かれない程度の体型を維持できていたので、周囲だけではなく父の目も誤魔化していたのだけれど一緒に暮らしているせいか、そううまくはいっていなかったらしい。
私の様子を見ていた父はかねてより抱いていたらしい妊娠していることへの疑いを確信に変えたようだった。見下すような目を向け、低い声で投げ掛けてくる「おまえも裏切るのか?」の一言で、それが分かる。
けれど当時、学校でも男友達どころか同性の友達も数人しかいないという寂しい交遊関係しか私にとってそんなことがあるはずはなく、誰とも性的交渉を持った覚えもない。
私は多めに首を横に振ってみたが、父はただ唇を震わせ怒りの形相でこちらを睨んでいるだけだった。目はただ死んだような色をしていて涙を溜めている。意志が通じた様子はなかった。
彼は両手で覆うと「ううう…」と泣き始めた。それから崩れ落ちるように膝をついた。それから彼は独白するように小さな声で「どれだけ愛してきたと思ってるんだよう。どれだけ尽くしたと思ってるんだよう」と呟いた。
私は身体を起こして、父にきちんと説明をしようとしたけれど、それよりも先に髪の毛を鷲掴みにされた。何度も床に顔面を叩付けられる。前歯が欠け、鼻血で水溜まりができるまでそれをやられる。
それから喘いでいる暇もなく、お腹に強い衝撃を受ける。身体の内側がえぐられたような痛みがやってくる。気の紛らわしようがない途方もない苦しみだった。
けれど私は身悶えることも声を上げることもできなかった。ただ堪えるのが精一杯で蹲り身を丸めていた。
口から何かがつうっと垂れてくる。唾かと思ったが、それはカーペットの上に落ちて、赤い染みを作った。
それを見つめていると、今度は背中や頭に衝撃がやってくる。蹴られているらしかった。
意識が急に遠くなっていった。
アスファルトの地面に倒れていた少女はがくがくと身震いさせた後、肘を突いて上半身を支えて起こした。
男は、それを呆然と見つめていた。
彼女は長めの後髪ごと頭を下げ、両腕をだらんと弛緩させ、ふらふらしたしており、まるでホラー映画のゾンビだった。
気を取り直したらしい男はおもむろに彼女の髪の毛を掴むと引き倒した。
抵抗らしい抵抗をみせない少女を仰向けにするとまたいで馬乗りになる。
そして持っていたナイフを両手でしっかり握ると振り下ろした。
少女の胸に刃を突き立てられ、その身体が僅かに跳ね上がる。
男はねっとりと血のついたナイフを引き抜くと、同じ動作を二度、三度と繰り返し、腹や首などに次々と致命的な傷を負わせていった。
今度こそ確実にとどめを刺そうとしている、彼の無造作な動作からは、思い通りにいかなかった腹立たしさをぶつけているのがありありと読み取れた。
大量の血飛沫がついた顔には微かに不愉快そうな表情が浮かんでいる。眉をしかめていた。
下にいる仰向けになった血塗れの少女は、しかしまだ瀕死といった感じで、死んでいるようには見えなかった。まるで沖に上げられた魚のように身体をびくびくと痙攣させていた。
男は眉をさらにしかめさせ、ナイフを振り下ろし作業を繰り返していく。めった刺しだった。
そして少女が今まで閉じていた瞼をぱちりと開けた。血をだだ漏れさせていた口に笑みを浮かべる。恍惚の表情がそこにあった。
男はその額にも一撃をくわえた。
刃はあっさりとめり込み、柄に当たるまではしっかりと押し込こまれから、引き抜かれる。血が滴った。
そうして出来上がった小さな穴はしかし、瞬く間に閉じていき、溢れかけた血が付着している以外には、なんの形跡すらなく元に戻ってしまった。
彼女はタフだ。心臓を刺されても首の骨を折られても絶対に死ぬことがない。
それはもはや穴だらけでほとんど赤に染まってしまったコートの下に身に着けているボンテージスーツのおかげだった。
もっと愛して! (マゾヒスト)と呼ばれるぴったりと身体を覆う黒いラバー製のスーツ。それは、外傷の一切をコンマ数秒で治癒させ、また一切の痛みを快楽に変えるという特別な効果が備わっていた。
それは昔付き合っていた恋人に暴力を振るわれ続けた結果、彼女はそれを孕み、産み出したのだ。
早坂七禍。それが少女の名前だった。おとなしそうな容姿とは裏腹なエキセントリックな性格が煙たい、私の同僚である。
彼女は囮役だ。私という狙撃手が十分に仕事をこなせるように標的を引きつけ、また病状の進行を早める手助けをしてくれているのだ。
男は釣られていることに気付きもしせずに両手を掲げて声をあげていた。
思い通りに七渦を殺せないことへの憤りの咆哮だった。
いくら人気がなくとも声を上げれば住民には気付かれる。周囲を全く気にしていない様子だった。
私は、彼の病状は末期まで進行しており理性が消えかかっているのだと察して、摘みを指先で撫でて回し感熱式に変える。
遥か二キロ先にいる人間から放射された消え入りそうなほどの遠赤外線を鋭く感じとった射殺す眼差し(コカトリス)の眼が分析、熱分布図として可視化する。現代科学を結集させても到底及ばない優秀さがそこにあった。
映し出された男は白かった。靴を履いているはずの爪先から頭のてっぺんにいたるまでの全身が同じ色だ。
肉体という機関が限界を超えて活性化させられたことで、動かないでいる時でさえ止めどなく発熱し続け、今ついにそれが四十五度にまで達したのだ。
この限界温度を境に、体温は更に急上昇していくのだ。
もう十分だった。
彼は人間であることを辞めた。
いや彼はもう死んでしまったのだ。遠いあの日に。
感熱表示を切ったところで、予想通りの変化が起きる。
男が顔を押さえながら立ち上がり、よろよろと七渦から離れていった。
彼のトレーナーとジーンズから白い煙が立ち上ぼり始めた。かと思うといきなり肩の辺りに火がつく。みるみるうちに全身に燃え広がっていく。
いわゆる人体自然発火が起こったのだ。
彼を包んだ炎は尋常ではなく、不気味な青い色を放ちながら、薄暗い夜道を照らして燃え盛っていた。
彼はこのまま燃え尽きてしまうわけではない。いわば生まれ変わるための通過儀礼を得ていた。今、古い身体を炉として新しい肉体を生み出している最中なのだ。
《憤怒の化身》の肉体を。
そしてこの瞬間、私は機関の現場責任者の一人として、医師の診断をせずに彼の肉体が死亡したこという判断を下すことができた。
私は十数年ぶりに左腕の火傷が疼くのを感じていた。今見ている炎に反応して、再び熱を持ち始めていくようだった。
その手で握っていた銃把に、コンマ一ミリも銃口の方位を変えることなく力を込める。
それは一部の聖職者から《神の子》と呼ばれる代物だった。
《七大罪症候群》を患う者のなかで、処女であること、偏執を抱えながらも自制できる理性があること、という条件を満たしていた場合、まれに通常とは違う症状を見せることがあった。
それを腫瘍とするか受胎とするかは、医者と宗教家で大きく判断の分かれるところではあるけれど、とにかく彼女たちは孕み、それを生み出すのだ。
それは七大罪に溺れて悪魔となった人たちの魂を救済する為の「神器」とも「祭具」とも言われていた。
気がつくと、お腹が割れていた。制服のワイシャツごと縦に胸の下からへその下辺りにかけてぱっくりと開き中から赤い内部がのぞいていた。
見て最初に思ったのは代えがないのに明日どうやって登校しようで、次が思ったよりも出血していないなということ。
傷口は深く大きいわりにそこから出てくる血は少量だった。きちんと閉められていない蛇口から漏れる水程度に切り口の下のほうから流れてきている。
そして代わりに穴の奥のほうで、何か先端らしき長細くて黒いものが頭を出していることに気づいた。
笑い声がして、顔を上げた。
すぐ目の前に父が見下ろしながら血では濡れた包丁を握っている。彼はぎらぎらと輝かせた目を私に向けながら、大きく開いた口で甲高い声を放っていた。
場を圧倒するような狂気の入り混じった様子ではあったけれど、揺らぐその瞳からはわずかに怯えや戸惑いが見てとれた。完全に引きつった口元は明らかに無理をしていた。
私は頭なのかで、父は自分のしたことに怖気づきそれを誤魔化そうとしているだけなのだと理解する。
そして「お父さん?」とはっきりした声で呼びかけてみる。
父の笑いが止むことはなく返事はなかった。ただ一瞬、視線だけが大きく左右させただけだった。
でもその反応だけで十分だった。私の言葉がその耳にしっかり届いていることがわかったからだ。
「さようなら」
私はできるだけやさしく微笑みながら、別れを告げた。
だからお腹の中に手を入れると、黒く長細いものを握り、ゆっくりと引いた。
ぬちゃりと音がしてから、思ったよりもあっさりと身体の内部から抜け出ていく。
そうすることでの痛みはなく、代わりにこれまで味わったことのない頭の芯が痺れるような気持ちよさが走った。
これが何なのか、私は何故こんなをしているのか、父をどうしようとしているのか。もし具体的な説明をしろと言われればできなかった。
けれど頭のなかではちゃんとわかっていた。
これは私の子だ。一挺の小銃。
初めて触れるものだけど扱い方だって知っている。
完全に引き抜いたそれを慣れた手つきで宙に放ると、銃把を握り、もう一方の手で銃身を支える。
そして引金に触れた指を思い切り引くと、銃口が産声を上げた。
銃身が添えていた手のなかで暴れ、射殺す眼差し(コカトリス)が唸り声を上げた。
そして薬室のなかで自動生成された弾丸が音速の二倍のスピードで、二キロ弱の距離を駆け抜け、高架沿いの夜道で燃えている男に命中する。
男は身体を一瞬だけ揺らし、その場に踏みとどまっていたが、その手の中には心臓を打ち抜いた確信があった。
数秒後に、男の身体を包み込む炎に異変が起きた。その色を青から白に変え、天を突くような勢いを見せたかと思うと、ストロボのような閃光が起きた。
そして一瞬だけの眩さが消え失せ、周囲が再び元の薄暗さを取戻すと炎と共に男は姿を消していた。
いなくなったわけではない。代わりに彼がいた場所には元々彼自身であった白い柱のようなもの出来上がっていた。
命中したもの全てを灰に変える。それが射殺す眼差し(コカトリス)の能力だった。
柱は自らの重みに耐え切れなくなってすぐに崩れ落ちていく。地面に小さな山ができ、巻き起こった粉塵はきらきらと外灯に照らされた。
私は、まるで煙草の灰が払い落とされる瞬間に似ていると思った。
けれどそう思うだけ。
あの人と私の物語はもう十数年も前に終わっているのだからそんなもの他愛無い感傷だ。
、 私は銃身を下ろすことで現場から目を逸らした。
屋上のドアを抜けると取り出したスペアキーで施錠。
踊り場から非常階段を降りる。カツンカツンと靴音を響かせているとコートのポケットのなかの携帯電話が震える。
取り出してディスプレーを開くと、からの着信だった。応答する。
『ハローっす、山羊先輩』
「お疲れ。七禍」
『帰りどうします? もう電車って出てないっすよねえ』
「そういえばそうだな。タクシーを呼ぼう」
『ていうか途中、どこか店寄っていいっすか? あたしレバニラ食いたいっす』
確かにあの出血はいつもよりもひどかった。彼女のアニメ声はいつもより若干テンションを欠いていた。
「構わないけど、そのままで店に入るの?」
『むむむ。血塗れのコートとM嬢ファッションとどっちがマシでしょうか』
「私のコート貸すよ」
私が同僚という立場にいなければ間違いなく通報している。
『わーい。ありがとうございます。先輩の使用済みコート♪』
「もう臭い嗅いだりとかするなよ」
『……ところでさっき殺したやつ。知り合いですか?』
突然思ってもみない質問をされて戸惑う。主任には調査書に余計なことを書かないでと頼んでいたはずだったが、どこかで漏れたらしい。
何と答えようか迷った末にとりあえず「いや別に」と否定すると、察してくれたのか向こうは「そうですかー」と言って、それ以上は詮索しないでくれた。
それから駅で落ち合うことを決めた。
携帯電話を再びコートのポケットに戻すと、中の何か固いものとかち合う。
何だろうと思って取り出して見ると、缶コーヒーだった。ここに来る時に指を凍えさせないようにと思って買ったやつだ。
熱かったはずのスチールの表面からはすでにわずかな温もりだけが残っていた。
職員用のエレベーターホールに通じる扉の前に差し掛かるが通り過ぎて、このまま階段を降りていくことにする。
なんとなく歩きたい気分だった。
デパートはとっくに閉店してしまっているので薄暗くとても静かだった。
通路の向こうに見える売り場では、明かりらしい明かりは天井の青白い小さなランプのみで、今、私がいる場所も壁の膝の辺りに取り付いた非常口を案内する緑色の表示がぼんやりと光っていた。
片手でうまい具合に缶のタブを開け、一口飲んでみる。
やはり生温く喉越しは最悪だった。まずく、いつもより幾分か苦い気がした。
それをちびちびとやりながら、携えたバイオリンケースと共に、私はデパートの出口を目指した。